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京の一枚

京都 五山送り火説明 (8月16日)


連日35度を超す 毎日 体も悲鳴を上げている 夜の五山送り火を見て癒されて欲しい・・・




大文字送り火


東山・如意ヶ嶽の「大文字送り火」。


8月15日の正午ごろから16日昼ごろにかけ、ふもとの銀閣寺山門前に設けられた受付で一般市民によって護摩木(割木)に先祖供養や生存する人の無病息災が記される。


この護摩木は送り火の点火資材として当日山上へ運ばれ、当夜7時から山上の弘法大師堂でお灯明がともされ浄土院(大文字寺)住職及び保存会員並びに参詣者等の有志により般若心経があげられる。


その後、このお灯明を親火に移し、合図により一斉に送り火が点火される。






はじまり




送り火の代表格といわれている「大文字」のはじまりは平安初期・室町中期・江戸初期・その他と複数の説があると言われているが、最も注目されるのは江戸初期だと言われる。


また、地元では銀閣寺から発見された古文書により室町中期に始められたという説も根強い。


松ヶ崎妙法送り火


松ヶ崎西山(万灯籠山)・東山(大黒天山)の「妙・法」送り火。


16日朝早くから割木を山に運んで点火準備が行われる。


以前は麓の田に火小屋があり、その火を合図に点火が行われていたが、現在は簡易保険局の屋上からの合図によって点火が行われる。


点火の際には涌泉寺住職および松ヶ崎立正会会長による読経が行われる。






はじまり




寛文2年(1662)に刊行された『案内者』に「山々の送り火、但し雨ふればのぶるなり。


・・・・・松ヶ崎には妙法の2字を火にともす」とあり、寛文2年以前の創始にかかることは明らかだが、正確な年代は不明。


湧泉寺の寺伝によれば、鎌倉末の徳治2年(1307)日像の教化によって天台宗から法華宗に改宗した際、日像が西山に妙の字をかいて点火したものだといい、法の字は、湧泉寺の末寺下賀茂大妙寺ニ祖日良が東山に書いたことがはじまりという。




点火資材


薪は松割木を使用。


井桁で約1mに積み重ねる。


薪数332束 松葉166束




船形万燈籠送り火


京都は西賀茂にある「船形」。


ここでは現在3ヶ所55軒の旧家により、18人の若中(17~25歳の男子)、36人の中老及び年寄約50人が送り火行事にたずさわる。


16日朝早くから若中と中老が割木を山に運んで点火の準備が行われる。


点火時刻には西方寺で鳴らす鐘を合図に点火する。


山上の送り火が点火されると山麓では西方寺住職の読経が行われ、このことからこの山を一名鐘打山とも呼ばれる。


はじまり


西方寺開祖慈覚大師円仁が、承和14年(847)唐留学の帰路暴風雨にあい、南無阿弥陀仏と名号を唱えたので無事帰朝できたことから、その船を形どって万燈籠送り火をはじめたと伝えているが、正確な時期は不明。




左大文字送り火


京都市北区にある「左大文字」。


15日と16日の午前中、金閣寺の前に設けられた志納所で護摩木の志納受付が行われる。


午後7時ごろに衣笠街道町・法音寺門前通り25ヶ所で門火の送り火を焚き、先祖の霊を導く。


この寺では送り火の親火点火台で護摩木が焚かれ、先祖の霊を慰める法要が行われる。


その火で親火松明1基と手松明(約40本)が山上へ運ばれ、山上の送り火が点火される。






はじまり




左大文字の始まりについては他の四山と同様に判然としないが、『洛陽名所集』(万治元年1658)には記載はなく『扶桑京華志』(寛文5年1665)には記載されていることから、江戸中期に始まったとみられる。






鳥居形松明送り火


京都市右京区嵯峨の「鳥居形」。


16日午前8時ごろ、山麓から山上の親火床へ松明が運ばれ、午後4時ごろ再び山上へ上がり親火床に使う薪を作り点火の準備が行われる。


午後6時ごろには親火に点火し松明をあぶってジン(松の根の部分)をふかしながら燃えないように監視し、午後8時20分の点火合図である太鼓の音を待つ。






はじまり




鳥居形は弘法大師が石仏千体をきざんでその開眼供養を営んだとき点火されたといわれている。


正確な時期は不明。


点火資材


薪は松明(ジンを小割にして束にしたもの)108束を使用する。




※写真は全て過去のものです。



















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