京の一枚

京都 紅葉100シリーズ 隠れ紅葉の名所妙覚寺 NO.78


織田信長の洛上時の宿で、隠れ紅葉の名所「妙覚寺」

妙覚寺は、北朝の永和4年(1378)、妙顕寺の跡継ぎをめぐる意見の対立から妙顕寺を離れた日実(にちじつ)上人が、信徒で富商の小野妙覚(おのみょうかく)の外護を受けて四条大宮の妙覚の邸宅に日像上人を開山に仰ぎ創建されている。


日蓮宗京都十六本山の一つで、妙顕寺(上京区寺之内通堀川東入る)、立本寺(上京区七本松通仁和寺街道上る)と並ぶ具足山の一つ。


本尊は十界大曼荼羅。


この妙覚寺の建つ寺之内界隈には、多くの寺院が並んでいる。


寺之内通は、烏丸通から紙屋川にいたる東西の道。


秀吉による都市改造政策により寺町と同様多くの寺院が移転させられた寺院街。

特にこの堀川通寺之内界隈は妙覚寺をはじめ妙顕寺、本法寺、妙蓮寺などの日蓮宗寺院が密集している。

妙覚寺表門は寺院には珍しい武家風の大型の薬医門。


左右に潜り門を配し堂々たる姿である。


聚楽第の裏門を移したと伝えられ、梁上(りょうじょう)に伏兵を配置できる場所があるが、知らないと通り越す。


表門の正面に祖師堂。


堂内には日蓮・日朗・日像の坐像が安置されている。


妙覚寺の見所は本堂前の庭園・法姿園(有料)。


立派なカエデに杉苔絨毯の中庭は何も作為のない単純な庭。


しかし、紅葉が美しく、隠れ名所の一つとなっているので、紅葉の頃に訪ねてみたいもの。


本堂の奥に、日蓮聖人が比叡山で法華経一巻を写経し、石造の塔に収めたという石塔。


その石塔を収める木造多宝塔を収めた華芳宝塔がある(府の有形文化財)。


また、書院前の庭も心洗われる。




チョット知って・・・


妙覚寺の21世日奥(にちおく)上人と本国寺(山科の現本圀寺)の日禛上人は不受不施(ふじゅふせ)派の急先鋒。


不受不施とは「僧は法華信徒で無い者からの布施を受けず(不受)、信徒も法華寺院以外の僧へ施さない(不施)」の意味である。


文禄4年(1595)、秀吉から東山大仏殿落慶の大仏開眼千僧供養会を開くため、各宗に対して「供養会へ100人の僧を出仕せよ」の通達が出た。


この通達に日蓮教団は受派と不受派に分裂・対立する。


日奥上人・日禛上人は秀吉が法華信徒でないことを理由に供養会への出仕を拒否する。


拒否すれば秀吉は何をするか分からないという受派寺院の対応でこの供養会は事なきを得た。


しかし、これを機に日蓮教団内部で供養会への出仕当否をめぐって問題化する。


秀吉が没し、徳川家康が実権を握っても千僧供養会は続けられており、受派は「日奥はいあまだ貴命に応じず」と家康へ訴える。


慶応4年(1599)、家康は大阪城へ両者を呼び諸大名の面前で当否を対論させ、日禛は潮時と判断し出仕を約束した。


日奥は「教えに背くことは例え国主であっても従えない」と主張。


メンツを潰された家康は、日奥を対馬へ配流した。


13年後、赦免された日奥は妙覚寺へ戻ることを許されたが・・・。


受不施・不受不施をめぐる対立は教団全体を揺るがし、幕府は次第に不受不施派への警戒を強めた。


寛永7年(1630)2月、幕府は再び両者を江戸城へ呼び対論させ、軍配を受不施派にあげると共に不受不施派を弾圧し、僧を流罪・追放している。


このとき、日奥上人も再び流罪となったが、日奥はこの裁定の前に66歳の生涯を終えていた。


幕府は見せしめのために、日奥の墓を掘り起こし、死体を対馬へ送ったとされている。


以後、不受不施は禁教となり明治時代まで続いたという。








アクセス  


市バス「天神公園前」下車、東へ徒歩約5分、地下鉄烏丸線「鞍馬口」から西へ徒歩約4分


拝観


境内自由(本堂・庭園は大人500円)


住所


〒602-0007


京都市上京区新町頭鞍馬口下る下清蔵口町(上御霊前通堀川東入る)


電話    075-441-2802
















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