卒業へ向けての諸活動が、水面下で始まっている。
卒業アルバム委員会・卒業文集委員会の2つがそれだ。
このように、写真を撮る日時や、原稿提出の期限などを言われると、いやでも何ヶ月か後には卒業を迎えるのだと実感させられる。
今日はじめて卒業文集委員会が召集され、恐れ多くも委員長の任に就くことになった。
とはいえ、決して表に出る存在ではなく、いつものように「陰の人」に徹することが多そうだ。
皆が心の底から納得し「いいものができた」と呼んでくれるような最高のものを作るべく、
これからも日々全力を尽くしてまいりたい。
新潟で震災が続いている中、奇跡とも呼ぶべきか、2歳の男児が土砂から救出されたというニュースを聞いた。
お母さんと長女の2名は残念ながら命を落としてしまった。心から、ご冥福をお祈りしたい。
しかしながら、人間の生命はかくも強いものかということを知った。きっと土砂に埋もれても、お母さんはわが子を守り、助け出すことに必死だったに違いない。母の分まで生きてくれと言わんばかりに、命が命へと移ったのであろうか、そんなことを考えさせられる出来事だった。当然ながら、科学的にそのような話は論証できないのだが、90時間という長く、そして暗闇の中で生き続けたということが、どれだけの苦難であったことか。
震災に遭われたことをこのように表現するのはいささか軽率だったかもしれない。しかし、そのようなできごとがあって生き延び、そして生きていくという使命は果てしなく重いと思う。僕たちは、新潟の大地震に関して、無知であったり、自分とは全く関係ないようなよそ事のように考えては絶対にならない。これからの世界を展望し、世界平和を実現したいと願うときに、僕たちは外国のことですら無知であってはならないはずなのに、まさに自分の国・日本で起こっている災害に対して何も関心を示さないというのは、やはりあってはならないことではなかろうか。
「世界がもし100人の村だったら」という本がある。もし、地球が100人の村で、海など地理的な制約がなく陸続きであったとしたら、村人の誰かが事故や被害にあったことに対して、ほかの村人は無関心ではいられないだろう。またもし、あなたが被害の起こった地域に済んでいたら、逆に無関心の人々には怒りを覚えると思う。
話がそれたが、地震について。災害の起こった新潟県の方々に対して、僕は今、直接現地の方々に具体的な行動を行うことはできない。しかし、被害地域の人々の安全無事・無事故を願い、その上で募金など些細な活動はすることができる。
当該地域から離れて住んでいることを理由に、遠くで起こっていることだからといって何も考えないのは、結局のところ、他の人が抱えている悩みや問題を、心の底から同苦し励ますことができないことと同じだと僕は思う。
だからこそ、全てにおいて、僕はその人たちの苦労の何百分の1でもいい、自分が苦労して、勉強し抜いて、他の人にも幸せを感じてもらえるような人間に成長していきたい。
弱音は吐いてなんかいられない。ここで僕が立ち止まってしまったら、身を挺してわが子を守ったあのお母さんに申し訳ないから。
卒業アルバム委員会・卒業文集委員会の2つがそれだ。
このように、写真を撮る日時や、原稿提出の期限などを言われると、いやでも何ヶ月か後には卒業を迎えるのだと実感させられる。
今日はじめて卒業文集委員会が召集され、恐れ多くも委員長の任に就くことになった。
とはいえ、決して表に出る存在ではなく、いつものように「陰の人」に徹することが多そうだ。
皆が心の底から納得し「いいものができた」と呼んでくれるような最高のものを作るべく、
これからも日々全力を尽くしてまいりたい。
新潟で震災が続いている中、奇跡とも呼ぶべきか、2歳の男児が土砂から救出されたというニュースを聞いた。
お母さんと長女の2名は残念ながら命を落としてしまった。心から、ご冥福をお祈りしたい。
しかしながら、人間の生命はかくも強いものかということを知った。きっと土砂に埋もれても、お母さんはわが子を守り、助け出すことに必死だったに違いない。母の分まで生きてくれと言わんばかりに、命が命へと移ったのであろうか、そんなことを考えさせられる出来事だった。当然ながら、科学的にそのような話は論証できないのだが、90時間という長く、そして暗闇の中で生き続けたということが、どれだけの苦難であったことか。
震災に遭われたことをこのように表現するのはいささか軽率だったかもしれない。しかし、そのようなできごとがあって生き延び、そして生きていくという使命は果てしなく重いと思う。僕たちは、新潟の大地震に関して、無知であったり、自分とは全く関係ないようなよそ事のように考えては絶対にならない。これからの世界を展望し、世界平和を実現したいと願うときに、僕たちは外国のことですら無知であってはならないはずなのに、まさに自分の国・日本で起こっている災害に対して何も関心を示さないというのは、やはりあってはならないことではなかろうか。
「世界がもし100人の村だったら」という本がある。もし、地球が100人の村で、海など地理的な制約がなく陸続きであったとしたら、村人の誰かが事故や被害にあったことに対して、ほかの村人は無関心ではいられないだろう。またもし、あなたが被害の起こった地域に済んでいたら、逆に無関心の人々には怒りを覚えると思う。
話がそれたが、地震について。災害の起こった新潟県の方々に対して、僕は今、直接現地の方々に具体的な行動を行うことはできない。しかし、被害地域の人々の安全無事・無事故を願い、その上で募金など些細な活動はすることができる。
当該地域から離れて住んでいることを理由に、遠くで起こっていることだからといって何も考えないのは、結局のところ、他の人が抱えている悩みや問題を、心の底から同苦し励ますことができないことと同じだと僕は思う。
だからこそ、全てにおいて、僕はその人たちの苦労の何百分の1でもいい、自分が苦労して、勉強し抜いて、他の人にも幸せを感じてもらえるような人間に成長していきたい。
弱音は吐いてなんかいられない。ここで僕が立ち止まってしまったら、身を挺してわが子を守ったあのお母さんに申し訳ないから。