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Toshiが行く

日々の出来事や思いをそのままに

孫の心づかい

2024-10-10 16:40:08 | エッセイ

 

「大根が刺さっとるじゃない」──

孫からプレゼントされた買い物用のキャリーバッグの写真をLINEで送ったら

こう言って大笑いされてしまった。

            

 

やはり車がないと、何かと不便だし、寂しい。

5月に愛車を売却し、運転するのをやめた。

80を過ぎれば視力は衰えるし、反射神経も鈍くなる。

運転していて「はっ」とすることが多くなった。

自らが傷つくのはまだしも他人様を傷つけるのは許されることではない。

多少迷いつつも車を手放したのだった。

 

所用で中心街に出かけるのは、バスや地下鉄を利用すればさして不便ではない。

でも、あの楽しかった車中泊などちょっとした小旅行はまったく出来ない。

したがって四季折々の自然に触れられない。

なんとも寂しいことである。

 

それから日々の買い物。

1キロ足らずのところにスーパーがあるにはある。

だけど、野菜類、特に大根やジャガイモといった根菜類は重い。

調味料にしてもしかり。米にしたってそうだ。

これらを「よいしょ」と持ち帰るのは、1キロ足らずの距離といっても

老体には並大抵ではない。

しかも、このスーパーだけですべて用済みになればまだしも、

品物によってはちょっと遠くのスーパーまで行かなければならない。

歩いて20分ほどかかるスーパーに出かけることもある。

ずっしり重い買い物袋を手に下げ、肩にして帰らなければならないのだ。

つくづく車が恋しくなる。

 

     

 

そんな祖父母を不憫に思ってくれたのか、

3人の孫が敬老の日のプレゼントとして計らってくれたのが、

くだんの買い物用のキャリーバッグだった。

これだと随分と楽だ。平地だと取手に手を添えているだけで進んでくれる。

実は、ちょっと小さめのキャリーバッグを持っていたのだが、

プレゼントしてもらったのは、これより大きいから収容量もある。

かといって、運ぶのに力はほとんどいらない。

少し多めの買い物が必要な時はこの2台を持っていく。

妻と1台ずつ持てば何ということはない。

片道20分の距離も格好のウオーキングとなる。

孫たちにサンキュー、サンキューである。

 

さて、雨の日はどうしようか。

まあ、いいか。天気の良い日に買い込んでおけばよい。

 


元気にしとるね

2024-10-08 08:58:59 | エッセイ

 

6人の兄弟姉妹は、今はもう90歳の長女と

その8歳下、末っ子の僕の2人だけになってしまった。

幼い頃、僕を母親同然に慈しんでくれた姉には一人娘(僕にとっては姪)がいる。

パーキンソン病による長年の患いで特別養護老人ホームに入っている姉にとり

義兄はすでに亡く、この姪だけが頼りである。

 

姪はすでに還暦を過ぎ60半ばになっている。

僕が中学生の頃、おぶってあやしたあの子がである。

大きくなるにつれ親しんできたせいか、

今でも僕のことを「武雄兄ちゃん」と呼ぶ。

いつだったか、「何だかこの呼び方はテレますね」とLINEしてきたことがあり、

その後しばらくは「武雄兄さん」と変わっていたが、

数日前「今、外出されていますか? 

もし在宅なら電話かけさせてもらおうかと思い……」とLINEがあった時には、

また「武雄にいちゃん」と82歳にもなるこの爺さんを呼んでいた。

それで腹が立つわけでもなく、むしろ姪からのほんわりとした親しみに心和む。

 

一方で、届いたLINEが気になった。「家にいるなら電話したい」という。

姉に何かあったのではないか。慌てて、こちらから電話を入れた。

「姉に何かあったんじゃないだろうね」姪はこれには何も答えず、

「この電話、いったん切って、こちらから入れ直しますね」そう言って電話を切った。

そして、間もなくスマホにかかってきた電話画面には、

こちらを見る姉の顔が大映しになっていた。

 

    

 

病のせいで、言葉が上手く出なくなっているし、喜怒哀楽の表情も薄い。

でも、こちらをじっと見て「元気にしとるね」と言っているのが分かる。

それで「元気ばい。姉ちゃんも元気そうやね」と言えば、右手を右に左に振った。

それが「うん、うん」と言っているように見えた。

側から姪が「先日、コロナに罹ったんですよ。

でも、今はすっかり元気になりました」と添えてくれた。

言葉が不自由な姉が言おうとしていることを〝通訳〟できるのは、

この姪ただ一人である。

長崎に姉を見舞ったのは1年も前のことになる。

車の運転を止めたことで、長崎はますます遠のいた感じがする。

「近いうちに必ず行くからね。元気にしとってよ」

そう言って思い切り画面に向かって両手を振った。

すると、今度は姉も両手を振って返してきた。

姉と弟─残された肉親2人だけの画面越しの交わりであった。

 

 


いつの間に

2024-10-01 06:00:00 | エッセイ

 

「今日、家にいるかな?」ちょっとした用を伝えるため長女に電話した。

「何時頃になる?」「そうだな、1時過ぎあたりかな」

「あら困った。その時間、病院に行っているわ」「どこか悪いのか」

「肩、肩が痛いのよ」「どうした?」

「五十肩」「何とまあ。そんな年になったんかい」─笑い声と一緒にそう言ってやった。

「54です」「それはそれは、どうぞお大事に」

 そう言えば、東京に勤務する孫娘(長女の長女)が夏休みで帰省した際、

「私もうアラサー、27歳なのよ」と言うものだから「ええっ」となった。

ということは会うたびに「まだまだ子供だな」と思う

一つ違いの弟も、もう26になるのか。

 

それと、次女も8月で50歳になったのだったな。その一人娘も21だ。

小さく、愛らしかった3人の孫たちが皆一人前の振る舞いをするようになっている。

あちらもこちらも、いつの間にやらである。

 

           

 

子や孫がそうであれば、こちらも年を取るはずだ。

日本人男性の平均寿命をクリアして82歳になった。

幸い、かかりつけ医は「80歳を超えられたにしては、大変お元気」と言ってくれる。

もちろん悪い気はしない。

確かに病院で行き交う同年配と思しき人と見比べると

「足取りもまだ確かだし、そうなのかな」と思う。

だが、「ああ、衰えたなあ」というのが本心だ。

ウオーキングに出かけると以前は18分で歩けた同じ道が20分かかる。

スマホの歩行計を見ると歩数はほぼ同じだ。

歩く速度が遅くなったということだろう。ひどく情けなくなる。

 

日本人の健康寿命は男性72歳、女性75歳。

つまり80歳を前に寝た切りや要介護になる人が多いということだ。

幸いここは乗り越えた。今度は80歳代をどう無事に過ごしていくかだ。

敬老の日に3人の孫たちが「これからも長生きしてください」とLINEしてくれ、

「はいはい、ありがとうさん」と爺らしく返信した。

さてさて、どう生き長らえようか。

高齢者専門の精神科医・和田秀樹さんは

『80歳の壁は高く厚いが、壁を乗り越える最強の方法がある。

それは嫌なことを我慢せず、好きなことだけすることだ』という。

なるほど。要するに、「衰えたなあ」などとネガティブにならず、

前向きに明るく生き抜けということか。

少しばかり、励まされたような気がしないでもない。

 

 


あの頃

2024-09-28 13:14:15 | エッセイ

 

小学生の頃  隣に住む高校生の兄さんは、すごく野球がうまかった。

       僕にとり長嶋や王と同じほどのスーパースターだった。

       軟式ではあったが、県代表として全国大会にも出場、

       トロフィーだったか盾を持ち帰ったことを覚えている。

       もちろん、キャッチボールの相手もしてもらったが、

       僕の手はたちまち真っ赤になった。

       兄さんがタオルを首に巻いてランニングをすると、

       その後ろには、決まって同じ格好をした僕がいた。

       それを見て、姉たちは大笑いしたものだ。

       やがて兄さんは高校を卒業し、県外に就職。

       僕の野球熱も急速に冷めていった。

 

            

中学生の頃  運動会では花形だった。

       もともと足が速かったから100㍍走などの個人種目はもちろん

       クラス対抗リレー、部活対抗リレーなどにも選ばれ、

       いつも先頭を突っ走った。

       器械体操部の模範演技では、華麗な技を披露した。

       姉たち家族は、一番前に陣取り大声で声援を送り、

       鼻高々の態であった。

       だが、何事も図に乗っちゃいけない。

       勢いをかって1000㍍走にも出場したのだが、

       途中からどんどん遅れ、最後から何番目かでゴールした。

       長距離走での哀れな姿であった。

 

             

 

高校生の頃  同学年にちょっと気になる女の子がいた。

       同じクラスではなかったが、通学バスで時々一緒になった。

       その彼女は、地元ラジオ局のパーソナリティーみたいな

       ことをやっていて、番組でリスナーからリクエスト曲を求めていた。

       彼女の気を引きたい一心で、ハガキを送った。

       その曲は高英男の「雪の降る町を」だった。

       高校生が何でこんな選曲を……。後になり我ながらあきれた。

       もちろん、この曲がかかることはなかった。

       しばらくして彼女は滋賀県へ転校していき、

       あの番組を聞くこともなくなった。

 

           

大学生の頃  ある朝登校すると、学内いたるところに、

         あの独特の文字のビラが貼ってあった。

       「昨夜機動隊が学内に突入!」「大学の自治を蹂躙!」

       この文字を見ただけで激しい渦に巻き込まれることになった。

       なぜそんなことになったのか——そんなことはどうでもよかった。

       ただ機動隊という権力に大学の自治が踏みにじられた。

       その怒りだけに突き動かされた。

       長期のストライキにも突入し、街頭デモでは機動隊の盾に

       バシッとはさまれもしたが、へこたれることもなく

       街中で気勢を挙げた。

       だが、しばらくして学生会館の運営を巡り、

       学生自治会と大学側が対立、

       団体交渉中に大学側が機動隊へ救助を求めた結果が

       ああなったのだということを知った。

       そして、このままストを続ければ4年生は単位が取れず、

       卒業が危うくなる。そんな話も流れ出した。

       流れは急速に変わった。僕ら4年生が学生集会で

       スト解除を求め、僅差で勝ったのである。

       逆に2、3年生で固めていた自治会執行部の諸君は涙を流した。

       僕らが卒業すると、ヘルメット、ゲバ棒、火炎瓶などが登場し、

       学生運動は一気に激しくなっていった。

 

          

 

振り返ればさまざまな思い出がある。

82歳になり、これからどんな思い出づくりが出来るだろうか。

楽しい思い出があの頃のようにたくさん作れればよいのだが……。

 

 

 

 


Rebirth

2024-09-25 09:16:55 | エッセイ

 

多くは望まない。20年ほどでいい。

出来るものなら、この体をRebirthしてほしい。

60歳前後は、どこも悪いところはなく、

健康そのものだった。

それが70歳を過ぎたあたりから崩れ出し、

あちこち傷んできた。

今は何の心配もしないで済む日はまずない。

年を取れば体は衰え、あちこち傷んでくるのは

当然のこととはいえ、Rebirthさせてくれるものなら

してみたいと思う。

 

そんなくだらないことを考えていたら、

目の前のテレビが医療的ケア児の話をしていた。

医学の進歩などによりNICV(新生児集中治療室)等に

長期入院した後、引き続き人工呼吸器や胃ろう等を使用し、

家族、あるいは医療従事者の支援を受けながら、

日常的に医療ケアを必要としている子どもたち。

全国に2万人ほどいるそうだ。

 

途端に「20年ほどRebirthしたい」と思う、

自分が哀れに思えてきた。

医療的ケア児こそ、Rebirthさせてあげたい。

声も出せず、態度で示すこともできず、

毎日、毎日命をつないでいるこの子たち。

Rebirthなんて、もう言うまい。

この子たちのようにその日、その日に向き合って生きていこう。