食の歴史 by 新谷隆史ー人類史を作った食の革命

脳と食を愛する生物学者の新谷隆史です。本ブログでは人類史の礎となった様々な食の革命について考察していきます。

ハチャプリを食べました

2022-01-08 21:28:30 | 世界の料理を食べてみよう
本日は妻が作った「ハチャプリ」を食べました。
ハチャプリはジョージア(以前はグルジアと呼ばれました)の国民食であるチーズがたっぷり入ったパンのことです。



モッツアレラチーズとカッテージチーズをパン生地で包んでオーブンで焼き、途中で卵を落としてさらにオーブンで焼いて出来上がりです。



たっぷりのチーズだけに、まずいわけがありません。
たいへん美味しくいただきました。

「くだりもの」と「くだらないもの」-近世日本の食の革命(5)

2022-01-08 17:13:46 | 第四章 近世の食の革命
「くだりもの」と「くだらないもの」-近世日本の食の革命(5)
くだらない」という言葉があります。これは「価値のない、無意味だ」という意味で使われます。この「くだらない」という言葉は、江戸時代の初期や前期(1603年から1700年頃)に、江戸やその周辺の地域で生産された物品(地廻り物)に対して使われたものです。

それには、その当時の関東と関西の生産性の違いが関係しています。

その頃の関東地方は後進地域であり、そこで生み出される物品は低品質なものが多かったのに対して、京都大阪で生産された物品は長い伝統に裏打ちされて、とても高品質でした。これら京都や大阪などの上方から江戸に運ばれた物品は「下りもの(くだりもの)」と呼ばれました。一方で、低品質の地廻り物は「下らないもの」と呼ばれて区別されたというわけです。

今回は「下りもの」を取り上げて、江戸時代前期の食料品や飲料の流通について見て行きます。


下りものの一つ「下り酒」を運んだ樽廻船(ウイキペディアより:ライセンス情報

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平安時代から江戸時代になるまで、日本では京都が唯一「都市」と呼べるところだった。京都は政治、経済、文化の中心であり、生魚などの生鮮食料品以外のすべての食材が京都に集まった。そして、日本伝統料理である大饗料理本膳料理精進料理懐石のすべてが京都で誕生した。

現在「京野菜」と呼ばれている新しい野菜の品種も京都の近郊で次々と生み出され、京都の料理に取り入れられた。また、茶道の中心も京都であり、新しい菓子も京都で次々と誕生した。このように、京都が常に食文化の最先端を走っていたのである。

一方、大阪は瀬戸内海の東端に位置していたことから、古代から都に物資を運ぶ港が築かれる重要なところだった。1532年には石山本願寺が建てられたが、織田信長との戦いによって北陸に移った。その後、その跡地に豊臣秀吉が大阪城を築城して本拠地としたことから、大阪は大きく発展した。

江戸時代に入ると、大阪を幕府の直轄地となり、海運の中心として発展した。特に、前回お話しした西廻り航路が確立してからは、日本各地の物品が大阪に集まるとともに、諸大名が大阪に蔵屋敷を建てて年貢米を集積させた。このことから江戸時代の大阪は「天下の台所」と呼ばれることが多い。

江戸に幕府が開かれると多くの人々が江戸に住むようになったが、生産性の低かった江戸時代前期までは、京都や大阪から運ばれてくる物品に頼らなければ生活が成り立たなかったのである。

特に、主食であったと、生産に技術が必要な醤油味噌が重要な下りもので、「下り醤油」や「下り酒」などと呼ばれた。これらは、江戸時代初期には陸路で江戸に運ばれたが、西廻り航路が確立してからは主に船で運ばれるようになった。また、上方の物品とともに多くの商人が江戸に進出し、上方の支店や出張所のような店舗が多く立ち並んだという。

このように、江戸時代の初期や前期(1603年から1700年頃)の、食文化を含む文化や経済の中心は上方であり、17世紀後半から18世紀初めにかけて花開いた「元禄文化」は京都や大阪の上方で生まれた。なお、元禄文化を担った代表的な人物には、松尾芭蕉や近松門左衛門、井原西鶴などがいる。

当初は上方の下りものに頼っていた江戸であったが、幕府が近郊地での生産を奨励したことから江戸時代中期(1700年から1750年頃)になると、次第に高品質なものが生産されるようになってきた。

幕府が重視していたのは関八州と呼ばれる現在の関東地方とほぼ同じ地域での生産であり、ここで作られたものを「地廻りもの」と呼んで優遇した。なお、関八州とは、相模(さがみ:神奈川県)・武蔵(むさし:埼玉県、東京都、神奈川県東部)・上野(こうずけ:群馬県)・下野(しもつけ:栃木県)・常陸(ひたち:茨城県)・下総(しもうさ:千葉県北部、茨城県南部)・上総(かずさ:千葉県中央)・安房(あわ:千葉県南部)の8つの国を指す。

例えば、醤油については、前期までは8割以上が下りものであったが、17世紀の終わり頃から下総(しもうさ)・常陸(ひたち)・下野(しもつけ)などで関東醤油と呼ばれる醤油の生産が始まった(なお、醤油の歴史については別の機会に詳しく見て行きます)。

そして、江戸中期以降に江戸独自の食文化が花開き、「てんぷら」や「すし」「そば」などの屋台食が食べられるようになるのである。

米を運ぶ:河村瑞賢の話-近世日本の食の革命(4)

2022-01-05 22:47:59 | 第四章 近世の食の革命
米を運ぶ:河村瑞賢の話-近世日本の食の革命(4)
皆さんは「河村瑞賢(かわむらずいけん)」という人物をご存知でしょうか。
彼は江戸時代初期の人物で、江戸に米を運ぶ航路を整備したことで知られています。

この航路はとても重要で、もしこの航路がなかったら、増え続けていた江戸の人口を支えることができなかったと考えられています。

また、同じ航路を使って、米以外のさまざまな物資が江戸に運ばれました。つまり、瑞賢が整備した流通路は、江戸が大都市へと発展する上で不可欠なものだったのです。

さて、歴史上には「偉人」とよばれる人物があまたいて、河村瑞賢もそのうちの一人であることは間違いありません。しかし、彼が他の偉人たちと少し異なっているのは、彼が「商人」であったことです。

今回は、一介の商人だった河村瑞賢が、江戸時代の主要流通路となった「東廻り航路」と「西廻り航路」を切り開く様子を見て行きます。



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1603年に江戸に幕府が開かれると、江戸が政治の中心になった。その結果、一地方都市だった江戸にはたくさんの人が集まってくるようになる。家康をはじめ初期の将軍たちは、川の流れを変えたり、埋め立てを行ったり、新しい建物を作ったりなど、江戸の町づくりを精力的に進めたが、このような仕事を求めて多数の人々が江戸にやってきたのだ。

1635年に「参勤交代」が制度化されると、諸大名は一年おきに江戸と自分の領地に居住するように定められた。大名が領地に戻っても正室と嫡男は江戸に留まったため、江戸には身の回りの世話役を含めて多数の武士が居住するようになった。また、それに合わせて、さまざまな商売を行う人たちも増えて行った。

人が増えると必要な食糧も増える。江戸や江戸の近郊では十分な食糧生産が見込めなかったので、幕府は直轄地である天領を増やし、そこで取れた米を江戸に運ぼうと考えた。東北の太平洋側に位置する現在の福島県(陸奥の国)の米と、日本海側に位置する現在の山形県(出羽の国)の米である。

ところが、これらの米を江戸まで運んでくるのが難しかった。この航路を整備したのが、河村瑞賢(1618~1699年)である。

瑞賢は伊勢の国の生まれで、13歳の時に商人になるために江戸に出てきたとされる。様々な商いにたずさわった後、材木屋として生計を立てるようになった。
そして、1657年に「明暦の大火」と呼ばれる江戸の町の三分の二を焼き尽くした大火に遭遇する。これを商人としてのチャンスと考えた瑞賢は、雪に閉ざされていたため江戸の大火の情報が到達していなかった木曽福島に出向き、伐採される木材すべての権利を得ることに成功する。そして、材木を他の材木商に売ることで莫大な利益を得たという。

瑞賢はかなりの人徳者であったようで、その後大阪に出て米を買うと江戸に戻り、大火で焼き出された人々に粥を配ったとされる。また、陣頭指揮を取って、焼け死んだ人々の遺体を集めて供養したと言われている。このような人徳の高さや、人々の力を結集して大事業を成功させる手腕を買われて、幕府から米を輸送する航路の整備を任されることになったのだ。

最初に手を付けたのが、福島県(陸奥の国)の米の輸送だ。

それまでの東北からの米の輸送は、船で米俵を銚子まで運び、川舟に乗せ換えると、利根川をさかのぼって江戸に送っていた。しかし、手間がかかることから費用が高くなるし、利根川の流れが急で、船が転覆するなどして多くの米が失われていた。

瑞賢は腕利きの船乗りを雇い、さまざまな航路の検討を行った。その結果、難所であった房総沖を大きく迂回して伊豆半島まで南下し、そこから江戸湾に向かう方法が安全で確実であることを見出した。こうして1671年に、米を安く安全に江戸に運ぶ航路が確立されたのである。なお、この航路は、日本海沿岸から津軽海峡を経て太平洋を南下する航路とつながることから、「東廻り航路」と呼ばれる。

また、瑞賢は、立務所と呼ばれる番所を各地に設置し、番人に船の修繕や積み荷の確認などを行わせることで、積み荷が確実に輸送される仕組みを作り上げた。

次に取り組んだのが、山形県(出羽の国)の米の輸送だ。

本ブログの記事「コンブを運ぶ-中世日本の食(11)」でもお話しした通り、日本海の物産品は、中世までは北陸の敦賀や小浜に船で運ばれ、そこから陸路-琵琶湖の湖上輸送-陸路を使って、京都や大阪に運ばれていた。

しかし、この輸送路を利用すると、大阪までの陸路が長くなり、時間と経費がかかる。そこで瑞賢は、日本海をさらに西に進み、下関を回って瀬戸内海に入り、大阪に到達する航路を考案した。瀬戸内海には潮流が複雑で暗礁も多い海域があったが、地元の船乗りを雇うことで安全な輸送が可能となった。

こうして大阪に運ばれた米は、さらに船で紀伊半島を経由して伊豆半島に送られ、そして江戸湾に運ばれた。なお、夜間の航行のために、紀伊半島近くの島には灯台替わりのかがり火が焚かれたという。こうして1672年に「西廻り航路」が確立された。

このような東廻り航路と西廻り航路の整備によって、江戸にはたくさんの米が運ばれるようになった。米の輸送は幕府の直営事業だったが、それ以外の物品についても商人たちが東廻り航路と西廻り航路を使って輸送を行うようになり、京都・大阪と江戸の三都を中心とした一大物流網が完成することとなった。そして、この物流網が、江戸だけでなく、近世日本が発展する基礎となったのである。

さて、その後も瑞賢には様々な公共事業の責任者となるようにとの要請が舞い込み、上杉藩の新田開発や淀川の治水事業、大福銀山の開発などで辣腕を発揮した。そして晩年には、それまでの多大な功績により武士に取り立てられ、末代まで150俵の俸禄を与えられることになった(彼の功績からしたら、いかにも少なすぎるのではないかと思う)。

昨年の大河ドラマは渋沢栄一だったが、河村瑞賢は彼以上の偉大な事業家だったと言えるかもしれない。