オーストリア系ハプスブルク家-近世のハプスブルク家の食の革命(1)
今回から近世の中欧と東欧の食のシリーズが始まります。最初は、現在のオーストリア・チェコ・ハンガリーなどを支配したオーストリア系ハプスブルク家について見て行きます。
オーストリアの首都はウィーンです。世界最高峰の楽団ウィーンフィルを擁するなどして「音楽の都」と言われるウィーンは、お菓子でも有名で、「菓子の都」と呼ばれることもあります。その代表的なお菓子が「ザッハートルテ」と言うチョコレート菓子です。これは、チョコレートケーキをチョコレートが入った砂糖の衣(フォンダン)でコーティングした、とても甘くて、とても濃厚なお菓子です。
ザッハートルテ
また、ウィーンは料理でも有名で、仔牛肉を使ったカツレツの一種「ウィーナーシュニッツェル」は今でもオーストリアで一番人気の料理です。
ウィーンは1278年からハプスブルク家が支配するようになりました。しかし、その頃のハプスブルク家はまだまだ弱小貴族でした。その後ハプスブルク家は次第に勢力を拡大させ、15世紀半ばからは神聖ローマ帝国の皇帝位を世襲するようになります。そしてウィーンには宮廷が建てられ、神聖ローマ帝国の首都としての役割を果たすようになります。
第1回目となる今回は、オーストリア系ハプスブルク家について概略を見て行きます。
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ハプスブルク家は、最初は現在のスイス北部を領地としていた小貴族だった。この地には、1020年頃に建てられたハプスブルク城が今でも遺されている。
ハプスブルク家の躍進の始まりは、家長のルードルフ1世が1273年に神聖ローマ帝国の皇帝に選ばれたことだ。
神聖ローマ帝国内には200以上の公国や騎士領、司教領、自由都市などがあり、それぞれが独立国のような存在だった。その代表としてローマ教皇を守護するのがローマ皇帝だ。ローマ皇帝は、選帝侯という3人の聖職者と4人の世俗君主による選挙によって選ばれる。ルードルフ1世が選ばれたのは、野心のない凡庸さが選帝侯には都合が良かったからだと言われている。
ルードルフ1世は決して無能ではなく、反乱を起こした貴族を鎮圧し、彼の領地だったオーストリアなどを自分のものにする。こうして、ハプスブルク家は旧領を離れてオーストリアに定住するようになった。
ルードルフ1世の息子もローマ帝国皇帝となるが、ハプスブルク家の野心が恐れられたのか、その後しばらくは皇帝に選ばれず、地方の一領主に甘んじるしかなかった。ところが1440年になると、ハプスブルク家のフリードリヒ3世が再びローマ帝国皇帝に選ばれる。この時も彼の無能さが選帝侯に気に入られたのだ。実際にフリードリヒ3世は小心者で、戦争が始まるといち早く逃げ出し、敵が去るまで出てこなかったと言われている。
その息子のマクシミリアン(1459~1519年)の代になってハプスブルグ家は大躍進を果たす。彼は裕福なブルゴーニュ公国の姫と結婚することになったのだが、結婚の前にブルゴーニュ公が亡くなってしまった結果、最終的にブルゴーニュはハプスブルク家のものとなったのだ。
さらに、マクシミリアンの息子フィリップがスペインの王女ファナと結婚したことで、スペイン王の座もハプスブルグ家に転がり込む。この結婚から10数年以内にスペイン国王夫妻と王子が亡くなってしまったため、スペイン王は王女ファンとフィリップの子供に引き継がれることになったからだ。
フィリップの長男のカルロス(1500~1558年)は、1516年にスペイン国王カルロス1世(在位:1516~1556年)として即位する。彼はイベリア半島のスペイン本国だけでなく、南ローマとシチリア、そして新大陸の広大な領土を治める王となった。
また、フィリップの次男のフェルディナント(1503~1564年)は、1515年にハンガリー王女のアンナとの婚約が成立したのだが、1526年にハンガリー王子が戦死したため、フェルディナントがハンガリーとそれに帰属するボヘミア(現在のチェコ)の王となったのである。
こうしてハプスブルク家は、中欧と東欧において、元来のオーストリアの領土に加えて、ハンガリー・ボヘミアと言う広大な領土を手中に収めたのである。このようにハプスブルグ家が支配した中欧・東欧の領土をひとまとめにして「オーストリア」と呼んでいた。
スペイン王カルロス1世はオーストリアをはじめとするハプスブルク家のすべての領土を継承するとともに、1519年に神聖ローマ帝国皇帝カール5世(在位:1519~1556年)となった。そして彼の死後は、スペインとネーデルラントの領土は息子のフェリペ2世が受け継ぎ、オーストリアの領土と神聖ローマ帝国皇帝位は弟のフェルディナント1世(在位:1526~1564年)が継承した。
これ以降ハプスブルグ家は、スペイン系とオーストリア系に分かれることになったが、お互いに婚姻関係を結ぶなど良好な関係は続いて行く。しかし、近親婚を繰り返したために身体上の様々な異常が現れるようになり、スペイン系は1700年に断絶することとなった。
ここで、フェルディナント1世以降のオーストリア皇帝をあげておこう。
フェルディナント1世 (1526~1564年)
マクシミリアン2世 (1564~1576年):プロテスタント寄りの政策をとった。
ルドルフ2世 (1576~1612年):政治能力に欠け、占星術や錬金術に没頭した。
マティアス (1612~1619年):兄のルドルフ2世から皇位を奪う。
*新旧キリスト教徒の戦いである30年戦争(1618~1648年)が始まる。
フェルディナント2世 (1619~1637年):戦争を有利に進めるがフランスの参戦で泥沼化。
フェルディナント3世 (1637~1657年):30年戦争に事実上敗北した。
レオポルト1世 (1657~1705年):1683年にオスマン帝国軍がウィーンを包囲した。
ヨーゼフ1世 (1705~1711年):スペイン王位をめぐってフランスと争うが急逝した。
カール6世 (1711~1740年):歴代で最大の領土を築いた。
マリア・テレジア (1740~1780年):父から帝位を譲られるが、プロイセンが介入して戦争になった。
ヨーゼフ2世 (1780~1790年):王権の強化などの急進的な改革を行った。
レオポルト2世 (1790~1792年):ヨーゼフ2世の弟。兄が進めた改革を元に戻した。
フランツ2世 (1792~1835年):ナポレオン軍に敗れることで神聖ローマ帝国が消滅。これ以降は「オーストリア帝国」と呼ばれるようになった。
最後に、フェルディナント1世について食に関する話をしておこう。
彼はスペイン宮廷で生まれ育ち、その後オーストリアにやって来た。この時に取り巻きのスペイン人を一緒に連れてきたため、スペインの宮廷文化の要素がオーストリアに伝えられた。また、スペインが支配していたネーデルラントからは多数の菓子職人を宮廷に招いた。
一方、王妃アンナの故郷のボヘミアではイタリアとのつながりが強く、フェルディナント1世もイタリアの文化を好んだことから、多くのイタリア人がオーストリア宮廷に招かれた。その結果、最先端のイタリア料理やテーブルマナーが宮廷に取り入れられた。
このように、オーストリアの料理の特徴は「多国籍」であることだ。オーストリアは文化の異なる複数の国が集ることでできていたことと、様々な国の料理を積極的に取り入れたことから、オーストリア料理(ウィーン料理)は様々な国の特徴をあわせ持っているのである。
なお、フェルディナント1世は、古くに作られた宮廷晩餐会の作法を再整備したり、1523年にはウィーン初の料理学校を設立したりするなど、オーストリアの宮廷料理の発展に大きな貢献をしたと伝えられている。