食の歴史 by 新谷隆史ー人類史を作った食の革命

脳と食を愛する生物学者の新谷隆史です。本ブログでは人類史の礎となった様々な食の革命について考察していきます。

ゲルマン民族の大移動(1)

2020-07-22 17:04:06 | 第二章 古代文明の食の革命
ゲルマン民族の大移動(1)
ゲルマン民族の大移動が古代ローマの崩壊の原因と言われることがある。現在は、様々な要因が組み合わされることによって古代ローマが滅んだと考えられているが、ゲルマン民族が4世紀後半からローマ帝国内に移動してきたことがその一つとなっていることは間違いない。そこで、ここから数回にわたってゲルマン人とローマ人の関わり合いについて見て行こうと思う。

ゲルマン人は、現在のドイツ人、イギリス人、オランダ人、デンマーク人、スウェーデン人などの共通の祖先とされている。「金髪碧眼で背が高い」というのがゲルマン人の一般的な外観だ。一方、古代ローマの中心となったラテン人は、現在のイタリア人、フランス人、スペイン人、ポルトガル人などラテン民族の祖先だ。

もともとゲルマン人は、諸部族に別れてバルト海や北海の沿岸で牧畜と農耕を営んでいた。彼らは紀元前3世紀頃なると南下を始め、古代ローマ人が「ゲルマニア」と呼んだライン川の東やドナウ川の北側に先住民のケルト人を追い出すことで住み着いた。ライン川流域やエルベ川流域には肥沃な土地が広がっていたからだと考えられる。



さらにゲルマン人は、紀元前2世紀頃からライン川やドナウ川を越えて西や南に進出してくる。ガリア人のいくつかの部族はドナウ川を越え、さらにアルプスを越えてイタリア半島に侵入するが、マリウス(紀元前157~前86年)によって撃退された。また、ライン川西方のガリアに入り込んできたゲルマン人を押し戻したのがガリア遠征を行ったカエサル(シーザー、 紀元前100~前44年)である。

その後、ローマ軍は初代皇帝のアウグストゥス(在位:紀元前27~西暦14年)の時代に、エルベ川流域の肥沃な土地を求めてライン川を越えてゲルマニアに侵攻するのだが、「トイトブルクの森の戦い(西暦9年)」で2万人以上ものローマ軍が全滅してしまうという痛い敗戦を味わう。この時ゲルマン軍を率いたのがアルミニウス(紀元前16~西暦21年)で、彼はその後もローマ軍の侵攻を防ぐなどの功績を残した。アルミニウスはドイツではローマ軍を破った最高の英雄として近代まで尊崇される人物になる(第二次世界大戦後は英雄視することは好まれなくなった)。

ローマ帝国はその後もゲルマン人に対して軍事行動を起こすが、最終的にはライン川とドナウ川を国境線として、これを堅守する道を選んだ。そして、ゲルマン人の侵入を防ぐための土塁「リーメス(limes)」をライン川からドナウ川に沿って約550㎞にわたって築くのだった(下の写真)。



ここで、当時のゲルマン人の食生活を見てみよう。彼らの食事の中心は肉であり、それに加えて牛乳やチーズなどの高タンパクの食事を好んだようである。これは、彼らが高緯度の寒い地域に暮らしていたことから、生活の基盤が牧畜だったためと考えられる。ウシのほかには、ヤギやヒツジ、ウマ、ブタ、そして家禽類なども育てられていた。また、ゲルマン人の暮らしに重要だったのがイヌで、多数が飼育され、狩や牧畜の手伝いをしたと考えられている。

一方、農業も重要で、肥沃な平地では農地が作られて、キビ、コムギ・オオムギ、エンバクやライムギなどが育てられていた。穀物からはパンを作っていたことも分かっている。

ゲルマン人の大好物がビールで、陶製のジョッキに並々に注いだビールをあおるように飲んでいた様子が記されている。蜂蜜から作ったお酒(ミード)も良く飲まれていたようだ。なお、古代ローマとの間に国境があったとは言え人や物資の行き来はあり、ローマからワインが運び込まれて少しは飲まれていたようである。


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