食の歴史 by 新谷隆史ー人類史を作った食の革命

脳と食を愛する生物学者の新谷隆史です。本ブログでは人類史の礎となった様々な食の革命について考察していきます。

箸と匙(スプーン)-古代日本(10)

2020-09-12 15:19:27 | 第二章 古代文明の食の革命
箸と匙(スプーン)-古代日本(10)
『病草紙(やまいのそうし)』は、平安時代末期から鎌倉時代初期頃に描かれた絵巻物で、当時の一般的な病気や珍しい病気について、その様子が絵と説話で描かれている。そのうちの一つに、下図の「歯の揺らぐ男」(国宝)がある。



おそらく歯周病のためだと思われるが、歯がぐらついた男が口を開けて妻に見せている様子が描かれている。説話には「ちょっとでも固い物は噛み切ることができない」「食べる時は歯に引っかかってしまい耐えがたい」とある。

ここで注目して欲しいのが、男の前に描かれている食事である。板(お膳)の上にご飯と汁、魚や野菜のおかずと、手前に塩もしくは酢などの調味料が入った器が並べられている。器はどうも漆塗りの木製のようである。男の服装は平安時代の庶民のものであることから、このような食事、つまり「一汁三菜」と呼ばれる食事を普通の庶民が食べていたと推測される。このような一汁三菜の食事は、それ以降も長く続く日本の食事の基本形と言われている。

また、面白いことに、ご飯は高く山盛りになっており、箸が2本刺さっている。現代ではこのような盛り方のご飯は亡くなった人のお供えになっており、「枕飯」もしくは「一膳飯」と呼ばれる。奈良時代や平安時代には一般的な盛り方だったが次第に行われなくなり、現代では死者を弔う時にだけするようになったのだろう。

このようにご飯を高く盛り上げて箸を立てるのは大陸から伝わった習慣らしく、当時のテーブルマナーとして、食べ始める前にまず箸を手に取ってご飯に立てたらしい。また、正式な食事会では箸とともに「匙(さじ、スプーン)」が使われており、箸をご飯に立てた次は匙もご飯に立ててから食事を始めたそうだ。この動作には、神様への感謝など祭祀的な意味合いがあったと思われる。

この匙も箸も中国大陸で生まれ、それが日本に伝えられたものである。
中国で匙は7000年以上前に農耕文化が出現してから発明されたと推測されている。当時はアワやコメなどの穀物を粥(かゆ)にして食べていたと考えられているが、出来立ての粥はとても熱いので、これをすくうために匙が作られたと推測されている。

当初は多くの匙が獣の骨から作られていたが、青銅器時代に入ると青銅製に変化していく。また、秦・漢代には漆塗りの木製のものが主に使用されるようになり、後漢代には銀製の匙も登場する。そして、隋・唐代では銀製のものが主流となった(ただし、以上の匙は宮廷で使われたもので、庶民は手で食べたり木製の匙を使ったりしていた可能性が高い)。

一方の箸は煮込み料理の羹(あつもの)の具材を食べるために生み出されたと考えられている。この用途をする食具としては箸の前にフォークが発明されたとされる。4000~5000年前の遺跡から獣骨でできたフォークが見つかっているが、恐らくもっと便利な箸が登場したためにフォークは中国から消えてしまったのだろう。

中国で箸は3000年前くらいから使われるようになる。秦代以前の遺跡からは獣骨製、象牙製、青銅製の箸が見つかっている。漢代になると庶民にも広く使われるようになり、青銅製や竹製のものが見つかっている。後漢代には主に青銅製の箸が使われた。また、隋・唐代の宮中では匙と同じように銀製の箸が主流となった。

このように中国では匙と箸は食事に不可欠の食具となり、匙でご飯を食べ、箸でおかずを食べるのが作法となった。そして少なくとも13世紀頃までの宮中ではこの作法がしっかりと守られていたようだ。しかし現代の中国では、匙はスープを飲むのに使用し、それ以外のご飯やおかずを食べるのに箸を使っている。箸の方が便利だからと思われる。

一方、日本について見てみると、西暦290年頃に書かれた魏志倭人伝には卑弥呼が邪馬台国を治めていた時代の暮らしぶりが記されており、当時の日本人は手食をしていたらしい。このため、中国人からは未開の野蛮人とさげすまれた。

600年に最初の遣隋使が中国に派遣されるが、中国の皇帝からは日本の政治の遅れなどを批判されたため、急いで冠位十二階(603年)や十七条憲法(604年)を制定するなどして隋を真似た政治制度を整えた。そして607年に第2回目の小野妹子を代表とする遣隋使が派遣される。そして、この2回目の遣隋使が、匙と箸の文化を日本に最初に持ち込んだとされている。

しかし、匙については日本で広く普及しなかった。8世紀の中頃に建てられた正倉院の収蔵品に匙が見られたり、平安時代までの絵画に描かれたりもしているが、先にお話しした正式な食事会以外では匙を使うことはほとんどなかったようである。ただし、鎌倉時代に日本で広まった禅宗の僧によって再び匙を使う文化が導入され、第二次世界大戦までは禅寺では匙を使っていたという。



一方、箸についてはしっかりと日本に根付いた。日本で最古のものは654年に焼失したとされる飛鳥板蓋宮(いたぶきのみや)から見つかっており、その材質はヒノキで、先端は少しずつ細くなっている。また、平城宮(710~784年)の跡地ではゴミ捨て場からヒノキでできた箸が多数見つかっている。この頃までは庶民は手で食べていて、日本人が手食から箸食に移行したのは8世紀末から9世紀初めにかけてと考えられている。

匙が衰退して箸が生き残った理由として、日本人が食べるご飯に粘り気があることが挙げられている。つまり、匙でねばねばしたご飯をすくうと、べったりとくっついて食べにくいのに対して、箸では接触面が少ないのでくっつきにくいということだ。

また、日本人が器に口を直接つけて汁を吸うことを発明したことも関係していると考えられている。病草紙の歯の揺らぐ男の食器のように日本では昔から木製の食器が使われていたが、熱い汁物が入っていても木製の食器ならば直接口をつけてもやけどしない。そして「すする」ことによって適度に空気を混ぜて温度を下げることで、熱い汁を飲むことができるのだ。

このように、中国を真似るところから始めた日本人は、次第に自分たちの生活に合った日本特有の食文化を育んでいくようになるのである。

平安時代の食生活-古代日本(9)

2020-09-10 17:36:49 | 第二章 古代文明の食の革命
平安時代の食生活-古代日本(9)
『延喜式』は平安時代の927年に完成した法令集であり、律令制における細かな取り決めが記載されている。その中には、当時の各国の農産物や水産物、特産物についての記述もあり、当時の人々がどのようなものを食べていたかを知ることができる。

例えば、魚介類としては次のものが記載されている。
カツオ・クエ・サメ・タイ・イワシ・サバ・アジ・サケ・カレイ・フナ・アユ・マス・スズキ・コイ・ナマズ・カメ・アワビ・タコ・イカ・エビ・カニ・ナマコ・クラゲなど



また、ワカメ・コンブ・アオノリなどの記載もあり、現代とほとんど同じものが食べられていたことが分かる。ただし、冷蔵保存がほとんどできなかった時代のため、産地から離れた場所では干物や塩漬けされた状態で食べられていた。なお、ウナギについては公家の日記に書かれていることから、平安時代にも食べられていたようだ。

一方、野菜類の記載には次のようなものがある。
アザミ・チシャ・フキ・セリ・ワラビ・ナス・サトイモ・ヤマイモ・ダイコン・タケノコ・レンコン・ネギ・ニンニク・アオウリ・カブなど

いかにも和風の野菜というものばかりである。ちなみに、現在よく食べられているトマトやジャガイモ、サツマイモ、ピーマン、カボチャなどはすべてアメリカ大陸が原産のため、日本に入って来るのはポルトガル人が来訪する16世紀以降のことである。

さて、以上のような食材はどのように調理されたのだろうか?

平安時代には、現代の日本料理の一般的な調理法である「焼き物」「煮物」「蒸し物」「漬物」や、刺身や酢の物の前身である「なます(膾)」の調理法が確立していた。一方で、油はとても貴重だったため、揚げ物や炒め物についてはほとんど作られなかったとされる。唯一の例外がゴマ油で揚げた唐菓子で、これは重要な儀式などに限って作られたようである。

ここで、「煮物」「蒸し物」「漬物」と「膾」について簡単に見て行こう。

・煮物(汁物)
たっぷりの水で肉や野菜を煮たものを「あつもの(羹)」と呼んだ。食材を水で煮るだけの簡単な料理で、どんな食材でも不味くなることもあまりないので、「焼き」とともに先史時代から世界中どこにでもあった料理法の一つだ。奈良時代の記録にも残されていることから、日本でもずっとあつものが食べられてきたと考えられる。

平安時代になると、あつものから「汁」という料理名が生まれ、日本ではこちらの呼び方が定着する。平安時代の公家の日記には、熟汁・温汁・冷汁などの語が登場することから、いろいろな熱さの汁物が食べられるようになったことが分かる。

・蒸し物
「古墳時代とコメの炊き方-古代日本(3)」でお話ししたように、「甑(こしき)」と呼ばれる土器製の蒸す道具が弥生時代から使われていた。それが平安時代になると、木製の甑が使われるようになる。最初は底となる木の板に穴を開けただけのものだったが、やがて現代の「せいろ」に似た簀子(すのこ)を敷いたものが登場した。

蒸した食材は、塩・酢・酒・醤(ひしお)などの好みの調味料をつけて食べるというやり方が奈良時代と平安時代には行われていた。なお、酢の作り方は西暦400年頃に中国から伝わったとされており、奈良時代や平安時代には酒を造る役人が酢の醸造も行っていた。『延喜式』にはこのような役所での米酢の造り方が記載されている。

・漬物
漬物は野菜や果実を塩漬けにすることで保存性を高めた食品だ。漬け物が日本の歴史に最初に現れるのは天平(729~749年)の頃の木簡で、ウリやアオナなどの塩漬けのことが書かれている。奈良時代の寺院では、ナス・ウリ・モモなどの野菜や果実を塩で漬けたものが僧侶の食事として出されていた。平安時代になると、塩以外に酒かすやもろみ、未醤(味噌の原型)などに漬けた漬物が作られるようになり、『延喜式』にはセリ・ワラビ・ナス・フキ・ウリ・ショウガ・カキ・ナシ・モモなどの漬物が記載されている。

ところで、延喜式に書かれた漬物の作り方で作ると、塩分濃度は5%くらいになると言われている。通常は長期保存のためには10%以上の濃度の塩分が必要であることから(例えば、たくあんや福神漬けは10%以上)、古代の日本では一夜漬けの感覚で漬物が作られていたのかもしれない。

・膾(なます)
正月に食べる「紅白なます」は、ダイコンとニンジンを千切りにして酢に漬けこんだ料理だ。この「なます(膾)」という言葉は「生(なま)肉(しし)」から来たとする説が有力だ。つまり、もともと膾は生肉を細かく刻んだものを指していた。これが平安時代後期になると、魚肉と野菜を細かく刻んであえた物を指す言葉に変わる。そしてその後、酢をかけて食べる酢の物や生の魚の切れ身を食べる刺身に変化していったと考えられている。なお、現代の紅白なますのように酢が使われるようになるのは室町時代からだ。また、醤油につけて刺身を食べるようになるのは江戸時代になってからのことである。


平安時代の人々は正午前と夕方の1日2食が基本だった。ただし、農家などの肉体労働の人は間食をとることもあったようだ。また、夜の宴では夜遅くまで飲食することもあった。とは言っても、当時の食生活はタンパク質や摂取エネルギーが慢性的に不足している貧しいもので、栄養不足から病気になることも多かったと考えられている。

古代人も牛乳を飲んでいた-古代日本(8)

2020-09-08 00:02:06 | 第二章 古代文明の食の革命
古代人も牛乳を飲んでいた-古代日本(8)
哺乳類の赤ちゃんは母親のミルクしか飲まないが、すくすくと成長する。これは、ミルクの中には成長に必要な糖質・脂質・タンパク質やビタミン・ミネラルがバランスよく含まれているからだ。そのためミルクは「完全栄養食」と呼ばれることもある。

人はヘンな動物で、赤ちゃんでもない人たちが人間のミルクでなく、人間以外の動物のミルクを飲んでいる。ウシやヤギなどから栄養価の高いミルクが得られることを見つけて以来、長い間彼らのミルクを飲み続けてきたので、もはやそれが常識になっているからだろう。とは言っても、ミルクや乳製品を摂るのは西洋スタイルで、日本人が牛乳を飲むようになったのはつい最近のように認識されている感がある。ところが、古代日本でも乳牛が飼育されて、一部の高貴な人たちは毎日のように牛乳を飲んでいたことが分かっている。今回は古代日本における牛乳について見てみよう。

縄文時代の中頃以降の遺跡からウシの骨が見つかっているが、日本で本格的にウシが飼われるようになるのは弥生時代に入ってからである。また、ウマの飼育も同時期から盛んになる。このようにウシとウマの飼育の拡大が稲作の広まる時期と一致していることから、ウシとウマには犂(すき)を引かせるなど、主に農耕に使われたのではないか考えられている。

938年に編纂された『和名類聚抄(わみょうるいじゅうしょう)』には、中国人の善那が孝徳天皇(在位:645~650年)に牛乳を献上し、和薬使主(やまとのくすしのおみ)の姓を賜ったことが記されており、これが日本における牛乳に関する最初の事例となっている。この姓から分かるように、当時牛乳は薬と考えられていた。



平安時代には、宮廷内に乳牛の飼育舎である「乳牛院」が置かれた。乳牛院は、典薬寮(てんやくりょう)と呼ばれる宮中で医療・調薬を担当する部署に属していた。一方、各地には、ウシやウマを放牧しておくための牧場の「牧」が作られた。牧からは良い乳牛が乳牛院に送られ、古い乳牛は牧に返すなどしていた。

乳牛院では毎日約5.6リットル牛乳が搾乳されていたという記録が残っている。しぼられた牛乳は煮沸したのち飲まれたらしい。つまり、現代と同じ加熱殺菌が行われていたのである。こうしてできた牛乳は天皇および三宮 (太皇太后、皇太后、皇后) が飲用するようになっていたという。

さらに、宮中の指定酪農家である「乳戸」と呼ばれる者が各地におり、牛乳から「蘇(そ)」を作って朝廷に奉納していた。927年に書かれた『延喜式』によれば、「蘇」は牛乳を加熱して10分の1くらいまで濃縮したもので、こうすることで長距離の輸送にも耐えたらしい。なお、最近ではコロナ禍のために外に出られないため、自宅で蘇を作るのが流行しているそうである。

蘇以外の当時の乳製品としては、ヨーグルトのような「酪」、チーズのような「乾酪」、加熱した時に生じる乳皮を煮詰めた「酥」、酥を更に煮詰めたバター様「醍醐」などがあったそうだ。

11世紀ごろから貴族や社寺の領地である荘園が拡大し、その中にウシのための牧が作られた。こうして皇室だけでなく上流の貴族たちも牛乳や乳製品を摂取するようになる。この背景には、この頃の貴族が白米を食べるようになったことがあるようだ。

玄米には糖の代謝に必須のビタミンB1 が含まれているが、ぬかを取り除いた白米を食べるようになったため、ビタミンB1が不足しがちになったのだ。様々な記録から推察すると、当時の貴族はビタミンB1不足による体力減退やかっけに悩まされていたようである。牛乳にはビタミンB1が含まれているため、牛乳飲むとビタミンB1やいろいろな栄養素が吸収できて、元気になるのを実感していたのだろう。

このように広がりつつあった牛乳文化だったが、貴族の力が弱まり武士の力が大きくなるに従いだんだんと下火になり、江戸時代になるまで記録上は現れなくなってしまった。

茶と唐菓子の伝来-古代日本(7)

2020-09-05 20:24:48 | 第二章 古代文明の食の革命
茶と唐菓子の伝来-古代日本(7)
飛鳥時代(592~710年)・奈良時代(710~794年)・平安時代(794~1192年)と続く日本古代において、9世紀後半までは渡来人を歓迎し、また遣隋使や遣唐使を派遣するなどして中国や朝鮮半島の知識や技術、文化などをどん欲に吸収し模倣した期間である。

なお、遣隋使の派遣は600年に始まり、614年までに5回行われた。また、遣唐使の派遣は630年に始まり、838年までに計17回の使節団が派遣された。1回の使節団は大使以下数百人の規模で、その中には長期滞在する留学僧たちが含まれていた。彼らは日本に帰国したのちは寺院に戻り中国で学んだ仏教を伝えるとともに、食文化などの中国の文化を広めた。このため寺は宗教だけでなく、食文化でも最先端の場だったと言える。

茶の文化も寺を中心に日本に広められた。茶が日本に伝来した時期としては、奈良時代と言う説と平安時代と言う説の二つがある。奈良東大寺の正倉院に収められている文書には8世紀中頃のこととして、写経に従事した人たちに「茶」が提供されたことが記されているが、これは野菜と言う説もあり決着はついていない。また、平安時代後期に編纂された『東大寺要録』には、天平の時代(729~748年)に僧の行基(668~749年)が諸国に49か所の道場や寺院を建立するとともに、茶木を植えたと記されている。さらに、室町時代(1336~1573年)の『公事根源』には、729年に宮中に僧を招いて大般若経を講義し茶を賜ったとあるが、書かれた時代より700年前の出来事になるため真偽のほどは分からない。


(louis_taipeiによるPixabayからの画像 )

中国からの茶の伝来が明確になるのが平安初期だ。805年頃には、唐での留学から戻った最澄と空海がそれぞれ茶と茶種を持って帰ったと伝えられている。また平安初期の『日本後記』には、最澄とともに唐より帰国した僧の永忠が、815年に近江の梵釈寺において自ら茶を煎じて嵯峨天皇(786~842年)に奉ったと記録されている。これに感激した嵯峨天皇は、畿内や近江・播磨の国々に茶を植えることを命じた。嵯峨天皇は茶を好み、貴族社会に喫茶の風習を広めたとされている。995年に書かれた藤原幸成の日記に宮中の茶園についての記載があることから、この頃も引き続いて茶が好んで飲まれていたことがうかがえる。しかし、当時の茶は非常に貴重で、天皇や貴族、僧侶くらいしか飲むことができなかった。

一方、奈良時代には「唐菓子」と呼ばれる菓子が中国から伝えられた。これは、米粉や小麦粉、あるいは豆の粉に甘味や塩味をつけて練り、ごま油で揚げたり、蒸したり、焼いたりしたものである。時には香辛料の丁子(チョウジ、西洋ではクローブと言う)や肉桂(ニッケイ、ニッキとも言う)を入れることもあったようだ。

なお、当時の甘味としては「甘葛(あまずら)」と呼ばれるものがもっぱら使われていた。これはツタの樹液を煮詰めたものだ。ツタは冬になると糖分を蓄積し、厳冬期の樹液は20%もの糖度になる。これを煮詰めると糖度が非常に高くて保存のきく甘葛ができるのだ。古代日本では上流階級で甘葛が甘味づけに使われており、『枕草子』の42段にも削った氷に甘葛をかけて食べた様子が描かれている。つまり、古代でもかき氷が食べられていたことになる。

多くの唐菓子は時代とともに食べられなくなってしまったが、いくつかは現代でも食べ続けられている。その一つが「餢飳(ぶと)」と呼ばれるもので、奈良の春日大社の神饌(しんせん、神様へのお供え物)として神職によって長年作り続けられている。これは米粉を練ってギョーザのような形にし、ゴマ油で揚げたものだ。上手に作るのが難しく、うまく作れるようになってやっと一人前の神職とみなされるらしい。

また、現代のそうめんの原型と考えられているのが唐菓子の「索餅(さくべい)」だ。これは小麦粉と米粉に塩や醤・未醤(味噌のようなもの)を入れて練って細長くしたものと言われており、平安時代には宮中で疫病除けのために七夕に食べられていたらしい。また、平安京の南部の東西に一つずつあった市でも索餅が売られていて、庶民も買って食べることができた。江戸時代にも虎屋が七夕の食事として索餅を宮中に納めている。このため、現在では7月7日がそうめんの日になっている。

そうめんが現在の形になったのは室町時代のことだが、とても高価なもので、宮中や寺院でしか食べられなかった。やがて江戸時代になると民間でも食べられるようになり、特に播州(兵庫県南部)のそうめんが有名だったそうだ。

唐菓子のほとんどが残っていないのは、9世紀後半から日本特有の文化を創り出す機運が高まり、日本人の嗜好や習慣に合う食べ物以外は姿を消してしまったからだと考えられている。

渡来人と日本の発展-古代日本(6)

2020-09-03 17:00:22 | 第二章 古代文明の食の革命
渡来人と日本の発展-古代日本(6)
知識や技術は人を介して伝えられる。例えば、日本に稲作を伝えたのは中国大陸からの「渡来人」である。同じように、3世紀後半から7世紀頃までの古墳時代においても中国や朝鮮半島から数万人規模の渡来人が日本にやって来て、漢字や仏教、そして灌漑技術や養蚕技術などの様々な先端技術を伝えた。渡来人の多くはそのまま日本に住みつき、先住の人々と交わって子孫を残すことで現在の日本人の祖先の一人となった。

渡来人の先進的な知識や技術はとても貴重で国家の発展に役立ったため、ヤマト王権やその後の朝廷は土地や官位を与えるなどして彼らを優遇した。その結果、渡来人たちの氏族(共通の祖先を持つ血縁集団)は次第に勢力を拡大し、様々な分野で大きな影響力を発揮するようになる。今回はこのような氏族の中でも農耕に関係の深い「秦氏(はたし)」をとり上げて、渡来系氏族が果たした役割について見て行こうと思う。

秦氏は3世紀後半もしくは4世紀後半から5世紀初頭にかけて、1万人以上の規模で中国大陸から日本に渡来してきた一族である(渡来してきた時期や人数についてはいくつかの説がある)。彼らは秦の始皇帝の末裔とも、百済人であるとも、または新羅人であるとも言われるが、真偽ははっきりしない。

秦氏は現在の北九州を最初の居住地としたが、やがて瀬戸内海沿岸を通って近畿地方や四国地方に進出した。一部はさらに北陸や関東地方にも移動して集落を作ったとされている(例えば神奈川県秦野市)。中でも中心となった拠点が山背国葛野郡(現在の京都市西部の右京区太秦)と山背国紀伊郡(京都市南東部の伏見区深草)である。

秦氏は、灌漑技術を含む土木建築技術や養蚕・織物、酒造、製塩、水運、そして鉱山開発と冶金の技術に長けていた。京都では5世紀後半から桂川や鴨川などの河川の治水工事を行うことによって豊かな農地を生み出した。当時としては最先端の葛野大堰と呼ばれる古代ダムを建設するなど、その技術は非常に高かったと推察される。また、養蚕や機織り、酒造などを広めた。この結果、秦氏は平安京成立以前の京都盆地においては賀茂氏と並ぶ有力な氏族となっていた。なお、賀茂氏は、Jリーグのシンボルマークである八咫烏(やたがらす、神武天皇が東征した時に道案内をしたと伝えられる)を始祖とし、京都北部の治水を行うとともに、上賀茂・下鴨神社の神職を務めていた氏族である。秦氏と賀茂氏は婚姻関係を結ぶなど仲が良かったと言われており、協力して京都の開拓を進めたと考えられている。

こうして京都は平和で豊かな土地となったことから、794年に桓武天皇によって平安京に遷都が行われる。遷都にあたっては秦氏と賀茂氏は大きな役割を果たしたと推察されている。特に秦氏の貢献度は高かったようだ。平安京の造営長官だった藤原小黒麻呂(おぐろまろ)の妻は秦氏出身で、秦氏からの技術面や資金面からの援助がかなりあったと言われている。また、都を造るための資材は秦氏が整備を行った桂川を使って運搬されていたことや、秦氏が水運技術や土木建築技術に長けていたことから、都造りで中心的な役割を果たした可能性が高い。

さらに秦氏は有名な神社仏閣の造営を行い、神道や仏教の発展にも貢献した。まず、秦河勝が聖徳太子(574~622年)より下賜された弥勒菩薩像(現在は国宝)のために、京都最古の寺院である広隆寺を建立した。また、前回登場した五穀豊穣の神様を祀る伏見稲荷大社や酒の神様を祀る松尾大社、蚕の社とも呼ばれる木嶋神社(このしまじんじゃ)を創建したと伝えられる。さらに、祇園祭の八坂神社にも関わりがあると言われている。一方、京都の外に目を移すと、八幡宮の総本社である大分県の宇佐八幡神宮や、香川県の金刀比羅宮(ことひらぐう)の創建にも現地の秦氏が関わったと言われている。


   伏見稲荷大社の参道から

秦氏は秦河勝が聖徳太子の側近として活躍した以外は政治の表舞台には立たず、中央や地方の比較的下級の官僚として行政を支えた。また、技術者、商人、あるいは文化人として民間で活動する者も多かったようである。秦氏の中で歴史上有名な人物としては、浄土宗開祖の法然、絵師の狩野山雪、猿楽の観阿弥・世阿弥、武家の長曾我部氏などが知られている。

秦氏は日本史の表舞台にはほとんど登場しないため一般的にはあまり知られていないが、食料生産を始めとする様々な領域で大きな貢献をしてきたことは間違いない。また、他の渡来系氏族も同じように、先進技術を用いて活躍することで日本の発展に重要な役割を果たしてきたのである。

(秦氏については空海(弘法大師)との関係も推察されていて、この話もとても面白いのですが、食とは直接の関係がないので触れないでおきました。)