箸と匙(スプーン)-古代日本(10)
『病草紙(やまいのそうし)』は、平安時代末期から鎌倉時代初期頃に描かれた絵巻物で、当時の一般的な病気や珍しい病気について、その様子が絵と説話で描かれている。そのうちの一つに、下図の「歯の揺らぐ男」(国宝)がある。
おそらく歯周病のためだと思われるが、歯がぐらついた男が口を開けて妻に見せている様子が描かれている。説話には「ちょっとでも固い物は噛み切ることができない」「食べる時は歯に引っかかってしまい耐えがたい」とある。
ここで注目して欲しいのが、男の前に描かれている食事である。板(お膳)の上にご飯と汁、魚や野菜のおかずと、手前に塩もしくは酢などの調味料が入った器が並べられている。器はどうも漆塗りの木製のようである。男の服装は平安時代の庶民のものであることから、このような食事、つまり「一汁三菜」と呼ばれる食事を普通の庶民が食べていたと推測される。このような一汁三菜の食事は、それ以降も長く続く日本の食事の基本形と言われている。
また、面白いことに、ご飯は高く山盛りになっており、箸が2本刺さっている。現代ではこのような盛り方のご飯は亡くなった人のお供えになっており、「枕飯」もしくは「一膳飯」と呼ばれる。奈良時代や平安時代には一般的な盛り方だったが次第に行われなくなり、現代では死者を弔う時にだけするようになったのだろう。
このようにご飯を高く盛り上げて箸を立てるのは大陸から伝わった習慣らしく、当時のテーブルマナーとして、食べ始める前にまず箸を手に取ってご飯に立てたらしい。また、正式な食事会では箸とともに「匙(さじ、スプーン)」が使われており、箸をご飯に立てた次は匙もご飯に立ててから食事を始めたそうだ。この動作には、神様への感謝など祭祀的な意味合いがあったと思われる。
この匙も箸も中国大陸で生まれ、それが日本に伝えられたものである。
中国で匙は7000年以上前に農耕文化が出現してから発明されたと推測されている。当時はアワやコメなどの穀物を粥(かゆ)にして食べていたと考えられているが、出来立ての粥はとても熱いので、これをすくうために匙が作られたと推測されている。
当初は多くの匙が獣の骨から作られていたが、青銅器時代に入ると青銅製に変化していく。また、秦・漢代には漆塗りの木製のものが主に使用されるようになり、後漢代には銀製の匙も登場する。そして、隋・唐代では銀製のものが主流となった(ただし、以上の匙は宮廷で使われたもので、庶民は手で食べたり木製の匙を使ったりしていた可能性が高い)。
一方の箸は煮込み料理の羹(あつもの)の具材を食べるために生み出されたと考えられている。この用途をする食具としては箸の前にフォークが発明されたとされる。4000~5000年前の遺跡から獣骨でできたフォークが見つかっているが、恐らくもっと便利な箸が登場したためにフォークは中国から消えてしまったのだろう。
中国で箸は3000年前くらいから使われるようになる。秦代以前の遺跡からは獣骨製、象牙製、青銅製の箸が見つかっている。漢代になると庶民にも広く使われるようになり、青銅製や竹製のものが見つかっている。後漢代には主に青銅製の箸が使われた。また、隋・唐代の宮中では匙と同じように銀製の箸が主流となった。
このように中国では匙と箸は食事に不可欠の食具となり、匙でご飯を食べ、箸でおかずを食べるのが作法となった。そして少なくとも13世紀頃までの宮中ではこの作法がしっかりと守られていたようだ。しかし現代の中国では、匙はスープを飲むのに使用し、それ以外のご飯やおかずを食べるのに箸を使っている。箸の方が便利だからと思われる。
一方、日本について見てみると、西暦290年頃に書かれた魏志倭人伝には卑弥呼が邪馬台国を治めていた時代の暮らしぶりが記されており、当時の日本人は手食をしていたらしい。このため、中国人からは未開の野蛮人とさげすまれた。
600年に最初の遣隋使が中国に派遣されるが、中国の皇帝からは日本の政治の遅れなどを批判されたため、急いで冠位十二階(603年)や十七条憲法(604年)を制定するなどして隋を真似た政治制度を整えた。そして607年に第2回目の小野妹子を代表とする遣隋使が派遣される。そして、この2回目の遣隋使が、匙と箸の文化を日本に最初に持ち込んだとされている。
しかし、匙については日本で広く普及しなかった。8世紀の中頃に建てられた正倉院の収蔵品に匙が見られたり、平安時代までの絵画に描かれたりもしているが、先にお話しした正式な食事会以外では匙を使うことはほとんどなかったようである。ただし、鎌倉時代に日本で広まった禅宗の僧によって再び匙を使う文化が導入され、第二次世界大戦までは禅寺では匙を使っていたという。
一方、箸についてはしっかりと日本に根付いた。日本で最古のものは654年に焼失したとされる飛鳥板蓋宮(いたぶきのみや)から見つかっており、その材質はヒノキで、先端は少しずつ細くなっている。また、平城宮(710~784年)の跡地ではゴミ捨て場からヒノキでできた箸が多数見つかっている。この頃までは庶民は手で食べていて、日本人が手食から箸食に移行したのは8世紀末から9世紀初めにかけてと考えられている。
匙が衰退して箸が生き残った理由として、日本人が食べるご飯に粘り気があることが挙げられている。つまり、匙でねばねばしたご飯をすくうと、べったりとくっついて食べにくいのに対して、箸では接触面が少ないのでくっつきにくいということだ。
また、日本人が器に口を直接つけて汁を吸うことを発明したことも関係していると考えられている。病草紙の歯の揺らぐ男の食器のように日本では昔から木製の食器が使われていたが、熱い汁物が入っていても木製の食器ならば直接口をつけてもやけどしない。そして「すする」ことによって適度に空気を混ぜて温度を下げることで、熱い汁を飲むことができるのだ。
このように、中国を真似るところから始めた日本人は、次第に自分たちの生活に合った日本特有の食文化を育んでいくようになるのである。