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食の歴史 by 新谷隆史ー人類史を作った食の革命

脳と食を愛する生物学者の新谷隆史です。本ブログでは人類史の礎となった様々な食の革命について考察していきます。

シリアルの始まり-アメリカの産業革命と食(4)

2022-04-19 12:27:52 | 第五章 近代の食の革命
シリアルの始まり-アメリカの産業革命と食(4)
アメリカの朝食の定番はシリアルと言われるように、アメリカ人はシリアルが大好きです。スーパーマーケットの売り上げはパンよりもシリアルの方が多く、清涼飲料水と牛乳に次いで第3位となっているそうです。

シリアルには甘いものが多いですが、最近の健康志向から砂糖などの甘味料が敬遠されやすいため、海外でのシリアルの消費量は頭打ち傾向にあるそうです。

一方、以前は日本のシリアルの消費量はそれほど多くなかったのですが、近年になってナッツやドライフルーツの入ったグラノーラの人気が急上昇しています。

さて、今回は、19世紀のアメリカでシリアルが誕生し、発展して行く様子を見て行きます。

シリアルの誕生には健康な食生活を望む社会の要請がありました。また、その発展には、兄弟間、そして会社同士の争いがありました。それは、どのようなものだったのでしょうか?


(大雄 陳によるPixabayからの画像)

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歴史を振り返ってみると、19世紀頃までは太っていることは富と健康の証しとされ、肥満は理想の体型とされていた。西洋の裸婦画の多くで、豊かな脂肪をたくわえた女性が描かれているケースが多いのも、十分に食べられないという生活が一般的であった中で、太っていることが裕福さの証明と同時に「美女」の条件であったからだ。

アメリカでは、19世紀の後半から食糧の生産量が増えたことによって、食事はより豪華で高カロリーなものに変化した。例えば、朝食では、白パンに豚肉を食べるのが普通になっていた。このような高カロリーの食事をして太ることは、生活が豊かになった印であり、喜ばしいことだった。

19世紀の終わりから20世紀初頭にかけて、アメリカでは太っていることを誇りにする上流階級の結社「ファット・マンズ・クラブ」が人気を博していたという。会員になるには、少なくとも200ポンド(90キログラム)の体重が必要で、「デブを徹底的に謳歌する」というのが彼らのスローガンだった。

しかし、肥満が進むと病気が増えるのは今も昔も変わらない。また、産業革命によって工業化が進むと、工場から排出される排気ガスや排水で生活環境の汚染が起こり始め、これも人々の健康をむしばみ始めた。

このような中で「シリアル」は健康的な生活を送るために開発されたのである。

最初のシリアルは、1863年に医者のジェイムズ・ケイレブ・ジャクソンによって発明された。彼は健康を害した人のための診療所を設立し、新鮮な空気・大量の水・良質の栄養の3つを軸とした治療を行った。この良質な栄養のための食事として開発されたのが、グラニュラ(グラノーラとは違う)と名付けられたシリアルだったのだ。

グラニュラは、グラハム粉(全粒粉より粗びきのコムギの粉)を水でこねて固めたのち、一口大に砕いてから焼いたものだ。しかし、とても固くて食べにくかったため、世の中に広まることはなかった。

ジャクソンのグラニュラ以外にも、コムギなどの穀物の粒を丸ごと炒って粉砕したシリアルのようなものは町中で売られていた。しかし、それらは大きな樽に入れられていて、すくい取ってポンド売りするのが一般的だった。しかし、これは衛生面で問題があった。

ちょうど人々の衛生観念が高まってきた頃だ。産業革命によって世の中が豊かになると、風呂や洗濯の回数が増えるなど、人々は清潔さを重視するようになっていた。このような機をとらえて、1870年代にニューヨークのパン屋のジョージ・H・ホイットが箱詰めしたシリアルを売り出すと人気を博すようになり、やがて企業化して大体的に販売されるようになった。

さて、シリアルの代表と言えばコーンフレークである。コーンフレークとは、トウモロコシの粉を水で練ってから加熱し、板状に加工した食品だ。

コーンフレークは1900年前後にアメリカのケロッグ兄弟によって生み出された。医師で療養施設の管理をしていた兄のジョンは、食によって患者の健康状態を改善しようと考えた。彼のポリシーは、肉抜き砂糖抜きの全粒粉を用いた健康的な食事だった。そして、弟のウィルと協力して患者が食べやすいようにフレーク状の食べ物を朝食用に開発したのだ。

最初はコムギを原料にしていたが、1898年にはトウモロコシが原料として最適であることを見出した。こうしてコーンフレークが誕生したのである。コーンフレークはサクサクとした食感が新鮮だったためか、患者たちに大好評だった。

ところで、弟のウィルは療養所の経理を担当しており、経営を安定させる責任があった。そこで、コーンフレークを健康食品として患者以外にも売り出し、利益を上げていたようだ。

しかし、問題が1906年に起こる。兄が医学の視察のためにヨーロッパに出かけている間に、ウィルはコーンフレークの生地に砂糖を入れてみたのだ。出来上がった砂糖入りコーンフレークは患者たちにきわめて好評だった。しかし、帰国したジョンは弟が禁断の砂糖を使ったことに激怒し、二人は仲たがいをしてしまう。

成功を確信していたウィルは療養所を離れて独立し、砂糖入りコーンフレークを「ケロッグ・トーステッド・コーンフレーク」として売り出す。大々的な宣伝も功を奏し、砂糖入りコーンフレークは爆発的な売り上げを記録した。産業革命によって生活が忙しくなっていた家庭にとっては、牛乳をかけるとすぐに食べられるコーンフレークは朝食に最適だったのだ。

このケロッグの大成功に触発されて、後追いのシリアルの会社が近隣に40社以上設立されたと言われている。その一つがチャールズ・W・ポストが創業したポスタムシリアル社で、彼は1800年代終わり頃にケロッグの療養所に患者として入院したことがあり、そこで食べたものを参考に(真似をして)製品を開発したと言われている。ケロッグ社とポスタムシリアル社はシリアル業界のシェアを2分したが、両社は熾烈な競争を繰り広げ、社員同士はお互いを憎むべき敵とみなすようになったという。

こうしてコーンフレーク会社の競争が激しくなるにつれて、各社は砂糖の含有量を増やし続けた。砂糖の量が多いほど美味しく感じられ、よく売れたからだ。実際に、砂糖には最も美味しく感じられる濃度である「至適濃度」があり、至適濃度までは砂糖の濃度が高ければ高いほど美味しく感じられるのだ。また、大人に比べて子供では砂糖の至適濃度が高いこともわかっている。

このように、健康のために生み出されたコーンフレークは、砂糖が多く含まれたジャンクフードとみなされるようになっていくのである。

アメリカ西部の農業の発展-アメリカの産業革命と食(3)

2022-04-16 23:16:52 | 第五章 近代の食の革命
アメリカ西部の農業の発展-アメリカの産業革命と食(3)
産業革命によって工業化が進展する以前は、人口の大部分が農業を営んでいました。その頃までの農業は生産性が低かったため、社会全体が必要とする食糧を生産するために多くの人手が必要だったからです。

アメリカ合衆国では19世紀に入って西部の開拓が進みますが、入植者のほとんどは農業や畜産業を営みました。西部で農業が始まった頃の生産性は極めて低いものでしたが、徐々に生産性が高まり、やがて合衆国全体だけでなく、世界を支える食糧生産地として大発展します。

今回は、このような発展の要因となった農耕技術の進歩を中心に、アメリカ西部の農業の歴史について見て行きます。

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初期の西部開拓者は農業に未熟で、土地をしっかりと耕さずに作物を育てていたため、生産性が低かった。また、農地に肥料をほどこさずに同じ作物を作り続けたため、数年で地力が落ちて収穫できなくなった。さらに、牧草の管理が下手だったため、家畜のエサを継続して確保することもできなかった。

こうして最初の農場で生活できなくなると、開拓者は土地を売り払い、さらに西に移動して新たな農場で生活を始めるしかなかったのだ。このような理由で、初期の開拓者は一つの場所にとどまらずに、常に西への移動を続けていたという。

しかし、次第に農業に慣れてくると、プラウ(犂(すき))を使って農地を耕し、肥料を施すことで持続可能な農業を実践するようになった。

初期のプラウは棒の先を尖らせただけの簡単なものだったが、次第にソリのように地面の上を動かすものが使用されるようになった。しかし、当時のプラウは木製で、土壌の表面を少しだけしか掘ることができなかった。

プラウの改良に大きな貢献をしたのが、第3代大統領のトーマス・ジェファーソン(1743~1826年、大統領:1801~1809年)だ。彼は、先端に鉄製の刃をつけるとともに、土の抵抗の少ない形状をした新しいプラウを開発したのだ。このプラウを使うと、15cmほどの深さまで耕すことができた。すると、作物は深く根を張ることができて生産性が向上した。ジェファーソンのプラウは1830年代には標準的な農機具となった。

ジェファーソンが開発したプラウでは、炭素量の多い鋳鉄(ちゅうてつ)製の刃が使われていた。鋳鉄製の製品は作りやすいが、強度に劣るという欠点があった。西部の土壌は粘り気があったため、当時の鋳鉄製の刃ではすぐに泥がたまって使えなくなるし、またあっという間に折れてしまったという。

この問題を解決したのが鍛冶屋のジョン・ディア(1804~1886年)だ。彼は炭素量の少ない鋼鉄製の刃を使用することで、非常に高性能のプラウを開発したのだ。

ディアは東海岸で鍛冶屋をしていたが、生活に行き詰ったため1836年に西部のイリノイ州に移住してきた。彼はそこで鋳鉄製の刃の欠陥を知ると、泥がたまらないように非常になめらかで絶妙の角度を持った鋼鉄製の刃を開発したのだ。

この刃を付けたプラウは一度動かし始めると止まらずに土壌をどこまでも耕し続けたので、ウマやラバなどにひかせることで人の労力は著しく軽減することとなった。こうして1837年に開発されたディアのプラウは大好評を得て、1855年までに10000台が販売されたという(ディアが創業した会社は現在でも世界で最大の農機具メーカーである)。

ジョン・ディアのプラウのように、人力の代わりに動物の力で動かすプラウの出現は農業の生産性を大きく向上させたため、「アメリカ最初の農業革命」と呼ばれることが多い。

次の重要な進歩の一つは、機械を用いた深い井戸の普及だ。機械を用いて深い井戸を掘ると、グレートプレーンズように乾燥した地域でも安定して農業を行うことができるようになったのだ。

もう一つの進歩が「カントリーエレベーター(穀物エレベーター)」の開発である。カントリーエレベーターは、搬入した穀物を乾燥させ、計量・選別などの調製を行ったのち貯蔵し、搬出するための複合施設である。大きなエレベーターで穀物を搬入したことから「エレベーター」の名が付いている。カントリーエレベーターによって穀物流通の効率化が大きく進んだと言われている。


カントリーエレベーター(Bernard Spraggによるflickrからの画像)

最初のカントリーエレベーターは、1842年に五大湖の一つエリー湖の東岸のバッファローに作られた。ここに西部などから穀物が集められ、東海岸やカナダなどの各地に届けられた。

さらに1847年には、エリー湖の西岸のトリードとニューヨークのブルックリンにカントリーエレベーターが作られた。この2つは連携して穀物の海外輸出を担った。トリードに集められた西部の穀物がブルックリンに輸送され、さらにイギリス、オランダ、ドイツなどに輸出されたのである。

このアメリカからヨーロッパへの穀物の流れに呼応するように、人がヨーロッパからアメリカに流入するようになった。つまり、アメリカに行けばたくさんの穀物を生産できて、大儲けができると考えた人がたくさん出てきたのである。

このヨーロッパからの移住にアメリカの鉄道会社が大きな役割を果たした。鉄道会社はヨーロッパから家族を呼び寄せ、良質な土壌を有する土地と家具付きの家屋を低価格で提供したのだ。西部を横断する鉄道を建設していた鉄道会社は、鉄道の利用客や運搬する荷物を必要としていたからである。

こうしてカントリーエレベーターの発明によって輸出が増え、それによって農業従事者が増え、さらに輸出が増えるというループによって、1860年から1910年にかけてアメリカは世界有数の穀物生産国に成長して行ったのである。

農場の数は1860年の200万戸から1906年の600万戸へと3倍になった。また、農場に住む人の数は、1860年に約1000万人だったものが1880年に2200万人になり、1905年には3100万人へと増加した。

また、同じ量のコムギを生産するのに、1890年には1830年に比べて6分の1の労働量ですむようになった。

このように、19世紀アメリカの農業の躍進の世紀だったのである。

肉を運ぶ鉄道-アメリカの産業革命と食(2)

2022-04-13 08:28:44 | 第五章 近代の食の革命
肉を運ぶ鉄道-アメリカの産業革命と食(2)
アメリカ人ステーキハンバーガーなど、牛肉をたくさん食べるというイメージがあります。実際に牛肉の年間消費量はアメリカ人1人当たり約37㎏となっており、約10㎏の日本人の4倍に近い量を食べている計算になります。

アメリカ人が牛肉をよく食べるようになったのは19世紀の終わり頃のことで、それほど古い話ではありません。そこには鉄道の発達が深く関係しているのですが、今回は鉄道の発展とアメリカの肉食文化の関係について見て行きます。



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現代の私たちが食べている食品の中には、海外からはるばる運ばれてきたものがたくさんある。例えば、コーヒー豆や、チョコレートの原料のカカオ豆のほぼすべては外国産だし、食肉、穀物、果物、油、酒類などでも海外から運ばれて来るものが多い。最近では、野菜類もたくさん輸入されている。

また、国産のものでも住んでいる地域内で収穫されたものは少なく、他県から運ばれて来るものが多い。

このように生産地と消費地が離れている場合には、安全・迅速で安価な輸送手段が重要になって来る。食品が腐ってしまう前に運ぶ必要があるし、輸送費が高すぎると、それが食品の販売価格に上乗せされて高くなりすぎるからだ。

近代の工業化にともなって輸送手段が発達すると、さまざまな食品が遠くから運ばれてくるようになった。そして、それにともなって、食生活も大きく変化する。その代表的な例がアメリカの牛肉だ。

もともとアメリカ大陸ウシはいなかった。新大陸を発見したコロンブス一行が新大陸にウシを持ち込んだのが始まりだ。新大陸の環境はウシには最適だったようで、その後大繁殖し、多くが野生化した。

前回の「西部開拓時代」では、19世紀の後半に、カウボーイが野生化したウシをテキサスから鉄道の駅まで運んだという話をした。

1830年頃から合衆国の東海岸部では北部を中心に蒸気機関車が走る鉄道の開通が相次ぎ、1840年には総延長が4000㎞に達した。そして1860年頃までには、合衆国東海岸からミシシッピー川に至る鉄道網が整備された。

その結果、物流のスピードが飛躍的に高まった。例えば、中西部のシンシナティとニューヨーク間の輸送は、エリー運河などの水上交通を利用した場合には約3週間かかっていたが、鉄道を使うと約1週間に短縮された。こうして、西部の農地で生産された作物は、人口が集中する東海岸の都市に鉄道に乗せられて運ばれるようになった。

さらに19世紀後半には、ミシシッピー川から西側の地域にも鉄道が伸びた。また、大陸横断鉄道が次々と開通して行った。

まず、1869年にネブラスカ州オマハとカリフォルニア州サクラメントの路線が開通した。オマハにはすでに東部からの鉄道網が延伸しており、これで東海岸と西海岸が鉄道でつながったのだ。



その後も、新しい大陸横断鉄道が開通して行った。例えば、1883年にはノーザン・パシフィック鉄道がシカゴとシアトルをつないだ。また、同じ年に、サザン・パシフィック鉄道がニューオリンズとロスアンゼルスの間で開通した。このような鉄道を使って、カウボーイがテキサスから移動させたウシや、グレートプレーンズで育てられたウシが東海岸や西海岸に運ばれたのである。

さて、鉄道網を見ると、いくつもの路線がシカゴに集まっているのが分かる。シカゴは五大湖の1つミシガン湖のほとりにある町で、古くはアメリカ原住民の交易地だったと言われている。

1836年にミシガン湖とイリノイ川を結ぶ運河の建設が始まるとシカゴに人が集まり始めた。そして、1838年に鉄道が開通するとシカゴは交通の要衝となり、人口が急増する。さらに、1856年にメキシコ湾岸のニューオリンズとシカゴを結ぶイリノイ・セントラル鉄道が開通するなど、1865年までにシカゴは10以上の鉄道の起点となり、大発展を見せるようになった。

シカゴには西部の各地で育てられたコムギやトウモロコシなどの穀物家畜酪農品などが鉄道によって大量に運ばれてきたことから、食品の集積所として重要な役割を果たした。集まった食品は、そのまま、あるいは加工されて東部に出荷された。

なお、1848年には世界有数の先物商品取引所であるシカゴ商品取引所が作られた。また、1865 年にはユニオン・ストックヤード(巨大な家畜置き場)が開設されている。

ところで、食肉については1890年頃まで豚肉が最も多く食べられていた。例えば、1871 年にユニオン・ストックヤードに集められた家畜を見ると、ウシ50 万頭に対してブタは 240 万頭となっている。ブタの方がウシよりも飼育が簡単で、また、肉も長期保存が可能なソーセージやベーコン、ハムなどに加工しやすかったからだ。

もともと1頭の家畜からとれる肉や内臓の量はそれほど多くない。ウシでは体重の40%くらい、ブタで50%くらいだ。残りは食べられない骨や皮、頭などで、もし家畜を消費地まで丸ごと1頭運ぶと、解体された後にこれらは捨てられることになり、その分だけ運送費が高くなってしまうのだ。そのため、シカゴなどの家畜の集積地で食肉に加工することが望まれたのである。しかし、牛肉については保存がきく加工法が少なかったため、生きたウシを消費地まで輸送するしか方法がなかった。

この問題を解決したのが肉屋のグスタバス・スウィフトだ。彼は生肉を冷却して新鮮な状態で輸送する方法があれば、牛肉販売で大きな利益を上げられると考えたのだ。そこで彼は、技術者に冷蔵貨物列車を作らせたのである。完成した冷蔵車の天井部分には氷が置かれ、空気が通過するときに冷却される仕組みだった。こうして完成した冷蔵車は1877年に最初の生肉輸送を成功させる。

この成功を受けて、1885年にスウィフトは弟とスウィフト商会を設立し、初代社長となった。また、同じように冷蔵貨物列車によって生肉の輸送を行う会社が次々と現れ、やがて5大精肉業者と呼ばれる5つの会社が冷蔵生肉の市場を独占するようになった。

なお、当初は冷蔵保存した生肉を食べると病気になるなどと言う噂が広がり、売り上げが思わしくなかったが、大規模な広告によって安全性を訴えるとともに、大量生産によって牛肉の価格を下げることによって、次第に社会に広く受け入れられるようになる。そして1900年には牛肉の消費量が豚肉を追い越すまで拡大した。牛肉をよく食べるアメリカ人の始まりである。

西部開拓時代-アメリカの産業革命と食(1)

2022-04-09 23:18:16 | 第五章 近代の食の革命
5・2 アメリカの産業革命と食
西部開拓時代-アメリカの産業革命と食(1)
今回から「アメリカの産業革命と食」のシリーズが始まります。また、本シリーズの次には「ドイツの産業革命と食」のシリーズをお送りする予定です。
現代のアメリカドイツは世界有数の工業国です。このように2つの国が高い工業力を有するようになるのは19世紀の後半からです。両国ではちょうどその頃に産業革命が最盛期を迎え、工業化が大きく進みました。

アメリカとドイツの産業革命の特徴は、機械工業や製鉄業などの「重工業」を中心に産業革命が進行したことです。これは、綿織物業などの「軽工業」を中心に始まったイギリスの産業革命と大きく異なっています。

イギリスでは軽工業から重工業への切り替えがゆっくりとしか進まなかった一方で、アメリカとドイツでは重工業が急速に発展した結果、20世紀初頭には両国の工業生産力はイギリスの工業生産力を凌駕するようになります。例えば、1870年の世界の工業生産のシェアは、イギリス(32%)・アメリカ(23%)・ドイツ(13%)であったものが、20世紀初頭にはイギリス(15%)・アメリカ(35%)・ドイツ(16%)というように、イギリスがトップの座から滑り落ちました。

本シリーズでは、アメリカがこのように工業国化する間に、食の世界にどのような変化が起きたのかを見て行きたいと思います。

第1回目の今回は、西部劇の舞台となった西部開拓です。西部は広大なフロンティアであり、西部を開拓することによってアメリカの国力は大きく増大しました。西部開拓には、アメリカの近代化の礎となった運河鉄道が重要な役割を果たしました。それはどのようなものだったのでしょうか?

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北アメリカの植民地は大西洋側の東海岸から始まった。西部と言われるのはアパラチア山脈より西側で、アメリカ独立戦争(1775~1783年)頃までアパラチア山脈を越えて西部に行くのはアメリカ原住民と交易を行う商人だけで、西部に移住する人はほとんどいなかった。



独立戦争後にはアパラチア山脈を越えて西側に移住を試みる人が増えたが、アメリカ原住民の反発が激しかったため移住はなかなか進まなかった。アメリカ人は、イギリスがアメリカ原住民を扇動してアメリカ人を襲わせているのが原因と考えた。また、その頃のイギリスはフランスに対抗するために海上封鎖を行っており、その影響でアメリカの経済も大きな打撃を受けていた。そこでアメリカはこの状況を打破するために、1812年にイギリスに戦争を仕掛けた。

こうして始まった米英戦争(1812~1815年)は双方に決め手がないまま講和を迎えたが、その間にアメリカで工業化が進み、経済的な自立性が高まった。また、多くのアメリカ原住民が虐殺されたため、彼らの土地がアメリカのものとなった。なお、ミシシッピー川とロッキー山脈にはさまれた土地はフランス領とされていたが、1803年にフランスからの購入することでアメリカ領となっていた。

米英戦争によってアメリカ原住民の抵抗が弱まると、西部への大移住が始まる。移住者の多くは1825年に開通したエリー運河(ハドソン川とエリー湖を結ぶ運河)を利用してエリー湖まで移動した。さらに、そこから南下してオハイオ川に入り、流れを下ってオハイオ川ミシシッピー川の流域に移住した。そして、そこで農業を始めたのである。

未開の土地は当初はアメリカ政府によって管理されていたが、1862年にリンカーン大統領が制定したホームステッド法によって、開拓者は160エーカー(約65ヘクタール)の土地をほぼ無償で手に入れることができるようになった。その結果、西部の開拓が大きく進むことになる。

一方、1861年から1865年にかけて南北戦争が勃発する。奴隷制を維持したい南部の諸州が独立を求めて合衆国から離脱し、北部の諸州に対して攻撃を始めたのである。この戦争では結果的に北軍が勝利し、合衆国は分裂することはなかった。

また、この戦争では兵士や武器などの輸送に鉄道が重要な役割を果たしたことから、戦後に大陸横断鉄道などの鉄道網の整備が大きく進むことになった。そしてこれが西部の開拓をさらに推し進めることになる。

ミシシッピー川とロッキー山脈にはさまれた地域はプレーリーグレートプレーンズと呼ばれる大平原だ。この地域では西に行くほど降水量が少なくなり、乾燥地帯になる。このため、プレーリーは大草原地帯だったが、グレートプレーンズは背の低い草しか育たない土地だった。

初期の移住者たちは、プレーリーの草原を重い鋤(すき)を使って開拓し、農地に変えて行った。一方、グレートプレーンズでは作物をうまく育てることができなかったので、開拓者たちはさらに西に移動して、アメリカの西海岸に入植した。

しかし、南北戦争が終わって鉄道網が整備された結果、グレートプレーンズにも鉄道の駅が造られるようになる。すると、カウボーイたちが南部のテキサス州で野生化していた牛をグレートプレーンズまで運び、鉄道に乗せて東部や西部の大都市に運ぶようになったのだ。また、グレートプレーンズにとどまって牧畜を行う人たちも増えて行った。こうして1890年頃までにグレートプレーンズは広大な放牧地となった。なお、各放牧地の境界には柵や鉄条網が設けられるようになったので、カウボーイが牛追いをすることはできなくなってしまった。

一方、南北戦争の後にはグレートプレーンズでの農耕も盛んになった。その頃には機械を使って深い井戸を掘り、風車を使って水をくみ上げることによって生活や農業のための十分な水を獲得できるようになったのだ。また、乾燥に適したコムギの品種がロシアから持ち込まれたことにより、主にグレートプレーンズの北部でコムギの栽培が盛んになった。今日では、グレートプレーンズはアメリカで随一のコムギの生産地域となっている。

1890年に国勢調査が行われた結果、1平方マイル当りの人口が2人以上6人以下と定義されるフロンティアは西部から消滅したことが明らかになった。こうして西部の開拓は20世紀になるまでにほぼ終了したのである。

スコッチ・ウイスキーの躍進-イギリスの産業革命と食(9)

2022-04-05 21:41:28 | 第五章 近代の食の革命
スコッチ・ウイスキーの躍進-イギリスの産業革命と食(9)
日本では、「スコッチ・ウイスキー」「アイリッシュ・ウイスキー」「アメリカン・ウイスキー」「カナディアン・ウイスキー」「ジャパニーズ・ウイスキー」を五大ウイスキーと呼んでいます。

この中で最もよく飲まれているのがスコッチ・ウイスキーで、ウイスキー全体の消費量の約6割を占めています。

ちなみに、日本の本格的なウイスキーはスコッチ・ウイスキーを手本に醸造が始まったという歴史があります。日本で最初に本格的なウイスキーを造った竹鶴政孝は、スコットランドに留学してウイスキー造りを学び、また、スコットランド人のリタ(マッサン)と結婚して帰国します。

スコッチ・ウイスキーは、イギリス・ブリテン島北部のスコットランドで醸造されるウイスキーで、スモーキーフレーバーと呼ばれる燻製のような香りを特徴としています。この香りは、発芽させたオオムギ泥炭(ピート)で燻して(いぶして)乾燥させるときに生み出されます。その後に発酵や蒸留、樽での熟成を行っても、この香りはお酒に残り続けるというわけです。

スコッチ・ウイスキーは当初はスコットランドのローカルなお酒でしたが、産業革命期にイギリス国内で流通量が増加し、19世紀終わり頃にはイギリスの上流・中流階級にはなくてはならないお酒になりました。

今回は、このようなスコッチ・ウイスキーの歴史について見て行きます。



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最初にウイスキーが醸造されたのはアイルランドもしくはスコットランドと言われているが、その時期についてはよく分かっていない。ヨーロッパに蒸留装置が広まるのが14世紀以降のことなので、最初のウイスキーもその頃から造り始められたと考えられている。

現代のウイスキーは、蒸留した酒を樽の中で長時間の熟成した後に出荷される(スコッチ・ウイスキーの場合は最低3年の熟成期間が定められている)。この間に酒の色が琥珀色になり、味もまろやかで豊かになる。

しかし、初期のウイスキーは、蒸留してすぐに飲んでいたらしい。そのため、酒の色は無色で、風味もトゲトゲしいものだったという。その頃のスコッチ・ウイスキーやアイリッシュ・ウイスキーは、小規模に醸造したものをそれぞれの地域内で飲み切ってしまう安酒だったのだ。

スコッチ・ウイスキーの転機となったのが、1707年のイングランドによるスコットランドの併合だ。1603年からイングランドとスコットランドは別の国でありながら国王を同じくする同君連合であったが、1707年にイングランドが半ば強制的にスコットランドを併合した。そして、1725年にはスコットランドの蒸留酒にそれまでの15倍ほどの重税をかけるようになったのである。

それに対して、スコットランドのウイスキー醸造業者は密造を行うことで対抗した。夜中にこっそりと醸造作業や蒸留作業を行い、出来上がった酒は見つからないようにに入れて山の中などに隠したのだ。

しかし、これがウイスキーを美味しく変身させたのだ。樽で保管することによって熟成という化学反応が起こり、無色透明な酒が琥珀色になってまろやかで奥深い味に変化したのだ。特にシェリーの樽が熟成に最適なことが分かった。こうしてこの時代に、小型の単蒸留器で2回蒸留したものを樽で熟成させるなど、スコッチ・ウイスキーの製法の多くが確立した。

品質の高い密造酒はロンドン市内にも流通し、高い評価を得るようになる。中でも密造業者ジョージ・スミスが製造した「グレンリベット」はとても美味いと評判で、これを聞きつけたイギリス国王ジョージ4世(在位:1820~1830年)が取り寄せて飲んでみたところ、たちどころに虜になってしまったという。そして、これが歴史を動かす。

王の側近たちは、王様が密造酒を飲むのはさすがにまずかろうということで、1823年に税金を引き下げたのだ。そして、1824年にはスミスに政府公認のライセンスを与えた。こうしてスミスは堂々とグレンリベットを造り、国王も気兼ねなく美酒を楽しむことができるようになったのである。他の密造業者も正規の醸造業者に生まれ変わった。

次の転機は1830年代に訪れた。元税検査官で発明家のエネアス・コフィーが改良型の連続式蒸留器を開発したのだ。これを用いることで、さまざまな穀物から高アルコール度数の蒸留酒を大量に生産することが可能となった。

出来上がった蒸留酒はほぼアルコールの風味だけなので、ジュニパーベリーを入れて再蒸留すればジンになるし、樽で熟成させればウイスキーになる。ただし、こうして造ったウイスキーはそれまでのスコッチ・ウイスキーのような深い風味には欠けたものになる。そこで、従来のオオムギを原料にして単蒸留器で造ったものを「モルトウイスキー」と呼び、穀物を原料に連続蒸留器で造ったものを「グレンウイスキー」と呼ぶようになった。

1860年にモルトウイスキーとグレンウイスキーを混合した「ブレンデッドウイスキー」と呼ばれるスコッチ・ウイスキーが誕生した。現在販売されている多くがブレンデッドウイスキーであり、モルトウイスキーだけを使用したものは、シングルモルト(同じ蒸留所のモルトを混合したもの)やヴァテッドモルト(複数の蒸留所のモルトを混合したもの)と呼ばれたりする。

さて、これまで見てきたように、スコッチ・ウイスキーは順調に成長してきたが、イギリスの上流階級が主に飲み続けていたのはフランスのワインやブランデー(コニャック)で、スコッチ・ウイスキーはあまり飲まれていなかった。

ところが、1870年代から1880年代にかけて、アメリカ大陸からやってきたフィロキセラと呼ばれるアブラムシによってヨーロッパ中のブドウが壊滅的な被害を受けてしまう。その結果、ブドウやブランデーの生産量が激減したのである。これをきっかけにスコッチ・ウイスキーはイギリスの上流階級と中流階級で広く飲まれるようになったのである。