SYUUの勉強部屋:仏教思想概要

仏教思想概要11:《道元》(第5回)

(神代植物公園にて・しゃくやく     5月6日撮影)

 

 仏教思想概要11《道元》の第5回目です。
 前回から「第3章 道元の思想」に入り、「1.「現成公案」の背景-「法の体系」」、「2.『正法眼蔵』と「現成公案」」をみてみました。
 本日から「3.道元の無我」「4.道元の思想の核ー「無常」「起」-」を取り上げます。

 

3.道元の無我

3.1.仏教一般の無我とは
 「無常」「起」の前に道元の無我について簡単に触れておきます。
 仏教以外のインドの伝統的な宗教(外道)では我(アートマン)の常住を主張します。これに対して仏教は無我を説きます。常住不変の実体は存在しないとしているのです。我々の存在は身体の要素(仏教ではこれを「五蘊」と呼びます)が諸縁によって集成されたもの(つまり縁起したもの)だとしています。そして無我の理を知る時、これがさとりであり、悟ったものには我執がないとしているのです。

3.2.道元の無我
 一般的な仏教の無我に対して、道元は次のように説きます。
 「我はないといいながら、心性常住という。これは大いなる誤りである。常住不変の本性(<性>)とか<心>があり、自己だと考えるのは、すべて外道の有我(うが)の見である」と(『正法眼蔵』「弁道話」より)。
 「*即心是仏(そくしんぜぶつ)というと、心性が常住でそれが仏だと思うのはとんでもない間違いである」と(『正法眼蔵』「即心是仏」より)。
 道元は性や心があるごとく説く「見性(けんしょう)」の語のある『六祖檀経』を偽経といい、同一派(大慧の一派)をきらっています。
 「即心是仏とは、発心(ほっしん)・修行・菩提・涅槃の諸仏なり。いまだ発心・修行・菩提・涅槃せざるは、即心是仏にあらず」(『正法眼蔵』「即心是仏」より)と、教えています。つまり、実践の裏付けがなければ即心是仏とはいえないと説いているわけです。そもそも、心を身体と区分し、二つと考えるのは間違いで、<即心是仏>=<即身即仏>であり、<身心一如(しんじんいちにょ)>が仏教の正しい見方です。

 『「人々の分上にゆたかにそなわれりといえども、修せざるには現れず、証せざるにはうることなし」であります。しかも道元さまは「ただ我わが身をも、心をも、はなち忘れて、仏の家になげいれて、仏の方より行われてこれにしたがいてもてゆくとき、力をもいれず、心をもついやさずして仏となる」と示されて、無我の三昧を説かれました。』(曹洞宗東海管区教化センターHP「正法眼蔵即心是仏の巻より」一部参照)

 *即心是仏:一般的な解釈では、文字どおり、心の本体は仏と異なるものではなく、この心がそのまま仏であるということ。

4.道元の思想の核ー「無常」「起」-
 本文は三部構成になっています。一部は仏教学者による道元思想の解説、三部は、哲学者の立場での道元思想の分析、そして、中間の二部は両氏の対談になっています。その二部の終盤のあたりに、私の理解では、核となる道元の思想がまとめられていると思い、その部分を示してみたいと思います。(対談形式のため、それぞれどちらの意見かが本文にはありますが、それは省略しています。対談のため原文は「ですます調」ですが、「である調」で整理しました。)

4.1.修行の必然性
 『華厳経』の「法界」とは究極の世界、無限の世界というが、それは仏の世界、その仏を無限に拡大してしまう。あらゆるものが仏ならざるなしということで、ここでは毘盧遮那仏を登場させている。つまりこの仏の慈悲に基づいて、仏の智恵があまねく及ぶというわけである。われわれが悟るとか、仏になるというのは仏の慈悲のおかげだというわけである。
 しかし、それだと、なにも修行しなくてもいいということになってしまう。そこで道元は「修」ということを非常いう。これはやってみなければ悟れるかどうかわからないというのとはちがう。道元の本証妙修は、われわれがすでに如来のはたらきによって悟っている、悟っている以上は、こうしなくてはいけないという気持ちではないか?つまり仏ならこういうことはしない、悪いことはしないはずだ、そういう自覚を各人にもたせる、そういう解釈となる。

4.2.永遠観の空間と時間性
 「現成公案」で無我の理を、つづけて無常の理を説いている。無我の理を説くところの、山川草木一切が仏のあらわれだ、というようなことだけではいわば空間的・平面的な説明で、それだけでは修行という面が出てこない。修行はどうしたって無常という面からしか出てこない。無常を感じて、発心して修行することになる。道元にいわせれば、発心修行する、それが仏性なので、発心して修行することを除いては、仏性の存在説明なんてないことになる。この発心し修行することは時間的存在だということになる。

 仏教の無常ということの理論的な説明は瞬間である。仏教では瞬間を「刹那(せつな)」とよぶが、阿頼耶識思想において、阿頼耶識という構造の原子核みたいなものを図式で示せば、瞬間ごとに切られた意識の構造となる。そういう点で阿頼耶識の識の思想と結びつく。
 瞬間というものは無常でなければ出てこない。華厳そのものからは時間は出てこない。

4.3.道元の時間論
 道元の思想の中には華厳、あるいは如来蔵思想と阿頼耶識思想の両方がはいっている。
 「有時(うじ)」という思想、時の経過、時々刻々で断絶しながら、しかもつながっている時の位そのものを絶対視しながら、しかもつながりがありとしている。このつながりがなぜ生ずるのかを分析したのが阿頼耶識思想で、有時と阿頼耶識思想は理論的にまったく同じことを説いている。

 現実の存在というものを問題にするとき、どうしても時間の問題、無常ということが出てくると考えられる。華厳にも、密教にも時間の考えはない。道元の思想を華厳の思想だけで割り切ってはいけない。割り切ってはいけない面というのは、結局、時間の問題に出ていると言っていいと思う。

 仏教の出発点はあくまで無常。無常ということからはいるといっていい。そうすると釈迦の四諦(苦・集・滅・道)の苦は、結局死の問題、生死という形で出てくる。仏教にはバラモンの永遠の命の思想や、ヨーロッパ哲学の魂の不死の思想みたいなものはない。大乗仏教ではその永遠の命としての法性を唱える。そこには大乗仏教の苦悩みたいなものがあると思われる。その問題が道元においてははっきりと自覚されている。

4.4.仏教の哲学的決算
 道元は、仏性というものを、そういう永遠に続く霊魂みたいなものであるということは、極言して排斥している。にもかかわらず、そういう実体と似かよったものをどうしてもいわざえるを得ない。道元が、それは何だろうかということを考えたとき、結局、仏のわれわれにおけるあらわれ、仏性というものが出てきたのだと思う。仏のわれわれにおけるあらわれというものは、たえず仏らしくふるまうということであった。だから悟ることが目的で坐禅するのではなく、坐禅をしていること、それが仏性のあらわれだという形で、絶えざる精進、たえざる努力を重ねていくということが要求されるのである。それ以外に仏性というものは何もない。だからそれは、仏だといってしまってもかまわないのである。では、仏とは何ぞや、ということになると、これは禅のいき方にそのまま逆説的に出てきているわけである。「乾屎橛(かんしけつ)*1」とか「庭前の栢樹子(はくじゅし)*2」とかいうことである。つまり仏というものは、実体がどこにもあるわけではないのであるから、そういうものを立てたら仏教でなくなってしまう。そういうことを論理的ではなく、そのものズバリで、逆説的にやっているのが禅というものである。

 そういう逆説的な言い方が、中国の禅からずっと道元の時代まで積み重なってきた。その考え方をひとまとめにする時期だったのではないか。その仕事はだれがやってもいいけれど、前の集積がないと、道元の思想はやっぱり出てこない。無常の問題でも、無常仏性という言い方でも、いろんな禅の師匠たちが断片的に言っている。そういうことを全部取り出してきて、そこから一つのまとまったアイディアというものを、道元は見せてくれたのではないだろうか。

 *1乾屎橛:乾いた棒状の糞、仏とは何かにという問いに対する答え
 *2庭前の栢樹子:「如何なるか是れ祖師西来意(達磨大師が西から来たこと)」と問われた趙州和尚の答えで、単に庭前の栢樹子に過ぎないという意味。「無心」というった意味。なお、栢樹子は日本の柏の樹とは違う。

 教外別伝とは一つの経典に固執しない自由さともいえる。だから、拾い出されたものを体系的に説明していくと、これは華厳的なもの、これは唯識的なもの、これは天台的なものと、何かに関連付けらえたものが出てくる。それをさかのぼるとお釈迦さんの教えに、全部戻ることになる。こう考えると、道元は仏教の歴史における哲学的総決算を行ったことになる。

 

 本日はここまでです。次回は第3章の最後として、「5.道元の無常観の解析」「6.まとめ」を取り上げます。
 そして、次回が最終回です。

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