インターネットとコンピューターの普及が進み、コミュニケーションが促進され、心が表に現れると、そこにあるものは、性欲となるのではないか。
食欲、性欲、睡眠欲の中で、いま、私たちが単独で満たす事が出来ないのは、性欲のみとなりつつある。
そして、この性欲は、お互いに求めるものが一致した時に満たす事が出来る。
コミュニケーションの円滑化により、お互いの見つめる方向が同じになって行くとするならば、以後、各人の性生活も、より円滑に行なわれるようになるのではないだろうか。
現代日本が抱える大きな問題である少子化についても、ある時を境に、緩やかに解消に向かうものと思われる。
今にある少子化は、急激な時代の移り変わりの中で、他を評価する指標の変遷に、社会の成熟がついていくことが出来なかったが為に発生した、特殊な事象であろうと考えている。
基本的には、自殺やセックスレスなどの事象は、生物としての原則から外れた行為である。
にもかかわらず、それらの事象が現れるという事は、社会の構造に何らかの無理が生じている、ということだと考えて、あながち間違えではないだろう。
現代社会の構造の矛盾の多くは、商業優先主義などによって発生したテレビ・ラジオなどの一部の特権階層による情報操作によって、本来あるべき、直截的なコミュニケーションよりも、生活水準の向上やステータスシンボルの保持など、間接的、二次的なコミュニケーション手段を重視する風潮がつくり出されている事に起因しているのではないだろうか。
ラジオ、テレビの発明により、マスメディアが誕生したこと自体は悪い事ではなかっただろう。
問題は、マスメディアの誕生時からいままで、マスメディアをコントロールしている側による、社会への影響に対する論議が、あまりにもおざなりにされていることにあったと考えている。
史学的見地から考えるに、情報統制こそが支配の実態であり、マスメディアの管制側に立つ人間は、ある意味現代における支配者であったと言えよう。
しかし、当のマスメディアの管制側にその意識があったかといえば、はなはだ疑問である。
メディアの悪影響をいくつか挙げるとすれば、広告により必要以上に購買意欲をあおり、不必要な収入を得るように揚動していることや、テレビの視聴率確保や雑誌・新聞の購買数確保のために、過激な暴力表現や恐怖心をあおる描写により、暴力=権力という構図を作り出してしまっていることなどが挙げられるだろうか。
ほかにも様々な悪影響が存在するが、メディア側はこれらを個人の選択により取捨できるものとし、自らが社会に与える影響を、自分達の視点のみからの判断により無視し続けている。
メディアの主役は、ラジオ、テレビから、インターネットへと移り変わろうとしているが、インターネットが広く一般に使われ初めてから、たかだか10年ほどであり、以降にはまだまだ時間がかかる。
テレビの普及開始時と同じように、いまだ普及率には格差が発生しているのが、現状である。
また、ラジオ、テレビと違い、インターネットは受動的なユーザーは利用者の対象とならず、そのことも普及を妨げる一因になっているのだろう。
いくつかの要因により、メディアの主役の座がインターネットに移るまでには、まだしばらくの時間が必要になるかもしれない。
しかし、いつ主役になるかは時間の問題であり、すでに見えている未来である事に代わりはない。
インターネットがメディアの主役となったとき、多くの人は、今よりもよりよいコミュニケーションを行っていることだろう。
そして、今よりももっと多くの心の交流の元に、愛し合えるパートナーを見つけられるようになると、考えている。
少し時間はかかるかもしれないが、遠くない将来、今よりも多くの愛情に触れながら、子供が育っていける時代が来るのではないか。
きっと、そのときが来ると、私は信じている。
食欲、性欲、睡眠欲の中で、いま、私たちが単独で満たす事が出来ないのは、性欲のみとなりつつある。
そして、この性欲は、お互いに求めるものが一致した時に満たす事が出来る。
コミュニケーションの円滑化により、お互いの見つめる方向が同じになって行くとするならば、以後、各人の性生活も、より円滑に行なわれるようになるのではないだろうか。
現代日本が抱える大きな問題である少子化についても、ある時を境に、緩やかに解消に向かうものと思われる。
今にある少子化は、急激な時代の移り変わりの中で、他を評価する指標の変遷に、社会の成熟がついていくことが出来なかったが為に発生した、特殊な事象であろうと考えている。
基本的には、自殺やセックスレスなどの事象は、生物としての原則から外れた行為である。
にもかかわらず、それらの事象が現れるという事は、社会の構造に何らかの無理が生じている、ということだと考えて、あながち間違えではないだろう。
現代社会の構造の矛盾の多くは、商業優先主義などによって発生したテレビ・ラジオなどの一部の特権階層による情報操作によって、本来あるべき、直截的なコミュニケーションよりも、生活水準の向上やステータスシンボルの保持など、間接的、二次的なコミュニケーション手段を重視する風潮がつくり出されている事に起因しているのではないだろうか。
ラジオ、テレビの発明により、マスメディアが誕生したこと自体は悪い事ではなかっただろう。
問題は、マスメディアの誕生時からいままで、マスメディアをコントロールしている側による、社会への影響に対する論議が、あまりにもおざなりにされていることにあったと考えている。
史学的見地から考えるに、情報統制こそが支配の実態であり、マスメディアの管制側に立つ人間は、ある意味現代における支配者であったと言えよう。
しかし、当のマスメディアの管制側にその意識があったかといえば、はなはだ疑問である。
メディアの悪影響をいくつか挙げるとすれば、広告により必要以上に購買意欲をあおり、不必要な収入を得るように揚動していることや、テレビの視聴率確保や雑誌・新聞の購買数確保のために、過激な暴力表現や恐怖心をあおる描写により、暴力=権力という構図を作り出してしまっていることなどが挙げられるだろうか。
ほかにも様々な悪影響が存在するが、メディア側はこれらを個人の選択により取捨できるものとし、自らが社会に与える影響を、自分達の視点のみからの判断により無視し続けている。
メディアの主役は、ラジオ、テレビから、インターネットへと移り変わろうとしているが、インターネットが広く一般に使われ初めてから、たかだか10年ほどであり、以降にはまだまだ時間がかかる。
テレビの普及開始時と同じように、いまだ普及率には格差が発生しているのが、現状である。
また、ラジオ、テレビと違い、インターネットは受動的なユーザーは利用者の対象とならず、そのことも普及を妨げる一因になっているのだろう。
いくつかの要因により、メディアの主役の座がインターネットに移るまでには、まだしばらくの時間が必要になるかもしれない。
しかし、いつ主役になるかは時間の問題であり、すでに見えている未来である事に代わりはない。
インターネットがメディアの主役となったとき、多くの人は、今よりもよりよいコミュニケーションを行っていることだろう。
そして、今よりももっと多くの心の交流の元に、愛し合えるパートナーを見つけられるようになると、考えている。
少し時間はかかるかもしれないが、遠くない将来、今よりも多くの愛情に触れながら、子供が育っていける時代が来るのではないか。
きっと、そのときが来ると、私は信じている。