Programmer'sEye

1エンジニアとして、これから先のコンピューターと人との付き合い方を考えてみたい。

産めよ増やせよ

2004年06月24日 04時16分12秒 | 人とコンピューター
インターネットとコンピューターの普及が進み、コミュニケーションが促進され、心が表に現れると、そこにあるものは、性欲となるのではないか。

食欲、性欲、睡眠欲の中で、いま、私たちが単独で満たす事が出来ないのは、性欲のみとなりつつある。
そして、この性欲は、お互いに求めるものが一致した時に満たす事が出来る。
コミュニケーションの円滑化により、お互いの見つめる方向が同じになって行くとするならば、以後、各人の性生活も、より円滑に行なわれるようになるのではないだろうか。
現代日本が抱える大きな問題である少子化についても、ある時を境に、緩やかに解消に向かうものと思われる。

今にある少子化は、急激な時代の移り変わりの中で、他を評価する指標の変遷に、社会の成熟がついていくことが出来なかったが為に発生した、特殊な事象であろうと考えている。
基本的には、自殺やセックスレスなどの事象は、生物としての原則から外れた行為である。
にもかかわらず、それらの事象が現れるという事は、社会の構造に何らかの無理が生じている、ということだと考えて、あながち間違えではないだろう。

現代社会の構造の矛盾の多くは、商業優先主義などによって発生したテレビ・ラジオなどの一部の特権階層による情報操作によって、本来あるべき、直截的なコミュニケーションよりも、生活水準の向上やステータスシンボルの保持など、間接的、二次的なコミュニケーション手段を重視する風潮がつくり出されている事に起因しているのではないだろうか。

ラジオ、テレビの発明により、マスメディアが誕生したこと自体は悪い事ではなかっただろう。
問題は、マスメディアの誕生時からいままで、マスメディアをコントロールしている側による、社会への影響に対する論議が、あまりにもおざなりにされていることにあったと考えている。
史学的見地から考えるに、情報統制こそが支配の実態であり、マスメディアの管制側に立つ人間は、ある意味現代における支配者であったと言えよう。
しかし、当のマスメディアの管制側にその意識があったかといえば、はなはだ疑問である。

メディアの悪影響をいくつか挙げるとすれば、広告により必要以上に購買意欲をあおり、不必要な収入を得るように揚動していることや、テレビの視聴率確保や雑誌・新聞の購買数確保のために、過激な暴力表現や恐怖心をあおる描写により、暴力=権力という構図を作り出してしまっていることなどが挙げられるだろうか。
ほかにも様々な悪影響が存在するが、メディア側はこれらを個人の選択により取捨できるものとし、自らが社会に与える影響を、自分達の視点のみからの判断により無視し続けている。

メディアの主役は、ラジオ、テレビから、インターネットへと移り変わろうとしているが、インターネットが広く一般に使われ初めてから、たかだか10年ほどであり、以降にはまだまだ時間がかかる。
テレビの普及開始時と同じように、いまだ普及率には格差が発生しているのが、現状である。
また、ラジオ、テレビと違い、インターネットは受動的なユーザーは利用者の対象とならず、そのことも普及を妨げる一因になっているのだろう。

いくつかの要因により、メディアの主役の座がインターネットに移るまでには、まだしばらくの時間が必要になるかもしれない。
しかし、いつ主役になるかは時間の問題であり、すでに見えている未来である事に代わりはない。
インターネットがメディアの主役となったとき、多くの人は、今よりもよりよいコミュニケーションを行っていることだろう。
そして、今よりももっと多くの心の交流の元に、愛し合えるパートナーを見つけられるようになると、考えている。

少し時間はかかるかもしれないが、遠くない将来、今よりも多くの愛情に触れながら、子供が育っていける時代が来るのではないか。
きっと、そのときが来ると、私は信じている。

子供はやっぱり必要。

2004年06月17日 02時55分09秒 | 人とコンピューター
出生率が1.28まで下がったということは、今生まれた子供たちが20代になったとき、その親の世代7人に対して、子供の世代は4人弱しかいない、ということである。

昨日の「子供なんて要らない?」の続きである。

冒頭の記述は、ジョークでもなんでもなく、実際に起こっていることである。
要するには、後3世代ほど交代すると、日本の人口は半分に減る、ということになるのだろうか。

しかし、実際には、それほど危惧する必要は無いのかもしれない。
ここから先は、完全に予想であり、見えている未来ではない。
だから、多くのことはそのまま当たらないかもしれないが、大枠の流れは、あっているのではないだろうか。


今日は、コンピューターとインターネットが社会に与える影響を別の視点から捉えて、人口問題を考えてみたい。

近い将来、私たちの生活には、多くの時間的ゆとりが生まれているかもしれない。
コンピューターやインターネットは、農業や工業などの既存の「物」の生産効率を著しく向上させている。
農業など、今までの人間の歴史の中でもずっと生産効率が向上し続けているものなのにもかかわらず、いまだあがっている。
そして、昨今、インターネットとコンピューターは「物」の生産効率だけでなく、自分自身、要するにはコンピューターやインターネットなどの「情報」に関する生産性にも、著しい向上をもたらしている。

生産性の向上が続くと、どうなるのか?
それは失業率の増加である。
たとえば、情報産業に携わる人間が1000万人いたとしよう。そのとき情報産業の生産効率が2パーセント上がったら、同じものを生産し続ければよいだけの場合、20万人の職が失われることになる。
今までにも、農業や工業では、生産効率の向上により多くの人が失業してきており、情報産業においても、それは例外ではないだろう。

すでに物の生産に関しては十分に生産効率が上がっている以上、情報産業の生産効率工場に伴う余剰人員は農業や工業には回れない。
ではどこへ行けばよいのかといえば、どこかに行くのではなく、ワークシェアリングをすればよいだけの話である。

物の物価というのは、そのものを生産するのに必要なコストがベースとなり産出されるわけで、多くの企業においてワークシェアリングが一般的なこととなったときには、ワークシェアリングしている人たちが食べられるだけの収益を出せる状態となっているだろう。
仕事を分け合う、というのは、さして悪いことではないのだ。

つぎに、インターネットとコンピューターは、情報を発信するというその役割において人間に働く以外のやりがいをもたらしてくれることとなる。
そのことにより、私たちは仕事に全てをかけるようなことをしなくても、精神的な満足感が得られるようになり、また、それとともに精神的な成熟度を増していくこととなるだろう。

このBlogの中では何度も書いていることなので、あまりしつこく書く必要も無いことではあるが、それらの事柄が、私たちに精神的ゆとりをもたらしてくれることになると、考えている。

そして、最後に、そうやって得た精神的、時間的ゆとりを持って、私たちは恋愛に励むことになるのではないだろうか。
幸せならばそれでいい」に書いているが、私たちの人に対する評価は、「お金」や「肉体」から、心に移り変わってきていると私は考えている。
生物としての「種」の強化のため、「肉体」に対する重要視は、無くなることは無いだろうが、それでも、私たち人間の環境への適応能力の賜物というか、「心」や「知識」を重視する方向に、世の中は動いているように思える。

結婚や子育て、恋愛は、そのおおくが、「人のために自分を変えられるか?」が大きなポイントになるのではないだろうか。
そしてそれは、どの程度心の結びつきを得ているか、ということに強く依存しているのではないか。

これから先のネットワークが基盤となる社会では、多くの人が心の結びつきを下にコミュニケーションを薦めることになっていくだろう。
だとすれば、より豊かな恋愛や結婚が、増えていくのではないかと、思うのだ。

これからの世代が既成概念にとらわれず、今までの世代がこれからの世代を搾取しようとするのでなければ、ということが前提ではあるのだが。
まぁ、それほど人間はおろかではないと考えておこう。

子供なんて要らない?

2004年06月16日 06時44分44秒 | 人とコンピューター
「人間」、いや、「生物」の究極の目的は「自己保存」である。
お金を多く稼ごうとすることも、羨望をほしがることも、全ては他人よりも有利に子孫を残すことが出来るようになるために他ならない。
このことは、意識するしないにかかわらず、「生物」である私たち「人間」の宿命である。

と、今までの世の中では、この前提は多くの場合正しかった。
しかし、最近の私たちの行動をつぶさに見ると、この前提が必ずしも正しいといえない状況になってきたのかもしれない。
「自己保存」をしなくなった、というわけではない。
私たち人間は、「子供を残す」という行為以外にも「自己保存」の実現の手段を手に入れたのではないか、ということである。
「知識を残す」ということにより、自分自身を残す方法を手にいれたのではないか、と考えるわけである。

今までの生物は、死んでしまえばそれで終わりであり、「自分」というものを残す手段を持たなかった。
「人間」以外の生物には、知識という概念は無いため、全ての行動は自分たちの生きている環境に適用するために存在している。
「知識を残す」という事自体が成り立たなかったと考える。
しかし、私たちには「知識」という概念があり、そして、それを自分の死後にも残す手段を手にしている。
ただ、今までは「知識を残す」といっても、多くの人間が本を出版できるわけではなく、自己の存在を残すと認識するにいたる手段がなかった。
それがコンピューターの発展、インターネットの出現により、誰もが「知識の保存」「出版」という行為を気軽に出来るようになったおかげで、自分の存在価値を、知識を残すという方法によって得ることができるようになったのだと感じている。

自己の存在を「文章」や「音声」「画像」などの価値で後世に残すことが出来るようになれば、「遺伝子」を配合を経て残すという手段をとらずとも、「自己保存」出来ることになる。
そのことが、生物としてのあり方として、正しいか正しくないかにかかわらず、「自己保存」の概念を満たせれば、そのことで人間は満足できるのかもしれない。
このことが多くにおいて正しいとするならば、これから先はどうなるのだろうか。

それはもちろん、人口の激減、である。

「子供を残す」事意外に「自己保存」を実現する手段があり、その手段のほうが「子供を残す」という手段よりも楽であるならば、多くの場合においてその楽な手段が選択されてもおかしくは無い。
そうなれば、「子供」はいらない人が増え、人類は子孫を残すことがなくなってしまうのである。

昨今、先進諸国では少子化が叫ばれて久しい。
人口の維持には特殊出生率が2.01を保持しなければいけないということだが、先進国では投にその数値を割ってしまっている。
今はまだ、世界の人口は増え続けているが、それは発展途上国の出生率に頼ってのことである。
しかし、現在の発展途上国の多くでも、このまま文明の発展が進み、生産効率が上がっていけば、やがて先進国と同じように少子化という問題が出てくるだろう。
発展途上国の先進国化は、情報の流通の自由化が行われた今、多くの人が予想していたよりも、かなり早く訪れることとなるだろう。
いつ、先進国化がすすむかはわからないが、そのときは必ずやってくる。
そのときが来たら、世界の人口は、減っていく方向に向かうのである。

すでに日本では、順調に行けば後20年ほどで人口は減少の一途をたどる予定である。
一度減少傾向に入れば、その後に人口の増加を望むのはかなりの努力を要するはずである。
現在の日本の出生率は1.28だったと思うが、この数値は長年の減少傾向の賜物であり、この数値を増やすためにはやはり長年の歳月を要するのだから。
仮に出生率を増やす方向に世の中が動いたとしても、人口の減少がそれほど簡単に回復することは無い。

出生率を増加させる世代は、労働者人口は少なく、出産を行う人口も少ない状況にあり、そこに苦労は集中することとなる。
果たして、それが可能なのだろうか。
それを意識していない状況で、いきなり突きつけられるとしたら、どれくらいの人がその状況を飲み込み、耐えるというのだろうか。
私なら絶えようとは思わないし、これから先に知識の拡大が行われた世代が、そのことを認識せずに耐えて暮らしていくとも思えない。
では、出生率は低下する一方なのだろうか。

少し長くなりそうなので、この続きは、また別のときに考えてみよう。

消えるメモリー。消えない記憶。

2004年06月13日 06時09分44秒 | 人とコンピューター
最近になって、やっと、マスコミのコンピューターの取り上げ方が少しずつ変わってきた。
以前は、何か事件があったときに、そこにコンピューターがあると、それだけで「病的」なイメージをかもし出すためにわざとらしいことを平気で言ってのけた。
それが、近頃は、コンピューターがあっただけならばそれはよしとして、その上の記憶のなかに、攻められるものがあったとき、それを取り上げるようになっている。
まだまだ、取り上げ方がいびつで、自分たちの好きなように情報を加工してしか伝えないが、ちょっと、進歩した。
マスコミにいる人なんぞ、どうせ馬鹿ばっかり(っとそういう人だけでないことは解っているのだが・・・)で、考え方など変わらないと思っていたが、ま、多少は変わるらしい。

今日は、上の話に関連して、佐世保の事件のことを考えてみたいと思う。
私が、佐世保の事件の一連の報道の中で気になったことのひとつに、ホームページを改ざんした、というものがあった。
加害者と被害者がお互いにIDとパスワードを交換し合っており、相手の掲示板やコンテンツの中で気に入らないものがあった場合、消せる状態にあり、実際に消すことがあったということだった。

このことは、何もそれほど特筆すべきことと捕らえられていないかもしれない。
多くの人が、実際にそのような状況にあったら、いやな情報を消してしまうものだろうから。
でも、簡単に流していいことではない事だと、そう思う。

私たちは、コンピューターの中の情報を簡単に消してしまっていすぎるのではないだろうか。

コンピューターは、その中にある情報を簡単に消せる。
このことは、コンピューターを使う人ならば大半の人が知っていることだろう。

データを消すのは非常に簡単である。
大抵はファイルを消してしまうという、ただそれだけのことだ。
それだけで情報は削除できる。
どんなにデータ量が多くても、作るのに時間がかかっていても、大切なものであったとしても、消すのは一瞬の作業である。
しつこいようだが、コンピューターの中のデータを消すのに、苦労はいらない。

でも、私たち人間の記憶は違う。
そんなに簡単に消せるものではない。
多くの記憶であるほど、時間がかけられた記憶であるほど、大切な記憶であるほど、それを消し去るには時間がかかる。
私たちにとって、記憶を消す、または記憶が消える、ということは、とても重大なことである。

「好ましくない」という程度の記憶や「ちょっとうれしい」という程度の記憶はすぐに忘れてしまう(このことも考え物だが)ものだが
、多くの人に、大切な記憶というものがあり、消したくないと思う記憶、消したいと思っても消えない記憶、というものがあるだろう。
コンピューターの中の記憶は、簡単に消せるものではあるが、実際の記憶と同じように、やはり大切な記憶、というものもあり、それらがあることをちゃんと認識していなければいけないのではないだろうか。

コンピューターの記憶を消してはいけない、とは思わない。
ただ、何かを表現するときには、平たく言えば、何かを書こう、残そうとするときには、それが私たち人間の記憶と同じように「残る」ものなのだと、意識する必要があるのではないか。

まだまだ、コンピューターの上の世界は、現実ではないと捕らえている人が多いからこそ、のことなのだとは思う。
上のような意識を持つことによって、少しでもコンピューターの上の世界も現実なのだと、意識できるようになれば、少しは、いろいろなことがよくなっていくのではないだろうか。

また、コンピューターの記憶を簡単に消せないものと意識することと同様に、これから先の私たちの記憶が、コンピューターの中に残されることによって、今までよりももっと消えにくいものになっている、ということも意識していく必要があるのではないだろうか。

マスコミや政治家による無責任、無理解な発言。
私たち自身による、心無い、共感し得ない発言。
発言者の意図にかかわらず、どのような発言も、誰かがディジタル化し、コンピューターの中に残すことによって、いつまでも残そうと思えば残る記憶となる世の中になっている。
それらの発言がネットワークに載り、誰もが、いつでも見られる状況になったとき、私たちの言葉が思わぬ結果を生み出すことになるかもしれない。

全ての結果を想定して発言をするなどということは不可能であろう。
しかし、自分の発言がどのような結果をもたらすことになるのかを考えることは出来る。
人間の記憶力が、コンピューターによって補われ、望むならば半永久的に残すことも可能になっている現在だからこそ。

自分の発言に対して、その結果を受け入れることが出来るよう、自分の思ったことを率直に話すことが、これから先に発言をする際に、考えなければいけないことなのかもしれないと、そう思う。

小さな手は何をつかむのか

2004年06月10日 02時38分50秒 | 人とコンピューター
子供たちにとって、ネットはどんなところだろう。

最近の子供たちのネット利用率はとても高いらしいが、何のためにネットを使っているのだろうか。


大人の、あきらめの言葉の数々を見るためか。
匿名だからという無責任な罵声の数々を見るためか。

実社会の中で、私たちは見ず知らずの人間に対して、自分の不満をぶちまけるだけぶちまけてすっきりさせたり、けんかを売りながら歩くようなことをしているわけではないはずである。
少なくとも、そう思いたい。
でも、ネット上にはそれらのものが多く転がっている。
「誰が見るか解らない」からこそ、誠実に生きていかなければいけないのにもかかわらず、「誰が見るか解らない」のに平気でそういうことをしている人たちがいる。

そんな場所に、何を求めるのだろうか。

全てが全て、そんな大人の下劣さだけで構築されているわけではない。
それらのものがほんの少しであることをわからせてくれるだけの誠実さの下の論議や、やさしさにあふれている場所でもある。


子供たちは、そんなネットを見て、何を思い、そして見続けているのだろうか。

私は、たとえそれら見せたくないものがあろうとも、それらを含めた大人の社会にじかに触れるために、子供たちはネットを見ているのではないかと思う。
そしてまた、自分たちだけの世界を作り出すために利用しているのだとも、思う。

小学生から中学生ぐらいにかけて、貴方は何を求めただろう。
求めたのは、お金を求めただろうか。
高いブランド品だろうか。
地位だろうか。
きっとそんなものは求めていない。

世の中に何があるか。
自分はいったい世の中をどこまで知っているのか。
自分は世の中でなにが出来るのか。
そんなことではなかっただろうか。

子供特有の全能感のままで、憧れを追い、自分たちが何が出来るかを考え、それらのことを知ろうとしているのではないだろうか。

また、いろいろなことを知っていくがゆえに崩れていく自分の全能感を、必死になって守ろうとするがゆえに、自分のことを表現しようとするのではないだろうか。

私は中学生ぐらいのころ、自分はここまで出来るのだということを、何かの形で誰かに伝えたいと強く思っていた。

今にして思えばあまりにも稚拙ではあったが。
いろいろなもののデザインをしてみたり。
曲を作ってみたり。
プログラムを組んでみたり。

自分は何でも出来るのだということを、少しでもいいから感じたかった。


何かの意味を持ってネットを利用するようになり始めるころの、小学生や中学生がネットを利用する理由は、これらのためではないだろうか。

私としては、自立する前の彼らが、それらの目的のために玉石混在のネットを利用するのはあまり進められたものではないと思う。
出来るならば、周りの大人たちが、しっかりと見つめ、それを受け入れ、評価してあげなければいけないのだと思う。
しかし、私たち大人の側は、今、子供たちとそれらのことを話すだけの時間をすごしていない。

子供を持っている親に聞いてみたいが、自分たちが聞きたいこと以外のこと、子供が話したいと思っていることを、聞いてあげることは多いだろうか。
夜の夜中まで働いて、かえってもこんなウェブを見て、いつ、話す時間があるだろう。
まさか、話を聞くということを、15分やらそこらの時間と考えているわけでもないだろう。
貴方は誰かと論議を交わすときに、そんな短い時間で話すだろうか。
2時間や3時間は当たり前だろう。
それだけの時間、子供と話しているだろうか。
自信をもって話しているといえる人は、少ないだろう。

だから、彼らはネットに大人の役割を、求めるのではないだろうか。
そこに大人がいることを知るがゆえに。
どのような大人がいるかなど、わからないにもかかわらず。


佐世保の事件は、悲しいことではあった。
思うに、大人が子供を見なさ過ぎる。
ただそれだけが、事件の原因だと、強く思う。


大人の一人として、出来ることを考えたい。


自分の振る舞いを、考えてみる必要はあるだろう。
多分、実際に彼らは、ここいるのだろうから。
そして、これからも私たち大人の側の事情は変わっていかないだろうから。
せめて、ネットの中だけでも大人として振舞えるように。


-------------------------------------------
子供へのネットについてのアンケートが出ていた。

中学生から高校生にかけて、チャットや掲示板をよく利用する傾向があるのだそうだ。
自分を知ってほしいからこそ、自分を認めてほしいからこそ、掲示板やチャットを好むのだろうか。
それとも、大人と触れ合う場所意外に、彼らには彼らの場所が必要なのだろうか。
溜まり場とおなじで、子供には子供の世界があるわけで。

彼らの場所が必要ならば、それらの世界は、守ってあげなければいけないと思う。
誰かが見ている必要はあるだろう。
時には取り上げる必要も、あるかもしれない。
ただ、本当にどうしようもならなくなるまでは、じっと、そばで見ているだけにしなければいけないように思う。

以前から言われていることだと思うが、子供は、親だけががんばって育てるものではないはずである。
その地域の社会に所属する大人が、その地域で育つ子供たちの成長に責任を持たなければならないはずだ。
しかし、その場となるはずの地域コミュニティは、すでに存在しなくなってしまっている。

だからこそ、地域コミュニティが崩壊してしまった今、変わりに生まれようとしているネット上でのコミュニティの中で、そこにいる大人たちが、子供の成長に対して責任を持たなければいけないのではないだろうか。

普通の企業である(はずの)Google

2004年06月09日 13時00分25秒 | 人とコンピューター
もし世の中にとってGoogleがすごい企業だとするならば、それはGoogleがすごいのではなく、その他の多くの会社がひどいのだという、それだけのことではないだろうか。



『プライバシー』から開放される日」や「過半数の絶対正義」、また「インターネットを生活の場に出来るか?」や「表現の道具」で私が言っていたのは、で私が言っていたのは、それぞれ、ネットワークが基盤となった社会では、「それぞれ」において正しい行いをしていかなければいけないということ、および、誰もが自由に「表現」を行えるようになったことこそが大切なことだ、ということである。
Googleという会社は、それに沿って正しく行動しているだけなのだ。
なにも、Googleがすごい会社だということではないはずなのだ。
ユーザーの利益を生み出すことこそが業務であるという、どの企業にも言える常識を真摯に考え、実行し、「表現」と「評価」というこれからの社会の中で一番重視される事柄に着目し、そこに特化した業務を行っているに過ぎないと考えている。

開発者に好きなことをやらせていることはとんでもないことなのだろうか。
もしそうならば、開発者が創造できないことを誰が造ることが出来るのか。

「時間をかけて何ができるか考えていこうと思っています。これはまだ実験段階ですから。もしかするとユーザーのほうが、このサービスで何ができるのかアイデアを持っているかもしれませんね。」という言葉や、「Googleでは、ユーザーにとって意味のあるものを提供する方が、目先の収益にとらわれるより重要だと考えています。」という言葉は、あたりまえのことではないのだろうか。
もしそうならば、Googleの英知は全世界のユーザーよりも上だったり、ユーザーのニーズを捕らえることが企業にとってはあまり意味の無いことなのだろうか。

あたりまえのことをあたりまえにやっていることに、なぜ驚く必要があるのだろうか。
一つ一つをとっら得てみれば、普通の企業がやっていることに過ぎないのではないか。
Googleのやっていることは、「インターネット上にはまだ(Googleが到達できていない)多くの情報が詰まっており、それをよりよい方法でユーザーに届けることがGoogleの使命ですから。」というそれだけのこと。
何か特別目を引くことを、やっているわけではない。

Google以外の多くの企業が、Googleのような企業になるためにしなければいけないことはなんだろうか。
それは、「お金を稼ぐ」ことをやめ、「利益を出す」ことに集中することだと、考えている。
「お金を稼ぐ」事それ自体が「利益を出す」ではないことに気付かなければいけないだろう。
「利益を出す」ことに集中すれば、その結果「お金を稼ぐ」ことになるにもかかわらず、それが出来ない企業が多すぎるのではないか。
だからこそ、Googleが特別視されてしまう。
このことは、先日書いた「ネット世代企業であるGoogle 」でも書いていることだが、もう一度書いてみる。


人は、あたりまえのことをあたりまえと考えられない時、自分の理解できる範疇のことを総動員して、いろんな理屈をこねてそれを理解しようと試みるものだろう。
だからこそ、今、Googleの戦略やサービスについて、いろんな論議が行われ、いろんな受け取り方がされているのだろう。
はたして、Googleについての論議のなかで出てくるような理論を、Googleの経営層は考えているのだろうか。
世界中の人が論議しても未だ結論が見えないほど複雑なことを、たかだか数人の経営者が考えられるはずが無いことぐらいは解りきっている。
ただ、そこにはあたりまえのことをあたりまえと取れるか取れないかという、「世代の差」があるだけで。


ちなみに、GoogleにおいてOrkutが予期せぬサービスとなったのは、Orkutのなかでユーザーが発する声は「表現」だとは(少なくとも経営層には)捕らえられていなかったため、Googleがやるべきこととは考えていなかったからだろう。
しかし、Orkutは、ユーザーの支持を得ている。
それは、Orkutが表現をした後に行われる「評価」という行動に主眼が置かれたものであり、「評価」によって形成される人的ネットワークを作成するためのツールだからであろう。
表現と評価は表裏一体の関係であり、どちらから見るかという視点の違いに過ぎないのではないか。
そういう意味で、個人的には、OrkutがGoogleの正式サービスとなる日は案外近いのではないかと思っている。

--------------------------------------------------------------

上の仮説が正しいとすれば、世の中にはまだまだ「真の」ネット世代は少ないということになるのだろうか。
まぁ、あと数年で変わることではあると思うが。

そうそう。
Googleの経営層のインタビューがCNETに乗っていたことに気付いていなかった。
読んでみて、普通のことしか言ってないよなぁと思うとともに、「あたりまえの事をあたりまえにする」ということが、難しいことなのだろうなと。

繋がって欲しい事

2004年06月09日 02時21分53秒 | 愛するということ
P-navi infoのビーさんが「UNRWAへの募金」のなかで「森沢典子さん」の文章を転載していました。
文章全体として、考えなければいけないことはいっぱいあるのですが、とくに、その中の一文に、私の目を引くものがありました。

----------------------------------------------以下転載
お顔も見えない方たちに、呼びかけてお金を集めることや、お金を集めるためだけに文章を書くことに、自分自身戸惑いや後ろめたさがあります。私は何をやっているんだろう?お金ってなんだろう?って思うこともあります。
----------------------------------------------転載終わり

お金って、何ですか?

貴方が、そう、聞かれたら、なんと答えますか?
私は、お金とは私たちの愛情が形を変えたものだと、そう考えています。

お金を手に入れるためには、自分の時間を割いて働かなければいけない。
お金をためるためには、いろいろなことを我慢していかなければいけない。

好きなを愛するためには、その人と同じ時間を過ごそうとするでしょう。
自分を愛そうとすれば、いろいろなことが変わっていくことでしょう。

自分の時間の全て、自分の行動の全てを、自分を愛するために、好きな人を愛するために使えたら、どんなにいいことでしょう。

でも、私たちが生活していくためには、どうしてもお金が必要です。
だから、私たちは、人を愛するための時間を削り、自由を削り、それをお金に変えています。
大きなお金を手にしようと思えば、その分の時間を、自由を、そして今その手にある愛情を削らなければいけません。

そして、そうやって手に入れたお金を、私たちは、自分を愛するために、好きな人を愛するために、使っていく。
そう考えています。

ビーさんにせよ、森沢さんにせよ、そこに困っている人たちがいるのだから、助けてあげたいという気持ちから、文章を書き、お願いをしている。
そうやって自分の時間を使っている。
そして寄付をする人たちは、自分の愛情を、お金という形に変えて、困っている人たちに分けている。

そういうことなのだと、思います。


「助けたい」と思う人たちのために、自分の時間を使い、お金を募ることは、お金を無心することじゃなくて、誰かを愛するためにしていることでは、無いですか?

愛することが、悲しいこととならないでほしいと思うがゆえに。

伝わるかどうかは、解らないですが。


そして。


私は、このことを誰かにつなげたい。
たとえほかの人から煙たがられることがあったとしても。
がむしゃらに誰かに伝えたいと思うことが、時たまあるんです。

だから、繋げます。

いろいろなことを知ることが出来るようになったという人に。
たまたまページを目にした方々なのですが、こんなこともあるのだということを知ってほしいと思うから。

幸せならばそれでいい

2004年06月08日 13時34分55秒 | 愛するということ
連続して未来像を書いたので、ちょっと筆休めに。

私はよく、「そんなこと考えてもしょうがない」「難しいことばっかり考えていると疲れるでしょ」なんてことを言われる。
それを言ってくれる人が、何を思っていってくれるかは解っている。
けして、「くだらない」からやめろといっているわけじゃない。
だから、そういってくれる人に対してやっかむようなことはしていない。

私だって、馬鹿なことだっていっぱい考える。
なにも、社会に対する問題定義ばかり考えているわけじゃない。
しかし、考えなければいけない。
考えなければいけないことが多くなりすぎている。
考えることをとめるわけにはいかない。

産業革命以後、100年以上の時間が過ぎ、どう考えてもくるところまできてしまっている。
時間的猶予など、何処にも無いのに、なぜそれに気付かない、いや気づこうとしない人が多いのか。
私たちは、生きていくのに必要なもの以上のものを、あまりにも多く求めすぎなのだ。

生存競争のために、それはしかたの無いことなのだろうか?

いいや。
生存競争のための優位を図る評価方法は、肉体から金へ、金から情報へと移り変わってきた。
そしてインターネットの登場により、やっと心へと移り変わろうとしている。

権力も何も無い場所では、そんなのはあたりまえのことだった。
考える必要さえなかった。
しかし、大昔からわかりきっていたことなのに、一部の人間により社会が複雑になりすぎて、見えなかったのだ。
昔から比べて、あまりにも複雑になりすぎた脳は、単純なことを見せなくなっていた、ということかもしれない。

評価を、力を求めるあまり、それが生存競争のためということさえ忘れ、力となるもののみを生み出すことしか考えてこなかった。
そのことが、今の私たちにどれだけの悪影響を与えていることだろう。
そして、いまだ多くの事柄において、そこから抜け出せないでいる。


「幸せならばそれでいい」


それだけの話なのだ。
あまりにも単純な答え。
心を持つ私たち人間だからこその、単純な答え。

幸せになるのに、体力もかねも情報も必要ない。
ただ、幸せであると思える心があればいい。

誰かを愛し、子供を産み、育てようと思うとき、あなたが愛するのは。
肉体か?
金か?
情報か?
誰も、そんな「くだらない」物を愛するわけではないだろう。
そう。
単純な話なのだ。

社会が、ただそれだけのためにあるのであれば、簡単に変われることなのだ。

ただ、そのためには、もう少し私たちの心が成長しなければいけない。

そのために。

いろんな考えを見て、いろんな考えを聞いて、いろんな考えを伝えて。
論議し、悩み、みんなで答えを探していかなければいけない。
別に答えが見つかる必要は無い。
みなが幸せになるための方法を考えることで、きっといろんな答えがあることが解るだろう。
ただ、それぞれの答えがあるということを多くの人が知ることが必要なのだ。
その作業には、出来る限り多くの人が参加するべきだ。
出来れば、全世界の人が。

今ならば、それが出来る。
ネットワークは、そのために在る。
やっとそういう社会を作り出すための、基盤が出来た。

できることならば、一分でも一秒でも早く。
みんなが幸せになればいいと、思うのである。





--------------------------------------------------------

このページにせよ、自分のHPにせよ、
ただ個々に書いたことそれだけのために、
私は書きつづけてきている。

「幸せであればそれでいい」

言うのは簡単だが、いざそのために動こうとすれば、それが大変なことがわかる。
でも、大変だからといって何もしなければ変わらない。
出来ることをしていかなければいけない。

私がこうやって書いているのは、そのためだ。
私に出来ることはこの程度のことしかないのだから。

やれることから、やらなければいけない。

「プライバシー」から開放される日

2004年06月08日 03時26分43秒 | 人とコンピューター
近い将来、私たちにはプライバシーなど無くなる。
個人情報保護法によりプライバシーが守られるなどと言うこともない。
誰もが、好きなとき、好きな場所で、全ての情報を手に入れることができるのだから。

私たちが考えなければならないのは、プライバシーの無い世の中で、如何にして自己を確立、強化し、全てをさらけ出しても良い自分を作るか、という事だろう。

そんな事はあり得ないか?
そんな世の中は困るか?

しかし、現にその発端は現れ始め、たぶんこの流れが止められることはないだろう。


「小さな世界仮説」というのをご存知だろうか?
「小さな世界仮説」とは、ある人が20人の知り合いに手紙を出し、手紙を受け取った人が同じく20人の知り合いに手紙を出すということを7回ほど繰り返せば、全世界の人に手紙が届くはずだという仮説のことである。

実際には、ある人の知人は、別の知人にとっての知人という重複が発生するため、それほど単純なものではない。
しかし、その仮説がインターネットというものの上に適用されたとき、ほぼ、真実として動き出すこととなる。
ウィルスメールなどがよい例であり、はじめは一台のコンピューターから送り出されたメールであるはずのものが、全世界のコンピューターめがけて送信されるようになっていく。


そんな「小さな世界」の中で、私たちは暮らしているのだ。
もし、貴方の隣に座る人が、貴方の悪口をインターネット上に掲載したら、どうなるだろうか。
もしかしたら、1日とたたないうちに、世界の裏側の人があなたのことを知っているかもしれないのだ。
インターネットが社会基盤となった世の中では、そんなことが現実に起こるのである。



ここで、考えてみてほしい。

なぜプライバシーを守らなければいけないのだろうか。
プライバシーがなくなることは、怖いことなのだろうか。

実際には、プライバシーがなくなることは、何も悪いことではない。
貴方のみに、今以上に恐ろしいことが降りかかるわけでもない。
貴方のプライバシーがなくなるのと同時に、全ての人のプライバシーもなくなるのだから。


普段、多くの人は、なるべく個人の情報を表に出さないようにしつつ、生活をしているだろう。
それは、自分の行動の自由を確保するためである。
自分の周りの生活のなかでは、すでにプライバシーなど無いにもかかわらず、なぜそうするか。
それはたぶん、プライバシーを知る人に対しては自分の行動の是非を評価される可能性があり、人の評価を受ける場面では、その行動から気を抜くことが許されず、そのことが非常に疲れるからだろう。
だからこそ、自分のプライバシーを知る人の範囲をコントロールすることにより、自分の全てを評価されてもかまわない人の範疇を絞ることで、自分が気を抜ける場所を作る必要がある、ということだと考えている。

しかし、評価する側の人間全てが、誰もが気を抜く一面があり、気を張る一面があり、またほかにも多くの面を持ち。
それらのいろいろな面を持っているということをちゃんと認識した上で、他の評価が出来るようになれば、評価される側の人間が増えることは、それほど疲れることではないはずである。


また、犯罪に用いられる危険性についても、危惧する必要は無いはずである。
世の中を善悪に分けることは出来ないということを書いておきつつ。
今の社会では、悪事を行う人の大半は、自分のプライバシーが暴かれないことを前提として悪事を行っている。
しかし、全ての人のプライバシーが亡くなるということは、悪事を行う人間のプライバシーもなくなるということであり、悪事を行えば、それがすぐに全ての人に伝わっていくことをさす。
そのような、「社会全体に監視された社会」では、悪事を行おうとしても、その後に待つ懲罰、「過半数の絶対正義」のもとの社会からの抹殺が見えており、リスクを考える人間であれば、悪事を起こせなくなるであろう。

しかし、この犯罪の抑制が成立するためには、私たちが何が正しく、何が間違っているのか、また、何を判断すべきものとし、何を判断するべきでないものとするかを、見極められるようになっていなければいけない。
人の何を評価し、自分が何をなすべきかを、それぞれの人が考える世の中になっていなければいけない。
「過半数の絶対正義」が正しく成り立つ、成熟した社会になっていなければいけないのである。


来るべき時代のために、私たちは全てをさらけ出してもよい自分を創っていかなければいけないのである。

私は、そう考えている。


それは、見えている未来なのだから。


追記----------------------------------------

こんな話を書こうと、ネタを温めていたら、「電車男」に関するBlogのいくつかの場所で、プライバシーに関する論議が始まっていた。
ネタは、早く書いて公開するべきであると強く思った(笑)

「電車男」の話しを考えるとすれば、それは、上のようなことを、無意識に理解していたからこそ、ネット上に自分の恋愛を公開できたのではないかと思う。

2chという場所でも、誰もが殺伐としているわけでもなく、みんな「幸せになりたい」と願う人が参加しているわけで。
時たま荒れもするだろうが、幸せになりたいと思う人間を卑下するようなことはしないものであると思っている。
また、正しくありたいと願っているものだとも、思う。

それを、参加して知っていたからこそ、「電車男」は、話を書けたのではないかと。


事件性のある事柄から守るために、本名や個人を特定出来るような情報こそ公開しないものの、それ以外のことは受け手さえ真剣に捕らえてくれさえすれば、公開したとてなんら問題のあることではないと思っているひとは、すでに案外多いのではないか。

現に、「恋愛」「告白」「彼氏」などで検索をすると、女の子の自分自身の恋愛話が腐るほど引っかかる。
一部は、個人を特定できるかもしれないほどの個人情報も合わせて乗っているのにもかかわらず、だ。

今が、時代の革変期だとすれば、プライバシーを隠す利点もあり、プライバシーを公開する利点もあり、その双方が入り混じっている状態ではなかろうか。
そのような中で、あのような話が出てきたことは、とてもいいことのような気がする。

少なくとも、いろんな人が、いろんなことを考えるきっかけになるのだから。


っと、話を全て読んだ感層としては、う~ん、恋愛したいなぁ・・・とw

ネット世代のビジネスモデル

2004年06月08日 02時14分45秒 | 人とコンピューター
「ネット世代のビジネスモデルとは?」というタイトルで、
Have a nice dayさんからトラックバックを受けたので、少し考えてみたい。

それでは昨日と同じく結論から。
インターネットの出現により「情報を持つことの価値」が大きく下がったため、情報の販売を行おうとしても、それはうまくいかない。
しかし、情報の小売が閉ざされたとしても、情報の生産と流通という分野、独占的な情報の発信、発信制限、および強制的な情報の閲覧、閲覧制限という、情報発信を誰もが出来るようになったからこその差別化を行う点が生まれる。
そこに、ビジネスの種となるものがあるだろう。
たとえば、情報流通の安全性の確保、人気ホームページの一部の領域の購入。会員制コミュニティサイト。ある特定の分野の情報を定期的に収集し取りまとめて送ってくれるエージェントサービス。などが考えられるであろうか。

また、Googleなどの検索サイトは、主に一般的な情報しか対象としないが、価値がある情報の多くは何かに特化した情報であることが多く、この点についてもビジネスの余地が残るであろうか。
特化した情報を扱っているクローズドコミュニティなどは、有料であったとしても、ほしい人はこぞって参加するのではないだろうか。
お金になりにくくなったのは、一般的な事柄、みんなが欲する情報であり、みんながほしいと思わない情報に関しては、その発信、閲覧、流通について、ビジネスが成り立つ、と考えているわけである。

あと、Googleの業務には、企業が広告費を出す以外に、ユーザーからも対価を受け取っているという面もあるだろう。
Googleの利用は無料だが、Googleを使ってみなが見つけようとする情報を作成しているのは、Googleを利用しているであろうユーザーであり、Googleはユーザーが情報を作成してくれるからこそその存在価値があるのだから。


ちなみに、私はサービス提供者が何がビジネスになるかなどは考えなくてもよいと思っている。

すでに、世の中は、その複雑度に応じて個々の分野でのスペシャリストが求められるようになり、スペシャリストの集団がそれぞれの能力を発揮しながら社会を運営していく時代であろう。
そのような社会では、サービスを提供する側は以下にそのサービスに特化し、求められるものとするかのみを考え、それをビジネスにするのはビジネスにすることを専門としている人間に任せればよいと考えている。
日産のゴーンさんが日産の復活を行うに当たって、ロボットの効率的な動作を行うだめのプログラム手法や、欠品率を下げるための金型の設計方法など知らなくてもよかったのと、同じことである。

企業は原則利益のみを追求するために存在するわけだが、利益というものは何もお金のみをさすものではないはずだ。
ユーザーが満足すればそれでよく、その満足をもたらすために企業はある。
企業がもたらすユーザーの益の対価を受け取り、さらにそれをユーザーの益となる業務のために投資をしていく。
その循環こそが経済をまわしているわけであり、それが経済の全てだろう。
とすれば、ユーザーのニーズがありさえすれば、そこには必ずビジネスがある。
ニーズをお金に変える方法を見つけることの優先順位など、ニーズを見つけそれを満たすことの優先順位に比べたら取るに足らないだろう。

もし利益が出せないのであれば、ある種の公共事業として割り切り資本投資のみ(資本の回収を試みない投資)を行い続けてもよいのだから。
逆に、これからは資本投資のみの企業を増やしていくべきではないかとさえ思う。
ある種、労働者による健康保険組合や厚生年金組合のようなものだろうか。

もう、そういう時代に来ているだろう。


ネット世代企業であるGoogle

2004年06月06日 06時53分40秒 | 人とコンピューター
さて、世代という言葉を使うと面白いだろうからまた使ってみよう。

梅田氏のBlogは自分もとても好きで、いろんなことを考えさせられる。
ただ、いつも読ませてもらっているだけだと悪いので、今日は私の考えから、なぜ梅田氏がグーグルのことがお気に入りなのかの理由を考えて、トラックバックでもつけてみよう。

それでは早速「なぜお気に入りになるのか?」だが、たぶん結論は単純。
それは、Googleという企業がインターネットによる「情報の発信」という行為をとても尊重している企業だからだろう。

もう少し砕いた書き方をするならば、「Googleが行っている純粋な情報の検索と結果の順位付けが、『いかにインターネットを利用するユーザーが発信した情報をもれなくキャッチアップし、ユーザーが信頼感を判断する方法に近い形で出力できるか』?のみに注力しているから」っと、言えるだろうか。

漏れなく情報をキャッチアップしようとする行為は、インターネットがもたらした唯一無二の革変である「誰でも情報の発信者になれる」というものを実際のものとするために必要であるがゆえだと考えられる。
また、信頼感を判断する方法に近い形で順位付けするということは、如何に、ユーザーが評価に値するとする情報を閲覧しやすいようにするか、また、如何に、発信者によるユーザーのインターネットへの信頼感を損なわせる行為(内容)を減らすかということであると考えられる。

その一端として、Googleの検索技術にPageRankというものがあるが、あれはページの内容の正確性如何ではなく、他者からのページの「評価」を図る指標であったりする。

梅田氏のBlogで、あちら側のコンピューターファーム、というのがお題になっていた事があったが、インターネット上の情報全てを検索対象とし、その情報に高度な処理を加えなければならないとすれば、どうしても超大規模なコンピューターファームが必要になるわけで、何もそれはインターネット上のリソースをユーザーが信頼にタルと判断してくれることをGoogleが理解したから、などなどの理由ではなく、そうなったこと自体は、単なる技術的な問題からであろうと思う。

ユーザーが情報発信をするようになれば、必ずそういうものが必要になるから作ったのであり、それ以上でも、それ以下でもないのではないか。
Googleの創始者は、単にそれぐらいのことしか考えてなかったのではないかと思う。

何かの記事にて、Googleの広告のクリック率は他のサイトに負けているというのを見たが、もし上記の仮説がある程度あっているとするならば、それは当たり前だろう。
なぜならば、Googleは情報を発信、閲覧するユーザーのことのみを考えているのであり、広告主のことなどあまり重要ではないだろうから。

広告によるビジネスモデルを構築したのは、ただ、現実しようとしているシステムを作るにはお金が必要だから。
創始者は、「実現しようとしているシステムが出来れば必ず人は集まり、そうすれば何らかの形でビジネスモデルは構築できるでしょ。」ぐらいにしか、考えていなかったんじゃないのかと思う。
事実、それ(人が集まれば、ビジネスモデルは後から付いてくる)は間違えでは無いだろう。

Googleは、単純にそんなところから出来た会社だと思う。
しかし、それを「情報の発信」こそがインターネットが変えたことで、それこそがすごいことなのだという発想が無いところ、ようは「インターネットというインフラが出来たから、そのインフラを使って、今までの自分たちのビジネスをどうやって拡大しようか?」としか考えない側の人々から見れば、「なんでGoogleはあんな突拍子も無いことをするのだろう?あんな突拍子も無いものを作るのだろう?」ということになるのではないか。

真にGoogleが目指すような情報検索、閲覧場所があれば、以後の世の中では、独占的に情報を発信したり、強制的に閲覧を制限したりすることは出来ず、農業、製造業以外の今まで培ってきた情報販売業(商社、コンテンツプロバイダー(音楽業界や出版業界))は存在する価値がなくなるわけで、産業革命以後の経済構造は大きく崩れ去ることとなる。
そういう意味では、Googleの行う業務は、既存の経済構造のみに目を向けていては、発想し得ない業務だ。
だからこそ、いろいろな人の目をひきつける、面白い(新しい発想の)企業に見える、ということなのだろう。

Googleがいろんな人の目をひきつける面白い会社だと思われるのは、そんなことではないかと、強く思う。

「いつの世も、真のイノベーションとはすでに起こったことにたいする別の捕らえ方の中にあるものではあるが、それに気づくことが出来るのは、一部のイノベーターだけである」ということを表すよい例なのではないだろうか。

ちなみに、Googleをそんな単純な会社として捕らえ、Gmailやorkutを、情報の発信と閲覧、またそれらがもたらす評価とその推移、という視点から見ると、また違った物に見えて、面白いのではないかと思う。

っと、Googleがなぜ面白い会社なのか、という私なりの理由を書いてみたところで、「世代」である。
梅田氏のBlogにまた「世代」ねたで、どんな話が出るかなと、少し期待しているのだが、また、梅田氏自身の視点のなかで、「信頼感」に着眼しているところが気になったので、そのことについて書いてみる。

私は上で「インターネットによる「情報の発信」という行為をとても尊重している企業だから」Googleがお気に入りの企業になったのである、と書いた。
そして、私はGoogleをネット世代の企業だと考えている。
それは私が「情報の発信・閲覧、およびそれに対する評価(の仕方、考え方)」こそがネット世代とその前の世代を分けるものだと考えているからだ。
その点については、まぁ、ネット世代という言い方をしているかどうかは別として、私の書いた他の文章の中にも記述してある。

そこに、梅田氏の信頼感、という考え方をあてはめる事に、やはり違和感を受ける。

「信頼感」というのは、自分と「他のもの(機械でも人でもよい)」とのコミュニケーションにより生まれるものであり、コミュニケーションはなぜ行われるかといえば、そのものへの評価、自分に対する評価の取得のために行われるものだと考えている。
であるならば、「信頼感」というのはその行いにより生み出された結果であり、その世代の持つ意識の特色ではあるが、行動様式の特色とはなりえない。
結果の意識の特色だと、たとえばコンピューターを自分で操作できない人が、子供などにインターネット上の番組表や天気予報を見せてもらい「インターネットで番組表が見れる」「インターネットで天気予報が見れる」ということに感心し「インターネットはすごい」と思うようになった時、その人はインターネット世代なのか?っという疑問が起こってしまう。

実際にはインターネット上の番組表や天気予報はその提供ソースの信頼性がその信頼性となり、インターネット自体の信頼性と結び付けてしまうのは少々強引である。
しかし、信頼感という視点に立てば、含めなければいけないものであり、そのような意味で、信頼感は世代を分ける指標としてはあまり有効ではないのではないかと思う。

思考の過程において「信頼感」というキーワードが用いられることには違和感を感じないが、結論として用いられたときには、違和感を感じてしまう。
それがまだ続いている、ということに、どうにも腑に落ちないものを感じているのだが、どうなのだろう。

私の「信頼感」という言葉の捕らえ方に問題があるのかもしれないとも思い始めてきた。
ちょっと、考えてみる必要性がある。

さて、最後に、ここまで書いて、話を世代についてのBlogのこと自体にしてみたいが、どうも、梅田氏のBlogに付くトラックバックを見ていて、「なんだかなぁ・・・」と思うものが多いように感じる。
正直、「世代」という言葉を使おうが、代わりにどういう表現にしようが、そんなことはどうでもよく、インターネットというものが何を変え、だから、「何がどうなったのか?」そして「何がどうなるのか?」を論議出来ればそれでいいように思うが、そこから逸脱して、「世代」という言葉の是非や、「信頼」の是非、「処理能力」の如何などに終始してしまうものが多いように思う。

二元論での弁論は、それはそれで楽しいけれど、ただ、どちらの側から見るかの話であり、どちらが正しいということではない、ということは前提であって、どちらかの側から見た意見を述べるだけでおわらないでほしい。
二元論ならば、それぞれの意味するところの共通点がこれだから、これこそが大切なのでは?のような発展がほしいところである。
その点がちょっと残念。
っと、同じようなことを考えられる方は、多いようで。