Programmer'sEye

1エンジニアとして、これから先のコンピューターと人との付き合い方を考えてみたい。

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自粛しよう

2011年03月14日 09時28分57秒 | 地震 #Jishin
久しぶりのブログ投稿。



どうも、各所で被災地以外では日常と同じように生活をした方が、日本経済や被災地域の経済復興のためには良いという話をしていらっしゃる方が「多く」見受けられますが、もうちょっと考えてみたらどうですかね?



グローバル経済において、通常と同じ消費をしても、日本経済の復興のためにも、ましてや被災地の復興のためにも、大して役に立たない。

既に消費が増えても直接日本経済の発展のためには役に立たない事が見えているのに、国内の消費を通常どおりにやったとて、今日本が面している下降方向の経済からはまるきり抜けられない。

ものを買った時に、そこに使われる部品やら何やらが日本製でなければ、海外にお金が流出することになるだけ。

そして、国内生産を行っているものを消費した場合においても、それが被災地域で製造しているものでなければ直接的な寄与は少ない。

パチンコ行ってお金使ってる場合じゃないんですよ。えぇ。



被災地では、復興のためにいろいろな物資が必要で、それらを確保するために否が応でも国内の物資の生産は増える。

なにも、被災地以外が復興のためにと消費を増やさなくても、復興のために必要なものがあるが故に、否が応でも国内消費は増えるんだよ。

その時に、ほかの地域で消費が増えていれば、復興にまわすものが足りなくなるということは考えないのかね?

日常と同じ生活をしていればそこはそこで資材が必要になる訳で、復興にまわす資材の製造は通常の生産量ではたりず、増産することになるわけだけれども。

増産をする場合、そのためには増産のための機材も必要になる訳だが、復興特需が終わればその増産のために必要となった機材等はまた不要なものになる。

もう既に大量消費の世の中ではなく、必要なものを必要な量生産するという最適化が行えなければ、経済的な発展は望め無い。

そうなれば、その余剰な機材はまたしても日本経済の負の遺産になり、結果完全復活を遅いものにしかねない。

今、通常と同じような生活をする事で経済をまわす等という発送のもとに行動をして、不要に資材を使ってしまえば、復興のための資材が足りなくなる事は目に見えており、よっぽど復興の妨げになる。

生産活動を通常と同じように淡々とこなしていく方が良いのは確かだが、消費活動を通常と同じようにするというのは、復興の妨げになり得ることを考えなきゃ行けない。



単に自分の生活パターンを変えたくないがための、解ったような言い訳なんか欲しくないわけで。

ちゃんと先々の事まで考えた上での発言をしないと行けないんじゃないかと思いますよ。

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怒り方を知っていますか?

2008年10月19日 18時36分26秒 | 愛するということ
時たまふっと忘れそうになることがいろいろとある。

自分が何を考えているのか。
自分が何をしなければいけないのか。
自分が何に対して怒らなければいけないのか?

みんな、小さなころから、自分の世界の中の理不尽さに怒る。

親と学校しかない世界に住む子供は、親と学校に。
大人になれば、大人の世界に。
でもどうしてでしょう。
年をとるごとに、怒るものを見失っていく。
怒らなくなっていく。

何で、怒らなくなっていくの?
怒るべきことはいっぱいあるでしょうに。

戦争や、犯罪や、社会制度。
その他もろもろの理不尽な出来事。
それを生み出すきっかけとなる、私たちの多くの考え方。

ふざけるな!

っと思えた時期を通り過ぎたら、もう、怒ることが出来ないのか?
その代わりに家族や子供に怒るのか?

何に対して怒るのだろう。

戦争に対して声を荒げる人を見て、多くの人は、何でそんなことに怒っているんだろうと、不思議がるのだろうか。
そんなことに怒ったところで何の徳にもならないと切り捨てるのだろうか。
そういう人が、多いのだろうか。
俺は、そんなことは無いと思っているのだけれど。

ただ、みんな声を荒げて怒ることが、いけないことだと思っているのではないかと思う。
自分が子供のころから、なんだか怒ることはいけないことだと、教わってきたように思う。
ずっと怒らないでいれば、怒り方を忘れてしまう。

本来、人は、もっと怒っていたのではないのか?
誰かに怒ってもしょうがないことを、社会に対する不満を。







むかーしの草稿がまだ残っていた。

これは、2004年に書かれた草稿。

この先に何を書きたかったのかは、よく覚えていない。




なぜか、このページはちょろちょろとアクセスがあるらしい。

また、書き始めてみるとしよう。

コンピューターと人の付き合い方についてを。
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で、情報の次は?

2004年12月09日 18時44分52秒 | 人とコンピューター
インターネットが高速道路みたいなもの、と言い表されたことには、かなり感心した。
そうかぁ、そんな表現もあるのだなぁと。

しかし、情報にとっての物流が無くなる、ということからしてみれば自然な話であって。
しかしまぁ、いきなり話をそこできってしまってもしょうがないので、続けてみよう。

まず考えるべきは、なぜ現段階での人類が「肉体労働」以外の労働形態である「知識労働」という労働形態を手に入れることが出来たのかということである。
この点については、「技能」を「技術」とすることが出来たことによる影響が大きい。
「技能」を「技術」とするとは、個々の人間の活動の中からそこにある「知識」を取り出した、ということである。
余剰生産力の確保や移動手段の確立などには、生産活動の質の均一化などのための「技術」が必要であった。
まずここで、人間の「活動」においても「情報」が価値をもつものであると意味付けることが出来る。

インターネット発生後、将棋やプログラムについて素人でも「センス」など以外における「技術」「知識」では、ものすごい速さで強く、すごくなるというお話があったが、もとの「技術」の発生から考えると、もっともなことといえなくもない。

そしてつぎに、インターネット出現以前の「技術」の伝播について考える。
インターネット出現以前に「技術」「知識」を遠隔地に伝えるためには、その「技術」「知識」を持つ人がそのまま移動するか、または紙や音の形で残しそのものを移動させねばならなかった。
結局、どのような形にせよ、何かしらの物流がそのあいだに発生せねばならなかったのである。

後に電話が発生し、「音」というものに対しての流通は飛躍的に発展することとなるが、ここで問題になるのは電話による通信は、発信者と受信者の二者間通信だということである。
紙や音の媒体に落とされた形式であれば、それを共有することも楽ではあるが、二者間通信としてしか成り立たなければ、そのあいだのみでの「技術」「知識」の共有としかなり得ない。
また、電話のみでは、表現能力が低く、全ての「技術」「知識」を伝えるに至らない事柄も存在する。

これらのことから、電話の発生も、「技術」「知識」の共有に必要な速度を飛躍的に高めるにいたらなかった。

そしてインターネットが発生し、文字、音声、映像など、ありとあらゆるものが転送される対象となった。
その表現能力の向上、またWEBなどの形で情報を蓄積し、誰もがその情報を共有できるという特質が、電話ではなし得なかった、知識の共有に必要な速度の劇的な改善をなすこととなったのである。

一つの「技術」「知識」が世界全体に広まるまでにかかる時間を考えると、電話発生以前は100年ほど、電話発生以後が10年ほど、インターネット発生後は1年ほどになっているのではないだろうか。

インターネット以後の世界は、ドッグイヤーなどといわれるが、ある意味、「知識」「技術」は何処でも同じになってしまう世界の上で競争しているのだから、あたりまえなのかもしれない。
今までは、それぞれが足りない知識を補うのに数年もの長い時間がかかっていたにもかかわらず、今はものの30秒もあれば見つかることさえあるのである。
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インターネットが変えたもの

2004年10月09日 03時39分01秒 | 人とコンピューター
忘れがちなので、ここに、インターネットが変えたものを書いておく。

インターネットは、情報の流通を変えた。
インターネット出現以前(ネットワーク出現以前)は、情報は形あるものと同じく、物流の輸送を必要とした。
多くは紙の形で、あるいは音の形で。
インターネット出現の少し手前には、磁気ディスクやCDの形で。
インターネットは、発信側と受信側をネットワークでつなぐことで、情報を直接やり取りすることで、それまで物流をかまさなければ不可能であった情報のやり取りを物流をかますことなく可能とした。

モバイルについても触れておく。

インターネットは、ネットとネットをつなぐという性質上、どうしても点と点をつなぐ感が否めなかった。
インターネットは、メッシュで世界を覆うことは出来ても、世界の面を覆うにはいたらなかった。
無線を用いるモバイルは、基地局から電波の届く範囲であれば、世界を面(もしくは空間)で覆うことが出来るという特性によって、その、点と点をつなぐことしか出来ないというインターネットの弱点を、補うことが出来る。

補足として、情報についても書いておく。

情報、とは、自称やもの、出来事などを表すための表現である。
形あるもの、でなければ、すべてを表すことが出来る。
形あるものの感触や温度などは、人間の五感に対して時下にそれを伝えることができない、ということを除けば、本当に、すべてを伝えることが出来る。
ただし、信頼できる情報の全ては、過去のものであり、未来の情報を手に入れることは不可能である。
連続した過去をつなぎ合わせ、その先の未来を予測することは可能かもしれないが、それは予測であり、未来の姿をあらわす信頼できる情報では、ありえない。

ここまでに書いたことの時代の変化により、人は、形あるものを対象としない限り、どこにいてもどんな活動でも出来るようになった。
インターネットや、モバイルが変えたことは、それだけだ。
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15歳ならSEXしよう!

2004年09月28日 20時03分30秒 | 愛するということ
東京都が15歳以下の性交渉を条例で禁止することを検討しているというニュースが流れている。

このニュースが実際のものかどうか、実際に条例として制定されるかどうかは別として、こんなことがニュースとして流されている事自体、大人しか存在してはいけない社会だと、行政さえもが考えていることの現れであり、とても嘆かわしい。

あたりまえの話として、人間の生理的な欲求を押さえ込もうとするような条例や刑法があるとすれば、それは愚かなものとしてさげすまれるべき条例や刑法であろう。
このような情報社会になり、「正しさ」が求められるようになっている現代において、いまさらながらそのようなおろかな条例や刑法を「検討する」ということはまずないだろう。
すると、この15歳以下の性交渉を禁止するという条例を考えた行政の人間は、15歳以下の人間の性交渉に対する欲求の増大は、それら若年層の人間の精神的未熟さからきている、と考えているということだろう。

しかし、よく考えさえすれば、昨今の若年層の性交渉に対する要求の増大はけして精神的な未熟さからくるものではない、ということがすぐにわかる。
体の成長とともにホルモンの分泌は始まり、それが子供たちを性行為へ走らせているのであり、生物として自然な流れなのだ。
言うなれば、生理現象の一つである。
近代の子供たちの栄養事情は、今のおじさんおばさん、またおじいさんおばあさんを含めた世代の方々が子供のであったころと比べたら、それこそ天国と地獄ほどの差があるといってもいいだろう。
昔から実証されていることではあるが、性的な成長は年齢に関係なく、肉体的な成熟度に左右される。
また、それらの成長には「栄養素」のバランスは関係なく「栄養」が取れていることが重要。

問題があるとするならば、そのような生物としての摂理、生理現象を、精神的な問題として抑制しようとしている大人の考え方がおかしいのであって、子供たちに原因があるわけではない。

青少年の安易な性交渉への対策としてとりえる行動としては、性行為の若年化は生物としての摂理として認めた上で、若年層に対する性教育の強化を行う、ということが正しいのではないだろうか。

若年層における性感染症の蔓延や安易な性行為への傾倒は、子供たちへの、動物としての「性」に関する道義的な教育や性行為の意義、および性行為に潜む危険性などを、子供たちに正しく教えることの重要性から、長い間目をそむけていた結果に他ならない。
にもかかわらず、感染症蔓延などの原因を子供自身に求め、そればかりか、生物として現れる生理的な衝動を心理的に押さえつけられるものとして「ルール」という形で抑制しようとしている。
そのことは、ある意味、社会全体から子供に向けて行われる虐待、と捕らえられるほどのことだろう。

実際には、15歳以下の性交渉禁止の条例が作られることはなさそうではある。
しかし、出てくる問題を自分が見える角度からしか検討せず、一方的な解釈の元に解決を試みようとするからこそ、個々の問題の対処が遅れており、今回のような性病の氾濫などのこの混ざる状況を生み出しているのだということを、行政にかかわる方々にはよくよく考えてほしいものである。

世の中のほぼ全ての事象は、大人となった人々が勝手に進めてきた政策のおかげでそうなったのだということを、忘れないでほしい。
その責任を、子供たちに押し付けようなどというのは、もってのほかだ。
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「子供たちのことを考えなければ」って、どういう意味だ?

2004年09月21日 14時40分20秒 | 愛するということ
2人の兄弟が川に突き落とされ、死刑が執行され、精神鑑定の結果が下された。

何か、子供がかかわる事件がおきるたびに、
「もっとおとなたちは子供のことを考えなきゃいけない」なんて言葉がいろいろなところに書いてある。

ふざけるな。
馬鹿かおまえら。
子供のことを考えろ?
理解していないにも、ほどがある。

朝の8時に家を出て夜の10時過ぎに帰ってきて、顔を合わすのは寝顔だけというような人々に、何を考えろというのだ。
何かあれば全ての責任を負わされ、家にいる間中子供のことだけを考えていなければならない人々に、これ以上考えろというのか。
何が好きなのか、何がしたいのかさえも知らない人に、何を子供にしてやることが出来る?
全ての危険を取り除いていかなければいけない人が、何を子供にさせることが出来る?

何か物音を立てれば静かにしろとアナウンスを流し、何かにつけては子供の成長過程がどうのこうのと不安を煽り立て、まるで子供を持つことが罪といわんばかりに、社会全体から圧力がかけられてくる。

今、街中には子供が少ない。
あたりまえだ。
何処へいってもうるさいといわれ、少し騒げば、保護者は何をしていると責められる。
何処絵言っても責められるのであれば、我が子を家に閉じ込め、何処にも行かなくなるだろう。
そして、親以外の顔を知らず、いろいろな世界が有るということもわからなくなっていくのだろう。

手をしっかりとつないでおけばいいというかもしれないが、それがどれだけ子供に苦痛を与えることになるだろう。
騒がぬようにしつけなければいけないというかもしれないが、それがどれだけ子供から感情を奪うことになるだろう。

泣くな、わめくな、騒ぎ立てるな、走るな、まだまだほかにもあるだろう、「あなた方」の要望が、今の子供たちの、「怒り方を知らない」「感情をあらわせない」「力の使い方を知らない」などにそのままつながっているのではないのか?

「元気な子に育てたい」「やさしい子に育てたい」という保護者の思いや、一生懸命に考えた子供との接し方を、否定し、握りつぶすことになっているのではないのか?

今の世の中は、そんなことも、想像できないのか?

それに、たとえそれらのことがわかっていたとしても、何もしなければ、創造できない人と同じだ。
この自分も含め。
これを読む貴方も含め。

勝ち負けのある人生など無いにもかかわらず、「勝ち組」などという言葉がはやり、何をすればいいのか解らないにもかかわらず、「勝ち方」を求め、それを子供に押し付ける。

努力したものが勝ち、怠けたものが負ける。
だから、日々怠けずに努力しなければいけない。
それはそうだ。

しかし、なんにために努力をするのか。
何を犠牲にしてもよいのか。
それがわからない状態で盲目に突き進むだけでは、後に見える結果に愕然とすることになりはしないのか。

どうすれば、子供たちを幸せに出来るのかなど、誰も知らない。
一人一人状況が違い、環境が違い、かけられる時間が違い、お金が違い。
誰一人として同じ状況にある子供はいない。
こうすればよいなどという統一的な手法があるならば、それはそれで幸せになれるのかもしれないが、そのようなものを求めてみたところで、手に入ることは無い。
しなければいけないことは、今目の前にある状況の中で、どうすればよいのかを、周りの大人が一緒になって考えてあげるということだろう。


そんなこと、考えなくっても解るぐらい簡単なこと。
でも、多くの人はそれが出来ないでいる。
それをするだけの、余裕が無い。
時間的にも、心にも。


答えは、見えている。
そういうことだ。
解ってるなら、余裕を作れ。
子供のことを考えろ?
子供は、親が笑っていれば笑ってくれる。
ずっと笑っていられたら、幸せだろうに?
金を稼ぐことがそんなに大切か?
金がなきゃ幸せじゃないのか?
金がありゃ幸せなら銀行でも襲え。
金の中で死ねるかもしれないぞ。

いい加減に、気づくべきだ。


文明、権力、効率。
それらのことから手を引くのは、決して、今上げている手を降ろすということじゃない。
それらを使って得ようとする「幸せ」を追い求める、ということに手を挙げる、ことだと思う。


あまりにもいい加減な世の中に強く怒りたい。

今の大人たちは、子供たちのことよりも先に「自分たちの幸せ」を、つかまなければいけないのではないだろうか。

それが出来ぬのであれば。

自分たちのことさえも出来ていないのに、子供たちのことを考えられると思っているならば、それは、とんでもない思い上がり、ではないだろうか。
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正しいやり方

2004年08月23日 14時58分47秒 | 人とコンピューター
今日は、以下の梅田氏のエントリーへのトラックバックを。

Google創業者の強気に振り回され続けた異例のIPO

梅田氏は、上のエントリーの中で、以下のように書いている。

Googleは素晴らしい会社だと心から思うが、5月初旬に本欄で強く批判したGoogleの唯我独尊的経営思想、公開後も創業者だけが十倍の議決権を有する特別株式を持つ資本構造に対する違和感は全く消えていない。

また、こうも書いている

Googleの2人の創業者は、これまでに公開したあまたのベンチャー創業者たちとは全く違う扱いを受けて公開したのだ(無理を通したと言うべきだろう)ということは記憶しておいたほうがいいし、公開企業Googleのこれからを考えていくときに、この要素は非常に重要だと僕は相変わらず考えている。


梅田氏は、Google幹部のとった今回のIPOの方法については、その是非を「直接は」書いてはいない。
ただ、言葉の端々を拾っていくと、株主が決議権を持つという株式会社のありかたとして、一部の優先的な株主のみが実質的な決議権を握るということが、社会的に、そして今後のGoogleの発展において、よいことであるのかどうなのかに対する不安のようなものを感じているのではないか、と思う。

株主総会や、決議権の意義を考えれば、今回のIPOにより公開された株式に付加された条件は、理不尽なものである。
株式に決議権が付与されるということは、一部の関係者による私欲にそった会社の運営を阻止する意味合いがあり、会社本来の意義である公共の利益に反する行動を抑制する鍵となる。
今回公開された株式に付加された条件は、その決議権を実質的に与えていないという点において、株式会社のあり方に反している。

社会の健全な育成を考え、会社の意義である公共の利益を考えるのであれば、その点に違和感を感じてしかるべきだと思う。
ましてや、会社の規模が大きければ大きいほど、話題性が高ければ高いほど、その公共性は高くなり、Googleはその意味においても、今回のIPOの方法に関して、異議をもたれても仕方が無い。

Googleの創業者たちもこのことはわかっていたはずである。
にもかかわらず、彼らは今回の方法をとった。
そして、Googleの創業者たちは「正しいやり方」を通している、という。

そのことを考えると、きっと、Google創業者たちは、今の株式市場に対して、投機的な意味合いしか見出せていないのだろうか。
株式公開の価格設定を高くしたことも、自分たちの会社の株式が、投機の対象になることを避けるためにしたことではないだろうか。
そしてそれは、Google創業者たちが、Googleという会社を運営するにあたり、内部の人間のみで十分に運営できるというおごりにも似た感情をもっていることを、表しているのではないだろうか。

だからこそ梅田氏は、
彼らが万能感を持ったときの姿は、美しくもあり醜くもある。
っと、書いたのでは、ないだろうか。

そう、私は考える。

しかし、私は、今回Googleの幹部たちが取ったIPOの方法について、至極当然のことではないだろうかと、考えている。
万能感についての異論は無い。
でも、これからのGoogleの発展を考えると、今回の方法が最善だったと思う。

私の予想が正しいならば、ではあるが、近い将来、株式市場から投機的な動きは消えることになるだろう。
消えなかったとしても、今までのように会社の経営が株価に影響されるようなことは、少なくなっていくだろうと考えている。
株式という仕組みが本来の目的のとおりに働くためには、そうならなければいけない。
また、以前に書いた「過半数の絶対正義」のもとに、不当な収益、労働の対価に不相応な収益というものは、社会から撤廃されていくとも考える。
本当にそれがかなうのであれば、今回Google幹部たちが取ったようなIPOの方法は不要だ。

しかし。

現実するとしても、それまでにはまだ時間がかかる。
それそこが、問題なのだ。

市場の流れ、世の中の流れをマクロな、永続的な視点で見れば、全体としては「正しいやりかた」のもとに発展しているのは、確かなことだろう。
ただし、その発展の中で、必ずしもはじめに変化をもたらしたものが、その水ら起こした変化によって社会に受け入れられたかといえば、それは、否というよりほか無い。
あるものが「正しいやり方」により起こした変化の流れの中で、そのあるものがその流れの先頭にたちつづけることが出来るかどうかは、解らないのである。

だから、Google幹部たちは、自分たちの「正しいやりかた」によって起こった変化の流れの中で、その流れを作ったものとしての利益を享受したいからこそ、今回のようなIPOの方式をとらざるを得なかったのだろう。
それが、本来あるべき姿と思われるのだから。

なにも、「IPO」という企業活動の一面のみにとらわれなければ、今回Googleがとったような態度を記した企業は、初めてではないだろう。
今までにも、そのような企業はたくさん存在したはずだ。
「正しいやり方」が普及さえしてしまえば、その方法をとっているということが企業のアドバンテージとなり、黙っていても顧客がつくような状況になる。
しかし、その方法だと、普及しない限りは、その方法を理解できない顧客、関係者からは拒絶されてしまうだけになる。
Googleと同じような態度をとった企業の多くは、その「正しいやり方」が普及する前に自分たちの体力が尽きてしまい、その第一線から脱落してしまっていることがほとんどだったのではないか。

そのときそのときの、正しいあり方、をあらわしたものこそが利益を得られる、ということは、普遍の「正しいあり方」であるはずにもかかわらず、それが行われない現状。

今回のGoogleの「おごり」は、そういう状況に飲み込まれまいとするための必死の抵抗だったのだと、そう思っている。
世の中は、それほど馬鹿ではないと同時に、それほど賢くも無い。
社会の中では、今回のGoogleの行動は、不安を抱かせるものだったかもしれないが、わたしは、今回のGoogleの行動を、賞賛したい。

っと、だいぶ前に書いたものをほったらかしにしてしまった。
8月23日に書き始めたもののようなのだが・・・。
ただまぁ、いまだ、梅田氏がIPOについて思うところを語られていないようなので、よしとしよう。

梅田氏の思うところを、お聞きしてみたいと思っていることを記述して、今日はこれにて。
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ネットビジネス?

2004年07月27日 15時47分28秒 | 人とコンピューター
進歩するネット技術、ビジネスとして持続するには?」というエントリーにて、川野氏はこう書いている。

「ネットはリアルビジネスをてこ入れすることしか実は出来ないのではないか」

うーん、どうでしょう?
そうともいえるし、そうでないともいえる。
そんなとこではないのか?

ネットが可能にしたことは、情報の流通の円滑化、自由化。
コンピューターの進化が可能にしたことは、管理できるデータ量の増加。
二つが合わさると、好きな情報を持ってきて、好きなだけ蓄えられるようになる。
それだけのことが出来るようになる。
しかし、それだけのことである。

ビジネス、あえていうならば、「事業」とは、私たちの生活を充実したものとするために、社会に対しての利益の提供のために行われる一連の活動でしかない。
私たちが「現実」に存在する「実体」である以上、最終的にはリアルに結びつかなければ、どんなビジネスも意味は無い。
「ネットはリアルビジネスをてこ入れ・・・」という言葉の裏には、「リアルに紐付かないビジネス」の存在を考えているということであり、そもそもそれ自体が成り立っていないのではないのか?
「ビジネス」の対象とする区分を、境界を何処で区切るかという捉え方の問題であるにせよ、リアルは必ず存在しなければ成り立たないと、私は考えている。

ゲームの世界の土地を売買する、ということが例としてあげられていたが、あれにしても、最終的には所有者の満足、というリアルの自称に結びついていることに代わりは無い。
そこには、それら(ゲーム世界の土地等)を求める人たちが共通に認める価値があり、その価値に対する対価を払うことで、所有し、満足を得る、という流れがある。
この流れの中に、それら(ゲーム世界の土地等)の価値がまったく無いものになる、という変化が起こったら、それは成立しないだろう。
多分、オンラインゲーム中での土地の話を書いているのだとおもわれるが、そのゲームのサービスが終了することがわかった段階で、取引自体が行われなくなることは目に見えている。
何も得られないことが解っていることにお金を出す人は、いないことは無いとしても相当奇特である。
たぶん、そのような不安があるからこそ、河野氏も「私にはよくわからない」とお書きになられているのだろう。

このこと自体は、多分河野氏もわかりきっていることである。

私が「そうともいえるし、そうでないともいえる」と書いているのは、「ネットビジネス=バーチャルビジネス」という捕らえ方をされているからこそ、「リアルのてこ・・・」という表記になるのであり、実際には、「ネットビジネス≠バーチャルビジネス」または「ネットビジネス=リアルビジネス」という捕らえ方をしなければいけないと思っているからである。
「ネットビジネス=バーチャルビジネス」という捕らえ方は、多くの人がしていることであり、これといって珍しいことではないが、捕らえ方として間違っていると、私は思う。
実際に払われるお金は「リアル」のものであるのだから、リアルなビジネスに他ならないのだから。

「ネットビジネス=リアルビジネス」と捕らえていれば、「本業しっかりしていますか?」という問いも出てこないのではないか。

『派手さでもなく、ネームバリューでもなく、要は本業しっかりしていますか?という当たり前の感覚を持って日本のネット企業のありようを俯瞰すると、面白い側面が見えてくるものと思う。』

面白いものとは、たとえば、知り合いが何の計画もなしに、「前から喫茶店がやってみたかったし、まあ、だいじょうぶだよ」といって店を開いてしまった、その顛末というものと近いのではないかと。

ただ、実際には、ネットビジネス特有のビジネスも、ありえるだろう。
たとえば、「出会い系サイト」などがそうなのではないか。
有料会員制のソーシャルネットワークがあったとすれば、それもそうだろう。
インターネット上に、「場」を提供するということは、ネット上でしか、出来ないことだから。

ビジネスは、最終的には顧客が満足し、お金を出してさえくれれば成り立つ。
ネット上に新しく現れたビジネスが、現状までに存在したビジネスのどれに当てはまるのかということを考えていては、取り残されてしまうのではないか。
私は、そう考える。

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産めよ増やせよ

2004年06月24日 04時16分12秒 | 人とコンピューター
インターネットとコンピューターの普及が進み、コミュニケーションが促進され、心が表に現れると、そこにあるものは、性欲となるのではないか。

食欲、性欲、睡眠欲の中で、いま、私たちが単独で満たす事が出来ないのは、性欲のみとなりつつある。
そして、この性欲は、お互いに求めるものが一致した時に満たす事が出来る。
コミュニケーションの円滑化により、お互いの見つめる方向が同じになって行くとするならば、以後、各人の性生活も、より円滑に行なわれるようになるのではないだろうか。
現代日本が抱える大きな問題である少子化についても、ある時を境に、緩やかに解消に向かうものと思われる。

今にある少子化は、急激な時代の移り変わりの中で、他を評価する指標の変遷に、社会の成熟がついていくことが出来なかったが為に発生した、特殊な事象であろうと考えている。
基本的には、自殺やセックスレスなどの事象は、生物としての原則から外れた行為である。
にもかかわらず、それらの事象が現れるという事は、社会の構造に何らかの無理が生じている、ということだと考えて、あながち間違えではないだろう。

現代社会の構造の矛盾の多くは、商業優先主義などによって発生したテレビ・ラジオなどの一部の特権階層による情報操作によって、本来あるべき、直截的なコミュニケーションよりも、生活水準の向上やステータスシンボルの保持など、間接的、二次的なコミュニケーション手段を重視する風潮がつくり出されている事に起因しているのではないだろうか。

ラジオ、テレビの発明により、マスメディアが誕生したこと自体は悪い事ではなかっただろう。
問題は、マスメディアの誕生時からいままで、マスメディアをコントロールしている側による、社会への影響に対する論議が、あまりにもおざなりにされていることにあったと考えている。
史学的見地から考えるに、情報統制こそが支配の実態であり、マスメディアの管制側に立つ人間は、ある意味現代における支配者であったと言えよう。
しかし、当のマスメディアの管制側にその意識があったかといえば、はなはだ疑問である。

メディアの悪影響をいくつか挙げるとすれば、広告により必要以上に購買意欲をあおり、不必要な収入を得るように揚動していることや、テレビの視聴率確保や雑誌・新聞の購買数確保のために、過激な暴力表現や恐怖心をあおる描写により、暴力=権力という構図を作り出してしまっていることなどが挙げられるだろうか。
ほかにも様々な悪影響が存在するが、メディア側はこれらを個人の選択により取捨できるものとし、自らが社会に与える影響を、自分達の視点のみからの判断により無視し続けている。

メディアの主役は、ラジオ、テレビから、インターネットへと移り変わろうとしているが、インターネットが広く一般に使われ初めてから、たかだか10年ほどであり、以降にはまだまだ時間がかかる。
テレビの普及開始時と同じように、いまだ普及率には格差が発生しているのが、現状である。
また、ラジオ、テレビと違い、インターネットは受動的なユーザーは利用者の対象とならず、そのことも普及を妨げる一因になっているのだろう。

いくつかの要因により、メディアの主役の座がインターネットに移るまでには、まだしばらくの時間が必要になるかもしれない。
しかし、いつ主役になるかは時間の問題であり、すでに見えている未来である事に代わりはない。
インターネットがメディアの主役となったとき、多くの人は、今よりもよりよいコミュニケーションを行っていることだろう。
そして、今よりももっと多くの心の交流の元に、愛し合えるパートナーを見つけられるようになると、考えている。

少し時間はかかるかもしれないが、遠くない将来、今よりも多くの愛情に触れながら、子供が育っていける時代が来るのではないか。
きっと、そのときが来ると、私は信じている。
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子供はやっぱり必要。

2004年06月17日 02時55分09秒 | 人とコンピューター
出生率が1.28まで下がったということは、今生まれた子供たちが20代になったとき、その親の世代7人に対して、子供の世代は4人弱しかいない、ということである。

昨日の「子供なんて要らない?」の続きである。

冒頭の記述は、ジョークでもなんでもなく、実際に起こっていることである。
要するには、後3世代ほど交代すると、日本の人口は半分に減る、ということになるのだろうか。

しかし、実際には、それほど危惧する必要は無いのかもしれない。
ここから先は、完全に予想であり、見えている未来ではない。
だから、多くのことはそのまま当たらないかもしれないが、大枠の流れは、あっているのではないだろうか。


今日は、コンピューターとインターネットが社会に与える影響を別の視点から捉えて、人口問題を考えてみたい。

近い将来、私たちの生活には、多くの時間的ゆとりが生まれているかもしれない。
コンピューターやインターネットは、農業や工業などの既存の「物」の生産効率を著しく向上させている。
農業など、今までの人間の歴史の中でもずっと生産効率が向上し続けているものなのにもかかわらず、いまだあがっている。
そして、昨今、インターネットとコンピューターは「物」の生産効率だけでなく、自分自身、要するにはコンピューターやインターネットなどの「情報」に関する生産性にも、著しい向上をもたらしている。

生産性の向上が続くと、どうなるのか?
それは失業率の増加である。
たとえば、情報産業に携わる人間が1000万人いたとしよう。そのとき情報産業の生産効率が2パーセント上がったら、同じものを生産し続ければよいだけの場合、20万人の職が失われることになる。
今までにも、農業や工業では、生産効率の向上により多くの人が失業してきており、情報産業においても、それは例外ではないだろう。

すでに物の生産に関しては十分に生産効率が上がっている以上、情報産業の生産効率工場に伴う余剰人員は農業や工業には回れない。
ではどこへ行けばよいのかといえば、どこかに行くのではなく、ワークシェアリングをすればよいだけの話である。

物の物価というのは、そのものを生産するのに必要なコストがベースとなり産出されるわけで、多くの企業においてワークシェアリングが一般的なこととなったときには、ワークシェアリングしている人たちが食べられるだけの収益を出せる状態となっているだろう。
仕事を分け合う、というのは、さして悪いことではないのだ。

つぎに、インターネットとコンピューターは、情報を発信するというその役割において人間に働く以外のやりがいをもたらしてくれることとなる。
そのことにより、私たちは仕事に全てをかけるようなことをしなくても、精神的な満足感が得られるようになり、また、それとともに精神的な成熟度を増していくこととなるだろう。

このBlogの中では何度も書いていることなので、あまりしつこく書く必要も無いことではあるが、それらの事柄が、私たちに精神的ゆとりをもたらしてくれることになると、考えている。

そして、最後に、そうやって得た精神的、時間的ゆとりを持って、私たちは恋愛に励むことになるのではないだろうか。
幸せならばそれでいい」に書いているが、私たちの人に対する評価は、「お金」や「肉体」から、心に移り変わってきていると私は考えている。
生物としての「種」の強化のため、「肉体」に対する重要視は、無くなることは無いだろうが、それでも、私たち人間の環境への適応能力の賜物というか、「心」や「知識」を重視する方向に、世の中は動いているように思える。

結婚や子育て、恋愛は、そのおおくが、「人のために自分を変えられるか?」が大きなポイントになるのではないだろうか。
そしてそれは、どの程度心の結びつきを得ているか、ということに強く依存しているのではないか。

これから先のネットワークが基盤となる社会では、多くの人が心の結びつきを下にコミュニケーションを薦めることになっていくだろう。
だとすれば、より豊かな恋愛や結婚が、増えていくのではないかと、思うのだ。

これからの世代が既成概念にとらわれず、今までの世代がこれからの世代を搾取しようとするのでなければ、ということが前提ではあるのだが。
まぁ、それほど人間はおろかではないと考えておこう。
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子供なんて要らない?

2004年06月16日 06時44分44秒 | 人とコンピューター
「人間」、いや、「生物」の究極の目的は「自己保存」である。
お金を多く稼ごうとすることも、羨望をほしがることも、全ては他人よりも有利に子孫を残すことが出来るようになるために他ならない。
このことは、意識するしないにかかわらず、「生物」である私たち「人間」の宿命である。

と、今までの世の中では、この前提は多くの場合正しかった。
しかし、最近の私たちの行動をつぶさに見ると、この前提が必ずしも正しいといえない状況になってきたのかもしれない。
「自己保存」をしなくなった、というわけではない。
私たち人間は、「子供を残す」という行為以外にも「自己保存」の実現の手段を手に入れたのではないか、ということである。
「知識を残す」ということにより、自分自身を残す方法を手にいれたのではないか、と考えるわけである。

今までの生物は、死んでしまえばそれで終わりであり、「自分」というものを残す手段を持たなかった。
「人間」以外の生物には、知識という概念は無いため、全ての行動は自分たちの生きている環境に適用するために存在している。
「知識を残す」という事自体が成り立たなかったと考える。
しかし、私たちには「知識」という概念があり、そして、それを自分の死後にも残す手段を手にしている。
ただ、今までは「知識を残す」といっても、多くの人間が本を出版できるわけではなく、自己の存在を残すと認識するにいたる手段がなかった。
それがコンピューターの発展、インターネットの出現により、誰もが「知識の保存」「出版」という行為を気軽に出来るようになったおかげで、自分の存在価値を、知識を残すという方法によって得ることができるようになったのだと感じている。

自己の存在を「文章」や「音声」「画像」などの価値で後世に残すことが出来るようになれば、「遺伝子」を配合を経て残すという手段をとらずとも、「自己保存」出来ることになる。
そのことが、生物としてのあり方として、正しいか正しくないかにかかわらず、「自己保存」の概念を満たせれば、そのことで人間は満足できるのかもしれない。
このことが多くにおいて正しいとするならば、これから先はどうなるのだろうか。

それはもちろん、人口の激減、である。

「子供を残す」事意外に「自己保存」を実現する手段があり、その手段のほうが「子供を残す」という手段よりも楽であるならば、多くの場合においてその楽な手段が選択されてもおかしくは無い。
そうなれば、「子供」はいらない人が増え、人類は子孫を残すことがなくなってしまうのである。

昨今、先進諸国では少子化が叫ばれて久しい。
人口の維持には特殊出生率が2.01を保持しなければいけないということだが、先進国では投にその数値を割ってしまっている。
今はまだ、世界の人口は増え続けているが、それは発展途上国の出生率に頼ってのことである。
しかし、現在の発展途上国の多くでも、このまま文明の発展が進み、生産効率が上がっていけば、やがて先進国と同じように少子化という問題が出てくるだろう。
発展途上国の先進国化は、情報の流通の自由化が行われた今、多くの人が予想していたよりも、かなり早く訪れることとなるだろう。
いつ、先進国化がすすむかはわからないが、そのときは必ずやってくる。
そのときが来たら、世界の人口は、減っていく方向に向かうのである。

すでに日本では、順調に行けば後20年ほどで人口は減少の一途をたどる予定である。
一度減少傾向に入れば、その後に人口の増加を望むのはかなりの努力を要するはずである。
現在の日本の出生率は1.28だったと思うが、この数値は長年の減少傾向の賜物であり、この数値を増やすためにはやはり長年の歳月を要するのだから。
仮に出生率を増やす方向に世の中が動いたとしても、人口の減少がそれほど簡単に回復することは無い。

出生率を増加させる世代は、労働者人口は少なく、出産を行う人口も少ない状況にあり、そこに苦労は集中することとなる。
果たして、それが可能なのだろうか。
それを意識していない状況で、いきなり突きつけられるとしたら、どれくらいの人がその状況を飲み込み、耐えるというのだろうか。
私なら絶えようとは思わないし、これから先に知識の拡大が行われた世代が、そのことを認識せずに耐えて暮らしていくとも思えない。
では、出生率は低下する一方なのだろうか。

少し長くなりそうなので、この続きは、また別のときに考えてみよう。
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消えるメモリー。消えない記憶。

2004年06月13日 06時09分44秒 | 人とコンピューター
最近になって、やっと、マスコミのコンピューターの取り上げ方が少しずつ変わってきた。
以前は、何か事件があったときに、そこにコンピューターがあると、それだけで「病的」なイメージをかもし出すためにわざとらしいことを平気で言ってのけた。
それが、近頃は、コンピューターがあっただけならばそれはよしとして、その上の記憶のなかに、攻められるものがあったとき、それを取り上げるようになっている。
まだまだ、取り上げ方がいびつで、自分たちの好きなように情報を加工してしか伝えないが、ちょっと、進歩した。
マスコミにいる人なんぞ、どうせ馬鹿ばっかり(っとそういう人だけでないことは解っているのだが・・・)で、考え方など変わらないと思っていたが、ま、多少は変わるらしい。

今日は、上の話に関連して、佐世保の事件のことを考えてみたいと思う。
私が、佐世保の事件の一連の報道の中で気になったことのひとつに、ホームページを改ざんした、というものがあった。
加害者と被害者がお互いにIDとパスワードを交換し合っており、相手の掲示板やコンテンツの中で気に入らないものがあった場合、消せる状態にあり、実際に消すことがあったということだった。

このことは、何もそれほど特筆すべきことと捕らえられていないかもしれない。
多くの人が、実際にそのような状況にあったら、いやな情報を消してしまうものだろうから。
でも、簡単に流していいことではない事だと、そう思う。

私たちは、コンピューターの中の情報を簡単に消してしまっていすぎるのではないだろうか。

コンピューターは、その中にある情報を簡単に消せる。
このことは、コンピューターを使う人ならば大半の人が知っていることだろう。

データを消すのは非常に簡単である。
大抵はファイルを消してしまうという、ただそれだけのことだ。
それだけで情報は削除できる。
どんなにデータ量が多くても、作るのに時間がかかっていても、大切なものであったとしても、消すのは一瞬の作業である。
しつこいようだが、コンピューターの中のデータを消すのに、苦労はいらない。

でも、私たち人間の記憶は違う。
そんなに簡単に消せるものではない。
多くの記憶であるほど、時間がかけられた記憶であるほど、大切な記憶であるほど、それを消し去るには時間がかかる。
私たちにとって、記憶を消す、または記憶が消える、ということは、とても重大なことである。

「好ましくない」という程度の記憶や「ちょっとうれしい」という程度の記憶はすぐに忘れてしまう(このことも考え物だが)ものだが
、多くの人に、大切な記憶というものがあり、消したくないと思う記憶、消したいと思っても消えない記憶、というものがあるだろう。
コンピューターの中の記憶は、簡単に消せるものではあるが、実際の記憶と同じように、やはり大切な記憶、というものもあり、それらがあることをちゃんと認識していなければいけないのではないだろうか。

コンピューターの記憶を消してはいけない、とは思わない。
ただ、何かを表現するときには、平たく言えば、何かを書こう、残そうとするときには、それが私たち人間の記憶と同じように「残る」ものなのだと、意識する必要があるのではないか。

まだまだ、コンピューターの上の世界は、現実ではないと捕らえている人が多いからこそ、のことなのだとは思う。
上のような意識を持つことによって、少しでもコンピューターの上の世界も現実なのだと、意識できるようになれば、少しは、いろいろなことがよくなっていくのではないだろうか。

また、コンピューターの記憶を簡単に消せないものと意識することと同様に、これから先の私たちの記憶が、コンピューターの中に残されることによって、今までよりももっと消えにくいものになっている、ということも意識していく必要があるのではないだろうか。

マスコミや政治家による無責任、無理解な発言。
私たち自身による、心無い、共感し得ない発言。
発言者の意図にかかわらず、どのような発言も、誰かがディジタル化し、コンピューターの中に残すことによって、いつまでも残そうと思えば残る記憶となる世の中になっている。
それらの発言がネットワークに載り、誰もが、いつでも見られる状況になったとき、私たちの言葉が思わぬ結果を生み出すことになるかもしれない。

全ての結果を想定して発言をするなどということは不可能であろう。
しかし、自分の発言がどのような結果をもたらすことになるのかを考えることは出来る。
人間の記憶力が、コンピューターによって補われ、望むならば半永久的に残すことも可能になっている現在だからこそ。

自分の発言に対して、その結果を受け入れることが出来るよう、自分の思ったことを率直に話すことが、これから先に発言をする際に、考えなければいけないことなのかもしれないと、そう思う。
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小さな手は何をつかむのか

2004年06月10日 02時38分50秒 | 人とコンピューター
子供たちにとって、ネットはどんなところだろう。

最近の子供たちのネット利用率はとても高いらしいが、何のためにネットを使っているのだろうか。


大人の、あきらめの言葉の数々を見るためか。
匿名だからという無責任な罵声の数々を見るためか。

実社会の中で、私たちは見ず知らずの人間に対して、自分の不満をぶちまけるだけぶちまけてすっきりさせたり、けんかを売りながら歩くようなことをしているわけではないはずである。
少なくとも、そう思いたい。
でも、ネット上にはそれらのものが多く転がっている。
「誰が見るか解らない」からこそ、誠実に生きていかなければいけないのにもかかわらず、「誰が見るか解らない」のに平気でそういうことをしている人たちがいる。

そんな場所に、何を求めるのだろうか。

全てが全て、そんな大人の下劣さだけで構築されているわけではない。
それらのものがほんの少しであることをわからせてくれるだけの誠実さの下の論議や、やさしさにあふれている場所でもある。


子供たちは、そんなネットを見て、何を思い、そして見続けているのだろうか。

私は、たとえそれら見せたくないものがあろうとも、それらを含めた大人の社会にじかに触れるために、子供たちはネットを見ているのではないかと思う。
そしてまた、自分たちだけの世界を作り出すために利用しているのだとも、思う。

小学生から中学生ぐらいにかけて、貴方は何を求めただろう。
求めたのは、お金を求めただろうか。
高いブランド品だろうか。
地位だろうか。
きっとそんなものは求めていない。

世の中に何があるか。
自分はいったい世の中をどこまで知っているのか。
自分は世の中でなにが出来るのか。
そんなことではなかっただろうか。

子供特有の全能感のままで、憧れを追い、自分たちが何が出来るかを考え、それらのことを知ろうとしているのではないだろうか。

また、いろいろなことを知っていくがゆえに崩れていく自分の全能感を、必死になって守ろうとするがゆえに、自分のことを表現しようとするのではないだろうか。

私は中学生ぐらいのころ、自分はここまで出来るのだということを、何かの形で誰かに伝えたいと強く思っていた。

今にして思えばあまりにも稚拙ではあったが。
いろいろなもののデザインをしてみたり。
曲を作ってみたり。
プログラムを組んでみたり。

自分は何でも出来るのだということを、少しでもいいから感じたかった。


何かの意味を持ってネットを利用するようになり始めるころの、小学生や中学生がネットを利用する理由は、これらのためではないだろうか。

私としては、自立する前の彼らが、それらの目的のために玉石混在のネットを利用するのはあまり進められたものではないと思う。
出来るならば、周りの大人たちが、しっかりと見つめ、それを受け入れ、評価してあげなければいけないのだと思う。
しかし、私たち大人の側は、今、子供たちとそれらのことを話すだけの時間をすごしていない。

子供を持っている親に聞いてみたいが、自分たちが聞きたいこと以外のこと、子供が話したいと思っていることを、聞いてあげることは多いだろうか。
夜の夜中まで働いて、かえってもこんなウェブを見て、いつ、話す時間があるだろう。
まさか、話を聞くということを、15分やらそこらの時間と考えているわけでもないだろう。
貴方は誰かと論議を交わすときに、そんな短い時間で話すだろうか。
2時間や3時間は当たり前だろう。
それだけの時間、子供と話しているだろうか。
自信をもって話しているといえる人は、少ないだろう。

だから、彼らはネットに大人の役割を、求めるのではないだろうか。
そこに大人がいることを知るがゆえに。
どのような大人がいるかなど、わからないにもかかわらず。


佐世保の事件は、悲しいことではあった。
思うに、大人が子供を見なさ過ぎる。
ただそれだけが、事件の原因だと、強く思う。


大人の一人として、出来ることを考えたい。


自分の振る舞いを、考えてみる必要はあるだろう。
多分、実際に彼らは、ここいるのだろうから。
そして、これからも私たち大人の側の事情は変わっていかないだろうから。
せめて、ネットの中だけでも大人として振舞えるように。


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子供へのネットについてのアンケートが出ていた。

中学生から高校生にかけて、チャットや掲示板をよく利用する傾向があるのだそうだ。
自分を知ってほしいからこそ、自分を認めてほしいからこそ、掲示板やチャットを好むのだろうか。
それとも、大人と触れ合う場所意外に、彼らには彼らの場所が必要なのだろうか。
溜まり場とおなじで、子供には子供の世界があるわけで。

彼らの場所が必要ならば、それらの世界は、守ってあげなければいけないと思う。
誰かが見ている必要はあるだろう。
時には取り上げる必要も、あるかもしれない。
ただ、本当にどうしようもならなくなるまでは、じっと、そばで見ているだけにしなければいけないように思う。

以前から言われていることだと思うが、子供は、親だけががんばって育てるものではないはずである。
その地域の社会に所属する大人が、その地域で育つ子供たちの成長に責任を持たなければならないはずだ。
しかし、その場となるはずの地域コミュニティは、すでに存在しなくなってしまっている。

だからこそ、地域コミュニティが崩壊してしまった今、変わりに生まれようとしているネット上でのコミュニティの中で、そこにいる大人たちが、子供の成長に対して責任を持たなければいけないのではないだろうか。
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普通の企業である(はずの)Google

2004年06月09日 13時00分25秒 | 人とコンピューター
もし世の中にとってGoogleがすごい企業だとするならば、それはGoogleがすごいのではなく、その他の多くの会社がひどいのだという、それだけのことではないだろうか。



『プライバシー』から開放される日」や「過半数の絶対正義」、また「インターネットを生活の場に出来るか?」や「表現の道具」で私が言っていたのは、で私が言っていたのは、それぞれ、ネットワークが基盤となった社会では、「それぞれ」において正しい行いをしていかなければいけないということ、および、誰もが自由に「表現」を行えるようになったことこそが大切なことだ、ということである。
Googleという会社は、それに沿って正しく行動しているだけなのだ。
なにも、Googleがすごい会社だということではないはずなのだ。
ユーザーの利益を生み出すことこそが業務であるという、どの企業にも言える常識を真摯に考え、実行し、「表現」と「評価」というこれからの社会の中で一番重視される事柄に着目し、そこに特化した業務を行っているに過ぎないと考えている。

開発者に好きなことをやらせていることはとんでもないことなのだろうか。
もしそうならば、開発者が創造できないことを誰が造ることが出来るのか。

「時間をかけて何ができるか考えていこうと思っています。これはまだ実験段階ですから。もしかするとユーザーのほうが、このサービスで何ができるのかアイデアを持っているかもしれませんね。」という言葉や、「Googleでは、ユーザーにとって意味のあるものを提供する方が、目先の収益にとらわれるより重要だと考えています。」という言葉は、あたりまえのことではないのだろうか。
もしそうならば、Googleの英知は全世界のユーザーよりも上だったり、ユーザーのニーズを捕らえることが企業にとってはあまり意味の無いことなのだろうか。

あたりまえのことをあたりまえにやっていることに、なぜ驚く必要があるのだろうか。
一つ一つをとっら得てみれば、普通の企業がやっていることに過ぎないのではないか。
Googleのやっていることは、「インターネット上にはまだ(Googleが到達できていない)多くの情報が詰まっており、それをよりよい方法でユーザーに届けることがGoogleの使命ですから。」というそれだけのこと。
何か特別目を引くことを、やっているわけではない。

Google以外の多くの企業が、Googleのような企業になるためにしなければいけないことはなんだろうか。
それは、「お金を稼ぐ」ことをやめ、「利益を出す」ことに集中することだと、考えている。
「お金を稼ぐ」事それ自体が「利益を出す」ではないことに気付かなければいけないだろう。
「利益を出す」ことに集中すれば、その結果「お金を稼ぐ」ことになるにもかかわらず、それが出来ない企業が多すぎるのではないか。
だからこそ、Googleが特別視されてしまう。
このことは、先日書いた「ネット世代企業であるGoogle 」でも書いていることだが、もう一度書いてみる。


人は、あたりまえのことをあたりまえと考えられない時、自分の理解できる範疇のことを総動員して、いろんな理屈をこねてそれを理解しようと試みるものだろう。
だからこそ、今、Googleの戦略やサービスについて、いろんな論議が行われ、いろんな受け取り方がされているのだろう。
はたして、Googleについての論議のなかで出てくるような理論を、Googleの経営層は考えているのだろうか。
世界中の人が論議しても未だ結論が見えないほど複雑なことを、たかだか数人の経営者が考えられるはずが無いことぐらいは解りきっている。
ただ、そこにはあたりまえのことをあたりまえと取れるか取れないかという、「世代の差」があるだけで。


ちなみに、GoogleにおいてOrkutが予期せぬサービスとなったのは、Orkutのなかでユーザーが発する声は「表現」だとは(少なくとも経営層には)捕らえられていなかったため、Googleがやるべきこととは考えていなかったからだろう。
しかし、Orkutは、ユーザーの支持を得ている。
それは、Orkutが表現をした後に行われる「評価」という行動に主眼が置かれたものであり、「評価」によって形成される人的ネットワークを作成するためのツールだからであろう。
表現と評価は表裏一体の関係であり、どちらから見るかという視点の違いに過ぎないのではないか。
そういう意味で、個人的には、OrkutがGoogleの正式サービスとなる日は案外近いのではないかと思っている。

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上の仮説が正しいとすれば、世の中にはまだまだ「真の」ネット世代は少ないということになるのだろうか。
まぁ、あと数年で変わることではあると思うが。

そうそう。
Googleの経営層のインタビューがCNETに乗っていたことに気付いていなかった。
読んでみて、普通のことしか言ってないよなぁと思うとともに、「あたりまえの事をあたりまえにする」ということが、難しいことなのだろうなと。
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繋がって欲しい事

2004年06月09日 02時21分53秒 | 愛するということ
P-navi infoのビーさんが「UNRWAへの募金」のなかで「森沢典子さん」の文章を転載していました。
文章全体として、考えなければいけないことはいっぱいあるのですが、とくに、その中の一文に、私の目を引くものがありました。

----------------------------------------------以下転載
お顔も見えない方たちに、呼びかけてお金を集めることや、お金を集めるためだけに文章を書くことに、自分自身戸惑いや後ろめたさがあります。私は何をやっているんだろう?お金ってなんだろう?って思うこともあります。
----------------------------------------------転載終わり

お金って、何ですか?

貴方が、そう、聞かれたら、なんと答えますか?
私は、お金とは私たちの愛情が形を変えたものだと、そう考えています。

お金を手に入れるためには、自分の時間を割いて働かなければいけない。
お金をためるためには、いろいろなことを我慢していかなければいけない。

好きなを愛するためには、その人と同じ時間を過ごそうとするでしょう。
自分を愛そうとすれば、いろいろなことが変わっていくことでしょう。

自分の時間の全て、自分の行動の全てを、自分を愛するために、好きな人を愛するために使えたら、どんなにいいことでしょう。

でも、私たちが生活していくためには、どうしてもお金が必要です。
だから、私たちは、人を愛するための時間を削り、自由を削り、それをお金に変えています。
大きなお金を手にしようと思えば、その分の時間を、自由を、そして今その手にある愛情を削らなければいけません。

そして、そうやって手に入れたお金を、私たちは、自分を愛するために、好きな人を愛するために、使っていく。
そう考えています。

ビーさんにせよ、森沢さんにせよ、そこに困っている人たちがいるのだから、助けてあげたいという気持ちから、文章を書き、お願いをしている。
そうやって自分の時間を使っている。
そして寄付をする人たちは、自分の愛情を、お金という形に変えて、困っている人たちに分けている。

そういうことなのだと、思います。


「助けたい」と思う人たちのために、自分の時間を使い、お金を募ることは、お金を無心することじゃなくて、誰かを愛するためにしていることでは、無いですか?

愛することが、悲しいこととならないでほしいと思うがゆえに。

伝わるかどうかは、解らないですが。


そして。


私は、このことを誰かにつなげたい。
たとえほかの人から煙たがられることがあったとしても。
がむしゃらに誰かに伝えたいと思うことが、時たまあるんです。

だから、繋げます。

いろいろなことを知ることが出来るようになったという人に。
たまたまページを目にした方々なのですが、こんなこともあるのだということを知ってほしいと思うから。
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