Programmer'sEye

1エンジニアとして、これから先のコンピューターと人との付き合い方を考えてみたい。

インターネットを生活の場に出来るか?

2004年05月19日 13時17分15秒 | 人とコンピューター
CNET.japanにて梅田望夫氏が「ネット世代とPC世代を分ける「インターネットの隠れた本質」」という文章をこう〆ている。

「それは、「ネットの向こうに存在する不特定膨大多数」への「信頼の有無」。ここに、「PC世代」と「インターネット世代」の違いの一端を感ずるのである。」

ここに、少し疑問を感じてしまった。
インターネットのウェブをブラウジングしていると、自分の知識に対しても懐疑的にならざるを得ないときがあり、いったい、どの情報を信頼するべきなのかということに自身をもてなくなるときがある。
また、ネット上の情報は玉石混在であり、どの情報を信じるかは、ほかならぬ自分自身である。
そのことは、インターネットを使う人であれば、感じたり考えたり、思ったりしたことがあると思う。
ここに、「自分の知識に対しても懐疑的にならざるを得ない」のに、「どの情報を信じるかは自分自身である」ということに、矛盾が起こっている。

自分自身を信じることが出来なくなるにもかかわらず、自分自身がどの情報を信じるかを選択せねばならないのだ。

こんな状況であるにもかかわらず、私たちは「ネットの向こうに存在する不特定膨大多数」を「信頼」しているのだろうか。
この疑問に対して「YES」と答えられなければ、「信頼」が、インターネット世代とPC世代を分ける「違い」と考えることは出来ないのではないだろうか。
ある意味、このことは現実社会(インターネットにしろ現実にかわりはなく、このような表現は嫌いなのだが、便宜上の区別として)でも同じ事が言えるような気がする。
現実社会でも、他の第三者を信頼するかしないか、ということに関しては、個々の人によりけりであり、また、自分自身を信頼できるかどうかにせよ、その人その人によって違う。

では、実際に世代を分けるものは何なのか?

在る同じ時代に、二つの世代がいるとき、そこには必ず何らかしらの「劇的な価値観の変化」がおきているものだと考えられるだろう。
もし、PCを使う人々に、「インターネット世代」と「PC世代」という二つの世代があるのであれば、そこにも、何らかしらの「劇的な価値観の変化」があったのではないだろうか。
そしてその「劇的な価値観の変化」は、やはり「インターネット」の出現により引き起こされたものなのではないだろうか。
そう考えるのが自然であろう。
では、「インターネットが変えた価値観」は何の価値観を変えたのか。
私は、「インターネットが変えた価値観」は、「情報を持つことの価値」だと思うのだ。
コンピューターの進歩が情報の蓄積を容易にし、インターネットは情報の流通の距離をなくしたことで、「情報を持つことの価値」は、昔よりも、著しく下がったのではないか。
そう、思うのである。

インターネットが出現する前までは、情報の流通は物品の流通とほぼ同じ事であった。
情報を収めたメディアを運搬しなければ、情報も運搬することが出来ず、「メディア=情報」であった。
そのため、メディア(情報)を持っていること自体に価値を見出すことが出来た。
それが、インターネットの出現により、情報の流通はインターネットを通してコピーするだけとなり、メディアを保持していること自体には何ら価値を見出せなくなってしまった。
そのことが、「メディア=情報」という概念を崩し、「情報を保持する」ということ、ようするに「情報を持つことの価値」を著しく下げたと考えることが出来るのではないだろうか。

では、この「情報を持つことの価値」の認識の違いが、世代を分けるものだといえるのかといえば、まだ、違うと思われる。
決して「インターネット世代」の人間も「情報の価値」は低いと見ているわけではないだろうからだ。
いや、逆に「インターネット世代」のほうが「情報の価値」を高く見ているのではないだろうか。

「情報を持つことの価値」は、著しく下がったものと認識しているにもかかわらず、「情報の価値」を見出しているとはどういうことか。
それは「インターネット世代」は「情報をもつことの価値」は著しく下がったが「情報を生み出すことの価値」を高く評価するようになっているということ、だと考えている。
ただし、「情報をもつことの価値」と「情報を生み出すことの価値」は、なにもインターネット、いや、PCが出現する以前から、私たちはその概念を知っており、それをもつこと自体が世代の区別とはならないと思われ、インターネットの出現により変わったことにはならない。
要点は、その先にある。

少し遠回りをするが、心理学の学説のひとつに、人間はその精神的な成熟度とともに、他者からの評価を欲し、しいては自分自身の評価、価値を高めることを目的とするようになる、というものがあったと記憶している。
このことは、現実社会での私たちの行動、いうなれば私たちの「生活」は、突き詰めていけば、他者からか、自身からかはおいておくとして「評価される」事を目的としていると考えることが出来ることをあらわしていると思う。
それが正しいとするならば、生活するということは、「価値」があるものを手にすること、生み出すことに他ならないであろう。

それを前提としたとき、インターネットが出現した現代において、インターネット上で「情報を生み出すことの価値」に重きをおくということは、インターネット上にて「生活」する、ということだと、言えはしないだろうか。
インターネットが出現する以前は、PC上で生み出された情報に、価値を付加してくれる人々に発表することは、一部の人たちにしか出来なかった。
それが、インターネットが出現したことにより、PC上で生み出された情報を、多くの人の目にさらし、価値を与えてもらえるようになったのだ。
そのことにより、私たちはインターネットを「評価する場」「評価される場」として利用できるようになった。
先に記述したことから言い換えるならば「インターネットを生活の場としてとらえる」ようになったと言えるだろう。

「インターネット世代」と「PC世代」という二つの世代を分けるものがあるとすれば、「インターネットを生活の場としてとらえる」事ができるかどうかと言えるのではないだろうか。

私は、そう、考える。

------------------------以下追記 2004/05/19 13:30

「世代」と表現するかどうか、という点について。
「インターネットを生活の場としてとらえる」事ができるかどうかというのは、とてつもなく大きなパラダイムシフトだとおもう。
そして、それを「受け入れられるかどうか」ということについては、やはり、「世代」というものが出来てしまうのではないだろうか。

「受け入れる」ということは「(考え方が、もしくは頭のやわらかい)若い世代」が得意とすることであり、それは、否めないのでは、と思う。