Programmer'sEye

1エンジニアとして、これから先のコンピューターと人との付き合い方を考えてみたい。

子供なんて要らない?

2004年06月16日 06時44分44秒 | 人とコンピューター
「人間」、いや、「生物」の究極の目的は「自己保存」である。
お金を多く稼ごうとすることも、羨望をほしがることも、全ては他人よりも有利に子孫を残すことが出来るようになるために他ならない。
このことは、意識するしないにかかわらず、「生物」である私たち「人間」の宿命である。

と、今までの世の中では、この前提は多くの場合正しかった。
しかし、最近の私たちの行動をつぶさに見ると、この前提が必ずしも正しいといえない状況になってきたのかもしれない。
「自己保存」をしなくなった、というわけではない。
私たち人間は、「子供を残す」という行為以外にも「自己保存」の実現の手段を手に入れたのではないか、ということである。
「知識を残す」ということにより、自分自身を残す方法を手にいれたのではないか、と考えるわけである。

今までの生物は、死んでしまえばそれで終わりであり、「自分」というものを残す手段を持たなかった。
「人間」以外の生物には、知識という概念は無いため、全ての行動は自分たちの生きている環境に適用するために存在している。
「知識を残す」という事自体が成り立たなかったと考える。
しかし、私たちには「知識」という概念があり、そして、それを自分の死後にも残す手段を手にしている。
ただ、今までは「知識を残す」といっても、多くの人間が本を出版できるわけではなく、自己の存在を残すと認識するにいたる手段がなかった。
それがコンピューターの発展、インターネットの出現により、誰もが「知識の保存」「出版」という行為を気軽に出来るようになったおかげで、自分の存在価値を、知識を残すという方法によって得ることができるようになったのだと感じている。

自己の存在を「文章」や「音声」「画像」などの価値で後世に残すことが出来るようになれば、「遺伝子」を配合を経て残すという手段をとらずとも、「自己保存」出来ることになる。
そのことが、生物としてのあり方として、正しいか正しくないかにかかわらず、「自己保存」の概念を満たせれば、そのことで人間は満足できるのかもしれない。
このことが多くにおいて正しいとするならば、これから先はどうなるのだろうか。

それはもちろん、人口の激減、である。

「子供を残す」事意外に「自己保存」を実現する手段があり、その手段のほうが「子供を残す」という手段よりも楽であるならば、多くの場合においてその楽な手段が選択されてもおかしくは無い。
そうなれば、「子供」はいらない人が増え、人類は子孫を残すことがなくなってしまうのである。

昨今、先進諸国では少子化が叫ばれて久しい。
人口の維持には特殊出生率が2.01を保持しなければいけないということだが、先進国では投にその数値を割ってしまっている。
今はまだ、世界の人口は増え続けているが、それは発展途上国の出生率に頼ってのことである。
しかし、現在の発展途上国の多くでも、このまま文明の発展が進み、生産効率が上がっていけば、やがて先進国と同じように少子化という問題が出てくるだろう。
発展途上国の先進国化は、情報の流通の自由化が行われた今、多くの人が予想していたよりも、かなり早く訪れることとなるだろう。
いつ、先進国化がすすむかはわからないが、そのときは必ずやってくる。
そのときが来たら、世界の人口は、減っていく方向に向かうのである。

すでに日本では、順調に行けば後20年ほどで人口は減少の一途をたどる予定である。
一度減少傾向に入れば、その後に人口の増加を望むのはかなりの努力を要するはずである。
現在の日本の出生率は1.28だったと思うが、この数値は長年の減少傾向の賜物であり、この数値を増やすためにはやはり長年の歳月を要するのだから。
仮に出生率を増やす方向に世の中が動いたとしても、人口の減少がそれほど簡単に回復することは無い。

出生率を増加させる世代は、労働者人口は少なく、出産を行う人口も少ない状況にあり、そこに苦労は集中することとなる。
果たして、それが可能なのだろうか。
それを意識していない状況で、いきなり突きつけられるとしたら、どれくらいの人がその状況を飲み込み、耐えるというのだろうか。
私なら絶えようとは思わないし、これから先に知識の拡大が行われた世代が、そのことを認識せずに耐えて暮らしていくとも思えない。
では、出生率は低下する一方なのだろうか。

少し長くなりそうなので、この続きは、また別のときに考えてみよう。