おろされてゆく大根の歓喜かな 山十生 『大道無門』
ま、おもしろがり過ぎって声もあがるだろうけど、
何か、マゾっぽくて、いいんじゃないの。
最終的には、「歓喜」への評価が全てだと思うけど、
ここは「歓喜」じゃないと、句が生きてこない。
「喜びよ」「至福かな」、そんなの中途半端でダメ。
まだ、十二月じゃないけど、僕には第九の合唱まで聞こえてくる。
昨日ここに写生のことを書きながら、
灰皿句会で起こったダンディーとKMの写生論争を思い出していた。
論争というよりも、ダンディーからの一方的ないちゃもんだったけどね。
Sさんも心配されて、僕に仲裁を、といった趣旨のメールを下さったものだ。
熱いといえば、熱かったんだろうけど、写生への憧れが先行していた気がする。
当時、僕も含めて、すでにG化調からの脱却を真剣に思っていたし、
その中で「写生(客観)」「モノの取り込み」が中心テーマとしてあったんだけど、
現実は、上滑りしていただけ(ダンディーと僕)だったように思われる。
KMの場合、理論武装は出来ていたんだけど、句でそれを実践し切れなかった、
五年ほど経った現状から振り返ってみれば、そう言わざるを得ないのだろう。
最近の京都支部句会は、ダンディーが入院、そして亡くなったこともあって、
合評句会というよりは、T子姐さんの指導句会という様相を呈している。
KMや僕では、まだまだ役者不足ということだろう。
22日。
普通に仕事。
夕食。
おでん。
熱燗2本。ビール1本。
23日も引き続きおでん。
大根、牛すじあたりは23日の方が絶対に旨い。
表題句は、言うまでもなくダンディーのことを思ってのもの。
得意? の季語の分解のつもりだけど、無理かな?