これでお開き

体育会系俳人のつぶやき

はなびえの花屋は花を飾り立て

2009-04-07 14:07:27 | Weblog

  遠き汽車俯向き下る春の昼   山口誓子  『激浪』


今日の京都は花冷どころか、初夏を思わす陽気だけど、
三月末から四月の頭にかけての期間がかなり冷え込んだので、
さくら自体は開花が早かった割には、とても長持ちしている。
しばらく晴天が続くようなので、この11・12日は最高の賑いになることだろう。

ということで、会社サイドは笑いが止まらないだろうけど、
現場の運転士や駅務員は「もうええやろ」、今や厭戦気分が蔓延している。
僕の場合も、3月22日以来、今日がやっとこさの休日という有様なのだ。


さて、掲句。
眼目は「俯向き」という見立てにある。
高みから下りてくる汽車を擬人化したわけだけど、
機関車トーマスじゃないけど、汽車(電車)にはそれぞれの顔があるわけで、
「俯いている」という把握は、的を得ているという他ない。
(ま、平凡な見立てだという意見も、肯えなくもないけどね、……)

むしろ、ここで問題にしたいのは、
「春の昼」という季語の取り合わせについてである。
取り合わせという前に、実際が春昼の一景を言い止めたのだから、
座五はこの季語になったという方が正しいのかもしれないけど、
あえて、取り合わせの課題として考えてみたいと思う。

たとえば、今はどうか全く知らないけど、
僕がいた頃の「G」京都句会の合評であれば、
言い換えれば、句の重層感を第一とする人達からすれば、
掲句の「春の昼」は、「つまらない」の一言だろう。
どの季語を取り合わせば重層感が増すかまで、ここでは追及しないけど、
少なくとも、

  遠き汽車俯向き下るチューリップ

などの方が、「少しは、ましね」といった感じじゃないのかな?

そういう意見も承知はしているが、僕は「春の昼」を強く支持したい。
何も言わない、しゃしゃり出ない季語、それが「春の昼」なのだ。
その物言わぬ季語が「俯向き下る」という把握を活かしていると思うんだけどな。
仮にここを「蝶の昼」などとすると、この「蝶」がウルサイのである。
いわんや「チューリップ」etc. ということになる。
何も言わない、しゃしゃり出ない季語こそ、季語の真髄なんじゃないかな。

今も、僕の句作りは柔軟、押す時は押し、引く時は引くがモットー。
駅務という接客でも、引いて(お客様本位)ばかりではダメで、
押すときは押さないと、特に繁忙時は客あしらいが出来なくなってしまうのだ。

と、ちょっと偉そうなことを言ってしまったけど、
俳句でも駅務の仕事でも、まだまだひよっこであることにかわりはない。