特別なRB10

昭和の東武バス野田の思い出や東京北東部周辺の乗りバスの記録等。小学生時代に野田市内バス全線走破。東武系・京成系を特に好む

茨城急行 北越ケ谷駅~岩井警察線を追憶した 完 岩井商店街の花

2018年08月15日 23時42分54秒 | 旅行




今日のニュースを見てますと大阪の警察署から凶悪犯が赤い自転車で逃走したとのことで大騒ぎになっていますが、
このブログは凶悪犯と逆で品行方正な小学生が青いバスで警察に行ったという思い出を語っております。



今ざっくり経路を描いて見ると、北越谷から岩井までさぞ時間がかかったであろうと思われるかも知れませんが
わたくしの記憶では利根川を越えれば極めてスピーディーに走ることができたので、想像されるほど時間がかかったようには記憶していません。
わたくしの乗車したバス路線においては、以前お話しした野田市駅~境車庫線のほうがよっぽど体感距離が長く感じられ、
また体感時間でいえば国道6号の渋滞で苦しまされた野田市駅~柏駅西口線こそが最長であったように思われます。

前回は岩井辺田にあった茨城急行の車庫で終わりましたが、終点の岩井警察署、正しくは交番までまだ数多のバス停がありますのでお話をさせていただきたいと思います。






辺田三叉路から次に乗客の目を奪うのが辺田の松並木です。
今も昔も「辺田並木」という分かりのよい名前のバス停が当地に据えられています。
木々は昔はこんなチョロチョロした姿ではなく、子供の小さい目にはまさに「生い繁る」といった感じの豊かな枝ぶりでした。






 平成5年頃の辺田並木バス停付近(『いわい』 岩井市教育委員会)
この横断歩道の上のほうにかつては「スピード注意」とか「シートベルト」とか交通標語が書かれたアーチが設けられていて
生命力のない金属物でありながら妙に並木の松とマッチしていて独特の風情を醸し出していました。

ヨークマートの看板手前の爆弾ハンバーグやらごちゃごちゃ店がある辺りは当時、ナントカ木材だか材木だかいう木工所のような建物があって、
いつ見ても並木の影で建物が暗く見えました。
松並木は元来道路の両側に生えていてそれは大そう風情があったでしょうが、戦後の道路拡幅のとき片側だけ根っこから抜いて撤去してしまったそうです。

北越谷・野田・岩井間のバス路線は昭和の御世、現存する七郷経由と廃止された小山経由との2本立てであったことは以前このブログで申し上げた通りです。
わたくしが岩井行きのバスに乗るときは沿道がのどかでかつ本数が少なくレア度が高い小山経由を好んでチョイスしていて、
こちらの七郷経由は岩井警察の茨急と岩井車庫の東武とを合わせて結構な本数があったため、
いったん起終点間を乗りつぶした後はさほど積極的に乗ることはなかったと思います。

しかしながらバスの行く手を数秒間とはいえ暗がり道に一変させるほどの松並木は今より枝が大ぶりで、
陽光眩しい野っ原の一本道をだだ走る小山経由では見ることのできない眺めであり、
ともすれば平将門率いる坂東武者の武勇を宿した霊木のごとき感もあって、
視界に松並木が飛び込む一段高いオタク席に座っている気持ちのだらけた小学生の心を引き締めるものがありました。





当時この路線に乗った方ならば岩井辺田の並木と聞いて必ずやセットになって思い出されるのがビクターの岩井工場でありましょう。
白黒からカラーへのテレビ受像機交替期の昭和41年に誕生したこの工場は平成10年頃に閉鎖されてヨークタウン坂東なる商業施設に変わってしまいました。
工場建屋上の「ビクターワイドテレビ VICTOR JVC」のサインはRGB各色を使った非常にカラフルなもので
わたくしの小学生時分も変わらぬ形で松の枝の間から見えました。


通勤時間帯にこの路線に乗ったことはありませんがビクターにバス通勤していた人々は辺田並木の次の「原口」で降りていたそうです。
夏休みの平日真っ昼間に愛宕駅から乗ってきてここで降りる営業回りに来たような風采のオジサンがそこそこいた記憶があります。





工場入口は原口の停留所と今も現存する隣の「最速2時間OK」と謳っているワタナベクリーニングの間にありました。
入口真ん前には並木を構成する一本の松の巨木が邪魔するように生えており、それが却って冷え冷えとした工場の眺めに潤いを与えているように見えました。
現在は引っこ抜かれてるようで残念です。
クリーニング屋さんのそのまた隣に「お食事処 チンチクリン 珍竹林」という屋号で青地に白文字の暖簾を出していた
工場の勤め人相手の飯屋だか赤ちょうちんのようなお店があって
「名前が面白いな、お店を始めるときにはナントカ商店ではなく人々の口にしやすい言葉を店名にするのが大人たちの知恵なのであろう」と思って眺めた記憶があります。





現在急行運転となってしまった関鉄バスも原口には停まるようです。





ブラウン管カラーテレビから4K薄型へ時代が変わっても
ヨークタウンの駐車場真ん中に墓標のように残るビクターの銘板。





原口を出ると原口北、新町十字路と停留所が続くのは昭和の昔と同じです。
その辺りは高橋医院や今はもう無い「いこい」という小さなパチンコ屋くらいしか記憶になく
地味な通りでした。






新町十字路バス停の先にある交差点が本物の新町十字路で、おおむねここから岩井の商店街がズラズラーと並び始めていました。
現在のように幅広い歩道もなく路側帯の白線が両端にひいてあるだけの通りには自転車、歩行者、路端に寄せて停まっている車がぞろぞろいて
バスは手際よく右へ左へとハンドルを切りさばいて進行していきました。
電線地中化など夢のまた夢の時代なので辺田並木の松とは比べ物にならないほどの本数の電柱がそこここに立っていました。






新町十字路にはスタンドがあります。今はエネオスですが、昔は赤いスリーダイヤモンドが描かれた三菱石油でした。
わたくしが少年時代ひとかたならぬ思いで何度も乗った小山経由の岩井車庫~野田市駅線の東武バスは
この交差点を曲がって商店街を抜け出しのどかな小山方面へ行っていました。
かしわ家というお店も当時からあって、家族でご飯を食べに来たことがあります。美味しいです。

当時の岩井の商店街の際立った特徴として今なおわたくしの脳内に強烈に残っているのは、
かしわ家看板に描かれているのと同じ薄桃色と緑色をした大きな造花が商店街中のいくつもの電柱にくくりつけられて、
このブログ冒頭に掲げた下手くそな絵のように商店街を賑わしく飾っていたことです。
その花の高さはバスの車窓とほぼ一致し、アーケードも歩道もない道路でバスに接近して建つ数々の商店の軒先を明るく華やかに映し出し、
自転車をキコキコこいでいる同い年ほどの群れなす少女でもあらばそれあたかも花の妖精が戯れているかの如きで、
路線バスに傾倒する以前TVでよく見ていた『花の子ルンルン』を想起させて止まないものがありました。






交差点斜め向いの北島商店は当時もあって、小山経由の岩井車庫行に乗って信号待ちしていると前方真正面に花飾りともどもよく見えました。
道挟んだ隣のIEスクールとやらは当時は無く、「サッポロ樽生」とかなんとかポスターを貼った酒屋さんでした。
花に水、とばかりに薄桃色の花飾りの目の前を暗い水色の塗装カラーで東武より角ばった感じのするボディを揺らして水海道へ走り去る
「関東鉄道バス」という乗り物を生まれてはじめて目の当たりにしたのもここでの信号待ちの時でした。






小山経由でも七郷経由でも茨急でも関鉄でもこの新町から終点まで同一経路になります。
バス停のポールは東武・茨急共用の橙色のと東武より幾分背丈の低い関鉄の白色のと2本並び立ちそのスタイルは車庫一つ手前の「上鵠戸」まで変わりませんでした。
関鉄は円板に「岩 井」とあり白色の時刻表板1枚しかありません。
東武は上下2行で「岩井車庫」「岩井警察」と並んで書いてあって、時刻表は東武用1枚と
行先欄に「岩井警察前」と漢字五文字が書かれた茨急用の1枚とで上下2枚付けられていました。
岩井行き側のバス停の目の前にかつて「フラワー」と看板を出した本物の花屋さんがあって
当然軒先にパンジーとかスイートピーとか綺麗な花々を並べていますから電柱にデコレーションされた花飾りとあいまって、
バス停の上を見ても花、下を見ても花、前方を見てもまた並んで咲き競う花、岩井商店街がまるで花の国のように見えました。

先述のように新町停留所は岩井の商店街の始まり口のようなポジションでした。
恐らく買物目的でしょうが、小山経由にあった「天沼」という停留所から乗ってきてここで降りていった赤ちゃんを抱っこした夫婦がいました。
愛宕駅以降で小山経由の岩井車庫行に乗ってくる人というのは大変珍しかったので覚えています。







その次の岩井局前のバス停そばには「将門煎餅」というお店が昔からあります。
いかにも将門公をイメージさせるように白地に黒文字の大きないくさのぼり旗がアドバルーンのようにバサバサとひるがえっていて
郵便局など消えかすむほどに大いに目立つお店でした。
このお店には「下総名物 将門煎餅」という貼り紙があって、小学6年になって日本史を学ぶようになると
「うむ、岩井は野田と同じ下総国であったのだ、だから野田みたいに煎餅屋がそこかしこにあるのだ」と思いました。
なお岩井市は旧国も同じですが旧藩も野田と同じ「関宿藩」ですからほぼ近親と言って良い史的関係があるのです。
煎餅の焼き色のような出っ張り看板と白い軍旗と桜餅のような色をした花飾りと店のすぐそばを動く真っ青な茨急バスによる色のコンビネーション。
その美しさは語彙力の貧困な小学生には到底言葉に変えられないほどで、茨急の塗装替えや商店街の大規模改装、
バスと商店の間を大きく離間させる幅広い歩道を設けても誰一人歩く者のない現在の岩井商店街の姿を見ると、昭和の遠ざかりの早さに嘆息を禁じ得ないところです。







5つもあるバス停の向こう、郵便局の隣に書店があります。
正直申しますとわたくしが岩井行きバスに乗って終点まで行ったのは数える程度で、大抵はここで途中下車し、
将門煎餅の真向かいに今もあるこの「マスゼン」という本屋さんで立ち読みをして帰りのバスを待ったのがほとんどでした。
本屋さんは道路拡幅などなかった昭和時代でも道路から引っ込んだところにあってますます立ち読みにふさわしいポジションでした。
通りに面して「小学館の学習雑誌」という看板が掲げられていましたが、残念ながら学習雑誌ではなく中岡俊哉の恐怖の心霊写真とか学習と言い難い本ばかり読んでました。
昭和時代の本屋さんはいちいちカバーやラッピングなんかしませんので助かりました。
本屋の隣にはフォトショップ山口?あるいは田口?そんな名前のカメラ屋さんがあり「DPE」という置き看板が路上にありましたが現在は店ごと無くなっています。





  
茨城急行終点の岩井警察署前にたどり着きました。今現在はもっと先ですが。
小学生時分はバス停には『署』が抜けて岩井警察前と書いてありました。
警察署の建物には署でも交番でもなく当時は建物上部に大きな文字で「境警察署 岩井幹部派出所」と書いてありました。
商店街のピンク色の花飾りの並びもここより数十メートル手前の「鎌倉屋」という和風旅館周辺で終わっていて、商店の並び自体も警察前でおしまい、という様相でした。
野田方面行き側のバス停前に「オモチャのおくむら」というお店があってそれがバス通り沿い最果てのお店であったろうと思います。今では店すらありません。
ここから先東武の岩井車庫まではGSが一つあったのと車庫の脇に大衆食堂らしきものがぽつねんとあったことくらいしか商業施設の記憶がありません。




  
岩井バスターミナルが今ある場所はターミナルどころかバス通りから一段も二段も低くなった全くの畑地で
季節に恵まれれば新鮮な葉物野菜の青々と広がる綺麗な光景を拝むことができました。
また関鉄の終点「岩井」は車庫ではなく単なる折返スペースであったことはこのブログにたどり着いた方には常識以前の事柄かも知れません。




警察署前の次に「総合文化センター」なる名前のバス停があります。
もう商店街の街並みは終わってますから前のバス停からうんと歩かされる所にあります。
わたくしの時代はこのようなテレフォンショッピングみたいな名前ではなく「下鵠戸」か「中鵠戸」・・・
はたまた「東鵠戸」か「鵠戸東」であったか記憶がぶれてますが、少なくも「センター」などというAKBのポジションみたいな片仮名のついた名前ではありません。
「上鵠戸」はこの一つ先に現存し、何も付かない「鵠戸」は岩井車庫~若林~境町線という
昭和50年頃に廃止された古路線の途中停留所名称に取られていますから、どれかのはずですが、その肝心な部分を忘れてしまいました。
記憶に間違いないのは岩井車庫への路線最後の運賃区界停留所であって運賃表示器の幕にその名が出ていたということです。
ともかく鵠戸というワードがここと次と2回続けて車内に流れたはずで、だからこそわたくしはこの画数の多い漢字を小学生時代に正しく読めるようになったのです。
先述のように車庫まで乗り通した回数が少ないのでなんとも記憶が欠落しております。
ところで「鵠戸」もまた難読地名の一つでうっかりすると湘南の鵠沼海岸と間違えそうですが、クグイドと言います。
都から坂東に下った親鸞上人が南無阿弥陀仏と唱えて沼底の竜の御霊を成仏させたという美しい伝説を持つ湖沼「鵠戸沼」を埋め立ててできた土地です。




さて、東武時代の岩井車庫は茨急払い下げとなった現在もなお残存していますが、この車庫は芽吹大橋開通以前には存在していないことがいろいろ古い地図を見ていると分かります。
すると芽吹大橋開通以前、岩井のバス路線はどこが終点だったか?
それこそが茨城急行が終点にしていた岩井警察署前であったろうと思います。





今ここに鉄道省編成「全国乗合自動車総覧」のうち、野田の乗合自動車王、桝田定吉氏の名がある茨城県猿島郡の頁をご覧いただきたいと思います。
番號1の岩井~小山渡船場の起点はそのまま現代の坂東市岩井2895番地のことであって、すなわち今われわれがバスから降り立った岩井交番のことです。
番號3は、分岐点だという「岩井町482」の字名が略されどこの482番地か分かりません。
旧岩井町には岩井・辺田・鵠戸の3つの字(あざ)があって、もしも岩井町482が岩井町「辺田」482番地だったならば
これは前回お話しした茨急岩井営業所のあった辺田三叉路のことです。
終点の猿島郡七郷村矢作87番地はこれも前回に「七郷支所前」というバス停のエピソードで触れた旧七郷村役場のことです。
戦前の地図を見ますと岩井町・七郷村間は細っこいくねくね道しかなくようやく辺田三叉路にたどり着き水海道との間を
当時としては比較的すっきりめの道で結んでいた辺田並木前の道を現在の岩井警察前まで達して路線終了としていたならば、
10.3なる粁程は極めて自然な数字として了解できるのです。

他の観点からみても例えば、岩井警察署前は猿島沓掛経由あるいは猿島生子経由で下妻駅・境町に通じていたという
前世紀に失われた幾つかの古路線の分岐点にもなっていたところで当地の路線バスを振り返るとき極めて重要なポイントであろうと思うのです。




北越谷駅と警察なり車庫なり岩井市を結ぶバス路線は今世紀最初の年2001年9月30日の運行をもって終了しました。
その当日または前日9月29日に撮った岩井車庫のバス停です。
さらに時代を遡れば昭和の御世には岩井車庫には建屋が3つも4つもあって、
「東武鉄道自動車局 岩井出張所」と白地に黒文字の立て看板がありました。
洗濯物が干してあったり、一服しながらスポーツ紙を読む運転士のおじさんたちがいました。
隣の「めぐり愛」という店のところにはその頃運転士相手と思われる「よっちゃん食堂」という飯屋がありました。




写っている時刻表の再現を試みるとこのようになります。読取不可ないし推定した部分は「?」を入れました。
現在の時刻表とぜひ見比べていただきたいと思います。





 
岩井の商店街は年に数度、歩行者天国になりバスは迂回します。
迂回ルート上に「四ツ家」という臨時バス停があります。
頭の丸板をよく見ると「ふれあい公園前」もう一つは「東埼玉ネオポリス入口」と書いてあるようです。
このバス停たちもかつての青い茨急バスと同じように川を越え時の流れを越えて故地埼玉から流れつき今ひっそりと岩井の隅で穏やかに最後の時を待っているのです。

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