野田市の愛宕駅隣にあったイトーヨーカ堂野田店は千葉県内に出店した最初のヨーカドーとして知る人ぞ知るところであろうと思います。開店したのと同じ年わたくしは野田市に生まれました。
そして家族一緒にあるいは一人でこの野07系統 野田市駅~流山駅前に乗り愛宕神社で降りてヨーカドーへ行きました。
惜しくも地元民しかわからないような複雑な事情があって東武バス野田出張所廃止の直後にヨーカドーは閉店してしまいました。東武バスとヨーカドーというわたくしの少年時代を飾るキーアイテム2つが同時期に消えたことでわたくしは非常な衝撃をうけました。
今現在まめバスの南ルートというのが走っていて流山街道にある停留所の位置はほとんど当時と同じところにあります。野07系統は東武撤退後、茨急が引き継いで2002年12月31日で完全廃止された、とのことですがまめバスはその約1年後に開通しており、ブランクが短いので停留所の手続きがスムーズにいったのかもしれません。
わたくしは中学1年まで野田市山崎に住んでいてその後市内の別住所に移りさらに2002年に都内に転居した経緯があり、茨急時代やまめバス開通時の顛末、ヨーカドー閉店時の模様はよく知りませんが、
鉄道と異なり路線バスの記憶というものは記録できるときに記録しておかないと忘却の彼方へ行き歴史の闇に包まれてしまうものです。このブログをお借りして後世に伝えたいと思います。
現在まめバスは流山街道からちょろちょろ外れて街道から外れた住宅地へ寄り道しながら街中に向かっていますが、この野07は愛宕神社まで街道を外れずに進んでおりました。
まめバスの寄り道というのがちょっと素っ頓狂過ぎて乗っててもちっとも記憶が蘇りませんのでわたくしは実際に当時のルートを練り歩きました。
山崎新田の停留所跡。現在同位置に「東新田自治会館」なるバス停があり、訪れた時はまめバスのポンチョが止まっていました。湯の郷とやらはいつ出来たのか知りませんが、当時はゴルフの打ちっぱなしがありました。
他には信号下に薬局・酒屋の2軒と向かいにガソリンスタンド。こんなにロードサイドショップなどなくただ森のみ。
先方に見える手押し式信号は昔からありました。小2くらいの頃に大型クレーン車が信号機にひっかかって横転して対向車を巻き込む大事故があり人がわんさか集まって野次馬見物してました。
山崎新田から山崎宿(しゅく)間にある「大紫典礼」。もうわたしが物心ついたときからここにあります。この看板は昭和の頃は名前のとおり紫色だったかも知れません。この看板の高さがバス客席から見るに実にほど良い高さなのは変わりません。
山崎から続いてきた鬱蒼たる深い森はこの看板が見えてくると大体終わりで以後、野田の町中にたどり着くまで低層中層な一般住宅や個人商店が連続して車窓に現れてきました。なおこんな交差点だのハローワーク野田だのに通ずる太い道は昔はありませんで、ぺんぺん草がもっさり生えた荒地に平屋の公営住宅がぽつぽつあるだけの、西部劇に出てくるテキサスのような光景でした。それが大人の心をつかんだのかしばしば東京理科大のお兄ちゃんたちが歩道に架台を置いて油絵を描いてたものです。
「梅郷駅入口」停留所跡。歩道橋のすぐ下、「富士火災」とある自動車工場の向かいにありました。昭和時代の梅郷駅前はバス乗り入れなど到底不可能な狭隘さで、かんな削りしたながーい木材を店前に立てかけた材木屋さんと真冬でも表に冷たい水を垂れ流す魚屋さんと公衆電話BOXが2基しかないという様相でした。まだ山崎小学校は開校していませんので私の通っていた小学校には運河~梅郷間を電車通学してくる子が多々おり、この歩道橋を渡って駅へ向かうよう周知されていて、道路をそのまま横断しようとする児童がいないか見張りをする先生がいつもいました。
「南部中学校入口」。「中入口」で終わらず中学校入口とアナウンスされていたはず。東武時代と変わらないポジションにまめバス乗り場として今もあります。小5、小6の頃一人で乗っていたら南部中学校ではなく南部小学校の先生が乗ってきてアワ喰って次の停留所で降りて逃げたことがあります。
バス停「大和田」があったあたり。まめバスのポンチョが走ってきてます。まめバスの大和田停留所がもっと南に位置して立っていますが昭和56、57頃はこのエネオススタンドのちょっと手前にあったように思います。
スタンド奥の赤っぽいマンションは昭和55年ごろに当時大変珍しい存在だったセブンイレブンがあったところでそれまでコマーシャルの「せぶん いれぶん いいきぶん、開いててよかった」という歌でしか知らなかったのでバスに乗ってて見かけて興奮しましたが、数ヵ月後に「鴻」という屋号の個人経営の商店に変わってしまいました。
「鴻」というのはこの近所にあったオオトリ建設とかいう土建屋さんだったと思います。今もほど近くにセブンイレブンがありますがずっと後年に出来た店舗であろうと思います。
こことか次の「桜台」などは鉄道駅から遠いので朝方の便だとOLさんや制服姿の高校生などが乗ってきたものです。
大和田・桜台間にあるこの新聞屋のたたずまい、子供の頃バスから眺めたのと趣が全然変わっていません。読売新聞の看板の上部ロゴがYCじゃなくオレンジ色の旗のようなもので東武バスの現塗装色みたいな色してました。
今現在まめバスにある「桜台南」と「神明神社入口」の2停留所の間にあったごく普通の民家の軒先あるいは玄関先に東武時代の「桜台」停留所があったと思います。そのお宅はまったく特徴のない民家さんだったのと、今訪れてみたら空き地があったり見覚えないディスカウント店が出来てたりしてどこだったかわからなくなりました。
平成初期のある春の日、大学生だったわたくしは、諸事情があって桜台から流山市内に向かうためバス停で待ってたら近所の奥さんがくだんの民家さんに回覧板を渡しにきてそのまんま玄関開けっ放しで井戸端会議を始めてしまい、「お邪魔かな?違うバス停に移動しようかな」と余計な気を揉んでいるうちに流山行きのバスが見えてきてホッとした、という記憶があります。懐かしい思いで久方ぶりに時刻表見たところ当時すでに朝・昼・夜の3本しかなくわたしが乗ったのは18時台に桜台を通過する赤い方向幕の終バスでした。
長命寺。この信号機も物心ついたときにもうありました。夏などバスの窓を開けて走っているとここいらへんから醤油の臭いが漂ってくるのでわたしはこのお寺をキッコーマンの倉庫か何かだと思っていました。醤油の臭いがするということは駅まで至便な町中に近づいた証拠でありこの辺で乗り降りする人がいた記憶はありません。
下町交差点。ここから商店街が始まりますが、もう今ではご覧のように車が多くて人はほとんど歩いていないという、地方都市特有の残念な光景が広がっています。
向かいの対行車線に柏高島屋のロゴの入った広告付き方向幕の柏行きのバスが信号待ちしていることが多くて、幼い頃、高島屋は野田にあると勘違いしていた時期があります。ちなみに高島屋が作ったローズハイツマンションなる建物が野田市にあります。
角地には大昔野田警察署があり昭和30なん年かに国道16号沿いに移転したそうです。その跡地にはわたしが物心ついたときからマスダヤというスーパーがありました。食料品ばかり売ってたように思いますがあるとき「靴下詰め放題」というのをやっていて袋に入るだけ靴下売ります、という不思議な客寄せをしていたこともあります。
「東武バスのりば」の文字が残る野田市駅前の商工地図。右から下・仲・上町と並んでいます。
下町からキッコーマン前停留所間のこのあたりに「やぎや」というおもちゃ屋さんがあって、ヨーカドーには売ってなかったコンバトラーVの超合金がウインドウに飾ってあるのがバスの車窓から実によく見えて、のどから手が出るほど欲しくて欲しくてたまりませんでした。
岩井車庫から来る茨急の野田市駅行き、下町停留所。ゴミ袋がたもとに置かれていてバス停なのかゴミ集積所なのかよくわからない状態になっています。
昭和のバス黄金期には商店街のバス停を毎朝清掃するという極めて高い民度がまだ野田に残されていました。仲町とキッコーマン前の2停留所で利用者が一日に「何百人」だそうです(昭和42年 野田市報)。便所掃除人がいなくてコンビニがあるだの無いだの見苦しいゴタゴタおこしているバスタ新宿とはレベルの違う心洗われるエピソードです。
市報の画像見て思い出しますがキッコーマン前はかつて小屋が付いてて実にしのぎやすい停留所でした。昭和56年だったかと思いますがキッコーマン社がキッコーマン醤油から社名変更したということで街道沿いのだだっ広い社員駐車場を開放してキッコーマン主催で玉置宏やら金沢明子やら当時キッコーマン製品のCMに起用されてた竹下景子やらをMCに招き何か大きなイベントをしておりました。そのとき金沢明子が「すごいわよね、バス停にキッコーマンってあんのよ、待合所までついちゃって」などと言っておりました。
さらに記憶をさかのぼると野田の商店街はキッコーマン前のバス停周辺以外はアーケードで覆われておりました。雨の日でもアーケード下で「ムラサキスタンプ」という商店街加盟店でしか付与されないスタンプカードを集めた人を対象に福引などやっていました。
野田営業所車の車内ワンマン表示板の裏面に必ず広告が付いてた、はんこの晴山堂。
愛宕神社の交差点。愛宕駅方面から黄緑色の茨急バスがヌっと出てきていますが、昭和50年代ここはもうブルー&クリーム塗装の東武バスがとんでもない頻度で行き来しておりました。
いつの頃だったか神社境内で菊の品評会があって両親とカメラ持って見に来たことがあり、当時乗りバスにはまってたわたしは「バスも撮ってぇ、バス」とねだって、10ショット以上はこの交差点で信号待ちしていた富士重工3Eの東武バスの写真を撮ってもらったと思うんですが実家をいくら捜索しても出てこなくて困っております。
「加圧」なんとかと電光掲示のあるあたりに境車庫・関宿工業団地入口行き(廃止)・野12 東宝珠花行き(廃止)のバス停がありました。
柏・流山・越谷方面はこちらから。このバス停のすぐ裏には「立澤病院」という伝染病に特化した病院があって、建物外壁がご覧のブロック塀すれすれまでありました。ブロック塀上には何も無く、バス待ち人はこのブロックの上に尻を乗せて背中を外壁につけて座って待っていました。
かなりローカル度を増してきたのでここで平成初期と思われる野田市内のバス路線図をご覧いただきましょう。
出典不明のこの路線図はこれまた出典不明の野田市の地図に付録されていたもので地図ごと昔野田の実家の冷蔵庫に貼っていたもの。小学校前・中野台間の中央出張所前というのが昭和時代は「市役所前」でした。東武バス野田営業所22-1595などと書かれてますが、市役所は移転しているし、梅郷駅~野田梅郷住宅線が描画されているので疑いなく東武バス柏営業所野田出張所時代のしろもの。昭和時代のしろものではありません。
愛宕神社前、当時は前を付けず「愛宕神社」と言っていたこの停留所は野田市駅から来た路線が最初に迎える運賃区間境界点であり、整理券を取る最初の停留所でした。岩井方面から来た北越谷駅行き、あるいは昭和56年当時すでに1日2便しかなかった「野08 北越谷駅」の幕を出した車両に乗ると整理券番号が大きくなります。野07系統の話をしておきながら野08系統の話をしないのも何ですがそれはまた別回にて。
当時の運賃表示器は幕式で、越谷線なり柏線なり大利根温泉線なり乗りつぶしのため始発地たる野田市駅から乗ると、区界停留所欄には【① 愛宕駅 愛宕神社】と異なる停留所名が並列表示されていて駅と神社、果たしてどっちが境界になるのだろうか?と思って見てました。実態は神社のほうが区界になっておりました。逆方向の各地からの野田市駅行きに乗ってくると今度は判りやすく【⑪ 愛宕駅】のように単体表記されていて駅まで運賃が変わりませんでした。
当時からバスは手を上げなくても停留所に人がいるのを見ると止まってくれてましたが、わたしはバスがくるたびに「ねえ、手上げていい?」と母に聞いて手を上げていました。越谷駅だの柏駅西口だの目的外のバスが来ても上げたくてしょうがなかったものです。
今は病院は無くなり名前だけ残って駐車場になっています。
あるとき、母が見間違えて「上げていいよ」と言われて手を上げたところまったく行き先違いのバスで、たまたまそのバスに乗る人がいたので事なきを得ましたが、その車両は前扉を開けて人を乗せ、乗った人は運転手にどこそこと行き先を言って運賃箱にちゃりちゃりと音を立てて小銭を放り込んでいました。
当時野田に前乗り事前申告制の路線があったのでしょうか。あのバスは一体どこを走る路線だったのか、後乗りだったけどたまたまその時だけそう対応しただけなのか、未だに深い疑問として残っております。
しかしまあ路線バスの乗り方というのは前乗り後乗り先払い後払いといろいろあってここらへんの面倒くささがバスの欠点であるのは間違いないです。均一運賃制なのに前乗り後払いのまめバスなんかその最たるものですけど。
この社殿の屋根の向こうにかつてはヨーカドーの鳩のマークが見えました。
野田という土地は陸上交通がすっかりおそ松さんな分、水運が発展してて鹿島神社だの香取神社だの利根川の水の神様がめったやたらいるのですがこの愛宕神社は火の神様の神社だそうです。
ヨーカドー野田店の跡地は10年間ほど更地にされてたそうですが2013年にヨーカ堂の「ザ・プライス」が開店しました。なるほど、立地こそ当時のままですがわたくしの目には全く別の店ですな。それに駐車場路面が綺麗すぎる。昔のヨーカドーの駐車場はもう路盤がやられててファミコンのエキサイトバイクみたいにデコボコしてましたから。
かつては2階建てで屋上にメダル制のゲームコーナーがあり、1F入口には愛宕駅と愛宕神社の手書きの『バス時刻表』がセロハンテープで貼ってありました。1日に2、3本程度しかなかった茨急の岩井警察前~北越ケ谷駅線も記されてましたが間違えて岩井車庫行きとして記されていました。また当時新聞の折込でよく入ってきた地元の商店の宣伝もかねた非公式の時刻表、例えばこんな感じのがそのまんま貼ってあった時代もあります。
当時はネットで時刻表検索なんて想像することすら全く出来ない時代でこのような公共スペースで人目を忍びつつ横目でチラ見して確認していたのです。
ヨーカドーの駅側出入口にあった「レストラン森永」はこの辺ですかね。入口の自動扉に描かれたMの文字を抱えてこちらを振り返る森永のエンゼルマークが懐かしく思い出されます。
ちゃんとしたレストランでお菓子やミルクだけじゃなくステーキだのお子様ランチだの普通のメニューもありました。このレストランはヨーカドー野田店閉店前に無くなってしまってたと思います。
駅側出入口に近いバス停は愛宕神社ではなく愛宕駅停留所です。訪れた時たまたま茨急のくたびれた感じのエルガミオが2台いました。画像に岩井車庫行きに乗る複数名のお客様が映ちゃってますが昭和56,57年頃はこの数倍岩井行きのバス待ちがいました。その本数も夕方一時間に5本ある時間帯もあったほどです。
岩井車庫線に乗った時の乗車記はまた別回にお話することにしまして、当時は停留所前に「太陽神戸銀行」の支店も聳え立っておりまことに賑わしいことでした。
ところで「手打ちそばうどんラーメン そば処愛宕」なる怪しい看板が写ってますが、やはりわたしの物心ついたときにすでにあったお店で全然怪しくないので野田に来たらぜひどうぞ。
東武から茨急に移管された当日ないし翌日の午前中に撮影した愛宕駅踏切の写真。これもやはりエルガかエルガミオか、方向幕が「野田市駅(中野台)」となってる茨急の車両が愛宕駅停留所で客降ろしをしているところ。停留所前の太陽神戸銀行はすでに無く三井住友銀行のATMコーナーに変わっていて、岩井行きを待つ人はATMコーナー入口前にあった踊り場に退避してバスを待っていました。
反対車線にはかろうじて廃止・移管を免れた東武バス野田市駅発の電建第一住宅経由柏駅西口行が走っていてむしろそちらを撮影したかったけど見えないところまで行ってしまってます。
そして家族一緒にあるいは一人でこの野07系統 野田市駅~流山駅前に乗り愛宕神社で降りてヨーカドーへ行きました。
惜しくも地元民しかわからないような複雑な事情があって東武バス野田出張所廃止の直後にヨーカドーは閉店してしまいました。東武バスとヨーカドーというわたくしの少年時代を飾るキーアイテム2つが同時期に消えたことでわたくしは非常な衝撃をうけました。
今現在まめバスの南ルートというのが走っていて流山街道にある停留所の位置はほとんど当時と同じところにあります。野07系統は東武撤退後、茨急が引き継いで2002年12月31日で完全廃止された、とのことですがまめバスはその約1年後に開通しており、ブランクが短いので停留所の手続きがスムーズにいったのかもしれません。
わたくしは中学1年まで野田市山崎に住んでいてその後市内の別住所に移りさらに2002年に都内に転居した経緯があり、茨急時代やまめバス開通時の顛末、ヨーカドー閉店時の模様はよく知りませんが、
鉄道と異なり路線バスの記憶というものは記録できるときに記録しておかないと忘却の彼方へ行き歴史の闇に包まれてしまうものです。このブログをお借りして後世に伝えたいと思います。
現在まめバスは流山街道からちょろちょろ外れて街道から外れた住宅地へ寄り道しながら街中に向かっていますが、この野07は愛宕神社まで街道を外れずに進んでおりました。
まめバスの寄り道というのがちょっと素っ頓狂過ぎて乗っててもちっとも記憶が蘇りませんのでわたくしは実際に当時のルートを練り歩きました。
山崎新田の停留所跡。現在同位置に「東新田自治会館」なるバス停があり、訪れた時はまめバスのポンチョが止まっていました。湯の郷とやらはいつ出来たのか知りませんが、当時はゴルフの打ちっぱなしがありました。
他には信号下に薬局・酒屋の2軒と向かいにガソリンスタンド。こんなにロードサイドショップなどなくただ森のみ。
先方に見える手押し式信号は昔からありました。小2くらいの頃に大型クレーン車が信号機にひっかかって横転して対向車を巻き込む大事故があり人がわんさか集まって野次馬見物してました。
山崎新田から山崎宿(しゅく)間にある「大紫典礼」。もうわたしが物心ついたときからここにあります。この看板は昭和の頃は名前のとおり紫色だったかも知れません。この看板の高さがバス客席から見るに実にほど良い高さなのは変わりません。
山崎から続いてきた鬱蒼たる深い森はこの看板が見えてくると大体終わりで以後、野田の町中にたどり着くまで低層中層な一般住宅や個人商店が連続して車窓に現れてきました。なおこんな交差点だのハローワーク野田だのに通ずる太い道は昔はありませんで、ぺんぺん草がもっさり生えた荒地に平屋の公営住宅がぽつぽつあるだけの、西部劇に出てくるテキサスのような光景でした。それが大人の心をつかんだのかしばしば東京理科大のお兄ちゃんたちが歩道に架台を置いて油絵を描いてたものです。
「梅郷駅入口」停留所跡。歩道橋のすぐ下、「富士火災」とある自動車工場の向かいにありました。昭和時代の梅郷駅前はバス乗り入れなど到底不可能な狭隘さで、かんな削りしたながーい木材を店前に立てかけた材木屋さんと真冬でも表に冷たい水を垂れ流す魚屋さんと公衆電話BOXが2基しかないという様相でした。まだ山崎小学校は開校していませんので私の通っていた小学校には運河~梅郷間を電車通学してくる子が多々おり、この歩道橋を渡って駅へ向かうよう周知されていて、道路をそのまま横断しようとする児童がいないか見張りをする先生がいつもいました。
「南部中学校入口」。「中入口」で終わらず中学校入口とアナウンスされていたはず。東武時代と変わらないポジションにまめバス乗り場として今もあります。小5、小6の頃一人で乗っていたら南部中学校ではなく南部小学校の先生が乗ってきてアワ喰って次の停留所で降りて逃げたことがあります。
バス停「大和田」があったあたり。まめバスのポンチョが走ってきてます。まめバスの大和田停留所がもっと南に位置して立っていますが昭和56、57頃はこのエネオススタンドのちょっと手前にあったように思います。
スタンド奥の赤っぽいマンションは昭和55年ごろに当時大変珍しい存在だったセブンイレブンがあったところでそれまでコマーシャルの「せぶん いれぶん いいきぶん、開いててよかった」という歌でしか知らなかったのでバスに乗ってて見かけて興奮しましたが、数ヵ月後に「鴻」という屋号の個人経営の商店に変わってしまいました。
「鴻」というのはこの近所にあったオオトリ建設とかいう土建屋さんだったと思います。今もほど近くにセブンイレブンがありますがずっと後年に出来た店舗であろうと思います。
こことか次の「桜台」などは鉄道駅から遠いので朝方の便だとOLさんや制服姿の高校生などが乗ってきたものです。
大和田・桜台間にあるこの新聞屋のたたずまい、子供の頃バスから眺めたのと趣が全然変わっていません。読売新聞の看板の上部ロゴがYCじゃなくオレンジ色の旗のようなもので東武バスの現塗装色みたいな色してました。
今現在まめバスにある「桜台南」と「神明神社入口」の2停留所の間にあったごく普通の民家の軒先あるいは玄関先に東武時代の「桜台」停留所があったと思います。そのお宅はまったく特徴のない民家さんだったのと、今訪れてみたら空き地があったり見覚えないディスカウント店が出来てたりしてどこだったかわからなくなりました。
平成初期のある春の日、大学生だったわたくしは、諸事情があって桜台から流山市内に向かうためバス停で待ってたら近所の奥さんがくだんの民家さんに回覧板を渡しにきてそのまんま玄関開けっ放しで井戸端会議を始めてしまい、「お邪魔かな?違うバス停に移動しようかな」と余計な気を揉んでいるうちに流山行きのバスが見えてきてホッとした、という記憶があります。懐かしい思いで久方ぶりに時刻表見たところ当時すでに朝・昼・夜の3本しかなくわたしが乗ったのは18時台に桜台を通過する赤い方向幕の終バスでした。
長命寺。この信号機も物心ついたときにもうありました。夏などバスの窓を開けて走っているとここいらへんから醤油の臭いが漂ってくるのでわたしはこのお寺をキッコーマンの倉庫か何かだと思っていました。醤油の臭いがするということは駅まで至便な町中に近づいた証拠でありこの辺で乗り降りする人がいた記憶はありません。
下町交差点。ここから商店街が始まりますが、もう今ではご覧のように車が多くて人はほとんど歩いていないという、地方都市特有の残念な光景が広がっています。
向かいの対行車線に柏高島屋のロゴの入った広告付き方向幕の柏行きのバスが信号待ちしていることが多くて、幼い頃、高島屋は野田にあると勘違いしていた時期があります。ちなみに高島屋が作ったローズハイツマンションなる建物が野田市にあります。
角地には大昔野田警察署があり昭和30なん年かに国道16号沿いに移転したそうです。その跡地にはわたしが物心ついたときからマスダヤというスーパーがありました。食料品ばかり売ってたように思いますがあるとき「靴下詰め放題」というのをやっていて袋に入るだけ靴下売ります、という不思議な客寄せをしていたこともあります。
「東武バスのりば」の文字が残る野田市駅前の商工地図。右から下・仲・上町と並んでいます。
下町からキッコーマン前停留所間のこのあたりに「やぎや」というおもちゃ屋さんがあって、ヨーカドーには売ってなかったコンバトラーVの超合金がウインドウに飾ってあるのがバスの車窓から実によく見えて、のどから手が出るほど欲しくて欲しくてたまりませんでした。
岩井車庫から来る茨急の野田市駅行き、下町停留所。ゴミ袋がたもとに置かれていてバス停なのかゴミ集積所なのかよくわからない状態になっています。
昭和のバス黄金期には商店街のバス停を毎朝清掃するという極めて高い民度がまだ野田に残されていました。仲町とキッコーマン前の2停留所で利用者が一日に「何百人」だそうです(昭和42年 野田市報)。便所掃除人がいなくてコンビニがあるだの無いだの見苦しいゴタゴタおこしているバスタ新宿とはレベルの違う心洗われるエピソードです。
市報の画像見て思い出しますがキッコーマン前はかつて小屋が付いてて実にしのぎやすい停留所でした。昭和56年だったかと思いますがキッコーマン社がキッコーマン醤油から社名変更したということで街道沿いのだだっ広い社員駐車場を開放してキッコーマン主催で玉置宏やら金沢明子やら当時キッコーマン製品のCMに起用されてた竹下景子やらをMCに招き何か大きなイベントをしておりました。そのとき金沢明子が「すごいわよね、バス停にキッコーマンってあんのよ、待合所までついちゃって」などと言っておりました。
さらに記憶をさかのぼると野田の商店街はキッコーマン前のバス停周辺以外はアーケードで覆われておりました。雨の日でもアーケード下で「ムラサキスタンプ」という商店街加盟店でしか付与されないスタンプカードを集めた人を対象に福引などやっていました。
野田営業所車の車内ワンマン表示板の裏面に必ず広告が付いてた、はんこの晴山堂。
愛宕神社の交差点。愛宕駅方面から黄緑色の茨急バスがヌっと出てきていますが、昭和50年代ここはもうブルー&クリーム塗装の東武バスがとんでもない頻度で行き来しておりました。
いつの頃だったか神社境内で菊の品評会があって両親とカメラ持って見に来たことがあり、当時乗りバスにはまってたわたしは「バスも撮ってぇ、バス」とねだって、10ショット以上はこの交差点で信号待ちしていた富士重工3Eの東武バスの写真を撮ってもらったと思うんですが実家をいくら捜索しても出てこなくて困っております。
「加圧」なんとかと電光掲示のあるあたりに境車庫・関宿工業団地入口行き(廃止)・野12 東宝珠花行き(廃止)のバス停がありました。
柏・流山・越谷方面はこちらから。このバス停のすぐ裏には「立澤病院」という伝染病に特化した病院があって、建物外壁がご覧のブロック塀すれすれまでありました。ブロック塀上には何も無く、バス待ち人はこのブロックの上に尻を乗せて背中を外壁につけて座って待っていました。
かなりローカル度を増してきたのでここで平成初期と思われる野田市内のバス路線図をご覧いただきましょう。
出典不明のこの路線図はこれまた出典不明の野田市の地図に付録されていたもので地図ごと昔野田の実家の冷蔵庫に貼っていたもの。小学校前・中野台間の中央出張所前というのが昭和時代は「市役所前」でした。東武バス野田営業所22-1595などと書かれてますが、市役所は移転しているし、梅郷駅~野田梅郷住宅線が描画されているので疑いなく東武バス柏営業所野田出張所時代のしろもの。昭和時代のしろものではありません。
愛宕神社前、当時は前を付けず「愛宕神社」と言っていたこの停留所は野田市駅から来た路線が最初に迎える運賃区間境界点であり、整理券を取る最初の停留所でした。岩井方面から来た北越谷駅行き、あるいは昭和56年当時すでに1日2便しかなかった「野08 北越谷駅」の幕を出した車両に乗ると整理券番号が大きくなります。野07系統の話をしておきながら野08系統の話をしないのも何ですがそれはまた別回にて。
当時の運賃表示器は幕式で、越谷線なり柏線なり大利根温泉線なり乗りつぶしのため始発地たる野田市駅から乗ると、区界停留所欄には【① 愛宕駅 愛宕神社】と異なる停留所名が並列表示されていて駅と神社、果たしてどっちが境界になるのだろうか?と思って見てました。実態は神社のほうが区界になっておりました。逆方向の各地からの野田市駅行きに乗ってくると今度は判りやすく【⑪ 愛宕駅】のように単体表記されていて駅まで運賃が変わりませんでした。
当時からバスは手を上げなくても停留所に人がいるのを見ると止まってくれてましたが、わたしはバスがくるたびに「ねえ、手上げていい?」と母に聞いて手を上げていました。越谷駅だの柏駅西口だの目的外のバスが来ても上げたくてしょうがなかったものです。
今は病院は無くなり名前だけ残って駐車場になっています。
あるとき、母が見間違えて「上げていいよ」と言われて手を上げたところまったく行き先違いのバスで、たまたまそのバスに乗る人がいたので事なきを得ましたが、その車両は前扉を開けて人を乗せ、乗った人は運転手にどこそこと行き先を言って運賃箱にちゃりちゃりと音を立てて小銭を放り込んでいました。
当時野田に前乗り事前申告制の路線があったのでしょうか。あのバスは一体どこを走る路線だったのか、後乗りだったけどたまたまその時だけそう対応しただけなのか、未だに深い疑問として残っております。
しかしまあ路線バスの乗り方というのは前乗り後乗り先払い後払いといろいろあってここらへんの面倒くささがバスの欠点であるのは間違いないです。均一運賃制なのに前乗り後払いのまめバスなんかその最たるものですけど。
この社殿の屋根の向こうにかつてはヨーカドーの鳩のマークが見えました。
野田という土地は陸上交通がすっかりおそ松さんな分、水運が発展してて鹿島神社だの香取神社だの利根川の水の神様がめったやたらいるのですがこの愛宕神社は火の神様の神社だそうです。
ヨーカドー野田店の跡地は10年間ほど更地にされてたそうですが2013年にヨーカ堂の「ザ・プライス」が開店しました。なるほど、立地こそ当時のままですがわたくしの目には全く別の店ですな。それに駐車場路面が綺麗すぎる。昔のヨーカドーの駐車場はもう路盤がやられててファミコンのエキサイトバイクみたいにデコボコしてましたから。
かつては2階建てで屋上にメダル制のゲームコーナーがあり、1F入口には愛宕駅と愛宕神社の手書きの『バス時刻表』がセロハンテープで貼ってありました。1日に2、3本程度しかなかった茨急の岩井警察前~北越ケ谷駅線も記されてましたが間違えて岩井車庫行きとして記されていました。また当時新聞の折込でよく入ってきた地元の商店の宣伝もかねた非公式の時刻表、例えばこんな感じのがそのまんま貼ってあった時代もあります。
当時はネットで時刻表検索なんて想像することすら全く出来ない時代でこのような公共スペースで人目を忍びつつ横目でチラ見して確認していたのです。
ヨーカドーの駅側出入口にあった「レストラン森永」はこの辺ですかね。入口の自動扉に描かれたMの文字を抱えてこちらを振り返る森永のエンゼルマークが懐かしく思い出されます。
ちゃんとしたレストランでお菓子やミルクだけじゃなくステーキだのお子様ランチだの普通のメニューもありました。このレストランはヨーカドー野田店閉店前に無くなってしまってたと思います。
駅側出入口に近いバス停は愛宕神社ではなく愛宕駅停留所です。訪れた時たまたま茨急のくたびれた感じのエルガミオが2台いました。画像に岩井車庫行きに乗る複数名のお客様が映ちゃってますが昭和56,57年頃はこの数倍岩井行きのバス待ちがいました。その本数も夕方一時間に5本ある時間帯もあったほどです。
岩井車庫線に乗った時の乗車記はまた別回にお話することにしまして、当時は停留所前に「太陽神戸銀行」の支店も聳え立っておりまことに賑わしいことでした。
ところで「手打ちそばうどんラーメン そば処愛宕」なる怪しい看板が写ってますが、やはりわたしの物心ついたときにすでにあったお店で全然怪しくないので野田に来たらぜひどうぞ。
東武から茨急に移管された当日ないし翌日の午前中に撮影した愛宕駅踏切の写真。これもやはりエルガかエルガミオか、方向幕が「野田市駅(中野台)」となってる茨急の車両が愛宕駅停留所で客降ろしをしているところ。停留所前の太陽神戸銀行はすでに無く三井住友銀行のATMコーナーに変わっていて、岩井行きを待つ人はATMコーナー入口前にあった踊り場に退避してバスを待っていました。
反対車線にはかろうじて廃止・移管を免れた東武バス野田市駅発の電建第一住宅経由柏駅西口行が走っていてむしろそちらを撮影したかったけど見えないところまで行ってしまってます。