三河武士がゆく

日本史や地域のお話し。
特に幕末や戦史をメインにしています。

戊辰戦争拾遺 『香亭遺文』の長鯨丸

2023年10月14日 00時08分57秒 | 歴史
戊辰戦争拾遺 『香亭遺文』の長鯨丸

中根淑(中根香亭)は、慶応3年12月29日、長鯨丸で兵庫に着き、翌日大坂へ入ったとある。
しかし、『慶応3年、小野友五郎の上坂と薩摩藩邸焼き討ちの報』でも書いたが、小野友五郎は、12月23日長鯨丸で出帆して、26日に兵庫着、翌27日に大坂に入ったことになっている。

中根淑と小野友五郎のどちらかが間違っていることになる。

小野の兵庫着は、日記によるので間違いないと思うが、乗船名は履歴書を根拠とした。小野の履歴書と中根の『香亭遺文』は、後年のものである。

どちらかが、長鯨丸に乗船して、片方が別の船だったのか、あるいは、両人共、長鯨丸に乗り組んだが、中根が日付を間違えたものなのか。

戊辰戦争拾遺 『香亭遺文』の、大澤顕一郎

2023年10月13日 23時43分57秒 | 歴史
戊辰戦争拾遺 『香亭遺文』の、大澤顕一郎

「窪田備前守の戦死について」の追記で、大澤顕一郎は歩兵第12連隊の一個大隊を率いていたと書いたが、歩兵第7連隊に所属して鳥羽・伏見の戦いに参加した中根淑(中根香亭)によれば、隊長を大澤顕一郎としている。大澤は歩兵頭並であったので、率いたのは大隊であったと思われる。『徳川慶喜公伝』にも、大澤は、伏見で歩兵一大隊を率いたことになっている。

大澤顕一郎は、側衆であった大澤秉哲の子で或。禁門の変では、一橋慶喜に属して戦っている。

戊辰戦争拾遺 窪田備前守の戦死について

2023年10月04日 23時45分31秒 | 歴史
戊辰戦争拾遺 窪田備前守の戦死について

歩兵頭窪田備前守(窪田泉太郎・窪田鎮章)は、歩兵第12連隊の一大隊を率いて、鳥羽・伏見の戦いに臨んで討死にした。戦死した日については諸説ある。会津藩儒者小笠原勝修の『續國史略後編』(明治8年)は、1月4日討死とし、勘定方として兵粮を担当した坂本柳佐は、『史談速記録』で、1月5日に被弾としているが、死亡については触れていない。

しかし、窪田鎮章の父、窪田鎮勝と従兄弟同士だった、川路聖謨の「東洋金鴻」によれば、討死は1月3日であるらしい。典拠不明だが、西村兼文編『文明史略』(明治9年)や「戊辰正月伏見鳥羽其他ニ於ケル東軍戦死者」(『渋沢栄一伝記資料』)も1月3日としている。

※追記
窪田鎮章が率いた大隊の所属連隊を「歩兵第11連隊」と間違って書いてしまったので、「歩兵第12連隊」にあらためました。
なかには、「第12大隊」としている文献もあるようですが、歩兵奉行並奉行?城和泉守が連隊長で、歩兵頭窪田備前守と歩兵頭並?大澤顕一郎が大隊長であったと思われます。

戊辰戦争拾遺 順動丸の活躍(5)東帰、負傷兵の収容と最期

2023年08月24日 13時18分34秒 | 歴史
鳥羽・伏見の戦いは、旧幕府軍の退却に次ぐ退却で、徳川慶喜も家臣達を大坂城に置き去りにして江戸に帰ってしまった。

残された将兵は、それぞれ引き揚げることとなった。艦船に収容されて東帰する者もいれば、陸路紀州へ落ちていく者もいれば、伊勢へ抜ける者もいた。

順動丸はこの時、負傷者を収容し、小野友五郎の差配で大坂城の御用金を翔鶴丸と共に江戸に運ぶ役割を果たした。

大坂出帆の日は、1月9日暁、その後兵庫へ向かったと思われる。同日兵庫出帆の後、紀州へ立寄ったかはわからないが、品川着は1月13日らしい。大坂出帆が

このあと、残っていた旧幕将兵などの撤収のために、紀州に趣いたという記録があるが、裏がとれないでいる。

撤収任務終了後の順動丸は、会津藩に貸与され、そのまま同藩が、武器や兵員輸送に使用したとみられ、長岡落城後の5月24日、越後寺泊で新政府軍の乾行丸・丁卯丸と交戦して損傷し、25日に自焼したとされる(寺泊沖海戦)。

戊辰戦争拾遺 順動丸の活躍(4)浅野美作守と柴誠一

2023年08月01日 22時53分08秒 | 歴史
浅野美作守(浅野氏祐)は、1月2日出帆、1月6日天保山沖に着船し、短艇で上陸しようとしたと証言している(『徳川慶喜公伝』)。

同じく、順動丸に乗り組んでいた軍艦頭並柴誠一の「履歴書」(樋口雄彦「箱館戦争降伏人と静岡藩」『国立歴史民俗博物館研究報告』第109集)には、1月2日出帆、4日兵庫着、翔鶴丸に乗船して大坂着となっている。柴は、12月25日回天艦で、品川沖で薩艦と交戦・追尾したが、これを見失い27日帰帆していた。

この二人の証言の食い違いは何であるのか。

浅野氏祐は、陸軍奉行兼帯の若年寄であり、フランス軍事顧問団の教師や歩兵を引率して上坂してきたのである。一刻も早く大坂城へ向う必要があるのに、柴誠一よりも着坂が遅れたとしたら、これをどのように釈明するのだろうか。

『インパール』(高木俊朗)を再び読み始めました

2023年07月27日 20時24分44秒 | 歴史
はっきりとした理由はわからないが、最近になって、『インパール』(高木俊朗)を再び読み始めた。高木氏の著書は何冊か読んでいると思うが、どれも、憤りを烈しく感じ、後味が悪いものが多くあったように記憶している。したがって、40年ほど縁が無かったのだが(憤っても健康に悪いということもある)、今こうして、数頁ずつであるが読み直しているのは、自分にとって何か意味があるのかも知れない。

わたしたちの日常においても、個人的に付き合うには問題なく、「良い人」であっても、組織の中にあって、責任を背負う事で、別の人格が出てきたり、思ってもみたことがない行動をとったりする人はいないだろうか。

マイナンバーカードやビッグモーターなど話題となっているが、結局、時代は移り変わっても人間は変わらないということなのか。
もっと、人間を学ぶ必要があるのだなあ。

戊辰戦争拾遺 順動丸の活躍(3)浅野美作守とシャノワン(シャノワーヌ)の上坂

2023年07月18日 20時29分21秒 | 歴史
戊辰戦争拾遺 順動丸の活躍(3)浅野美作守とシャノワン(シャノワーヌ)の上坂

12月21日の順動丸出帆については、はっきりしない。翌22日に滝川播磨守が上坂しているが、これも順動丸かどうかの確認はできない。23日出帆が長鯨丸であるとしたら、21日、22日のどちらかが順動丸である可能性は高いと思うが、12月25日の上坂命令も気にかかる。

次に順動丸の動向を確認できるのが翌慶応4年1月2日である。陸軍奉行兼帯の若年寄浅野美作守が、シャノワン(シャノワーヌ)らフランス軍事顧問団の教師らを引き連れて、順動丸で出帆している(1月6日着坂)。これには、歩兵一個大隊が乗り組んだようである。

浅野には27日に上坂命令が出て、28日に出帆予定であったらしいが、支障があって翌慶応4年1月2日に延期となったのである。

このシャノワン等のフランス軍事顧問団の着坂が予定通りであったなら、鳥羽・伏見の戦いに間に合っていたと思われる。先の長崎丸の伝習砲兵も大幅に上坂が遅れたようだが、大坂の旧幕府幹部連中はこれらを待つことができなかった。薩摩藩邸焼き討ちの報により討薩へと一気に加速したにせよ、戦争を想定した上京をするのであるから、じっくりと態勢を整える必要があったと思う。

薩長を甘く見すぎていたとしか考えられない。

「どうする家康」が秀逸(おもしろい)。いやなら、見なければよいのである。

2023年07月05日 22時40分59秒 | 歴史
「どうする家康」が始まり、また今までのドラマと同じような展開であろうという予想は大きく裏切られた。

この睦まじい二人の行く先どうなるのかを知っているだけに、あまりにも悲しい結末を見たくはないので、23.24.25回、中でも25回「はるかに遠い夢」は見るまいと思っていたのだが、早送り、飛ばし見も含めて3-4回見てしまった。

しかも、泣いた。

最近、大河ドラマで泣くことは滅多にない。

そういう意味では、傑作だと思う(いまのとこ)。

歴史が好きな者としては、史実を追いたいのだが、ドラマとしてみれば、怒りもし、涙も流す。

こだわらずに、普通に楽しもうと切り替えたのは、第24回である。
同じような方もいらっしゃるかと思う。

どこまでも、史実を追いたい方は、研究所を読んだり、史料原本にあたったり、自分で研究して、様々な可能性を見つけていくと面白いのでは。

幕末でさえ、いや、戦中・戦前であっても真実にたどり着けない歴史はゴロゴロしている。400年以上前のことを、残されたわずかな史料だけでは、何ともならない。

その何ともならないことはわかっていても、研究は続くので、面白いし、ありがたい。

大河ドラマは、「テレビドラマ」である。
水戸黄門、暴れん坊将軍、必殺シリーズ、鬼平犯科帳などなども同じ。

子供が疑問を持ったら、本当はこうなんだと説明して、もっと調べたければ本でも読んでは?
と勧めてみれば良い。
大人も子供も興味を持つことで勉強になる。

本当に見たくなければ、批判せずに見ないようにしたらよい。
批判するのは、見ているからで、それはそれで良い。
要するに、ドラマと割り切って自分なりに楽しめば良いのである。


戊辰戦争拾遺 順動丸の活躍(2)慶応3年12月21日

2023年06月30日 21時54分26秒 | 歴史
『小野友五郎の上坂と薩摩藩邸焼き討ちの報』でも書いたが、滝川播磨守や小野内膳正の上坂は、何度か出帆予定が変更となり、滝川は12月22日、小野は12月23日に出帆したと思われる。 小野の乗船は長鯨丸で間違いないと思うが、確認出来るのは小野の履歴書であり、日記には記述がない。滝川の乗船は不明であるが、順動丸の可能性も少しある。

12月21日に、陸軍奉行、大目付、勘定奉行などが出帆予定であったようだ。陸軍奉行が石川若狭守、大目付が滝川播磨守、勘定奉行が小野内膳正であった可能性は高いのだが、彼らの上坂は上記のように延期されている。石川若狭守についても上坂はしているが、この日ではない。

ただし、兵隊を乗せて出版した可能性はゼロでは無い。小野友五郎の日記にそれらしき内容の記事があるのだが、しっかりと読めないでいる。順動丸の運航に関する記事が「慶喜公御実紀」の12月25日条にみえる。歩兵200人を乗せて早々上坂するようにというものだ。

即日出帆はないと思うので、命令が実行されたとしたら、26日以降となるだろう。しかし、21日に順動が出帆していれば、それを承知の上で帰府を待っての出帆命令であったといえる。外に運送船はなかったのかと思ってしまうが、21日の出帆はなく、順動丸は江戸湾にとどまっていたと考えれば納得もいく。現時点でこれに関する史料を見つけられないでいる。

幕府は多くの艦船を保有していたが、故障によりまともに動くことができなかった船もあるようだ。薩摩藩邸焼き討ちの時に起った江戸湾での海戦でも、咸臨丸は汽罐の故障により、まともに航行ができなかったという話しもある。その他の故障船があってもすぐ修理ができたわけではない。

戊辰戦争拾遺 幕府軍艦、順動丸の活躍(1)慶応3年10月から12月15日

2023年06月29日 23時40分21秒 | 歴史
幕府軍艦「順動丸」は外輪船で、イギリス商船であったときの名は「ジンギー」である。軍艦と書いたが、当時の蒸気船はこのように呼ばれていたようである。「順動艦」と記している史料もあるが、「順動丸」で統一する。

順動丸は江戸と兵庫を往復する飛脚船であったようだが、実際どのように運用されていたのか。

慶応3年10月の大政奉還にあたり、上京命令を受けた老中・若年寄歩兵・撒兵200名ほどを乗せている。歩兵はフランス伝習兵らしいがよくわからない。このなかに滝川具挙の息子、歩兵差図役勤方・滝川充太郎(滝川具綏)が含まれている。外にも歩兵が乗り組んでいたかは不明。10月24日品川出帆、28日に大坂へ着したらしい。

このあと順動丸は11月24日に、若年寄並兼外国総奉行・平山敬忠を乗せて出帆したという史料もあるようだが、これは「蟠竜丸」の間違いと思われ、11月26日に、外国奉行糟屋筑後守を乗せて出帆、29日に兵庫着している。

その後、江戸へ帰ったかはわからないが、12月15日、大坂湾の開陽艦にあった榎本釜次郎が、勝海舟(勝安房守)に宛てた書簡を順動丸で江戸へ送ったと思われるので(「海舟日記」)、支障がなければ18日には江戸に着いていたであろう。