三河武士がゆく

日本史、とくに幕末と戦争をテーマにしています。

神保修理と徳川慶喜の大坂城脱出

2023年11月20日 23時40分06秒 | 歴史
神保修理と徳川慶喜の大坂城脱出

『昔夢会筆記』によれば、1月5日夜、神保修理は徳川慶喜に謁見し、「事ここに至りては、もはやせんかたなし。速やかに御東帰ありて、おもむろに善後の計を運らさるべし」と具申し、慶喜は、「神保の建言を聴きたれば、むしろその説を利用して江戸に帰り、堅固に恭順謹慎せんと決心」したという。

『徳川慶喜公伝』にも、東帰決心意の経緯は、「神保修理の言上ありしかば、此に愈東帰の決心を固め、板倉伊賀守、永井玄蕃頭へ謀議したり」とあるが、修理の意見具申以前に、松平信敏を大坂町奉行に任命して東帰の準備に動き出していたことは既に述べた。修理に会う以前に、密かに東帰を決め、板倉勝静や永井尚志に伝えていたのである。

神保修理は、徳川慶喜に対して東帰言上したが、将兵を置き去りにして自らが黙って逃げるようなことを勧めたのではない。慶喜の大坂城脱出を知った修理は、「今度の御東帰其機にあらねば、却て後害深からんを恐る、急に馳せて諫止し参らするにしかず」(『七年史』)と、慶喜の後を追うのである。しかし、これも修理にとって身を危うくする行動となった。

神保修理の勧めにより、徳川慶喜が東帰を決めたという情報は、会津藩側に流れたのだろうか、それとも、それまでの修理の言動から推測されたものなのかわからないが、会津藩では、慶喜の東帰に対して、修理の責任を追及する声が大きくなり、修理はついに切腹するのであるが、徳川慶喜の無責任な行動によって、修理が責めを負ったとしたら、あまりにも気の毒に思える。

戊辰戦争拾遺 松平大隅守、桜門で神保修理と出逢う

2023年11月14日 22時44分32秒 | 歴史
戊辰戦争拾遺 松平大隅守、桜門で神保修理と出逢う

神保長輝(神保修理)は、戦況を伝えるために大坂に帰り会津藩の本営であった本願寺に戻っていたようである、徳川慶喜に呼ばれたことにより急ぎ登城したとおりに、桜門あたりで、松平信敏(松平大隅守)と出逢ったのだろう。

信敏の談話では、これを乗船の準備の命を受けた1月6日としているが、修理が大坂に戻ったのは1月5日であるので、日にちが合わない。

いずれにしても、1月5日、信敏が町奉行への転任の命を受けた時点で、徳川慶喜の東帰の準備段階に入っていたことがわかる。慶喜はそれ以前に東帰を側にいた閣老へ打ち明けていることになる。

それでは、修理は何のために呼ばれたのであろうか。

松平大隅守、徳川慶喜の大坂城脱出の準備を命じられる

2023年11月13日 23時49分04秒 | 歴史
京都にあった大目付松平信敏(松平大隅守)と江戸の同役滝川具挙(滝川播磨守)に、交替の命令が発せられたのは、慶応3年11月頃だが、滝川が上坂したのは12月下旬のことだった。

その頃、徳川慶喜は、王政復古クーデタによる、復古政府と旧幕府勢力との一触即発の事態を避け大坂に下っていたが、予断を許さない情況であった。

信敏は、江戸に下らず、そのまま大坂に留まり、翌年1月3日の鳥羽・伏見の戦いを迎えることになった。

旧幕軍敗報が伝わる中、1月5日信敏は突然、大坂東町奉行に任じられた。翌6日には、徳川慶喜の大坂城脱出を告げられ、八軒家に出向き、乗船の準備を整え復命したところ、さらに乗替の船の準備のため、天保山行きを命じられた。

その後、信敏は、開陽艦へ出向いて副長の澤太郎左衛門に面会して東帰の内命を伝え、慶喜一行を待ち、随従して江戸へ帰っている。

東帰後、勘定奉行に任じられたが、徳川慶喜の恭順・謹慎にともない、2月御役御免となった。

信敏が内命を受け、乗船の準備に向かうときに、大坂城桜門辺りで出逢ったのが、会津藩士神保長輝(神保修理)である