三河武士がゆく

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戊辰戦争拾遺 順動丸の活躍(5)東帰、負傷兵の収容と最期

2023年08月24日 13時18分34秒 | 歴史
鳥羽・伏見の戦いは、旧幕府軍の退却に次ぐ退却で、徳川慶喜も家臣達を大坂城に置き去りにして江戸に帰ってしまった。

残された将兵は、それぞれ引き揚げることとなった。艦船に収容されて東帰する者もいれば、陸路紀州へ落ちていく者もいれば、伊勢へ抜ける者もいた。

順動丸はこの時、負傷者を収容し、小野友五郎の差配で大坂城の御用金を翔鶴丸と共に江戸に運ぶ役割を果たした。

大坂出帆の日は、1月9日暁、その後兵庫へ向かったと思われる。同日兵庫出帆の後、紀州へ立寄ったかはわからないが、品川着は1月13日らしい。大坂出帆が

このあと、残っていた旧幕将兵などの撤収のために、紀州に趣いたという記録があるが、裏がとれないでいる。

撤収任務終了後の順動丸は、会津藩に貸与され、そのまま同藩が、武器や兵員輸送に使用したとみられ、長岡落城後の5月24日、越後寺泊で新政府軍の乾行丸・丁卯丸と交戦して損傷し、25日に自焼したとされる(寺泊沖海戦)。

戊辰戦争拾遺 順動丸の活躍(4)浅野美作守と柴誠一

2023年08月01日 22時53分08秒 | 歴史
浅野美作守(浅野氏祐)は、1月2日出帆、1月6日天保山沖に着船し、短艇で上陸しようとしたと証言している(『徳川慶喜公伝』)。

同じく、順動丸に乗り組んでいた軍艦頭並柴誠一の「履歴書」(樋口雄彦「箱館戦争降伏人と静岡藩」『国立歴史民俗博物館研究報告』第109集)には、1月2日出帆、4日兵庫着、翔鶴丸に乗船して大坂着となっている。柴は、12月25日回天艦で、品川沖で薩艦と交戦・追尾したが、これを見失い27日帰帆していた。

この二人の証言の食い違いは何であるのか。

浅野氏祐は、陸軍奉行兼帯の若年寄であり、フランス軍事顧問団の教師や歩兵を引率して上坂してきたのである。一刻も早く大坂城へ向う必要があるのに、柴誠一よりも着坂が遅れたとしたら、これをどのように釈明するのだろうか。