三河武士がゆく

日本史、とくに幕末と戦争をテーマにしています。

不拡大方針を主張していたのは、「参謀本部」でした

2024年05月28日 20時38分08秒 | 歴史
以前書きましたが、日中戦争の初期の段階で、日本軍は多大な損害をだしていました。当初、日中戦争というか、事変の不拡大方針を主張していたのは、「参謀本部」でした。事実上のトップ参謀次長の多田駿が、不拡大を主張して、拡大派の政府首脳(外相・陸軍省・海軍省)と対立します。


しかし、権力が強い側が勝利していくことになります。具体的には、人事で不拡大側の口が封じられていくことになり、多田は一度は陸軍大臣に推挙されますが、つぶされてしまうのです。人事権をどこが握るかで、大勢が決まってしまうのは、世の常ですが、戦争となるとあまりにも問題が大きすぎます。


後から考えなくても、その時点で行き先が見えず、勝算なき戦争に突入していった人たちは、勢いがあり、勇ましいことを言っていたのですが、自分に都合の良いことを中心において考えていたので、誤ってしまったのです。


今の日本はどうなのでしょうか?
政治でも経済でも先頭で、行け行けドンドン、勇ましく旗を振っている人たちは、どれほど先を見据えているのか。


貧しい国であることを知っている人達はどれほどいるのか?
(将来を見据えて対策をして行く必要があるのです)

※陸軍や参謀本部悪玉説を見直す必要がることは以前から言われております。本質が見えなくなるからです。

呼称としての「大東亜戦争」と日本史教育

2024年04月12日 17時37分08秒 | 歴史
呼称としての「大東亜戦争」と日本史教育

タイトル通りなのですが、日本史を学ぶ時に大事なのは、
「その時」であり、「その前」であり、「その後」なのです。

なぜ、「大東亜戦争」と呼ばれたのか?
なぜ、「大東亜戦争」から、「太平洋戦争」になったのか?
なぜ、「十五年戦争」「アジア・太平洋戦争」と呼ばれるのか?

戦争の呼称の変化を調べるだけでも、歴史の勉強になりますね。

「なぜ」という疑問と追究、そして事実の積み重ねが大事だと、わたしは学んできました。

そういえば、「日中戦争」も、「北支事変」「支那事変」「日支事変」「日華事変」とか、日本側の呼称だけでもいろいろありますね。


三淵嘉子⇒萱野権兵衛⇒小野友五郎

2024年03月25日 13時25分14秒 | 歴史
伊藤沙莉主演のNHK連続テレビ小説『虎に翼』の女性主人公のモデルは、日本初の女性弁護士であり、初の女性裁判官となる三淵嘉子である。

夫が戦病死した後に再婚した相手、三淵乾太郎の父親は、初代最高裁判所長官の三淵忠彦であり、忠彦の父は、会津藩家老・萱野権兵衛(長修)の弟で、三淵家の養子となった三淵隆衡である。つまり、隆衡は、萱野権兵衛の甥にあたる。

萱野権兵衛は、戊辰戦争で、藩主松平容保と会津藩の責任を一身に背負って自刃している。権兵衛は、一刀流溝口派の相伝者であり、その死の直前に、井深宅右衛門に火箸で奥義を伝授したエピソードはよく知られている。

鳥羽・伏見の戦い後、紀州に落ちた傷病者の江戸引き揚げを担当した小野友五郎や西周助は、会津藩家老萱野権兵衛、内藤介右衛門とともに江戸へ帰っている。紀州引き揚げに際して、小野友五郎は会津藩に便宜を図っているように思う。

常に最前線で戦い、最後まで徹底抗戦を主張して旧幕府徳川家に忠節を尽くした会津藩士たち。

その主家である徳川慶喜に見捨てられ、藩主まで連れ去られてしまったことに同情の念を禁じ得なかったのかも知れない。

小野友五郎には、四角四面、理性的に淡々と職務を遂行するというイメージがある。しかし、意気に感じたり、情にほだされるような一面を垣間見たようで、うれしく思えたことを思い出しました。


無理矢理につなげてしまった!


ハードはデジタル、ソフトはアナログで

2024年02月03日 11時10分28秒 | 雑記
ハードはデジタル、ソフトはアナログで

私の学生時代は、ポケベルは存在していましたが、学生が持つようなことはありませんでした。(業務上)

したがって、コミュニケーション手段は、直接会う、電話、手紙でした。電話も遠距離は料金がかかりますので、市外・県外な、手紙がほとんどでした。仕事も見てやって覚えろでした。そういう時代だったということでしょうが、アナログには意味があったと思います。

LINEでの若者のやりとりは、「。」を使わないケースが多い、相手の気持ちが読めなくて誤解を生ずるからという話を聞きました。

短文から、相手の気持ちの裏側まで感じ取ることが難しいのは当たり前です。研究者・専門家であっても、短歌や俳句の解釈が違うと言うことはよくあることです。
「。」を付けようが付けまいが、相手の気持ちを読む力や洞察力は、体験・経験・努力によって身につけるのであって、若いうちから避ける方法を覚えていたら、身につかないと思うのです。
だからこそ、アナログな方法・伝え方を知っておいた方が良いのです。

例えば自分の「誠意」を相手に伝えるにはどうしたらよいのかを、時間をかけて苦心して考えることが必要なのです。
先輩たちが、どのようにしてきたかを、直接伺ったり、調べるのもいいでしょう。
但、伺うにも礼儀が必要ですけど。

いっぽう、自分が培ってきたことを後輩に伝えるには、コミュニケーション力が必要です。そこを怠れば、衰退し、消えていくことも、アナログ世代は肝に銘じておく必要があります。ただ、背中を見せているだけでは、衰退していくと思います。

面倒に思える、やりとりも、人類の歴史のなかで、良好な状態を保つため、作り出すために必要な場面があったから、そのようになったのだと思います。この伝承というか、継承が薄らいで、消えていくと、人類にとって非常に危ういことだと思っています。

そういう私も、アナログな内容を、デジタル技術を使って発信しています。

山本五十六長官の国葬とブギウギ

2023年12月12日 19時20分37秒 | 雑記
山本五十六長官の国葬とブギウギ

先週のブギウギ、山本長官の国葬からスタートしました。
むのたけじ氏は、朝日新聞記者として国葬の記事を書いていたそうです。

以前このブログで、「一つの歴史の体験のしめくくりをきちんとしなければ、同じような過失が、同じ手順で繰り返される」という、むのたけじ氏の言葉を取り上げました。

「昨日まで米英撃滅を書きまくった同じペンで、今日はその支配者に追随することはペンの良心が許さない」として、朝日新聞社を退社したそうです。

戦時中に限らず、信じる道を強制的に他人に歩ませようとする人は、現在でもいるかと思います。

戦後、価値観が一変したとき、その責めを負わずに手のひらを返して、主導的・指導的ポジションに返り咲いた人達もいたように、実は精神的に脆い人も中にはいるのかなと。(井上成美大将のような生き方は普通ではできない)

(手のひらを返すと言えば、芸能報道のあり方も同様)

人間が考える価値。何が良くて、悪いのか、そういうものは、その時々で変わってしまう。

今日は12月8日です。日中戦争5年目の開戦と歩兵第18連隊にみる上海事変

2023年12月08日 20時00分18秒 | 歴史
日中戦争(昭和12年)も5年目に入った昭和16年12月8日、太平洋戦争が始まる。

「そもそも、始めてはならない戦争だった」と書いたが、
それは、日中戦争の戦死者をみてもよくわる。

豊橋にあった歩兵第十八連隊も動員下令され、宇品を出港した。
9月の上陸以来、1ヶ月あまり間の戦闘で、大隊長が戦死(本部全滅)したり、4人いた中隊長の内3名が戦死した大隊があった。2ヵ月で編成当初の200名ほどから150名に近い戦死者を出した第11中隊もあった(補充により戦闘力は回復したが)。

※8月29日、歩兵第六連隊(名古屋)の連隊長は戦死している。

昭和16年9月から10月にかけておこなわれた第一次長沙作戦での損害も大きく、中隊長6名が戦死、大中隊長5人が負傷している。

これは南方の島での戦いではない。

中国軍の頑強な抵抗、日本軍の戦い方、指揮官先頭、増派を控えていた事などにも原因はあると思うが、派遣軍の数に対して、死傷者数、死傷率が高い。

一個連隊の一部分の例だけであるが、
このようななかで、太平洋戦争へ突入するのである。

『ブギウギ』「大空の弟」六郎の戦死と情報統制

2023年12月08日 11時32分37秒 | 歴史
『ブギウギ』「大空の弟」六郎の戦死と情報統制

幻の歌といわれた「大空の弟」をスズ子が唄い、多くの方が涙したのは昨日のこと。

「○○部隊」「○○方面」、日本軍の情報がもれてはいけないという情報統制なのでしょうが、肝心要である軍の失体で暗号が解読され、情報がもれる。

これでは戦争に勝てるわけがない。

せめて、いつどこで死んだかくらいは教えてあげたらと思う。

そんなことで負ける戦争であれば、しなければ良かったのだ。
そもそも、始めてはならない戦争だった。

山田太一と豊橋市

2023年12月02日 22時24分56秒 | 雑記
山田太一と豊橋市

脚本家の山田太一氏が亡くなった。

NHK土曜ドラマ『男たちの旅路』を毎週、真剣に見ていた。
10代の私にとっては、暗くて、重い内容であったが、鶴田浩二と水谷豊の掛け合いに、いつしかひきこまれていった。
当時仲のよかった、友人も同じようにテレビにかじりついていたようで、番組の内容でなぜか盛り上がった。

その、山田太一の兄が豊橋市に住んでいて、妹と一緒に遊びに来たという話が、『親ができるのは「ほんの少しばかり」のこと』に載っていたことを思い出した。ちょっとせつない内容である。

CBC製作の『旅の途中で』のロケは豊橋市だったそうだが、山田太一はどんな思いだったのだろうか?

神保修理と徳川慶喜の大坂城脱出

2023年11月20日 23時40分06秒 | 歴史
神保修理と徳川慶喜の大坂城脱出

『昔夢会筆記』によれば、1月5日夜、神保修理は徳川慶喜に謁見し、「事ここに至りては、もはやせんかたなし。速やかに御東帰ありて、おもむろに善後の計を運らさるべし」と具申し、慶喜は、「神保の建言を聴きたれば、むしろその説を利用して江戸に帰り、堅固に恭順謹慎せんと決心」したという。

『徳川慶喜公伝』にも、東帰決心意の経緯は、「神保修理の言上ありしかば、此に愈東帰の決心を固め、板倉伊賀守、永井玄蕃頭へ謀議したり」とあるが、修理の意見具申以前に、松平信敏を大坂町奉行に任命して東帰の準備に動き出していたことは既に述べた。修理に会う以前に、密かに東帰を決め、板倉勝静や永井尚志に伝えていたのである。

神保修理は、徳川慶喜に対して東帰言上したが、将兵を置き去りにして自らが黙って逃げるようなことを勧めたのではない。慶喜の大坂城脱出を知った修理は、「今度の御東帰其機にあらねば、却て後害深からんを恐る、急に馳せて諫止し参らするにしかず」(『七年史』)と、慶喜の後を追うのである。しかし、これも修理にとって身を危うくする行動となった。

神保修理の勧めにより、徳川慶喜が東帰を決めたという情報は、会津藩側に流れたのだろうか、それとも、それまでの修理の言動から推測されたものなのかわからないが、会津藩では、慶喜の東帰に対して、修理の責任を追及する声が大きくなり、修理はついに切腹するのであるが、徳川慶喜の無責任な行動によって、修理が責めを負ったとしたら、あまりにも気の毒に思える。

戊辰戦争拾遺 松平大隅守、桜門で神保修理と出逢う

2023年11月14日 22時44分32秒 | 歴史
戊辰戦争拾遺 松平大隅守、桜門で神保修理と出逢う

神保長輝(神保修理)は、戦況を伝えるために大坂に帰り会津藩の本営であった本願寺に戻っていたようである、徳川慶喜に呼ばれたことにより急ぎ登城したとおりに、桜門あたりで、松平信敏(松平大隅守)と出逢ったのだろう。

信敏の談話では、これを乗船の準備の命を受けた1月6日としているが、修理が大坂に戻ったのは1月5日であるので、日にちが合わない。

いずれにしても、1月5日、信敏が町奉行への転任の命を受けた時点で、徳川慶喜の東帰の準備段階に入っていたことがわかる。慶喜はそれ以前に東帰を側にいた閣老へ打ち明けていることになる。

それでは、修理は何のために呼ばれたのであろうか。