三河武士がゆく

日本史や地域のお話し。
特に幕末や戦史をメインにしています。

『インパール』(高木俊朗)を再び読み始めました

2023年07月27日 20時24分44秒 | 歴史
はっきりとした理由はわからないが、最近になって、『インパール』(高木俊朗)を再び読み始めた。高木氏の著書は何冊か読んでいると思うが、どれも、憤りを烈しく感じ、後味が悪いものが多くあったように記憶している。したがって、40年ほど縁が無かったのだが(憤っても健康に悪いということもある)、今こうして、数頁ずつであるが読み直しているのは、自分にとって何か意味があるのかも知れない。

わたしたちの日常においても、個人的に付き合うには問題なく、「良い人」であっても、組織の中にあって、責任を背負う事で、別の人格が出てきたり、思ってもみたことがない行動をとったりする人はいないだろうか。

マイナンバーカードやビッグモーターなど話題となっているが、結局、時代は移り変わっても人間は変わらないということなのか。
もっと、人間を学ぶ必要があるのだなあ。

戊辰戦争拾遺 順動丸の活躍(3)浅野美作守とシャノワン(シャノワーヌ)の上坂

2023年07月18日 20時29分21秒 | 歴史
戊辰戦争拾遺 順動丸の活躍(3)浅野美作守とシャノワン(シャノワーヌ)の上坂

12月21日の順動丸出帆については、はっきりしない。翌22日に滝川播磨守が上坂しているが、これも順動丸かどうかの確認はできない。23日出帆が長鯨丸であるとしたら、21日、22日のどちらかが順動丸である可能性は高いと思うが、12月25日の上坂命令も気にかかる。

次に順動丸の動向を確認できるのが翌慶応4年1月2日である。陸軍奉行兼帯の若年寄浅野美作守が、シャノワン(シャノワーヌ)らフランス軍事顧問団の教師らを引き連れて、順動丸で出帆している(1月6日着坂)。これには、歩兵一個大隊が乗り組んだようである。

浅野には27日に上坂命令が出て、28日に出帆予定であったらしいが、支障があって翌慶応4年1月2日に延期となったのである。

このシャノワン等のフランス軍事顧問団の着坂が予定通りであったなら、鳥羽・伏見の戦いに間に合っていたと思われる。先の長崎丸の伝習砲兵も大幅に上坂が遅れたようだが、大坂の旧幕府幹部連中はこれらを待つことができなかった。薩摩藩邸焼き討ちの報により討薩へと一気に加速したにせよ、戦争を想定した上京をするのであるから、じっくりと態勢を整える必要があったと思う。

薩長を甘く見すぎていたとしか考えられない。

「どうする家康」が秀逸(おもしろい)。いやなら、見なければよいのである。

2023年07月05日 22時40分59秒 | 歴史
「どうする家康」が始まり、また今までのドラマと同じような展開であろうという予想は大きく裏切られた。

この睦まじい二人の行く先どうなるのかを知っているだけに、あまりにも悲しい結末を見たくはないので、23.24.25回、中でも25回「はるかに遠い夢」は見るまいと思っていたのだが、早送り、飛ばし見も含めて3-4回見てしまった。

しかも、泣いた。

最近、大河ドラマで泣くことは滅多にない。

そういう意味では、傑作だと思う(いまのとこ)。

歴史が好きな者としては、史実を追いたいのだが、ドラマとしてみれば、怒りもし、涙も流す。

こだわらずに、普通に楽しもうと切り替えたのは、第24回である。
同じような方もいらっしゃるかと思う。

どこまでも、史実を追いたい方は、研究所を読んだり、史料原本にあたったり、自分で研究して、様々な可能性を見つけていくと面白いのでは。

幕末でさえ、いや、戦中・戦前であっても真実にたどり着けない歴史はゴロゴロしている。400年以上前のことを、残されたわずかな史料だけでは、何ともならない。

その何ともならないことはわかっていても、研究は続くので、面白いし、ありがたい。

大河ドラマは、「テレビドラマ」である。
水戸黄門、暴れん坊将軍、必殺シリーズ、鬼平犯科帳などなども同じ。

子供が疑問を持ったら、本当はこうなんだと説明して、もっと調べたければ本でも読んでは?
と勧めてみれば良い。
大人も子供も興味を持つことで勉強になる。

本当に見たくなければ、批判せずに見ないようにしたらよい。
批判するのは、見ているからで、それはそれで良い。
要するに、ドラマと割り切って自分なりに楽しめば良いのである。


戊辰戦争拾遺 順動丸の活躍(2)慶応3年12月21日

2023年06月30日 21時54分26秒 | 歴史
『小野友五郎の上坂と薩摩藩邸焼き討ちの報』でも書いたが、滝川播磨守や小野内膳正の上坂は、何度か出帆予定が変更となり、滝川は12月22日、小野は12月23日に出帆したと思われる。 小野の乗船は長鯨丸で間違いないと思うが、確認出来るのは小野の履歴書であり、日記には記述がない。滝川の乗船は不明であるが、順動丸の可能性も少しある。

12月21日に、陸軍奉行、大目付、勘定奉行などが出帆予定であったようだ。陸軍奉行が石川若狭守、大目付が滝川播磨守、勘定奉行が小野内膳正であった可能性は高いのだが、彼らの上坂は上記のように延期されている。石川若狭守についても上坂はしているが、この日ではない。

ただし、兵隊を乗せて出版した可能性はゼロでは無い。小野友五郎の日記にそれらしき内容の記事があるのだが、しっかりと読めないでいる。順動丸の運航に関する記事が「慶喜公御実紀」の12月25日条にみえる。歩兵200人を乗せて早々上坂するようにというものだ。

即日出帆はないと思うので、命令が実行されたとしたら、26日以降となるだろう。しかし、21日に順動が出帆していれば、それを承知の上で帰府を待っての出帆命令であったといえる。外に運送船はなかったのかと思ってしまうが、21日の出帆はなく、順動丸は江戸湾にとどまっていたと考えれば納得もいく。現時点でこれに関する史料を見つけられないでいる。

幕府は多くの艦船を保有していたが、故障によりまともに動くことができなかった船もあるようだ。薩摩藩邸焼き討ちの時に起った江戸湾での海戦でも、咸臨丸は汽罐の故障により、まともに航行ができなかったという話しもある。その他の故障船があってもすぐ修理ができたわけではない。

戊辰戦争拾遺 幕府軍艦、順動丸の活躍(1)慶応3年10月から12月15日

2023年06月29日 23時40分21秒 | 歴史
幕府軍艦「順動丸」は外輪船で、イギリス商船であったときの名は「ジンギー」である。軍艦と書いたが、当時の蒸気船はこのように呼ばれていたようである。「順動艦」と記している史料もあるが、「順動丸」で統一する。

順動丸は江戸と兵庫を往復する飛脚船であったようだが、実際どのように運用されていたのか。

慶応3年10月の大政奉還にあたり、上京命令を受けた老中・若年寄歩兵・撒兵200名ほどを乗せている。歩兵はフランス伝習兵らしいがよくわからない。このなかに滝川具挙の息子、歩兵差図役勤方・滝川充太郎(滝川具綏)が含まれている。外にも歩兵が乗り組んでいたかは不明。10月24日品川出帆、28日に大坂へ着したらしい。

このあと順動丸は11月24日に、若年寄並兼外国総奉行・平山敬忠を乗せて出帆したという史料もあるようだが、これは「蟠竜丸」の間違いと思われ、11月26日に、外国奉行糟屋筑後守を乗せて出帆、29日に兵庫着している。

その後、江戸へ帰ったかはわからないが、12月15日、大坂湾の開陽艦にあった榎本釜次郎が、勝海舟(勝安房守)に宛てた書簡を順動丸で江戸へ送ったと思われるので(「海舟日記」)、支障がなければ18日には江戸に着いていたであろう。

戊辰戦争拾遺 遅れた長崎丸と河津三郎太郎ら伝習砲兵

2023年06月28日 21時48分03秒 | 歴史
王政復古のクーデタの知らせが江戸に入り、幕閣は在京老中の要請に応えて、12月14日、兵の急速上京を命じた。この時、乗船として長鯨丸と長崎丸があがっている。長鯨丸は何度か出帆予定を変更しながら、23日に勘定奉行並、小野友五郎らを乗せて出帆していると思われる。しかし、長崎丸はさらに遅れて、砲兵頭並、河津三郎太郎(祐賢)、大砲差図役頭取、永持五郎次(明徳)ら伝習砲兵を乗せて、翌慶応4年1月2日に着坂したと思われる。河津ら伝習砲兵は14日、上京命令を受けているのだが、遅延の理由は何であったのか。

この伝習砲兵隊が、鳥羽・伏見の戦いの緒戦に間に合っていたとしたら、戦局に大きく影響したかわからないが、簡単に戦線が崩れることはなかったかもしれない。

この他にも旧幕府支援の兵が大坂を目指しており、大津方面から入京を図る旧幕府歩兵などもいた。さらに長崎丸が着坂した1月2日には歩兵一個大隊を乗せた順動丸が品川を出帆しているのである。

河津と永持は共に明治政府の陸軍に仕え、砲兵の大隊長を経て要職を歴任している。

近藤勇狙撃、戸塚文海、小野友五郎、戸塚環海

2023年06月20日 15時05分46秒 | 雑記
慶応3年12月18日、二条城から伏見への帰り道、新選組の近藤勇が狙撃され負傷しています。
新選組によって殺された伊東甲子太郎一派による待ち伏せでした。

負傷した近藤勇は大坂城で治療を受ける事になり、翌年1月3日始まった鳥羽・伏見の戦いは参加せず、帰府の後、医学所で松本良順の治療を受けています。

『新選組史料集』の解説には松本良順の治療を受けるため下坂したような記述がありますが、良順はこの時大坂にはいないと思います。

当時の若年寄の記録に拠れば、会津藩より申し出があり、平塚久海という医師が遣わされたという。徳川慶喜が療養のために夜具と黄金を与えたという。

日付は異なるが「島田魁日記」にも「大樹君ヨリ御使者」が遣わされ、近藤勇は大坂城二の丸で養生したとある。

近藤勇の治療にあたった医師「平塚久海」とは奥医師であった「戸塚文海」のことでしょうか?文海は当時大坂におりました。

小野友五郎と文海は関係があり、友五郎が天文台勤務の頃、文海から西洋語を、友五郎から文海へは算術を教えあったそうです。

またこの文海の養子「戸塚環海」は八名郡賀茂村(現豊橋市賀茂町)出身でもあります。

ムツゴロウの喧嘩と大きな動物との向き合い方

2023年04月08日 10時14分15秒 | 雑記
ムツゴロウの喧嘩と大きな動物への接し方

意外かも知れないが著書によれば、畑正憲さんは、喧嘩が強かった。

大原則を述べている。
ひるまない。
遅れない。
遠慮しない。

小学5年生の時、上級生と喧嘩になり、何発殴られようが、一矢報いてやるという気持ちで先制攻撃をして勝ったのが転機となったそうだ。

この非情なばかりの攻撃性と動物たちと親しむ姿はマッチしないかも知れない。

テレビなどでは、猛獣と親しむムツゴロウの接近方法が、動物へのフレンドリー感に拠るというような、優しさが全面的に取り入れられるような表現が見られるが、そうではないように思う。

命のやり取りをする緊張感のなかで、相手と向きあうことを愉しんでいたのかも知れないと思うのである。

初めましてのライオンとなどの猛獣は、この気魄に圧倒されて従わざるを得ない情況に追い込まれたのかも。犬猫などは言うに及ばない。これを、動物への心を開いたフレンドリー精神だと思って、同じようなことをしたら、たちまち命の危険にさらされることになるのではないか。

秩序の安定の上に、あるいは安定のために信頼感が生まれることは、人間の社会でもある。

「あ~こうだった」

私は、おそらく1977年頃からムツゴロウの文庫本を読んでいた。
亡くなられたことで、何十年ぶりかに一冊だけパラパラとめくって、飛び込んできた記述に目が留まった。

テレビは本を読むことよりも私のなかでは大きな印象を与えるようだ。
すっかり忘れていた。

ムツゴロウは、本能的な生物であり、理知的でもある。そうであるが故に、読者や視聴者には魅力的であり、錯覚をおこしたりもする。誤解も生ずるのだろう。

そういうことを忘れていた。
最近、YouTubeの柴犬の動画を毎日のように見て、心がほっこり、平和ボケしている筆者にとっては、
良い意味で、自然の厳しさも思い出させていただいた。

「情況や動機がまったく違うけれど、大きくて危険な動物の前にひょいと立った時が、喧嘩の前のあの空白状態に似ていなくもない。心の中の屈折した部分がなくなり、何がどうなってもいいやという気になっている。くよくよ思い煩って以内、一種の捨身の状態は同じだと言ってもよい。片方は喧嘩で、片方は相手の心の中に入るためであり、目的はまったく違うけれど、心の真空状態は一つしかないのだろう」(『ムツゴロウの少年期』)


新型コロナは、大丈夫だから5類に引き下げるのか?

2023年01月27日 18時10分20秒 | 雑記
そもそもの話、新型コロナの5類引き下げですが、私がいちばん関心を持っているのは次のことです。

5類に引き下げるから、大丈夫なのか?

大丈夫だから、5類に引き下げるのか?

私のなかでは、大きな違いがあるのです。


5類になったので、マスクはしなくてもよい?
マスクをしていない人が増えたから、マスクをしなくてもよい?

重症化の可能性がある人や、家族に同様の方がいる人は、どうするのでしょうか?
危険を感じている人は、マスクを続けることでしょう。

同調圧力も怖いが、判断力が鈍るのもまた怖いです。
政治家の意思決定が集団思考になっていないことを信じたいです。

慶応3年12月の滝川播磨守と小野友五郎の上坂への疑問

2023年01月27日 18時07分13秒 | 歴史
慶応3年12月江戸薩摩藩邸焼き討ちがおこり、その報が大坂にもたらされたことで徳川慶喜の率兵上京が決定し、その先兵とこれを阻止しようとする薩長軍との間で戦いが始まった(鳥羽・伏見の戦い)のですが、この薩摩藩邸焼き討ちの報をもたらしたのが、大目付滝川播磨守(滝川具挙)と勘定奉行並小野友五郎(小野内膳正)と言われてきました。しかし、藤井哲博氏は昭和60年、『咸臨丸航海長小野友五郎の生涯』(中公新書)でこれを否定しました。しかし、すでに刊行後40年近くなろうとしますが、いまだに浸透していないように感じます。

それは、滝川と小野の上坂に関して言及している書が少ないことが原因となっていると思います。薩摩藩邸焼き討ち情報が大坂にもたらされた日も28日とするものが多いのですが、その根拠を示している資料は以外と少ないのも事実です。

松浦玲氏は『徳川の幕末』(筑摩選書、令和2年)で、『徳川慶喜公伝』を引きながら「管見の限りでは船と人物に整合性のあるものがない」と、問題点を指摘しています。