三河武士がゆく

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戊辰戦争拾遺 松平大隅守、桜門で神保修理と出逢う

2023年11月14日 22時44分32秒 | 歴史
戊辰戦争拾遺 松平大隅守、桜門で神保修理と出逢う

神保長輝(神保修理)は、戦況を伝えるために大坂に帰り会津藩の本営であった本願寺に戻っていたようである、徳川慶喜に呼ばれたことにより急ぎ登城したとおりに、桜門あたりで、松平信敏(松平大隅守)と出逢ったのだろう。

信敏の談話では、これを乗船の準備の命を受けた1月6日としているが、修理が大坂に戻ったのは1月5日であるので、日にちが合わない。

いずれにしても、1月5日、信敏が町奉行への転任の命を受けた時点で、徳川慶喜の東帰の準備段階に入っていたことがわかる。慶喜はそれ以前に東帰を側にいた閣老へ打ち明けていることになる。

それでは、修理は何のために呼ばれたのであろうか。

松平大隅守、徳川慶喜の大坂城脱出の準備を命じられる

2023年11月13日 23時49分04秒 | 歴史
京都にあった大目付松平信敏(松平大隅守)と江戸の同役滝川具挙(滝川播磨守)に、交替の命令が発せられたのは、慶応3年11月頃だが、滝川が上坂したのは12月下旬のことだった。

その頃、徳川慶喜は、王政復古クーデタによる、復古政府と旧幕府勢力との一触即発の事態を避け大坂に下っていたが、予断を許さない情況であった。

信敏は、江戸に下らず、そのまま大坂に留まり、翌年1月3日の鳥羽・伏見の戦いを迎えることになった。

旧幕軍敗報が伝わる中、1月5日信敏は突然、大坂東町奉行に任じられた。翌6日には、徳川慶喜の大坂城脱出を告げられ、八軒家に出向き、乗船の準備を整え復命したところ、さらに乗替の船の準備のため、天保山行きを命じられた。

その後、信敏は、開陽艦へ出向いて副長の澤太郎左衛門に面会して東帰の内命を伝え、慶喜一行を待ち、随従して江戸へ帰っている。

東帰後、勘定奉行に任じられたが、徳川慶喜の恭順・謹慎にともない、2月御役御免となった。

信敏が内命を受け、乗船の準備に向かうときに、大坂城桜門辺りで出逢ったのが、会津藩士神保長輝(神保修理)である

戊辰戦争拾遺 佐久間近江守の戦死について

2023年10月20日 08時51分26秒 | 歴史
戊辰戦争拾遺 佐久間近江守の戦死について

歩兵奉行並、佐久間近江守(佐久間信久、佐久間小左衞門)の戦死した日についても、窪田備前守同様、諸説ある。しかし、釣洋一氏の「三人の幕軍戦没者」(『歴史研究』312号」)によれば、東京の全勝寺にある墓碑銘には、下鳥羽で負傷し慶応4年1月26日、紀三井寺で没したとあるらしい。

「西家譜略」や小野友五郎の日記にも佐久間が紀州にあったことを示す箇所がある。

銃火を浴びて倒れるのを見た者が戦死したもののと誤って受け取り、その情報が伝わったと思う。しかし、明らかに生存しており、連隊を率いる歩兵奉行並の生死に関わる誤った情報が伝わるのは怖いものだ。窪田備前守も同様に。


戊辰戦争拾遺 『香亭遺文』の長鯨丸

2023年10月14日 00時08分57秒 | 歴史
戊辰戦争拾遺 『香亭遺文』の長鯨丸

中根淑(中根香亭)は、慶応3年12月29日、長鯨丸で兵庫に着き、翌日大坂へ入ったとある。
しかし、『慶応3年、小野友五郎の上坂と薩摩藩邸焼き討ちの報』でも書いたが、小野友五郎は、12月23日長鯨丸で出帆して、26日に兵庫着、翌27日に大坂に入ったことになっている。

中根淑と小野友五郎のどちらかが間違っていることになる。

小野の兵庫着は、日記によるので間違いないと思うが、乗船名は履歴書を根拠とした。小野の履歴書と中根の『香亭遺文』は、後年のものである。

どちらかが、長鯨丸に乗船して、片方が別の船だったのか、あるいは、両人共、長鯨丸に乗り組んだが、中根が日付を間違えたものなのか。

戊辰戦争拾遺 『香亭遺文』の、大澤顕一郎

2023年10月13日 23時43分57秒 | 歴史
戊辰戦争拾遺 『香亭遺文』の、大澤顕一郎

「窪田備前守の戦死について」の追記で、大澤顕一郎は歩兵第12連隊の一個大隊を率いていたと書いたが、歩兵第7連隊に所属して鳥羽・伏見の戦いに参加した中根淑(中根香亭)によれば、隊長を大澤顕一郎としている。大澤は歩兵頭並であったので、率いたのは大隊であったと思われる。『徳川慶喜公伝』にも、大澤は、伏見で歩兵一大隊を率いたことになっている。

大澤顕一郎は、側衆であった大澤秉哲の子で或。禁門の変では、一橋慶喜に属して戦っている。

戊辰戦争拾遺 窪田備前守の戦死について

2023年10月04日 23時45分31秒 | 歴史
戊辰戦争拾遺 窪田備前守の戦死について

歩兵頭窪田備前守(窪田泉太郎・窪田鎮章)は、歩兵第12連隊の一大隊を率いて、鳥羽・伏見の戦いに臨んで討死にした。戦死した日については諸説ある。会津藩儒者小笠原勝修の『續國史略後編』(明治8年)は、1月4日討死とし、勘定方として兵粮を担当した坂本柳佐は、『史談速記録』で、1月5日に被弾としているが、死亡については触れていない。

しかし、窪田鎮章の父、窪田鎮勝と従兄弟同士だった、川路聖謨の「東洋金鴻」によれば、討死は1月3日であるらしい。典拠不明だが、西村兼文編『文明史略』(明治9年)や「戊辰正月伏見鳥羽其他ニ於ケル東軍戦死者」(『渋沢栄一伝記資料』)も1月3日としている。

※追記
窪田鎮章が率いた大隊の所属連隊を「歩兵第11連隊」と間違って書いてしまったので、「歩兵第12連隊」にあらためました。
なかには、「第12大隊」としている文献もあるようですが、歩兵奉行並奉行?城和泉守が連隊長で、歩兵頭窪田備前守と歩兵頭並?大澤顕一郎が大隊長であったと思われます。

戊辰戦争拾遺 順動丸の活躍(5)東帰、負傷兵の収容と最期

2023年08月24日 13時18分34秒 | 歴史
鳥羽・伏見の戦いは、旧幕府軍の退却に次ぐ退却で、徳川慶喜も家臣達を大坂城に置き去りにして江戸に帰ってしまった。

残された将兵は、それぞれ引き揚げることとなった。艦船に収容されて東帰する者もいれば、陸路紀州へ落ちていく者もいれば、伊勢へ抜ける者もいた。

順動丸はこの時、負傷者を収容し、小野友五郎の差配で大坂城の御用金を翔鶴丸と共に江戸に運ぶ役割を果たした。

大坂出帆の日は、1月9日暁、その後兵庫へ向かったと思われる。同日兵庫出帆の後、紀州へ立寄ったかはわからないが、品川着は1月13日らしい。大坂出帆が

このあと、残っていた旧幕将兵などの撤収のために、紀州に趣いたという記録があるが、裏がとれないでいる。

撤収任務終了後の順動丸は、会津藩に貸与され、そのまま同藩が、武器や兵員輸送に使用したとみられ、長岡落城後の5月24日、越後寺泊で新政府軍の乾行丸・丁卯丸と交戦して損傷し、25日に自焼したとされる(寺泊沖海戦)。

戊辰戦争拾遺 順動丸の活躍(4)浅野美作守と柴誠一

2023年08月01日 22時53分08秒 | 歴史
浅野美作守(浅野氏祐)は、1月2日出帆、1月6日天保山沖に着船し、短艇で上陸しようとしたと証言している(『徳川慶喜公伝』)。

同じく、順動丸に乗り組んでいた軍艦頭並柴誠一の「履歴書」(樋口雄彦「箱館戦争降伏人と静岡藩」『国立歴史民俗博物館研究報告』第109集)には、1月2日出帆、4日兵庫着、翔鶴丸に乗船して大坂着となっている。柴は、12月25日回天艦で、品川沖で薩艦と交戦・追尾したが、これを見失い27日帰帆していた。

この二人の証言の食い違いは何であるのか。

浅野氏祐は、陸軍奉行兼帯の若年寄であり、フランス軍事顧問団の教師や歩兵を引率して上坂してきたのである。一刻も早く大坂城へ向う必要があるのに、柴誠一よりも着坂が遅れたとしたら、これをどのように釈明するのだろうか。

『インパール』(高木俊朗)を再び読み始めました

2023年07月27日 20時24分44秒 | 歴史
はっきりとした理由はわからないが、最近になって、『インパール』(高木俊朗)を再び読み始めた。高木氏の著書は何冊か読んでいると思うが、どれも、憤りを烈しく感じ、後味が悪いものが多くあったように記憶している。したがって、40年ほど縁が無かったのだが(憤っても健康に悪いということもある)、今こうして、数頁ずつであるが読み直しているのは、自分にとって何か意味があるのかも知れない。

わたしたちの日常においても、個人的に付き合うには問題なく、「良い人」であっても、組織の中にあって、責任を背負う事で、別の人格が出てきたり、思ってもみたことがない行動をとったりする人はいないだろうか。

マイナンバーカードやビッグモーターなど話題となっているが、結局、時代は移り変わっても人間は変わらないということなのか。
もっと、人間を学ぶ必要があるのだなあ。

戊辰戦争拾遺 順動丸の活躍(3)浅野美作守とシャノワン(シャノワーヌ)の上坂

2023年07月18日 20時29分21秒 | 歴史
戊辰戦争拾遺 順動丸の活躍(3)浅野美作守とシャノワン(シャノワーヌ)の上坂

12月21日の順動丸出帆については、はっきりしない。翌22日に滝川播磨守が上坂しているが、これも順動丸かどうかの確認はできない。23日出帆が長鯨丸であるとしたら、21日、22日のどちらかが順動丸である可能性は高いと思うが、12月25日の上坂命令も気にかかる。

次に順動丸の動向を確認できるのが翌慶応4年1月2日である。陸軍奉行兼帯の若年寄浅野美作守が、シャノワン(シャノワーヌ)らフランス軍事顧問団の教師らを引き連れて、順動丸で出帆している(1月6日着坂)。これには、歩兵一個大隊が乗り組んだようである。

浅野には27日に上坂命令が出て、28日に出帆予定であったらしいが、支障があって翌慶応4年1月2日に延期となったのである。

このシャノワン等のフランス軍事顧問団の着坂が予定通りであったなら、鳥羽・伏見の戦いに間に合っていたと思われる。先の長崎丸の伝習砲兵も大幅に上坂が遅れたようだが、大坂の旧幕府幹部連中はこれらを待つことができなかった。薩摩藩邸焼き討ちの報により討薩へと一気に加速したにせよ、戦争を想定した上京をするのであるから、じっくりと態勢を整える必要があったと思う。

薩長を甘く見すぎていたとしか考えられない。