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逗子にあるキリスト教会の逗子第一バプテスト教会です。

牧師のつれづれ日記、地域情報、教会の様子を紹介します。

御言葉は我が道の光

2020-11-17 12:05:09 | 説教要旨
2020年11月15日 主日礼拝宣教
「御言葉は我が道の光」 詩編119編105節
 以前、ある牧師が書かれた「名優の法則」と題した文章を読んで感銘を受けたことがあった。こう書かれている。「名優とはどんな人のことをいうのでしょうか。大根役者ほど役の中に浸り切っていて、自分の演技がいかに下手なものか見えていないといいます。名優と呼ばれる人は、演じる自分とそれを見ている自分がいて、常に自分の演技を修正しているそうです。自分を客観的に見る目がなければ、名優にはなれません。これは映画や演劇の世界だけでなく、ビジネスの世界にも、また私たちの日常生活にも当てはまる真理です」(「ハーベスト・タイム」2005年7月号)。
 ことわざに「人のふり見て我がふり直せ」というものがある。私たちは自分のことは自分が一番分かっていると思い込んでいるが、意外とそうでもない。自分を客観的に見ることのできない状態は、聖書的に言えば、神から離れた人の霊的な状態と同じと考えられる。罪は私たちを神から切り離すだけではなく、自分がいかに霊的に悲惨な状態にあるかということも分からなくさせるから。自分の本当の姿が見えてない。
 そのような私たちに対して、この詩編の詩人は「あなたの御言葉は、私の道の光、私の歩みを照らす灯。」と告白する。文語訳では「汝の御言葉は我が足の灯(ともしび)、わが道の光なり」と訳されている。自分の外からの光、灯があってこそ、自分が映し出されて明らかにされていく。そこではじめて自分自身を振り返ることが出来る。
 そのように聖書の御言葉は自分自身を観察するための客観的な鏡といえるだろう。聖書の言葉に照らし合わせて自分の姿を見始めるなら、今まで見えなかったものが見えてくる。それは単に、他人の目に自分がどのように映っているかが分かるということではない。創造主である神の目に自分がどう映っているかが分かってくるのである。この視点が必要かつ大事。
 使徒パウロは、自分の姿を見て、こう告白している。「わたしは、自分の内には、つまりわたしの肉には、善が住んでいないことを知っています。善をなそうという意志はありますが、それを実行できないからです」(ロマ書7:18)。このように率直に告白している。
 これこそ、聖書の鏡を通して自己を客観的に評価した言葉である。このような自己認識を持った人には、大きな可能性が広がるだろう。その人はキリストにある罪の赦しを受け、聖書的価値観と世界観の中で生きるようになる。また、日々聖書の御言葉によって自分をモニターし、その考えや行動を修正するようになる。そういう人こそ、人生の名優になれるのではないだろうか。
さらに人生の名優だけでなく、次のように考えることもできるだろう。成熟した人格の持ち主は、様々な人生経験を包括し統合する生き方ができるといわれる。人生に順風満帆の日々が続けば、それに越したことはない。けれども挫折を体験することがあり、愛する者を突如奪われることがあり、思わぬ不幸に泣き、意に添わぬことをしなければならぬことも珍しくない。しかしながら、どのような運命や境遇が待ち受けていようと、自分の人生はだれも代わって生きてはくれない。こうなったのは、親が悪い、世間のせいだと当たり散らしたところで惨めになるのは結局自分である。自分の人生は自分の責任で生きる、それが本来の人の生き方。主体的な自立した生き方だ。
 そのためには、良いこと悪いことがない交ぜに起こる人生体験を包み込んだり、統合したりする生き方がなければならない。そのような生き方を身に付けるためには、自分の外から人生を判断し、どのように生きることが最も適切であるかを教える道しるべが必要である。詩編の作者は、これを神の言葉に求めた。神の言葉は自分の外にあって、人生の道筋を照らしてくれるからである。だから詩人は「あなたの御言葉は、私の道の光、私の歩みを照らす灯」と告白し、み言葉に照らして、主に従っていく道を歩んだのである。「汝の御言葉は我が足の灯、わが道の光なり」。闇から光の中へ、そして光の中を歩んでいこう。それは神の恵み。感謝して喜びをもって歩もう。