逗子にあるキリスト教会の逗子第一バプテスト教会です。

牧師のつれづれ日記、地域情報、教会の様子を紹介します。

神による神への犠牲

2020-05-28 11:54:04 | 説教要旨

2020年5月24日 主日礼拝宣教
「神による神への犠牲」 ヘブライ人への手紙9章11ー15節
 「犠牲」という言葉を辞書で調べると、ある目的のために、その人の生命やかけがえのないものを提供すること、とある。用例では「独立運動の犠牲になる」「仕事を犠牲にする」など。また、不測の事故・災難による禍を意味することもある。いずれにしても今日では、「犠牲(いけにえ)」という言葉は日常あまり使われてないのではないか。使われるとしても、不測の事故・災難による禍などのように、その人自身の責任でないのに禍を受ける場合で、否定的な意味合いで用いられることが多く、積極的な意味あいで使われることはほとんどないように思う。だから、「犠牲」という言葉は、現在では宗教的な次元でも、神との関係において理解されていないし、それが持っている積極的な意味も理解されていないように思う。
 しかし人間の生き方には、「犠牲」なしには成り立たないところがある。家庭生活でも職場でも、福祉や医療や教育の現場でも、権利の主張だけでは成立しない部分がある。今回のコロナ禍においても、医療従事者をはじめ様々な職種の方々の多大なる犠牲の上に、何とか収束に向かっているという事実がある。「犠牲」という言葉を死語の中から救い出し、積極的な意味合いで理解する必要があるように思う。
 特にイエス・キリストの十字架の理解には、この「犠牲」という言葉は不可欠である。「犠牲」としての十字架は、「キリストの血」を強調している。なぜなら「血」は「いのち」を象徴しているからである。そしてそれは、「大祭司キリスト」(11、25節)という興味深いキリスト理解と結び付いている。「大祭司」は、神と人間の間の仲保者、取り次ぐ者として働く。さらにその「犠牲」は、「ただ一度」(12、26、28節)のこととも言われている。だから、イエス・キリストの十字架が「犠牲(いけにえ)」だということは、主イエスご自身が「大祭司」(仲保者)として、「ご自身の血」(いのち)を「祭壇」に注ぎ、ささげられたということである。それはもはや二度と繰り返すことが出来ない。それはもはや繰り返す必要のない仕方で、ただ一度にして「永遠の贖い」(12節)を成し遂げられるのである。
 「犠牲」は祭壇において、神にささげられる。それは「神との和解」のため。真実の「生きた礼拝」が出来るようになるため。そのためには「罪が取り去られ」なければならない。「罪」は人間を神から引き裂く。この「罪」が「取り去られる」必要がある。そのための「犠牲」である。現代人に「犠牲」という言葉があまりぴんとこないのは、この「罪によって神から引き離される」ということの深刻さがぴんと来てないということだろうと思う。人間の本当の問題は、神との関係性、神との交わりの問題なのだ。神から引き離されていることなのだ。神に背を向けている。神から隠れる。神なしで生きる、神の不在。しかしそれがなかなかぴんとこない。「神なしで生きられる」「信仰なんてなくても幸せ」。しかし、ぴんとこようとこなかろうと、神から離れていること、神に背を向けていることこそが、人間と社会の根本問題なのだと聖書は一貫して主張している。いわゆる「原罪」である。
 さらに、14節に「永遠の霊によってご自身を傷のないものとして神にささげられたキリストの血」とある。キリストの「犠牲」は「永遠の霊」の働きだというのだ。ということは、それは神ご自身の御業であるということだ。「大祭司キリスト」が神に「ご自身の血」をささげる。そのことは「永遠の霊」によったのだ。主イエスの十字架は「神による神の十字架」なのだ。「神による神への犠牲」であるということ。キリストの「犠牲」は「罪を取り去る」ため。というのは22節「血を流すことなしには罪の赦しはあり得ない」からである。しかし、それは神による神への犠牲だったのだ。そこに「ひとたびにしてまったき犠牲」と言われる理由がある。「永遠の贖い」と言われる理由もある。神によるのでなければ、罪の赦しはあり得なかった。私たち自身が罪人だからである。しかし、「一度にしてまったき犠牲」がある。だからこそ、今日も私たちはそのキリストの犠牲のゆえに罪を取り去られ、礼拝の恵みにあずかることが出来るのである。私たちのどの礼拝も、どの説教も、どのバプテスマも、どの主の晩餐も、どの祈りも、この主の「ひとたびにしてまったき犠牲」によらなければ成り立たないのだ。
 このことは私たちの信仰生活に決定的である。私たちの人生はどこまでいっても主の十字架によるほかない。「主の十字架によって御国に入るまで」、日々主の十字架によるのである。御国に入っても、その根底には主の十字架がある。主の犠牲によって真の礼拝があるのだから。だから、そのことを覚え、感謝し、献身の思いを持って自分の人生を歩んでいきたいと思う。

キリストにおいて一つ

2020-05-19 16:08:57 | 説教要旨

2020年5月17日 主日礼拝宣教
「キリストにおいて一つ」 マタイによる福音書16章13ー20節 
 人間はいろいろな問題に悩まされる。悩みのない人なんかいない。悩みの中で生きていると言っていい。その悩みの中で疑問や迷いを抱きつつ、問いを持つ。しかし今朝、聖書を読むと、人間は問うだけではなく、問いかけられてもいるというのだ。誰に問いかけられているか。それは神が私たちに問われる、というのだ。主イエスを通して神が私たちに問うているのだ。そしてこの神の問いかけに答えることが、人間のいろいろな悩みや問題の答えになるのだ、というのである。神のその問いかけとは、「それでは、あなたがたは私を何者だと言うのか」である。主イエスはそう問いかけられた。ここに実は人間にとっての「最大の問いかけ」があるといってよい。聖書はその問いかけのために書かれているといってよいだろう。
 生きていくうえで、人生には確かにいろいろな問題がある。トラブルがあり、悩ませられることが様々起こる。そして私たちは自分を見失い、進むべき方向を失い、他者ともうまくやっていけなくなったりもする。しかしその時にも、この最大の問いかけ、「それでは、あなたがたはわたしを何者だというのか」という問いかけを聞き、この問いかけに答えながら生きるとき、人間は真実に生きることが出来ることを聖書は教える。
 主イエスの問いに弟子のシモンは答えた。「あなたはメシア(キリスト)、生ける神の子です」。そう答えたシモンを主イエスは「岩」だ、ペテロだと叫んで、「その上に私の教会を建てる」と言われた。今朝、皆さんはその教会の礼拝に集まって来られた。それは、実は「岩の上」に来たのである。教会はその岩の上に立っている。それはまたどんな問題や悩みの中にあっても私たちの人生を真実に生きることの出来る「岩」である。その岩とは「あなたはメシア(キリスト)、生ける神の子です」という、主イエスに対する信仰告白である。これが教会の土台であり、また私たちの人生の土台なのだ。
 では一体、教会とはどんな群れだろうか。それはどんな時にもこの主の問いかけとシモン・ペテロの答えが生きて力を発揮しているところである。主イエスに対する信仰を告白する群れである。だから、この信仰告白を見失った時、この問いを「最大の問い」とせず、またあの答えを失ったとき、つまり世の中にはもっと深刻な問いがあると考えたり、もっと別の答えがあると思ったとき、教会はその命を失い、力を失う。教会が教会でなくなる時である。逆に、これこそ「最大の問い」とし、それに対する真実な答えをする時、教会はどんな時にも力を発揮する。主イエスは言われた、「私の教会を建てる」。教会(エクレシア)という言葉は、呼び集められた者の集会、あるいは群れ、という意味。主イエスは弟子たちをご自分の周りに呼び集められた。十二人の弟子を選んだということは、神の民であるイスラエル十二部族を象徴していて、新しい神の民(教会)が建てられたのだ。
しかし、私たちは罪によって自分自身失われた人間。また、罪によって他者を失う人間である。自己中心のあまり、愛することができない人間である。新しい神の民としてではあるが、しょせん呼び集められた人間の群れ(教会)である。その教会が罪と死に打ち勝つところと、どうして言えるのだろうか。天の国に通ずるとどうして言えるのだろうか。それは「あなたはメシア(キリスト)、生ける神の子」、この主への信仰告白によって可能にされる外はないのである。
 「あなたはメシア(キリスト)」、そうお答えする時、私たちはそのメシアの民とされる。「あなたはメシア(キリスト)」、そうお答えする中で、私たちは罪を赦され、愛の破れを癒される。死から生き返らされる。そうお答えする中で、私たちは真のクリスチャンにされていく。キリストに結ばれ、死と罪から解放され、天の国へと通じる存在にされていく。私たちもこの朝、答えようではないか。「あなたはメシア(キリスト)、生ける神の子」と、そう答えることが可能である。天の父がそれを可能にしてくださるのである(17節)。神は私たちがそう答えることを喜んでくださる。
 逗子第一教会は今までもそうであったように、これからも「あなたはメシア(キリスト)、生ける神の子です」と大胆に信仰告白していく群れとして、祈りをあわせ、キリストにあって一つになって歩みを進めてきたいと思う。礼拝とはまさに、毎週毎週、繰り返し、この信仰告白をする場でありその時でもある。そのような礼拝を大事にしていこう。生きる原点、生きる土台である。

ボケない小唄

2020-05-14 09:31:35 | コラム

☆ コラム ☆ ボケない小唄
 以前、教わった「ボケない小唄」を紹介します。作者不詳、「お座敷小唄」の節で歌います。
1、風邪をひかずに 転ばずに/笑いを忘れず よくしゃべり/頭と足腰 使う人/元気ある人 ボケません 
2、スポーツカラオケ 囲碁将棋/趣味のある人 味もある/異性に関心 持ちながら/色気ある人 ボケません 
3、年をとっても 白髪でも/頭はげても まだ若い/演歌うたって アンコール/生き甲斐ある人 ボケません
見事なアンチエイジング(老化防止)です。ユーモア忘れず、コロナを吹き飛ばしましょう。











忍耐と希望

2020-05-11 16:35:39 | 説教要旨

2020年5月10日 主日礼拝宣教
「忍耐と希望」 ヘブライ人への手紙6章13~20節
 信仰は量ではなく質である、とよく言われる。信仰生活の長い短いではなく、また、大きい小さいでもない。主イエスが「からし種一粒の信仰があればいいのだ」(マルコ4:31)と言われたその真意は、たとえ小さくともその中身の問題、信仰そのものの問題だということだろう。
 クリスチャンでありながら、いつまでたっても信仰の確信に立てない、信仰を得ていないと思っている人は意外と多いのに驚く。確かに礼拝に出席し、奉仕をしたり、キリスト教のいいところにふれているかもしれないのだけれど、なぜか喜びがない、感謝がない、確信が持てない、というのである。それはその人が信仰の真実にふれていないからである。神やキリストとの交わりを忘れ、人と人との交わりだけをしているからである。確かに教会に行くと大勢のいろいろな人たちがいて魅力的、いろいろ楽しいこともあって、それはそれなりに充実しているのだが、そこで終わってしまっている。神との交わりが少ないか、していないのだ。神と正面から向き合っていないのだ。それでは、神と正面から向き合う、あるいは神と交わるとはどんなことか。それは祈りとみ言葉を受け入れていくことである。日常生活の中で祈りがあり、み言葉が信仰の血となり肉となるように、毎日しっかり食べ、味わうことである。そして、いつも謙虚に聖霊によって十字架の恵みにあずかりつつ、「完成を目ざして進む(新共同訳:成熟を目指して進む)」ことが大事である(へブル6:1-2)。
 信仰を完成する(成熟する)というのは、全うする(成長する)ということに通じる。全うするため、成長するためには、忍耐こそ必要であると聖書はいう。ヘブライ人への手紙のテーマの一つは忍耐であると言われている。この6章後半も、忍耐を激励している。忍耐というのはただ我慢するということではない。必ず来るものを待つということである。15節に「こうして、アブラハムは、根気よく待って、約束のものを得たのです」とある通り。福音とは神の国の到来を知らせるものである。主イエスは宣教の第一声で「時は満ち、神の国は近づいた。悔い改めて福音を信じなさい。」(マルコ1:15)と言われた。その到来と知らせとの間が忍耐である。だから忍耐とは希望と結びついているもので、希望のない忍耐は聖書でいうところの忍耐ではない。ロマ書に「苦難は忍耐を、忍耐は練達を、練達は希望を生む」 (ロマ書4:3-4)ともある。
 聖書の忍耐とは希望を持って待ち望むことであり、み言葉に従って待ち望むことである。そこに祈りも生まれる。それが私たちの信仰生活を全うさせる力であり、完成へと進めるものである(へブル11:8)。この服従の忍耐を続ける時、私たちは神の国に入ることが許され、神と相対して、「神が人と共に住み、人は神の民となり、……」(黙示録21:3)という世界に生かされるのである。信仰は見えざる神への信仰と未知の将来への確信である(へブル11:1)。その中に当然忍耐が含まれる。そして、約束の成就を受けるのである(へブル11:2)。真の信仰者は目標を目指して努力すること、忍耐することが求められている。そこに希望があるからできる。