逗子にあるキリスト教会の逗子第一バプテスト教会です。

牧師のつれづれ日記、地域情報、教会の様子を紹介します。

疑いは信仰の始め

2020-11-23 11:35:25 | 説教要旨
2020年11月22日 主日礼拝宣教
「疑いは信仰の始め」 ヨハネによる福音書20章19-29節
 トマスの言動が具体的に記されているのはヨハネによる福音書だが、最もよく知られているのは、主イエスの復活をめぐる物語のところだ。トマスは弟子たちの「私たちは主を見た」(25節)という復活の報告だけでは納得せず、実際に手と脇腹に触れてみないと信じないと、懐疑的な態度を示したという話のところである。この物語で、ちょっと不思議なのは、十二弟子であるにも関わらず、主が復活の日の夕刻、弟子たちに姿を現されたときにトマスがそこにいなかったということだ。
 不在の理由は書かれていないので、あくまで推測だが、もしかしたら、ある聖書学者たちの言うように、トマスは主イエスの死を予期していたものの、それが現実となったショックが大きく、「傷心のあまり会うに忍びたかった」のかもしれない。もしそうだとすれば、彼の不在は心の優しさの表れといってもよいだろう。悲惨な現実に触れて泣き崩れ、立ち上がれないような人は弱い人だと思われがちだが、そうではなく、むしろ心の優しい人ではないだろうか。言い換えれば、トマスは愛の深い人だったということ。愛の深い人は悲しみも人一倍深く感じるからだ。
 では、そのトマスが主イエスの復活の知らせを聞いたとき、なぜ「私の指を釘のところに差し入れ、また私の手をそのわきに差し入れてみなければ、決して信じない」(25節)と言ったのだろうか。ここで人はトマスに「懐疑論者」というレッテルを貼る。しかし疑うという行為は反対から見れば信じたいということではないか。信じられる証拠が欲しいということは、何としても信じたいという表れではないか。はなから信じる気持ちのない人は疑うこともない。だから、疑うというのは逆説的ではあるが信仰のもう一つの側面でもあるといえるだろう。対象との関係が深いと言ってもよく、これは人間関係でも同じ。好きな人ができたなら、その人の名前は、住所は、どんな性格か、自分のことをどう思っているだろうか、友だちになれるだろうかと心配と疑いが出てくる。愛や信頼が形成されていく過程では疑いや不安、問いの波も同時に生じるもの。
 全人医療を提唱した医師ポール・トゥルニエは「一番純粋な信仰とは、懐疑から免れることを求めるものではなく、いろいろのためらいや錯誤、数々の失敗や間違った出発によって手探りで進むものである」(「強い人と弱い人」)と言っているが、懐疑をこのように理解することは求道や信仰に対する健全な態度ではないだろうか。
 さて、今まではトマスに照準を合わせて、この復活の物語を見てきたが、今度は主イエスに照準を合わせて見てみよう。主は私たちに何のメッセージを語っているだろうか。先ほども見てきたが、弟子トマスは、他の弟子たちから、主の復活についての証言を聞いた時、そのお方の手の釘跡、脇腹の槍傷を見て触らなければ、信じないと言い張った。トマスは、よく知っている主イエス、そのお方に間違いないかどうかを確認したかったのだ。その思いに応えて、主イエスはどうされただろうか。「お前はなんと疑い深いのだ。滅んでしまえ」などとは言われない。むしろ、主イエスはトマスに向かって、「あなたの指をここに当てて、私の手を見なさい。また、あなたの手を伸ばし、私の脇腹に入れなさい」と言われ、トマスに手と脇腹をお見せになり、触ることすらも許されたのだ。なぜだろうか。それは、主ご自身の方からなんとしても「手と脇腹の傷跡は、あなたの罪の赦しのためのものなのだ」ということをトマスに知らせようとされたからではないか。主イエス自ら、惜しみなくすべてを相手にさらけ出し、お与えになっておられる。だから、トマスは思わず「私の主、私の神よ」と告白をせざるを得なかったのだ。その後で、主はトマスに言われた。「私を見たから信じたのか。見ないのに信じる人は、幸いである」。
 トマスは主イエスを見る前に、弟子たちの復活の証言を聞くことで主を知る機会があったことを知らねばならない。私たちもまた、「信仰は聞くことによる」(ローマ10:17)というパウロの言葉を思い出す必要があるだろう。同時に聞くことで信仰を得た人は、主から幸いな人であると言われている。「見ないのに信じる人は、幸いである」。

御言葉は我が道の光

2020-11-17 12:05:09 | 説教要旨
2020年11月15日 主日礼拝宣教
「御言葉は我が道の光」 詩編119編105節
 以前、ある牧師が書かれた「名優の法則」と題した文章を読んで感銘を受けたことがあった。こう書かれている。「名優とはどんな人のことをいうのでしょうか。大根役者ほど役の中に浸り切っていて、自分の演技がいかに下手なものか見えていないといいます。名優と呼ばれる人は、演じる自分とそれを見ている自分がいて、常に自分の演技を修正しているそうです。自分を客観的に見る目がなければ、名優にはなれません。これは映画や演劇の世界だけでなく、ビジネスの世界にも、また私たちの日常生活にも当てはまる真理です」(「ハーベスト・タイム」2005年7月号)。
 ことわざに「人のふり見て我がふり直せ」というものがある。私たちは自分のことは自分が一番分かっていると思い込んでいるが、意外とそうでもない。自分を客観的に見ることのできない状態は、聖書的に言えば、神から離れた人の霊的な状態と同じと考えられる。罪は私たちを神から切り離すだけではなく、自分がいかに霊的に悲惨な状態にあるかということも分からなくさせるから。自分の本当の姿が見えてない。
 そのような私たちに対して、この詩編の詩人は「あなたの御言葉は、私の道の光、私の歩みを照らす灯。」と告白する。文語訳では「汝の御言葉は我が足の灯(ともしび)、わが道の光なり」と訳されている。自分の外からの光、灯があってこそ、自分が映し出されて明らかにされていく。そこではじめて自分自身を振り返ることが出来る。
 そのように聖書の御言葉は自分自身を観察するための客観的な鏡といえるだろう。聖書の言葉に照らし合わせて自分の姿を見始めるなら、今まで見えなかったものが見えてくる。それは単に、他人の目に自分がどのように映っているかが分かるということではない。創造主である神の目に自分がどう映っているかが分かってくるのである。この視点が必要かつ大事。
 使徒パウロは、自分の姿を見て、こう告白している。「わたしは、自分の内には、つまりわたしの肉には、善が住んでいないことを知っています。善をなそうという意志はありますが、それを実行できないからです」(ロマ書7:18)。このように率直に告白している。
 これこそ、聖書の鏡を通して自己を客観的に評価した言葉である。このような自己認識を持った人には、大きな可能性が広がるだろう。その人はキリストにある罪の赦しを受け、聖書的価値観と世界観の中で生きるようになる。また、日々聖書の御言葉によって自分をモニターし、その考えや行動を修正するようになる。そういう人こそ、人生の名優になれるのではないだろうか。
さらに人生の名優だけでなく、次のように考えることもできるだろう。成熟した人格の持ち主は、様々な人生経験を包括し統合する生き方ができるといわれる。人生に順風満帆の日々が続けば、それに越したことはない。けれども挫折を体験することがあり、愛する者を突如奪われることがあり、思わぬ不幸に泣き、意に添わぬことをしなければならぬことも珍しくない。しかしながら、どのような運命や境遇が待ち受けていようと、自分の人生はだれも代わって生きてはくれない。こうなったのは、親が悪い、世間のせいだと当たり散らしたところで惨めになるのは結局自分である。自分の人生は自分の責任で生きる、それが本来の人の生き方。主体的な自立した生き方だ。
 そのためには、良いこと悪いことがない交ぜに起こる人生体験を包み込んだり、統合したりする生き方がなければならない。そのような生き方を身に付けるためには、自分の外から人生を判断し、どのように生きることが最も適切であるかを教える道しるべが必要である。詩編の作者は、これを神の言葉に求めた。神の言葉は自分の外にあって、人生の道筋を照らしてくれるからである。だから詩人は「あなたの御言葉は、私の道の光、私の歩みを照らす灯」と告白し、み言葉に照らして、主に従っていく道を歩んだのである。「汝の御言葉は我が足の灯、わが道の光なり」。闇から光の中へ、そして光の中を歩んでいこう。それは神の恵み。感謝して喜びをもって歩もう。


我が時は汝の御手にあり

2020-11-10 10:30:39 | 説教要旨
2020年11月8日 主日礼拝宣教
「我が時は汝の御手にあり」 詩編31編10-17節
 詩編31篇の詩は全く追い詰められた詩人がいかにして神の救いを体験し、希望を新しくしたかを歌ったものだ。前半14節まで詩人の激しい苦悩が歌われている。しかしながら、全く窮地に陥り、孤独の極致に達したこの詩人が最後に神を賛美し、勝利と希望の確信を歌い、他をも鼓舞、激励しているのは何故だろうか(22-25節)。
 根本的には神への信頼があると思う。彼は冒頭(2節)において「主よ、御もとに身を寄せます」と言っている。口語訳では「主よ、わたしはあなたに寄り頼みます」と訳されている。「寄り頼む」(ハーサー)という語は文字通りには「逃れる」「隠れ家を求める」という意味であり、それゆえに3節4節5節に「砦の岩」「城塞」「大岩」「砦」などの言葉をもって呼びかけているというのもうなずける。
 主への信頼、それは詩人の言葉によって説明するならば、彼を窮地より救い、勝利の希望を与えたものは、新共同訳では2節に「恵み」と訳されているが、神の「義」(ツェダカー)であり、6節の「まことの神」の「まこと」(エメス)であり、特に8節、22節にある「慈しみ」(ヘセド)である。
 この「慈しみ」は愛情、憐憫、恩恵など様々に訳されるが、要は契約に基づく神の愛をいう。人間は神に対してしばしば裏切り、反逆を企てる。預言者から見るならば旧約の民イスラエルの歴史はヤーウェへの反逆の繰り返しであり、その結果は滅亡であった。しかし神においては裏切りはない。常に変わらない慈しみをもって、その民を愛する。人の愛にはしばしば裏表があり、断続さえも起こるが、神の愛にはそのようなことはない。慈しみは真実によって貫かれた神の愛であり、愛と真実とが一つとなったものである。
 しかし以上のことをこの詩人に強く理解させ、悟らせたものは思うに「時」ではないかと思われる。「時」がこの詩人において非常に重要な意義を持っていると思う。彼は言う。「わたしにふさわしい時に、御手をもって」(16節)、口語訳では「私の時はあなたの御手にあります」、文語訳では「我が時はすべて汝の御手にあり」と訳されている。
 この「我が時」は文語訳では「すべて」とあるように複数形である。この詩人は恐らくこれまで経て来たすべての時、またこれから出会うであろうもろもろの時を「すべて」と表現しているのだ。まさにその時、その時である。彼が生まれた時、成長した時、結婚した時、親しき者と別れた時、病んだ時、これからやがて老衰し、死滅していく時。そこには喜びがあり、悲しみがあり、希望に輝いた時、失望のどん底に落とされた時、苦しんだ時、助けられた時、数え上げれば際限のない、それら「すべて」の時である。
 「我が時はすべて汝の御手にあり」、この言葉をはさんで、その前の2-15節はたとえて言えば真っ暗な暗室である。しかし、16節以下は次第に明るくなり、ついには光り輝く真昼の部屋に移されている(24-25節)。この明暗の二つの部屋の間の扉が先ほどの16節の「我が時はすべて汝の御手にあり」であり、新共同訳でいう「わたしにふさわしい時に、御手をもって」である。
 そもそもヘブライ語で「時」を表すものがいくつかあるが、そのうち最も重要なものは「エース」と言って、何かに出会う、何かに答えることによって時が定まる、そのような時を表している。だから、この言葉(エース)は時を長さとして量的に捉えず、質として考えていることが分かる。『我と汝』で有名な宗教哲学者マルティン・ブーバーは「時点」と訳している。朝日の昇ることに出会うことによって、朝の時が定まり、夕日の沈むことに出会うことによりよって、夕の時が定まる。そしてヘブライ人にとって最も決定的な時は神の出会う時であった(詩編32:7参照)。
 ヨブ記のヨブが、苦悩の中に思い煩っていた時、どこにも希望と慰めを見出し得なかったが、最後に嵐の中からの神の呼びかけを受け、神と出会うことによって再び光明の世界に連れ戻されたことは聖書の時がいかなるものであるかをよく示している。
 この詩人はそのような意味において「時」を正しく理解し、それがすべて神の御手にあることを体験的に感得し、それによって彼は暗黒の部屋から光明の部屋に移されることが出来た。
 だから彼にとって「時」は運命とか宿命とかではなく、摂理である。神の愛の配慮、慈しみと言ってもいいだろう。それは破れた器のごとき絶望の状態に陥る時にも、なお光をまったく見失わず、希望の回復を忍耐して待ち、やがて勝利の確信にまで導かれていくものであることをこの31編の詩は良く教えている。だから、彼は最後に、「雄々しくあれ、心を強くせよ。主を待ち望む人はすべて」と人々を力を込めて励ますことが出来たのである。「我が時はすべて汝の御手にあり」。神と出会うことによって、神の慈しみ、神の愛を受け取り、生かされていく時でもある。 

祈り続けよ

2020-11-02 12:03:25 | 説教要旨
2020年11月1日 主日礼拝宣教
「祈り続けよ」 ルカによる福音書11章5-13節
 今日の聖書箇所は、主イエスが弟子たちに「主の祈り」を教えた後に出てくるたとえ話である。だから、ここから祈りとはどうあるべきか、「天にまします我らの父よ」と呼びかける神とはどういうお方であるかを読み取ることが出来るだろう。
ある夜更け、しきりに戸を叩く音に目が覚めた。門を開けると、そこには旅姿の旧友が立っているではないか。聞けば、長旅の途中に立ち寄ったとのこと。何か出してあげようにも心づもりがなく、何もない。そこで急いで近所に走り、寝静まったある家の戸を恐る恐る叩いてお願いた。「友よ、パンを三つ貸してください。旅行中の友だちが私のところに立ち寄ったが、何も出すものがないのです」(5—6節)。すると家の中から迷惑そうな声が聞こえてきた。「面倒をかけないでください。もう戸は閉めたし、子どもたちは私のそばで寝ています。起きてあなたに何かあげるわけにはいきません」(7節)。つれない返事。
 でも、もし私たちがパンを借りに行った人の立場に立ったら、この返事をどう受け止めるだろうか。事情があるとはいえ、真夜中に人に食べ物を借りに行くのは非常識なこと。当然、断られても仕方がないと引き下がろうとするだろう。
 これに似た引け目を主の祈りを祈りながら感じることがある。「私たちの罪を赦してください、私たちも自分に負い目のある人を、皆赦しますから」(4節)という個所。赦し難い痛手を受けた人を前にすると、赦せない自分がいることに気づかされる。だからそう簡単に「皆赦しますから」とは祈れなくなり、戸惑いというか、引け目というか、腰が引けて、声もいくぶん小さくなってしまう。
 神の独り子イエスの命という途方もない犠牲によって赦された私たち。にもかかわらず、その自分がどこまででも人を赦そうとはしない。そういう自分がこの祈りを祈ることはとうていできないと、腰が引けて、引き下がろうとするのは自然なことだと思う。
 しかし主イエスは、ここで、そういう私たちの常識を覆す、思いがけないことを言われた。「しかし、言っておく。その人は、友だちだからということでは起きて何かを与えるようなことはなくても、しつように頼めば、起きて来て必要なものは何でも与えるであろう」(8節)。主イエスは、引き下がろうとする私たちに待ったをかけておられる。「引き下がるな、祈り続けよ」と。そして言われた。「求めなさい。そうすれば与えられる。……開かれる」(9節)。
 口にすることが苦しいその祈りをそれでも祈り続けて生きていく時、天の父はそれを必ず開いてくださると言われるのだ。祈ることができなくなったその地点こそが、実は主の祈りを真に祈って生きる出発点なのだ、ということではないだろうか。祈ることができなくなったその地点で苦闘しながら祈り続ける時、主の祈りをそのように実現する力は、実は私たち自身の中からは決して出てこない。祈り続ける中で与えられるもの。それが聖霊。
 「あなたがたの中に、魚を欲しがる子供に、魚の代わりに蛇を与える父親がいるだろうか。また、卵を欲しがるのに、さそりを与える父親がいるだろうか。このように、あなたがたは悪い者でありながらも、自分の子どもには良いものを与えることを知っている」(11-13節)。そのとおりだ。ならば「まして天の父は求める者に聖霊を与えて下さ」らないはずはないと、主イエスは言われるのだ(13節)。これは約束。
 なぜ、求める私たちに与えられるのものが、聖霊なのか。それは、主の祈りを実現する主体は、私たち自身ではなく、聖霊だからだ。主イエスを通して主の祈りを与えてくださった神は、祈る私たちに聖霊として臨み、ご自身の御力でその祈りを私たちの上に実現して下さるのだ。
 主の祈りは、どの一言をとってみても、私たちから自然に出てくるものはない。主イエスにこう祈れと言われて、はじめて祈ることができる祈りである。しかも、そうして与えられて見れば、これこそが私たちが祈るべき本当の祈りであることがわかる。
 神に何を求め、祈ればいいのか、私たちは何も知らなかった。それを知っておられた、ただ一人のお方である主イエスが、一つひとつ口移しで教えてくださり、その祈りを聖霊が必ず実現すると約束して下さったのだ。
 だから、私たちは、祈ることをやめてはいけない。主の祈りの一言一言に立ち止らざるを得ない私であっても、それでも祈って、明日に向かわねばならない。「引き下がるな、祈り続けよ」。こう言って励まして下さる主イエスに従って祈り続けよう。