2025年3月2日 逗子第一教会 主日礼拝宣教
「神の恵みによる救い」 ルカによる福音書18章18-30節
ここに登場する「ある議員」さんですが、彼は支配層に属し、おまけにお金持ちです。主イエスから十戒の話をされると「そういうことなみな、子どもの時から守ってきました」と答えるほどの模範的な信仰者だと自認しています。
そのような人が、なぜ主イエスに「何をすれば永遠の命を受け継ぐことができるでしょうか」と質問したのでしょうか?思うに、どうも救われる、救われたという確信が持てないで、悩んでいたのではないでしょうか?
この男は「何をすれば」と聞いています。この男の価値観は「できる、できない」で判断するものでした。できれば救われる、できなければ救われない、という価値観からどうしても離れられないのです。ですから、「できる」という延長線にしか彼の未来は開けないのです。できない、または負ける、という挫折感を経験したこともないようです。そのような彼は主イエスに「できないこと」をはじめて言われたので悲しくなったのでしょう。ここで、彼の価値観は立ち行かなくなったのです。
そのあと主イエスは、「らくだが……」と言われる。これは人間にはできないことだ、と言っているようなものです。だから人々が「それでは、誰が、救われるのか」と思うのは当然です。そこで、主イエスは言われます。「人間にはできないことも、神にはできる」。救いは神の業だ、ということです。
そのことを、この話がルカ福音書18章においてどのような文脈に置かれているのか、その直前と直後の話を見てみましょう。戒めをきちんと守り、自分を神の前にふさわしい人間だと自任している「パリサイ人」と対置して、「取税人」「乳飲み子」「物乞いの盲人」が置かれています。いずれも戒めを守りようのない者であり、人々から見下され、主イエスに近づこうとすると周りから「叱られて」います。しかし、それらの一人ひとりを主イエスは受け入れ、神の国が彼らの上に臨んでいることを宣言します。
だとするならば、今日の聖書個所で「戒めをすべて守っている」と語る金持ちの男に「欠けていたもの」とは、次のように言えるのではないでしょうか。つまり「この世の財産を持ち、律法の戒めを守ることによって、神の国に入る資格が得られる」という彼の神の国理解が根底からひっくり返されたこと。そして、「貧しい者」にこそ神の国が宣言されていることを受け入れ、これまで「取税人」や「乳飲み子」「物乞いの盲人」を見下してきた自分の価値観を砕かれ、彼らの仲間に飛び込んでいくこと。それがこの金持ちの男に「欠けていた」ことであり、そのような「価値観の全くの転換」(悔い改め)に導かれて、エルサレムへ向かう主イエスに従うように招かれたのです。
しかし、そうはいっても「自分のものを捨てて、あなたに従いました」と胸を張る弟子のペテロさえ、このあと主イエスに従いきれない自分を見出し、涙を流します(22:62)。しかし、そのように神に従い、隣人を愛しきれない自分の限界を思い知らされる時、「人にはできないことも、神にはできる」(26-27節)の言葉がまさに私に向けて語られていることを見出すのではないでしょうか。救いは神の恵みによるということです。神に感謝しましょう。