逗子にあるキリスト教会の逗子第一バプテスト教会です。

牧師のつれづれ日記、地域情報、教会の様子を紹介します。

愛は計算できない

2024-10-07 10:50:39 | 説教要旨
2024年10月6日 逗子第一教会 主日礼拝宣教
 「愛は計算できない」 ルカによる福音書15章1-7節 
 1~2節に、「徴税人や罪人が皆、話を聞こうとしてイエスに近寄って来た。すると、ファリサイ派の人々や律法学者たちは、『この人は罪人たちを迎えて、食事まで一緒にしている』と不平を言いだした」(1―2節)とある。しかしイエスは、不平を言い出したファリサイ派の人たちや律法学者たちに、端的に語りかけられる。「あなたがたの中に、百匹の羊を持っている人がいて、その一匹を見失ったとすれば、九十九匹を野原に残して、見失った一匹を見つけ出すまで捜し回らないだろうか」(4節)。
 このイエスの言葉には、何のためらいも、躊躇もない。ごく自然に、それが当たり前ではないかと言われるのである。考えてみると私たちの行動や考え方には、理屈が多すぎて、人を気にしてためらいが多すぎるのではないだろうか。
 ユダヤ人は昔長い間、遊牧の民として生きてきた。貧しい生活を強いられていたユダヤ人にとっては、羊は自分たちの生命のように大切なものであり、その生活を支える大事な物であった。羊飼いは羊の一匹一匹に名前をつけて、名前を呼んで囲いの外に出し、また囲いの中に入れていたと言われている(ヨハネ福音書10:3-5)。また、安息日の規定を厳格に守るユダヤ人であるが、自分の家畜があやまって井戸に落ちた時には、安息日でも助けてもよい、とするほどに自分の羊、家畜は大切であり、自分の生命に等しいものだったのである。
 しかしイエスはあえて「九十九匹を野原に残してでも」と言われた。この言葉には、数や損得勘定を越えた深く激しい愛が込められている。愛は計算したり、損得勘定をしたり、数に置き換えられないものだということが分かる。「一匹に」集中して目が注がれている。それはたとえ「九十九匹」を野原に残してでも捜しに行く、大切な「一匹」だと言うのである。
 私たちはそれぞれ自分の大切なものを持っている。それは他のものでは代えることの出来ない大事なものである。たとえば賞として貰ったもの、特別な記念の品、愛する人から心を込めて贈られたもの、こうした品は、それ以上に高価なものであっても代えることのできない、自分にとっては最高の価値のあるものである。神の人間への愛、真実な羊飼いの羊への愛はそのようなものだ、とこのたとえ話は語っているのである。
 私たちの想像も及ばない程に九十九匹の大切さを知っている人たちの只中で、イエスは、あえて、九十九匹を野原に残してでも、見失った一匹の羊を捜し求めると語られたのである。神の人間への、この愛に圧倒される思いがする。私たちは、神の前に「かげがえのないひとり」だと聖書は語るのである。数や計算では決して計ることのできない価値ある者として、かけがいのない一人として、神は私たちを愛しておられるのである。その愛に応答することが私たちの信仰なのではないだろうか。

一人でイエスの前へ

2024-09-03 11:18:23 | 説教要旨
2024年9月1日 逗子第一教会 主日礼拝宣教
「一人でイエスの前へ」 マルコによる福音書7章31-37節
 人々は、耳の聞こえない人に「手を置いてくださるように」(32節)と主イエスにお願いしたのに、主イエスは男の耳に指を差し入れ、そのあと指に唾をつけて相手の舌に触れられた。この行為は、古代における一般的な治癒行為で、魔術的なものではなく、相手の苦しみに対する共感と癒しの意図を伝えるためであった。
 また、「天を仰いで」は祈りを指し、そして、このように祈ったのも、この男にこれから行おうとしていることが、天の力によるものであることを示すためでもあった。「深く息をつき」とは、「うめく」とも訳せる。「うめく」と聞くと、ローマ8章23節を思い出す。「“霊”自らが、言葉に表せないうめきをもって執り成してくださるからです」。相手の心に共感し、その苦しみを共にする憐れみの心を読み取ることが出来る。主イエスの病人に対する深い同情が示されている。
 「エッファタ」は、当時、主イエスたちが日常的に話されていた言葉であるアラム語。福音書はギリシャ語で書かれているが、この場面ではあえて主イエスの生の声を再現している。主イエスの力強い言葉の響きをとどめたかったのだろう。
 そして、最後の37節は、救い主到来の時の光景を描いているイザヤ書35章5節を引用している。「そのとき、見えない人の目が開き/聞こえない人の耳が開く」。マルコは、今こそ救いの時が始まったのだと訴えている。マルコ1章15節の「時は満ち、神の国は近づいた。悔い改めて福音を信じなさい」のみ言葉がここでも響いてくる。
 主イエスが救い主であるのは、奇跡を行うからではない。奇跡は一つの「しるし」にすぎない。主イエスが救い主であるのは、十字架の死によって、私たちの罪をにない、それによって、私たちが赦されたということによるのである。だから、主イエスは自分が「奇跡的な癒しをする人」、単なる「超能力者」として知れ渡ることやその力を用いて政治的解放者、指導者になって欲しいという人々の期待を拒否なさったのだ(36節)。「口止めされた」のはそのためである。
 私たちは、このお方に何を求めてもよいのだが、その全てが与えられるわけではない。主イエスが最終的に与えようとしておられるものの妨げになるのであれば、主イエスは私たちの求めには応じようとはなされない。では、主イエスが最終的に私たちに与えようとしておられるものは何だろうか。それはどんな人でも決して拒まれることのない求め、主イエスと共に生きる新しい命である。永遠の命。
 この男が与えられたのも新しい命。今までは、自分の世界に閉じ込められていた。しかし、主イエスに呼ばれて出て行き、主イエスに信頼して自分の身を任せた時に、思いもかけない新しい生き方が彼を待っていた。一歩、前へ出て、主イエスに信頼して生き始めることは、古い自分に死ぬこと。その時、自分が神から心にかけられており、自分の存在を神が喜んでおられることを知らされ、新しい命に生き始めるのである。
 主イエスと共に生きる新しい命をいただくためのヒントが33節の「イエスはこの人だけを群衆の中から連れ出し」という言葉に示されている。主イエスは、全く個別に関わりをもたれる。一人ひとりを大切にし、その人の痛みに心から共感される。主イエスは、結果的には多くの人を癒されたが、あくまでも、その時その時に一人ひとりに心を用い、必要な助けを与えられたのである。決して癒しを見世物にはしなかった。これは、立場を逆にしてみれば、私たちはみな、一人ひとり主イエスの前に立つことを求められているということである。自分が呼ばれていることを知って、従っていくという生き方が求められている。そこでこそ主イエスと出会い、主イエスとの深い交わりに、すなわち救いに入れられるということが起こるのである。
 信仰の友に支えられながらも、一人、主イエスの前に出るということが大切であることを教えられる。その時、主イエスが耳に指を入れ、舌に触れてくださり、私たちが「はっきり」(35節)と主を讃美して生きることを可能にしてくださるのである。

祈りの包囲網

2024-08-05 12:30:00 | 説教要旨
2024年8月4日 逗子第一教会 主日礼拝宣教
 「祈りの包囲網」 フィリピの信徒への手紙1章3-11節
 何かが生まれ成立していくには、そこに至るまでの長い経緯があるものである。使徒言行録16章6-40節には、フィリピの教会が生まれ成立していく不思議なプロセスが書かれている。それはパウロが一つの幻を見たことから始まる。海を隔て遠い地にいる一人のマケドニア人が「わたしたちを助けてください」と懇願する幻だった。
 当時、学問においても文化においても先進地域であったヨーロッパにも、十字架において示された神の愛の福音によってでしか、救われることができず、魂の底から救いを切に求め、救いのSOSを発する人たちがいたのだ。そこでパウロたちはマケドニアに渡り、フィリピに行って宣教をした。そこに信徒たちの群れが生まれた。それがフィリピの教会。そのフィリピの人たちにあてた手紙の冒頭が今朝の聖書箇所である。
 その1章3-11節はパウロの感謝と祈りである。3節に「感謝する」とある。何に感謝しているのだろうか。それは信徒たちが「福音にあずかっている」(5節)からである。世には多くの感謝すべきことがあるが、パウロにとって人々が福音にあずかることほど、大きな感謝はなかった。「継続は力なり」と言われるが、なんでも一つのことを続けることは大変なこと。続けるには大きなエネルギーが必要である。
 「福音にあずかっている」ということも、決して容易なことではない。「福音にあずかる」とは十字架によって罪赦され、滅びから救われること。それは7節にあるように、「恵みにあずかる」(7節)ことに他ならない。あるいは「苦しみにあずかる」とも言われる(3:10,4:14)。
 この「あずかる」と訳されているギリシア語の「コイノーニア」は普通「交わり」といわれる言葉である。「交わり」はキリスト教の中心な事柄であり、核心、生命。その交わりは、人と人との横の交わりよりも、神と人との縦の交わりが強調され、福音や恵み、さらに「霊の交わり」(2:1直訳)があるかどうかがキーポイントなのである。
 私たちが福音にあずかるということは、決して自明のことではなく、一つの奇跡でさえある。私たちはいつ信仰を失っても不思議ではないほどに弱く、この世には多くの誘惑があり、問題で満ちている。このような現実の中で、福音にあずかるということは、人間の力やわざ、努力ではまったく不可能である。ただ祈りによって、いやむしろ、祈りを通して生きて働かれる神の恵みと「善い業」(6節)、まさに十字架のエネルギーによってのみ可能となる。だからパウロは「わたしの神に感謝する」(3節)と言い、感謝が泉のようにわき上がってくるのである。
 同時にパウロは「あなたがたのことを思い起こす」と言っている。「思い起こす」とは単なる想起ではなく、相手の名を呼んで、執り成し祈ることである。だから4節では「あなたがた一同のために祈る」と言っている。教会のために、隣人のために祈る。教会やキリスト者の背後には、大勢の祈る人がいるのである。
 三浦綾子さんは「人々に祈っていただきたいという、人の信仰を当てにしているのが、私の信仰である」と書いておられる。私のために祈ってくれる人がいて、そのような執り成しの祈りによって、私の信仰が支えられていると言うのである。しかもそれだけではなく聖書には、霊による執り成しがあり、イエスによる執り成しがあるのだと書かれている(ローマ8:26-27,34)。
 私たちは多くの力強い執り成しの祈りによって包囲されているというのである。四方八方から、祈りによって包み囲まれているのである。実際、私たちは多くの問題や危機に包囲されているが、何よりも力強い祈りの包囲網の中に存在し、それによって守られているのである。このような祈りの包囲網、愛の包囲網(8節)を発見するとき、私たちに生きる勇気が生まれてくるのである。
 教会や人々のために、さらに世界の平和のためにも祈りましょう。同時に私たちも多くの人から祈られていることに感謝しましょう。そこに祈り祈られている目には見えない祈りの「交わり、愛の交わり」コイノーニアがあるのです。祈りを大切にしましょう。

種には命がある

2024-07-09 10:55:16 | 説教要旨
2024年7月7日 逗子第一教会 主日礼拝宣教
 「種には命がある」 マタイによる福音書13章31-33節
 マタイ福音書13章は主イエスがもたらされた福音(神の国)を譬えで話されたところである。種まきの譬えに始まり、毒麦、からし種、パンの譬え、次いで毒麦の譬えの説明、次には宝を隠している畑、真珠、海、海におろされた網などが語られている。これらの物語の核心はなにか、それをしっかりつかまえないと、主イエスがそこで何を語ろうとされているのかを見逃してしまうだろう。
 まず種の譬えだが、種には命があるということである。種、それは御言葉のこと。その御言葉には命があるということである。私たちがそれをしっかり受け止めていったならば、「この御言葉は、あなたがたの魂を救うことができます」(ヤコブ1:21)とあるように、私たちの生活を変えてしまうような力が起きてくるのである。種には命があるからだ。昔も今も、私たちの歴史を通して、私たちの生活のただ中で起きているのだ。ただし、御言葉をただ聞き流したり、読み飛ばしたりしたのでは、そこからは何も起きてこないだろう。それをどのように受け止めていくかが私たちの責任になってくるのである。
 マタイ福音書には、「悟る」という言葉がよく出てくるが、マルコ福音書には、これは「受ける」「受け入れる」と訳されている。御言葉を受け入れることが悟るということである。私たちはそんなことは信じられないとか、そんなことをしていては大変だとか言って、常識によって御言葉を軽く料理してしまいがちだが、逆なのだ。御言葉によって私たちが料理されるのが、聖書の言う「受け入れる」ということである。これをしたら儲かるのにとか、これをしたら人から喝采を受けるのにと思っても、聖書がそれを禁じているならそれをしないのが受け入れるということである。そのように受け入れなければ、土の中に受け入れられない種と同じことであって、命を発揮することはできない。種をどんなに観察してもそこから命を見ることはできない。命は受け入れた時に「ああ命があるんだ」ということを実感することができるのである。だから聖書の御言葉がどんなに素晴らしいものであるかは、ただ座って観察しているだけではわからない。聖書の知識は増えても、自分と聖書の関わりを見出すことはできない。受け入れた時、はじめて種の持っている命に触れることができるのである。
 からし種はごく小さい粒ほどの種であるが、成長すると3メートルほどに大きくなるそうだ。それは今はごく小さいが、大きく育つ命がすでに種の中に秘められているのである。従って現在の小ささに失望することはない。むしろ大きく育った未来から現在を見ていくことを教えられる。励まされる。
 微量のパン種(イースト)とそれが粉全体を大きくふくらませる結果との大小の対比から、最初は人目につかないほどの存在であっても、それはやがて全体を変え、大きなものとなる。主イエスの神の国も同様であることの譬えである。
 種には命があるという譬えから、命は見えないが、それを受け入れた時から、そのことがいずれ明らかになってくるのである。それは隠されているものが明らかになっていくことであり、小さなものが大きく成長し、やがて実を結ぶ、という結果を生み出すのだということを私たちに示す。そこに私たちは希望を見るのである。

神の引き渡しのドラマ

2024-06-03 12:31:52 | 説教要旨
2024年6月2日 逗子第一教会 主日礼拝宣教
 「神の引き渡しのドラマ」  マルコによる福音書14章43~50節
 劇作家の別役実氏がある本の中で、「一つの集団は、一人の犠牲者を生み出すことによって完成される。つまり、その時、集団は論理的に構成されるのである」と書いている。この別役氏の言葉を私なりに解釈すれば、裏切り者は最初から存在するのではなく、一人の犠牲者が生れるためには、一人の裏切り者の存在が必要となる、ということではないか。劇作家の別役実氏の目には、兵士たちによって捕らえられている犠牲者イエスと、イエスを引き渡した裏切り者ユダとが舞台の上で交叉しながらドラマが進展しているように見えているのではないか。
 イスカリオテのユダという人物が私たちの心をどこか捉えて放さないのは、ユダの裏切り自体にあるのではなく、ユダの裏切りが犠牲者イエスを生み出しているという、その相関関係に惹かれるからではないか。あえて言えば、イエスが犠牲者となるためにはユダの裏切りが必要であったということである。その意味では、イエスとユダ、それは表と裏として表裏一体だったのではないか。
 この「裏切り(引き渡す)」という言葉は、マルコ福音書では10回使われているが、ユダに対して5回、祭司長たちに対して2回、ピラトが1回、人の子(イエス)が「引き渡される」と受身形で2回使われている。これを見るとユダだけが「引き渡す(裏切り)行為」を行ったのではないことが分かる。これを図式化すれば、「ユダはイエスを祭司長たちに引き渡し」、続いて「祭司長たちはイエスをピラトに引き渡し」、そして最後に「ピラトはイエスを十字架に引き渡した」となる。
 このように「引き渡し」が人の手から人の手へと、次々と行われていることが読み取れる。受難物語は、実はユダの「引き渡し」から始まり、祭司長たち、そしてピラトを経て、最後に十字架へと引き渡される出来事を描いているものなのである。ユダはその役割のはじめを演じているにしか過ぎないということがわかる。
 実はこの受難物語は聖書には書いてないが続きがある。それはユダの「引き渡し」から始まり、祭司長たち、そしてピラトを経て、最後に十字架へと引き渡され、そして主イエスは十字架につけられたが、真実に言うならば「今もつけられている」のである。今も血を流しておられるのだ。なぜなら、この私やあなたがピラトに続いてイエスを「引き渡している」からである。
 ところで、この「引き渡す」という言葉は、同時に「ゆだねる」、「任せる」という意味を持っている。むしろそちらのほうがこの場面では正確かもしれない。受難物語における一連の出来事は「ゆだねる」物語ともいえる。神の救いのドラマにゆだねるということである。神の救済のご計画が進められているということである。イエスの受難の表の舞台では、ユダ、祭司長たち、そしてピラトと群衆がイエスを十字架に「引き渡す」ドラマを演じている。しかし、見えない裏の舞台では神の救いのドラマが進行している。「引き渡される」イエスが主役となって、もう一つの脚本、いわば神の救いの脚本に従ってドラマが進んでいるということである。目に見える人間の営みは今も悲喜こもごも続いている。しかし、見えないところでは、今も主イエスが十字架上で私たちのために血を流し続けておられる。ここに神の救いのドラマがある。ここに神の愛が示されている。この神の愛にゆだねる。このことこそが信仰なのである。