goo blog サービス終了のお知らせ 

逗子にあるキリスト教会の逗子第一バプテスト教会です。

牧師のつれづれ日記、地域情報、教会の様子を紹介します。

神の恵みによる救い

2025-03-03 11:35:17 | 説教要旨
2025年3月2日 逗子第一教会 主日礼拝宣教
「神の恵みによる救い」 ルカによる福音書18章18-30節
 ここに登場する「ある議員」さんですが、彼は支配層に属し、おまけにお金持ちです。主イエスから十戒の話をされると「そういうことなみな、子どもの時から守ってきました」と答えるほどの模範的な信仰者だと自認しています。
 そのような人が、なぜ主イエスに「何をすれば永遠の命を受け継ぐことができるでしょうか」と質問したのでしょうか?思うに、どうも救われる、救われたという確信が持てないで、悩んでいたのではないでしょうか?
この男は「何をすれば」と聞いています。この男の価値観は「できる、できない」で判断するものでした。できれば救われる、できなければ救われない、という価値観からどうしても離れられないのです。ですから、「できる」という延長線にしか彼の未来は開けないのです。できない、または負ける、という挫折感を経験したこともないようです。そのような彼は主イエスに「できないこと」をはじめて言われたので悲しくなったのでしょう。ここで、彼の価値観は立ち行かなくなったのです。
 そのあと主イエスは、「らくだが……」と言われる。これは人間にはできないことだ、と言っているようなものです。だから人々が「それでは、誰が、救われるのか」と思うのは当然です。そこで、主イエスは言われます。「人間にはできないことも、神にはできる」。救いは神の業だ、ということです。
 そのことを、この話がルカ福音書18章においてどのような文脈に置かれているのか、その直前と直後の話を見てみましょう。戒めをきちんと守り、自分を神の前にふさわしい人間だと自任している「パリサイ人」と対置して、「取税人」「乳飲み子」「物乞いの盲人」が置かれています。いずれも戒めを守りようのない者であり、人々から見下され、主イエスに近づこうとすると周りから「叱られて」います。しかし、それらの一人ひとりを主イエスは受け入れ、神の国が彼らの上に臨んでいることを宣言します。
 だとするならば、今日の聖書個所で「戒めをすべて守っている」と語る金持ちの男に「欠けていたもの」とは、次のように言えるのではないでしょうか。つまり「この世の財産を持ち、律法の戒めを守ることによって、神の国に入る資格が得られる」という彼の神の国理解が根底からひっくり返されたこと。そして、「貧しい者」にこそ神の国が宣言されていることを受け入れ、これまで「取税人」や「乳飲み子」「物乞いの盲人」を見下してきた自分の価値観を砕かれ、彼らの仲間に飛び込んでいくこと。それがこの金持ちの男に「欠けていた」ことであり、そのような「価値観の全くの転換」(悔い改め)に導かれて、エルサレムへ向かう主イエスに従うように招かれたのです。
 しかし、そうはいっても「自分のものを捨てて、あなたに従いました」と胸を張る弟子のペテロさえ、このあと主イエスに従いきれない自分を見出し、涙を流します(22:62)。しかし、そのように神に従い、隣人を愛しきれない自分の限界を思い知らされる時、「人にはできないことも、神にはできる」(26-27節)の言葉がまさに私に向けて語られていることを見出すのではないでしょうか。救いは神の恵みによるということです。神に感謝しましょう。

わたしは主である

2025-02-04 11:49:41 | 説教要旨
2025年2月2日 逗子第一教会 主日礼拝宣教
「わたしは主である」  レビ記19章9-18節
 主なる神はイスラエルをエジプトから救出された後、シナイ山で律法を授けられる。その目的は、彼らをご自分の民とするためだった。そのために「わたしはあなたたちの神となり、あなたたちは私の民となる」という「神との新しい契約」を示す希望に満ちた宣言を繰り返される。だから、この神と民との関係、神との契約に基づいて与えられた律法は、「神の民」とされる喜びの言葉でもある。今日の説教題の「わたしは主である」という宣言も「神との新しい契約」を示す希望に満ちた宣言である。
 しかし、神が「わたしの民」と呼ばれるには、あまりにもイスラエルの民の罪は根深く、汚れと背きに満ちていた。荒れ野での旅の中で、民の罪は次々と露呈されていく。汚れと背きに満ちた人間は、自分の努力によって聖なる者になるという考えを断念せざるを得ない。しかし、「わたしはあなたたちの神となる」と言われた神は、その断絶の前でたたずむ方ではない。その断絶を打ち破って人々の生活の中に介入し、私たちに聖なる神の聖なる民として生きるよう求められる。それが律法である。
 律法の基本は、「神を愛し、隣人を愛せよ」である。その具体的な戒めが今日の箇所に書かれている。その戒めを命じるごとに、「わたしは主である」と繰り返し宣言される。それは、神はそのようにして私たちの生活の中にまで介入して、共に歩んでくださるお方なのだ、ということを示している。「わたしはあなたたちの神になる」と言われる神の愛がそこに示されていることを覚えたいと思う。
 ヨハネの黙示録の21章。そこに「見よ、神の幕屋が人の間にあって、神が人と共に住み、人は神の民となる。神は自ら人と共にいて、その神となり、彼らの目の涙をことごとくぬぐい取ってくださる。もはや死はなく、もはや悲しみも嘆きも労苦もない。最初のものは過ぎ去ったからである。」(黙示録21:3-4)と書かれている。この箇所は、ヨハネが見た神の国の幻である。神の国においては、「神の幕屋が人の間にあって、神が人と共に住み、人は神の民となる。神は自ら人と共にいて、その神となり、彼らの目の涙をことごとくぬぐい取ってくださる。もはや死はなく、もはや悲しみも嘆きも労苦もない」のである。
 その終末の事柄が、今、この現実の世において、先取りのかたちで行われているのである。神は、イスラエルの民たちに「あなたたちの神となる」と言われた。「あなたたちの神となる」とは、「神が人と共に住み」「神が自ら人と共にいて」なのである。神は遠くどこかにいて、宣言しているのではない。共に住んでおられるお方なのである。そのことを思う時に、神との契約に基づいて与えられた律法は、「神の民」とされる希望と喜びと励ましの言葉として響いてくるのではないだろうか。
 イスラエルがかつて、十戒を与えられた時のことを見てみよう。モーセがシナイ山頂において十戒を与えられた時、主はまず「わたしは主、あなたの神、あなたをエジプトの国、奴隷の家から導き出した神である」(出エジプト20:2)とご自身をそう宣言された。ここに、恵みの先取りが言われている。宣言する前に、命令する前に、いかに主なる神がイスラエルを愛し、憐れんでくださったか。その具体的な出来事として出エジプトというイスラエルのエジプトの国、奴隷の家からの解放の出来事があったのである。出エジプトの出来事、さらに荒野での40年にわたる旅路をみるときに、まさに「神が人と共に住み」「神が自ら人と共におられ」なければ、なしえないことだったことが分かる。いや、それは、今に至るまで続いている。インマヌエルなる主イエスを私たちのためにこの地上に送ってくださって、今も聖霊なる神によって導かれ守られている私たち。神の愛の永遠なることを今一度覚え、感謝し、賛美しよう。

神の恵みの新しさ

2025-01-09 15:23:56 | 説教要旨
2025年1月5日 逗子第一教会 新年礼拝宣教
 「神の恵みの新しさ」  詩篇98編1-9節
 人間の作りだす文化は成長や進歩向上を遂げつつ新しさを形成していきますが、信仰の新しさは神の恵みによる新しさであります。恵みによる新しさは、予想することもできなく、計画によってでもなく、瞬時に与えられたというべき変革であります。
 キリスト者はこの神の恵みによる変革によって、わが身をすっかり新しくされていることを驚きと感謝のうちに受け取るのです。この詩篇の作者は、「今」というこの時に神の恵みによって変革した自分自身を発見して、「新しい歌を主に向かって歌え」と呼びかけています。
 「主は驚くべき御業を成し遂げられた」とあるのは、イスラエルの人々のバビロン捕囚生活からの解放のことです。それは政治的にはペルシャのクロス王の台頭によってもたらされたものでありましたが、イスラエルの人々は歴史を支配しておられる神の業と見たのであります。遠い異国の地バビロンでの捕囚生活は、彼らにとって非常な苦しみでありましたが、それにも増して彼らを苦しめたのは、ひたすら寄り頼んできた神への信頼のゆらぎでありました。本当に神は私たちのことを覚えておられるのだろうか、本当に神はおられるのだろうか、本当に神は私たちと契約(約束)されたのだろうか、そういう思いが次々と起こってきて彼らを悩ましました。それだけに神は覚えていてくださった、「慈しみとまことを御心に留められた」という喜びは限りなく大きかったに違いありません。そこから、この「新しい歌を主に向かって歌え。主は驚くべき御業を成し遂げられた」という喜びにあふれた賛歌が生まれてきたのではないでしょうか。
 私たちはともすると、信仰とは私たちが神を喜ばせることのように思いやすい。そして神より私たちの方が先のように思い、あれをしなければならない、これもしなければならないという信仰生活になってしまいます。しかし主イエスは、そういう、ねばならないという信仰態度を徹底的に砕こうとされました。そして一面非常にまじめな信仰生活をしていたパリサイ人を激しく非難されたのであります。なぜならば聖書が私たちに示している信仰とは、神がまずなしてくださった業に対する驚きと喜びから生まれてくる応答であり、私たちにとって大事なことは、決して何かすることではなくて、私たちに対して神が何をしてくださったかということをまず覚えることだからです。
 神の救いのみ業は神の勝利(口語訳)であります。全地が歌うべき、すべての人に関わる勝利であります。礼拝は、どんなに小さいものであっても、この勝利(神の救いのみ業)を歌い、いつも新しい歌によって作られていくのです。神の救いのみ業は日々なされているのです。ですから私たちは日々新しくされて、生かされているのです。日々新たなり、であります。神の恵みは日々私たちに与えられているのです。ですから、日々新しい歌を持って神をほめたたえましょう。新しく始まりましたこの一年も一日一日、「驚くべき御業」「くすしきみわざ」を覚え、感謝を持って歩んでいきましょう。

アドベント・新しい備え

2024-12-03 16:26:34 | 説教要旨
2024年12月1日 逗子第一教会 主日礼拝宣教
「アドベント・新しい備え」ルカによる福音書1章5-25節
 アドベントとは、ラテン語のアド「~に向かって」、ベント「来るべきもの」から来ています。ですから、「アドベント」とは、「来るべきものに向かって」となります。来るべきものに向かって待っているのです、では、待っている「来るべきもの」とは何でしょうか?そう、それは「救い主」です。ですから、アドベントとは「救い主に向かって」待つ日々ということになります。しかし、「待つ」とはただ漫然と無為に時間を過ごすことではなく、キリストに向かって「待つ」信仰の姿勢を示すものであります。
 ヨハネの父ザカリヤと、その母エリサベツは、「二人とも神のみ前に正しい人であって、主の戒めと定めとを、みな落度なく行っていた」人でありました。旧約の信仰では、正しい人は神から祝福を受ける。例えば、子どもがたくさん生まれるとか、あるいは事業が繁栄するとかいうことを神の祝福のしるしと見ていました。ところが神の前に正しい行いをしていたザカリヤたちには、子どもが与えられなかったのです。それは理解できないことでありました。
 私たちはよく「どうして」と言います。神に対してもそれを言うことがあります。18節に「どうしてそんなことが、私にわかるでしょうか」(1:18)、34節に「どうして、そんなことがあり得ましょうか」(1:34)とあります。それは神を自分の秤で計ろうとしていることであります。私が理解し、納得できたら信じようという生き方であります。そこでは神ではなく自分が主人になっています。
 私たちの信仰の基盤は、私のような者を神が心にかけて下さったということを知ることにあります。25節に「主は、今私を心に掛けて下さって」(1:25)、48節に「この卑しい女さえ、心に掛けて下さいました」(1:48)とありますが、神はこの私を心に掛けて下さっていたことに気づくところから、ほんとうの信仰が始まるのではないでしょうか。「私の魂は主をあがめ、私の霊は救い主なる神をたたえます」。これが信仰であります。今は別に信仰する必要がないとか、そのうち教会へ行きますとか言う人がよくおられますが、それは信仰がよく分かっていないのであって、キリスト教信仰は、自分が必要だから信じたのではない。神が私たちの方へ臨んでこられたから、信じるようになったのです。神が私のような者を心に掛けてくださった、そのことが私たちの信仰の始まりであることをいつもはっきりさせておかなければなりません。
 マリヤが「恵まれた女よ、おめでとう。主があなたと共におられます」とガブルエルから聞いたとき、「ひどく胸騒ぎが」したとあります。恵まれたのに、胸騒ぎがするとはちょっと不審に思われます。なぜ不安を感じたり、胸騒ぎがするのでしょうか。それは神が私たちの世界に介入してこられたからであります。私たちは、サンタクロースを迎えるように、ストレートに神を迎えることはできない。言い換えると、神の恵みは、今までの自分の生活を続けながら受けることはできない。イエスが生まれたとき、ヘロデ王が不安になったのも、新しい王が生まれることは古い王が追放されるということになるからであります。
 私たちも自分の王座に座っています。だから新しい王を迎えるとか、新しく恵みを神からいただくときには、今まで王としてあがめていたものを追放しなければなりません。古いものがなくならなければ、新しいものは起きてこないのです。そこに不安や胸騒ぎの原因があります。新しく来た世界に対して、新しい備えをすることが、悔い改めであります。回心であります。神からの働きかけに応え、新しいもの、新しい秩序を心から受け入れていくところに、悔い改め、新生が起こり、全く新しい信仰と希望と愛の生活が始まるのです。

ステパノの祈り

2024-11-05 11:37:41 | 説教要旨
2024年11月3日 逗子第一教会 主日礼拝宣教
 「ステパノの祈り」 使徒言行録7章54-8章1節 
 ステパノは、ユダヤ教の会堂で大胆に御言葉を語りました。それを不快に思うユダヤ教の指導者たちは、彼に問題を突きつけますが、歯が立ちません。彼らは最高法院まで連れて行きますが、そこでも彼は「恵みと力に満ちて」(6:8)、大胆に証しすることをやめませんでした(6:8-15)。それゆえ聴衆は、ステパノの説教を聞いて、「心の底から激しく怒り、ステパノに向かって、歯ぎしり」(7:54)をし、あげくの果てに、彼を市外に連れ出し、石で打ち殺そうとしました。
 しかし、ステパノは動揺することなく、淡々とした態度で応じ、彼を罵倒する人々の前でも聖霊に満たされ、天を見つめながら、「ああ、天が開けて、人の子が神の右に立っておいでになるのが見える」と叫びました。死に直面した時でも、周りの人々を見るのではなく、天を仰いだステパノ。彼は人々のため、そして自分のためにも、十字架を背負って勝利してくださった方をはっきりと見上げていたのでした。
 その時のステパノの祈りが、「主イエスよ、わたしの霊をお受けください」であり、「主よ、この罪を彼らに負わせないでください」であった。二つの祈りのうち、前者は神に自分をゆだねる祈り、後者は隣人のための祈りでありました。私たちの祈りは、まず神に依り頼む祈りでなければならないでしょう。どんな状況に直面しても、「主よ、御手にゆだねます。私の霊をお受け下さい」と祈る祈り。神に全き信頼を置く者、真に良き戦いを戦った人のみこう祈れるのでしょう。いや、足らざる者であるがゆえに祈れる祈りでもあるでしょう。
 もう一つの祈りは自分に石を投げつける隣人に向け、「主よ、この罪を彼らに負わせないでください」である。ステパノを最後まで支えたのは、不動の信仰と、敵をも愛する愛であります。いかなる場合でも、人を動かすものは、雄弁でも、その泰然自若な態度でもなく、愛であります。このステパノの愛には、十字架の主の愛が生きています。愛は他者へと向かい、隣人へのとりなしの祈りとなります。
 私たちは注目されずに、ただ静かに労しても、満足しなければなりません。神は、私たちが目的なしに死なせることはなさいません。そういうように、無駄か、どうかということを計算することは、俗的なことで、霊的なことではありません。信仰は見ぬものを真実とします。いや、それは見るもの以上に確実であります。そしてすべてのことは、イエス・キリストの暗闇を破り、勝利する、その御業の証しにほかなりません。天を見るとは、ここにおいて、すべての闇を突き破って勝利するキリストの栄光を仰ぎ見ることにほかならないのです。
 私たちの祈りは、主にゆだねる祈り、隣人のためにとりなす祈りであることが求められています。そのような祈りとなっているだろうか。何事も祈りをもって始め、精一杯ことにあたり、あとは主にゆだねる祈りをする。また、自分のことのみならず、隣人のために祈る、いわゆるとりなしの祈りがわたしたちの信仰をも成長させるのです。