逗子にあるキリスト教会の逗子第一バプテスト教会です。

牧師のつれづれ日記、地域情報、教会の様子を紹介します。

みんなも呼びな 神さまを呼びな

2020-06-30 18:13:52 | 説教要旨

2020年6月28日 主日礼拝宣教
 「みんなも呼びな 神さまを呼びな」詩編23篇マタイ福音書6章25-34節 八木重吉というクリスチャン詩人の詩に「神を呼ぼう」という詩がある。「赤ん坊はなぜにあんなに泣くんだろう /あん、あん、あん、あん/あん、あん、あん、あん/うるせいな/うるさかないよ/呼んでいるんだよ/神さまを呼んでいるんだよ/みんなも呼びな/神さまを呼びな/あんなにしつこく呼びな」。
 赤ん坊は泣き叫ぶ以外、何の手段ももっていない。しかし、赤ん坊は生まれながら神さまを知っているかのように、叫び続ける。それは私たちが手段も方法もない時、何をなすべきか、教えているかのようだ。赤ん坊は全身をもって泣き叫ぶ。言葉も知らない、歩いて取ることもできない、物を使うすべもしらない、まさに何もできない、その時、神が唯一与えたもう手段は、神に呼び求めることだった。赤ん坊は、その目的のものが与えられるまで、決して泣きやまない。神への信頼、要求の激しさだろうか。全身をふるわせて泣き叫ぶ。それは私たちの祈りに対する指針ですらあるようだ。私たちの祈りは、ぼそぼそとしていないだろうか、それは叫びだろうか。神を呼ぶと言えるものだろうか。
 有名な詩編23篇1節に、「主は羊飼い。わたしには何も欠けることがない」という信仰の告白がある。これは、自分が羊であるという自覚を歌っている。羊というのは、羊飼いの守りと導きの中で生きるし、その中でしか生きることができない。その羊飼いが自分の前にいてくださる。だから自分には乏しいことがない。それで自分には十分だと歌っているのだ。詩編23篇には人間としての満ち足りた生き方がそこに描かれている。信頼と平安と感謝。
 しかし、私たちは、あれがあればこれがあれば満ち足れる、自分の生活は安定するのではないか、と考える。しかし、実はそうではなくて、私たちが神に導かれて生きるということの中に、私たちの満ち足りた人生があるということがこの短い言葉の中に歌われているのではないか。だから、私たちが何か道を開拓するというのではない。神に導かれながら私たちは歩いていくのである。導かれながら、一つひとつ前に開かれていく道を歩いていく。これが人間本来のあるべき姿。私たちはそれを信仰と言うが、信仰というのは特別なことではなくて、人間が本来あるべき姿、歩き方のことであろう。
 イエス・キリストは言われた。「明日のことまで思い悩むな」(マタイ6:34)。明日は私たちの手の中にはない。よく言われるように一寸先は闇。一寸先は何もわからない。何が起こるかわからない。どんな災難が待っているかわからないということ。今回のコロナウイルス危機はまさにそのことを物語っているだろう。私たちの人生は誰にとっても、不安といえば不安、頼りないといえば頼りない。だから、私たちは明日というものを自分のもとに確保しようと思う。だから、「何を食べようか」「何を飲もうか」「何を着ようか」と言って、「思い悩む」のだ(25,31節)。その私たちに対して主イエスは言われる。「あなたがたのうちだれが、思い悩んだからといって、寿命をわずかでも伸ばすことができようか」(27節)とはっきり言われる。明日の命は、私たちの手の中にはない。といって、明日のことまで思い悩んでもしょうがないではないか、と短絡的に主イエスは言われているわけではない。
 その前に、前提がある。空の鳥をよく見なさい、野の花を見なさい、あなたがたの天の父は鳥を養ってくださる、野の花を装ってくださっているではないか、というのである。さらにまた32節で、あなたがたの天の父は、これらのものがみなあなたがたに必要なことをご存知である、といわれるのである。
 これらの言わんとすることは、要するに、天の父、父なる神によって私たちは養われている、そういう存在だということである。命は私たちの手の中にはない、それは神の手の中にある。ヨブ記1:21「神は与え、神は奪う」とあるとおり。だから神は創造者としての責任と愛をもって養ってくださる。必要なものは与えてくださるお方であるということ。だからその神に求めなさい。だから「何よりもまず、神の国と神の義を求めなさい」と言われるのだ。そうすれば、これらのものはみな加えて与えられる、と約束されている。 その前提のうえで、だから、「明日のことまで思い悩むな」と言われているのだ。そこで私たちに求められていることは「何よりもまず、神の国と神の義を求め」ること。赤ん坊のように「みんなも呼びな/神さまを呼びな/あんなにしつこく呼びな」と八木重吉が歌っている通りである。

今も共に歩まれるイエス

2020-06-22 12:02:29 | 説教要旨

2020年6月21日 主日礼拝宣教
「今も共に歩まれるイエス」 コリントの信徒への手紙二2章5-11節
 ここでパウロは「悲しむ」という言葉を使っているが、何か教会の中で不祥事があったようだ。詳しいことはここではわからない。それはパウロ自身にとっても大きな悲しみであり、同時に、それは教会のすべての人々を悲しませたのだ。パウロはここで、不祥事を起こしたその人に対する自分の思いを述べているのだが、それを「悲しみ」という言葉で表現している。そして、その悲しみの感情をあなたがたも持ってほしいというのだ。ひどいことをしてくれた、おかげで自分たちは恥をかいた、そういう怒りや憎しみではなく、あるいは、もうあきれ果てて突き放してしまう、という思いでもない。「悲しみ」である。
 人は、自分のしたことに関して、怒りや憎しみを人々から受けて、そこで反省をして自分の非を認める、ということはあまりない。自分自身の非というものはわかっている。わかっているけれども、素直に認められない。非はわかっていても反発をしてしまう。自分だけではないではないか、というふうに思う。ほかの人間もそういうことがあるのではないか、というふうに考える。しかし、自分のしたことに対して悲しまれるとき、人は苦しくなる。あるいは、そうやって自分のしたことに対して他の人が悲しんでいるということを知ったときに、自分の非、つまり間違いを思い知らされる、認めさせられるという経験をする。
 山田洋次監督の映画『15歳、学校Ⅳ』の話。主人公の中学3年生の男の子が理由はよくわからないのだが不登校になる。そして、ある日突然、冒険の旅に出るというメモを残して、家出のような形でヒッチハイクをしながら旅を続ける。屋久島の縄文杉を見たいという動機からだ。当然、家族は心配する。父親は母親に対してお前が甘やかすからだと言い、母親は父親に厳しいことを言うからだと、互いに非難するばかりで、息子の気持ちをわかろうとしない。そして最後の場面で、屋久島の旅から帰った息子に、父親は厳しい叱責の言葉で反省させようとしたのだが、息子の顔を見て、思わず泣きだしてしまう。泣く父親の顔を見た息子は「心配かけてごめん」と謝る。そこで映画は終わる。厳しいことばかり言う父親が実は自分のことを心配し、悲しんでいたことが息子の心に響いたのだと思う。印象に残るシーンだ。
 ルカによる福音書には、イエス・キリストが捕らえられて裁判を受け、死刑の判決を受ける場面がある。その時、弟子のペテロはその裁判を遠くから見守りながら、大勢の人々の中に混ざっていたのだが、あなたはあの人の弟子ではないか、あの人と一緒にいたのではないのかと言われて、彼は「知らない」と三度否認したと書かれている。その時のことがこう書かれている。「主は振り向いてペテロを見つめられた」(ルカ22:61)。これは裏切ったペテロを見た悲しみのイエス・キリストのまなざしである。そのまなざしの中で、ペテロ自身は自分のやったことを本当に心底知らされたのである。自分のしたことに対して周りの者が悲しむ、あるいは肉親が悲しむというのは、だれにでも何かの経験があると思うのだが、悲しまれて初めて自分の罪悪を知り、あるいは自分のやったことに対する自分自身の痛みを経験するのである。それが「悲しむ」ということである。その悲しみによって、人は自分の罪悪を認めさせられる。
 パウロはここでこう言っている。「その人には、多数の者から受けたあの罰で十分です。むしろ、あなたがたは、その人が悲しみに打ちのめされてしまわないように、赦して、力づけるべきです」(6-7節)。「多数の者から受けたあの罰」というのは何なのかは、書いてないのでわからないが、おそらくいろんな人から何らかのことを言われたのだろう。注意をされたり、叱責をされたのだろう。しかし、それで十分だとパウロは言う。それ以上追い詰めてはいけないと言う。そうでなくて、「赦して、力づけるべき」だと言うのである。そして「愛するようにしてください」(8節)とも書かれている。赦すということは、痛みを自分も負うということを意味している。自分が痛むことも苦しむこともなく人を赦すなんてことはない。わかりやすい例で言うならば、お金を貸した相手に対して、もう返してもらわなくていいと言って赦すということは、自分がその負債を負うということ。そのように自分も痛い思いをし、苦しい思いをすることである。特に、自分に関わる出来事、自分が赦さなくてはならないときには、何らかの傷を自分も受ける。
 無償で赦すということはない。人々からの責めをそのそばに立って一緒に受ける。赦すということは多分そういうことだろうと思う。そして「力づける」というのは、ただ「がんばれ、しっかりやれ」と言っているのではない。痛みを共有している、一緒に苦しんでいる、その罪のために、そのやったことのために、一緒に苦しんでいる者として力づけるのである。
 なぜパウロがこういうことを言っているのかというと、これはイエス・キリストの私たちに対する関わり方であるからである。イエス・キリストは私たちの罪をご自分の痛みとして身に負い、そうして一緒に悩む方として私たちを励ましてくださる、あるいは力づけてくださる方である。向こう側から、離れたところから、「がんばれ」と言っているのではない。あるいは、上の方から「しっかりしろ」と声をかけているのでもない。私たちの悩みのただ中で、一緒に罪を担いながら、共にいて、そして励ましてくださるのである。これが、イエス・キリストが私たちの救い主であるということの意味なのである。かつて私たちを救ってくださったという、そんなことではない。今も私たちの救い主でいてくださる、私たちの罪を担っていてくださる、今も一緒にこの道を歩いてくださる。そういう中での励ましをいただきながら、私たちは生きているのだ。ただただ主の恵みと感謝である。

愛することは向き合うこと

2020-06-16 11:15:27 | 説教要旨

2020年6月14日 主日礼拝宣教
「愛することは向き合うこと」 マタイによる福音書22章34-40節
 今回のコロナウイルス感染予防対策の中で、ようやく緊急事態宣言の解除がなされた。そしてこれからは「新しい生活様式」で過ごしましょうみたいなことが政府から言われだした。「新しい生活様式」ってなんだ、と思って新聞を読んでみると実に具体的なことがいくつも書かれていた。その中で「食事は横並びでおしゃべりは控えめに」とあった。なんでそんなことまでいちいち国が個人の生活のあり方まで口だしするのか、と腹が立った。これが、今は非常時だから臨時でこのように生活していきましょうならまだわかる。それがこれからは「新しい生活様式」で生活してくださいと言われても、では、ワクチンや治療薬が出来て、このコロナの騒ぎが収束したらどうするの。やはり食事は横並びでおしゃべりは控えめに、ですかとちゃちを入れたくなる。というのは、実はこの「食事は横並びで」というのは、本当はもっと人間の生き方の本質にかかわる事柄なのだということに無頓着な無神経で無責任な、私に言わせれば「人間をやめろ」といっているようなものだと考えるからだ。
 「食事は横並びで」と聞いて、すぐ思い出したのが、映画「家族ゲーム」のシーンである。この映画は37年前の作品で、伊丹十三が父親役、由紀さおりが母親役の家庭の物語である。そこに松田優作が息子の家庭教師役として登場する。そしてその家族が食事をする時、皆、横並びで食べるという変な家族なのだ。そう、家族が向き合わないのだ。会話はある。あるがそれぞれが人格的に向き合わない。バラバラ。それは父親が父親の役割を放棄し母親に押し付ける、母親は母親でその役割を放棄しそれを家庭教師に押し付ける、という展開になっていく。外から見ればごく普通の家族に見えるが、実情はいわゆる仮面家族。当時は家庭内離婚とか、家庭内別居とか言われ始めた頃。その役割を演じているだけで、それぞれの役割を本当に生きているのではない。家族ごっこをしているだけなので「家族ゲーム」という題名が付いているのだろう。その象徴的なシーンが、皆で横並びで食事をしている場面である。
 私は前からこの映画のこのシーンは先ほど言った意味で理解し、映画史に残る名場面だと思っていた。しかし今回、改めてDVDで観て、新しい発見をした。あの食卓のシーンは実はあの有名なレオナルド・ダ・ヴィンチの「最後の晩餐」の絵画と同じ構図になっていることに気づいたのだ。いわゆるパクリ。それで合点がいった。「家族ゲーム」での食卓は「最後の晩餐」をモチーフにしていたのだ。聖書に書かれている最後の晩餐は、一人の弟子の裏切りが話題に上るが、その前後の展開を見ると、裏切りがユダだけではなく、弟子たちすべてがイエスを信じて従っているようには見えるが、イエスが弟子たちに「死と復活の予告」を三度もした時も、そのことが理解できないばかりか、ペテロなどは「とんでもないことです」と言っていさめ始めたとマタイ福音書は記している。そして、イエスが十字架にかけられるときには皆、逃げていった。裏切ったのだ。弟子たちは、本当の意味でイエスと向き合ってはいなかったのだ。人間的な弱さゆえに向き合えなかったという方が正確だろう。人間的な弱さとは、究極的には自己中心、エゴ、自己保身、自分可愛さからくるものではないか。だからダ・ヴインチは「最後の晩餐」で、イエスと向き合わない弟子たちという構図にしたのではないかというのが今回の私の新しく発見した見解。他の画家の「最後の晩餐」の絵も見たが、それらはどれもちゃんとイエスを中心に向き合って食事をしている構図である。あのような横並びの構図はダ・ヴインチだけ。彼がそこまで意識していたかどうかは分からないが。鑑賞者としての見方の一つとして。
 イエスはだれとでも正面から向き合ってくださった。今日の場面でも、律法学者は「試そうとして尋ね」るが、イエスはそれにもストレートに答えられる。そのことによって、イエスは傷つき、中傷され、最後にはユダヤ人から恨まれて十字架へと押しやられてしまうが、そこからイエスは逃げなかった。十字架はきちんと向き合おうとされた結果である。それが愛の形ではないかと今回、思わされたのである。
 そのイエスの答えが今日の個所に書いてある黄金律と言われる神と隣人を愛するという教えである。そこから教えられることは、愛することは神に対して逃げない、きちんと向き合うということ。隣人に対しても向き合って生きていくということ、だということである。それは簡単なことではなく、時には傷つき、つまずき、貧乏くじを引くこともあるだろうが、それ以上に神からの多くの恵みが先行してあることもまた事実である。
 私たちが「愛する」ことができるのは、神の愛の恵みへの応答としてである。神の愛を受け入れ、その感謝として励む愛の働き。与えられた賜物を生かしつつ精いっぱい愛する生活に励みたい。