生きながら死ぬこと
瀬戸内寂聴さんのエッセー「残された日々」(朝日新聞9月12日)から。「『死』は怖くない。51歳で出家した時、私は出家とは、生きながら死ぬことだと思っていた。」これを読んで、私はロマ書6章4節を思い出した。「わたしたちは洗礼によってキリストと共に葬られ、その死にあずかるものとなりました。それは、キリストが御父の栄光によって死者の中から復活させられたように、わたしたちも新しい命に生きるためなのです。」
続けて寂聴さんは「それは『考え』ではなく、私にとっては、それは『感じ』だった。『考え』は、人に教えられたり、勉強したりして生まれるものだが、『感じ』は、自分の五体が自然にそう感じることで、自然発生的なものである。」と言う。私は寂聴さんが「感じ」と呼ぶものを「聖霊(の働き)」と理解し読み替えてみた。十分に通じるではないか。
さらに死後の世界を次のように書いている。「近頃ようやく『死』は『無』になるのではなく、『他界』に移るような気がしてきた。」その通りだが、私たちは「他界」を「神の国(天国)」と呼び、希望をもって待ち望んでいる。宗教は違うが、かなり似通った信仰理解ではある。