件名なし
送信者 豊田光樹
日時 2010年11月7日 5:47:45
—蒼空の母さんの名前って何?—
時間が止まったように感じた。 金縛りにあったように身体が動かない。 何も考えられない。
蒼空は携帯を持ったまま、母の思い出を探した。
なるべく楽しい日々を……
数少ない母との思い出を頭の隅から引っ張り出す。
小学校に入学する前、仕事を休んで、遊園地に連れて行ってくれたこと。
身長が足りなくて、あまりアトラクションに乗れなかったため、次の日も仕事を休んで動物園に連れて行ってくれたこと。
ホッキョクグマを見ながら売店で売っていた、アイスの白くまを食べたら、手がべとべとになったような気がする。
些細なことに喜びを感じていたあの頃。
母は最後まで俺のために色々なことをしてくれた。
眠いときも、疲れているときも、母が食事を作らなかった日はなかった。
思い出すのは母の優しさ。悪い思い出なんて浮かんでこない。自慢の母だ。
天井を見上げて、いつの間にか溢れ出していた涙をYシャツで拭う。
「わぁーーーーっっ!!」
叫ぶ。近所迷惑だとは分かっている。
それでも止められない。
気持ちが良い。僅かではあるが気分が晴れる。
黒くなっていた画面を見つめ、それからメールの返信を打ち込む。
あいかわ…相川 る…瑠 い…依…。
相川 瑠衣。
その名前を口にするのは、入学手続きの時以来だ。
この名前を送れば、きっと明日から俺は一人になる。中学生の時に戻るのだ。
母の名前を訊いてきたというのはそういうことだろう。
メールを送ってきたのは、1年生の時、同じクラスだった豊田光樹という男だ。
特に関わりはなかったが、アドレスだけは、周りが教えていたノリで交換していた。
たしか…テニス部だったような気がする。
南松中のテニス部の誰かと連絡を取っていて、俺の母の話を聞いた。その確認。
だが、豊田光樹にそんなことを教えて何になるというのだろう。
否、そんなことは分かっているのだ。目をそらしたいだけで…。
このメールを送った瞬間、学校生活が一変する。
誰も近づいてこなくなる。
自慢の母だ。恥じることは何もない。
そう自分に暗示を掛け、送信を押した。
全て受け入れよう。
只、前の生活に戻るだけだ。
「歴史は繰り返す」とはこのことか
そんな歌詞があったような気がする。
蒼空はふっと笑みを浮かべた。
うふん。とりあえず。謝っときます。
ごめんなさい。
あ、わたし。ハッピーエンドは書くのが苦手なんです。ごめんなさい。