星学館ブログ

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金なし、家なし、趣味もなし(3)-誤解の誤解

2022-09-29 16:55:07 | エッセイ

 物質的な豊かさにも精神的な豊かさにも恵まれず過ぎること幾星霜、も早やじたばたする元気も何とかしようという意欲も失せてしまった。では、全く色気がなくなったかと言えばそんなこともないから始末が悪い。

 もう何年になるか忘れたが、冷蔵庫の扉横の面の一角に「インク」と書かれている色あせたメモ用紙が貼ってある。万年筆用のインクが切れているから買い足そうという意味だが、それは未だ実現していない。

 どういうわけか、少年の頃から万年筆に対する強烈なあこがれがあった。万年筆を片手に原稿用紙に向きながら、少しかしいでカメラに視線を送る作家のプロフィールを雑誌に見つけたりするとゾクゾクとした。達観の域に達した大人の格好良さが万年筆に現れているようだった。そのペン先から流れ出る文章は壮大な宇宙や猥雑な世界のもろもろを赤裸々に写し取っているものと思われた。

 だから叔母から万年筆を貰った時には狂喜し、自分もあの作家のように、と思いこんでしまった。が、それが誤解であることはすぐにわかった。万年筆が違っていたのだ、その万年筆ではないのだ。あんな文章が書ける万年筆が欲しい!

 自分を冷静に評価できる歳になり、その誤解も誤解とわかった。それでも万年筆を探す行脚は続いた。万年筆の時代が終っていることは知っていた。インク壺からスポイトで吸い上げ、万年筆に注入する時に決まって指先がインクで汚れた。書いていても汚れ、キャップから取り出すとまた汚れ、面倒臭い。

 世の中、奇跡が起らないとも限らない。もしかすると溢れる出るほどの文章がこのポンコツ頭に浮かぶかも知れない、と思った時に肝腎のインクが切れていることに気づいた。その珠玉のような文章は万年筆でしか写し取れないはずだ。しかし、多少は賢くなっていたのも知れない。そんな文章が浮かんだらインクを買うことにし、「インク」とメモして貼り付けた。

 初恋の君を何としかしようという意欲は失せても、万年筆へのあこがれは消えていない。きっと、きっと、いつかは・・・