星学館ブログ

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高い山 - 天文学会欧文報告集の思い出

2021-01-23 09:48:52 | エッセイ

 今と違って1960年代の日本天文学会の入会条件はただ一つ、中学生以上という年齢制限だけだったから、簡単に入会できた。普及のため、裾野を広げるための方途だったのだろう。筆者は中学生の時にこのことを知ったが、その時はさすがにためらわれた。が、高校2年生の頃、思い切って入会希望の手紙を出し、晴れて通常会員となった。

 届いた天文月報を開くと欧文報告集への投稿要件が載っていて、英仏独語で書け、とあった。欧文報告集だからそれで良いのだが、天文学会が対外的に成果を示すのが唯一これで、日本語ではだめらしいことがわかり、びっくりしてしまった。そして、昔発行していた要録(正式な名称を忘れた)のバックナンバーを販売しているという宣伝も目についた。これらはどんなものだろうか、一度見てみたい、との思いが募り、貧乏高校生にはそれなりの負担だったが、ついに欧文報告1冊と要録10冊ほどを買い求めた。

 要録は藤色の薄い表紙で、古色蒼然としていた。なにせ明治期の発行だった。ほとんどが邦文で書いてあったのは良いが、古文か漢文かと思うほどで、日本語に違いはなくとも、読んで理解できる内容ではなかった。後で聞けば、東京帝大、京都帝大の卒業論文がたくさん入っていたとのことであった。田舎の、それも戦後の高校である。そんなところのぼんやりした高校生にわかる代物の筈はなく、ただただ愕然するばかりだった。

 それに増して驚いたのは欧文報告だった。日本人の名前で英語で、フランス語で書かれた文章が続いていた。そうか、これが天文学か、という衝撃だった。多少英語を学んでいるからと言って、わかる内容ではなかったし、それ以上に外国語で書かねばならぬことを目の当たりにして、大きな衝撃を受けた。もちろん、そんな世界であることはとうに知ってはいたが、具体的に目の前にそれが置かれると、B5版の黄表紙の小冊子がひどく恐ろしいものに見えてきた。自分の前には何と高い、高い山がそびえていることか! 自分はこれからさらに何年間か学ぶとしても、果たして、この高い山に近づき、登ることができるようになるのだろうか? すっかりおじけついてしまい、何と力のない自分であることか、と落ち込むばかりだった。

 高い山は天文学ばかりではなかった。併せて触れねばならなかった物理やその周辺領域も、大学のそれはいずれもハードボイルドなものばかりだった。しかし、欧文報告集という適切な進路指導のおかげで誤解せずに済んだことは幸いであった。大学や学問の世界は高校教育とは無縁で異質な世界であり、ゆめゆめ甘く見てはいけない、という適切な教訓を授けて貰ったからである。

 近年、天文学というロマンティックなイメージと、入学しやすくなったことで、多くの若者が天文学の世界に入って来る。それ自体は結構なことだが、彼らが触れた学問の世界はイメージどおりだっただろうか? そこに誤解はなかっただろうか? その流れで、何年も不安定な身分に甘んじて大きな可能性をみすみす捨ててしまうようなことはなかろうか? 

 大学入試法が今年から新しくなった。しかし、これで本当にこれまでの入試でなら落ちた人が合格し、合格していたような人が落ちるのだろうか、そんなにうまい選抜法なのだろうか、との疑問がぬぐえないまま、50年以上も前のことを思い出した。

<現在の欧文報告集> こちら https://www.asj.or.jp/jp/activities/pasj/about/

(星学館 2021.1.22.)


日下周一(1915-1947)、悲劇の素粒子物理学の開拓者

2021-01-15 08:42:03 | エッセイ

 日下周一(くさかしゅういち)は大阪で生まれ、カナダで育ち、そしてアメリカ合衆国で研究生活を送り、31歳の若さで事故死した理論物理学者である。オッペンハイマー(1904-1967)の下で中間子や核力の研究を行い、パイ中間子が発見される前に亡くなってしまった。湯川秀樹(1907-1981)や朝永振一郎(1906-1979)よりやや若い同時代の研究者だった。

 彼は1915年(大正4年)、大阪市に生れ、5歳の時に医師だった父親らと共にカナダのバンクーバーに渡った後、ブリティッシュ・コロンビア大学を卒業。MITへ留学して修士課程を経た後、バークレーのカリフォルニア大学に移ってオッペンハイマーに指導を受け、1942年春、博士号を得た。そして、プリンストン高等研究所に移り、アインシュタイン(1879-1955)の同僚後輩となった。1943年にはパウリ(1900-1958)と核力についての論文を書き、名門女子大学スミス大学の講師となった。

 その前に日米は戦争状態に入っていたから、日下は敵国人として大変苦しい状態におかれ、カナダにいた姉たちは内陸部へ強制移住させられるという具合で、戦争に翻弄されていた。1944年、日下は軍籍を得て陸軍科学研究所に移り、1946年に除隊するとプリンストン大学へ行ってウィグナー(1902-1995)の下で講師・助教授となった。そして、1947年8月31日、夏のセミナーが終わった翌日、同僚と海水浴へ行き、遠泳中に溺死してしまった。まだ31歳だった。

  バークレー時代の1939年、ソルベー会議の後にアメリカにやってきた湯川と会っている。その頃、日下はクリスティと共に中間子のスピンや宇宙線バーストに関する研究を行っているところだった。翌1940年夏、日下は初めて帰国し、大阪大学や京都大学で小林稔(1908-2001)、内山龍雄(1916-1990)らと議論し、湯川と再会した。

 日下は1939年から1945年までの間に10編ほどの論文を発表している。湯川、坂田、武谷、小林、内山らのライバルであり、彼らと共に中間子論の構築に貢献したが、研究生活は短く、まさに悲劇の物理学者であった。

 現在、プリンストン大学では日下奨学金が設けられ、日下の顕彰が行われている。

詳しくは、http://seigakukan.sakura.ne.jp/ 


■2021.3.10.追記

 昨年、大阪市立科学館館長の斎藤吉彦氏から、私たちが開催した2005年の日下シンポジウムのことを南部先生が少し紹介していると知らせて来てくれた。南部先生の追悼集「素粒子論の発展」(江沢洋一編、岩波書店)の中のp.400以下「基礎物理学-過去と未来」と題した講演録のp.423に

「先週、大阪の科学館で、私は出席できませんでしたが、日下周一というプリンストンで亡くなった日本人の追悼のシンポジウムがあったはずです。日下という人は、実はもともと大阪出身で、お父さんと一緒に、小さいときにカナダに移住して、それからバークレーでOppenheimerの弟子になった人です。それでそこのころまで宇宙線の研究をしていました。R. F. Christyと日下、どちらも大学生ぐらいだったと思いますけれども、彼らは宇宙線と大気との相互作用の計算をして、宇宙線のスピンは0か1/2でなければならないという結論を出しております。ですから、坂田さんが二中間子論を出したときも、そういうことが念頭にあったのではないかと思います。」

とある。このシンポジウムには南部先生も出席予定だったが、飛行機の都合で間に合わなかった。

 それにしても驚きは彼らの仕事が大学の卒業研究レベルだったこと。大学がまさに最高学府だった時代の伝説か。Oppenheimerは1938年に中性子星とブラックホールの理論を発表するが、これらも学生の卒業研究か、修士研究だった。むむむ・・・・・