星学館ブログ

星やその周辺分野のもろもろを紹介

日本の星名事典

2019-05-04 16:11:23 | 関係出版物

北尾 浩一著、原書房、2018年、4104円
 「天文民俗学序説―星・人・暮らし」、「ふるさと星事典―星とあそぼう」、「星の語り部―天文民俗学の課題」、「星と生きる―天文民俗学の試み」、「星を見よう!―おじいさん、おばあさんの星の話」と多くの関係書籍を世に問うてきた北尾さんの集大成とも言えるのが本書。書名から推察されるように野尻抱影の「日本星名事典」(東京堂出版 1973年)の後継書と位置付けられよう。ただ、事典と銘打っているものの単なる用語事典ではなく、北尾さんが一貫して追究してきた天文民俗学のまとめであり、彼の見解が随所に見られる。
 北尾さんの研究スタイルは現地に赴き、現地の方々に聞くという現場主義であり、自ら採取しているという点で他に追随を許さないし、これから類似の仕事が出てくるとは思えないという点で最後の書となるのではなかろうか。農耕漁労社会の残滓を追い求めるには余りに社会の変化が激しい。
 本書は彼の健康と意欲と大事な時間と引き換えにした入魂の一書であり、昔から北尾さんの仕事を脇から見ていたものとして、出版を心から喜びたい。また、財団法人大阪科学振興協会中之島科学研究所の創設に関わった者として本研究所の研究員を務めて戴いていることにも敬意を表したい。

2020.7.10.追記
 昨日、北尾さんと話をした。本書の上梓後も、彼の情熱は消えない。それどころか、病気療養を続けながらも、鹿児島沖や沖縄周辺への調査を重ねているという。畏れ入るばかりであった。

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親友が語る手塚治虫の少年時代

2019-05-04 13:26:44 | 関係出版物

田浦紀子・高坂史章編著、和泉書院、2017年、1750円
 田浦・高坂姉弟による手塚治虫の研究書。手塚の同級生や弟妹をはじめ、お付き合いのあった方々の話をまとめたもので、手塚治虫の原点を探ろとする試みである。手塚が没して30年、関係者も高齢となっている今、貴重な一書である。田浦・高坂姉弟は学生時代に「虫マップ-手塚治虫ゆかりの地を訪ねて-」と題するホームページ(http://mushimap.com)を立ち上げ、若き手塚の歩いた大阪の町々を紹介し、手塚治虫紹介に尽力してきた。
 小学生時代の手塚は天文少年であり、昆虫少年であった。1937年に誕生した大阪市立電気科学館は日本で最初にプラネタリウムを設置した科学館で、手塚が小学校3年生の頃だった。丁度、外界に目が向き始める頃で、最新の科学・技術を紹介していた電気科学館に手塚は同級生の石原実さんと一緒に足繁く通っていた。そこでの宇宙体験は手塚の原点の一つと言えよう。
 電気科学館が開館50年となる1987年3月、手塚を招いて市民向けの講演会を開催した。その時が筆者と手塚との唯一の出会いであった。それから30有余年、手塚が歴史の向こうにかすんでいく。人々の記憶にとどめるにはくり返し手塚の名前を連呼し、宣伝するしかない。それをぜひやって欲しいと著者に頼んでいたが、その成果の一つが本書であり、その労を多としつつ出版を喜びたい。そして、次の企画を楽しみにしている。

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東北大学と天文学-最初の半世紀-

2019-05-04 13:00:00 | 関係出版物

竹内 峯著、柳町自然研究所発行、2014年、非売品

 ケフェイドなどの脈動変光星の理論で活躍された竹内峯先生の遺著が奥様貞子様の手によって発刊された。東北大学天文学教室の歴史ではあるが、それにとどまらず新設大学の意気の新鮮さ、前向きで溌剌とした元気の良さが感じられ、大いに元気づけられる。

 東北帝国大学は1907年(明治40年)に古川財閥の資金をもとに開学した(学生の受け入れは1911年から)。当時、古川は足尾鉱毒事件で世間の非難を浴び、また、日露戦争特需により資金が潤沢だったこともあり、古川の社長でもあった首相原敬が拠出させ、富国強兵の国策のもと、医工理の大学として九州帝国大学(これも古川資金。大学の性格も同様)とほぼ同時に開学した。

 開学と同時に理科大学物理学教室に星学担当教授(日下部四郎太)がおかれ、同時に観象所(気象、地震、天体観測用)が設けられた。1920年、地球物理学講座が新設され、助教授(松隈健彦)が天文学を担当した。1934年には天文学講座がそこから独立し、初代教授に松隈健彦が就いた。これが東北大学天文学教室のスタートとなった。

 以下、1960年頃までの様子が主な人物を通して語られる。歴史の記述法で言えば紀伝体ということになろう。主な登場人物は、日下部四郎太、松隈健彦(たけひこ)、鹽釜伊兵衛、服部鼎、石原純、橋本節治、一柳壽一、古山誠、木村信卿(のぶあき)の諸氏。

 帝国大学におかれた天文学教室の中で東北大学については東京、京都ほどその来歴が語られることがなく、やや謎めいたところがあったが、本書はそれを紐解く一書となった。しかし、本文60ページの小冊子であり、残念ながら網羅しているとは思えないが、これまでこうしたまとまったものが無かったことを思えば、本書の意義は誠に大きい。今や、こうしてベースができたことであり、今後これを膨らませていって戴ければと願うばかりである。

 竹内先生に最初にお世話になったのはウンゼルトのドイツ語版を読むという4年生の演習であった。先生は学生室に入ると、おもむろに葉巻に火をつけ、文意の通らない学生の訳文に駄目だしをして終えるまで1時間以上、これをくゆらし続けた(葉巻とは随分長持ちするものだと、妙な感心をした)。当然、部屋中が煙でいっぱいになったが、それ以上にあの強烈な香りには参った。学生を眠らせないための方策だったのかも知れない。

 そして、2度目は1987年頃で、学位論文の審査委員長をして戴いた。当時、大阪教育大学の定金晃三先生と一緒にいくつか論文を書いており、そろそろ学位請求しても良いだろうということで竹内先生につないで戴いた。その後は竹内先生に草稿を懇切に見て戴き、無事、審査合格となった。学位記を頂戴した日、竹内先生は一番町のフレンチ・レストランに連れて行って下さった。

 その後、お返しの機会を見出せぬまま先生は幽界に旅立たれた。齢80であったが、そんな歳には見えなかったので機会を失してしまったのかも知れない。(2015.4.20.、2019.5.4.)

<著者略歴>

たけうち・みね 1932 福島県福島市生まれ、

東北大学大学院理学研究科修了、理学博士

主に脈動変光星の理論を研究 東北大学大学院教授(理学研究科)を経て東北大学名誉教授

私設柳町自然研究所で天体物理学の研究を継続

2012 年2 月没

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織田作之助の大阪-生誕100年記念

2019-05-04 12:30:16 | 関係出版物
オダサク倶楽部編、平凡社(Corona Books)、2013年、1600円
 書名のとおり、作家織田作之助の生誕100年にちなんだタイムリーな一書。
 上方贔屓の方は言うに及ばず、少しでも大阪に関心のある方には愛おしいと感じる文章と写真が並び、思わず涙ぐんでしまうのではなかろうか。オダサクについての素敵な備忘録といったところ。
 織田が活躍した昭和10年代の大阪は日本の中で最も光り、輝いていた街だった。産業都市・軍需都市であったことや、関東大震災により多くの被災者が京阪神地区に移住していたことなどがその背景にあったのだが、それまでになく香り高い文化を享受する風が生まれていた。とは言え、多くの庶民の生活が急に華やかになったわけではなく、貧困に追いかけられる層が依然として中核を成していた。そんな大都会の混沌とした中にあって、それを冷静に見据えて、赤裸々に描き出したのが織田であったと言えよう。
 そんな訳で、当時の状況をほうふつとさせるような書物となった。筆者は「わが町」に大阪市立電気科学館が登場することや、映画ではロケが行われたことなどからオダサクとプラネタリウムの関係を書かせて戴いた。請う、ご購読を! (2013.10.9.)


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新・天文学事典

2019-05-04 12:26:21 | 関係出版物
講談社刊、2013年、2,520円
地球から宇宙全般にわたる最新の知見をまとめたもの。
 筆者は最後の18章「天文学の教育と普及」の『3.科学館とプラネタリウム』を担当。この章は松村雅文さん(香川大学)と黒田武彦さん(兵庫県立大学、西はりま天文台)との共同執筆。
 本書は監修者の谷口義明さん(愛媛大学)の強力な指導力とブルーバックス編集部の小澤さんの奮闘がなければ1年余の短期間に仕上げることはできなかったと思う。この種の事典にはどえらく労力がかかるもので、その後、お二人が虚脱感に襲われていないか、心配。こうした心血を注いだ一書だけに多くの方にご覧戴きたいと願うばかり。
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