力石の亡霊と戦い抜くと覚悟を決めたジョーの前に、ついにカーロスリベラが姿を現した。世界バンタム級6位、無冠の帝王と言われる男だ。ジョーの試合の前に、紹介されてリングに上ったカーロスは、これから試合をする二人に挨拶をすることになる。マネージャーのロバートは「上級者からだぞ」と注意する。
試合の設定としてはジョーの方が格下で、今日負ければ三連敗という状況だ。しかし、カーロスは迷うことなくジョーの方に進み、握手を求めた。段平に上級者はあっちだといさめられるが、「おかしいですね。間違えることはないのに」とつぶやく。
段平は直感する。
「カーロスは超一級品だからこそ、超一級の素材をひめたジョーの本物の底光りを超一級の目で見抜いたんだ」
しかし、実際に試合が始まってみれば、いつもどおり、ジョーは惨めな試合展開をする。会場からヤジに挑発されて、ついにジョーは顔面へのストレートを放つ。しかし、相手をダウンさせたと思った矢先に、再びリング状で嘔吐が起こった。追い詰められたジョーは反則を続けて、反則負けになる
ひどい状態になった試合会場にたたずみ、ジョーはつぶやく。
「力石よ・・・男一匹ここまで徹底的にだめにすりゃ・・おまえも本望だろうよ・・・本望だよな。これでもういかにおれがおまえの亡霊ととことん取っ組むなんぞと力んだところでいまさらボクシング界の方で、その舞台をあたえてはくれまい・・・人里はなれた野っ原へでもいって・・・月にほえるやせ犬みたいに、ひとりおまえの亡霊相手に遠吠えでもするか」
段平もジムをたたむことを覚悟する。しかし、ジョーは、いまさら林屋ではたらくきもない。そんな平和な人生は自分には縁がないといって、どさまわりの草拳闘にまで身を沈めていくのだ。
「いつかも言ったろうが。こいつは力石の亡霊との勝負だ。やつがジョーには負けた・・と、おれを解放してくれるまでは、どんな醜態をさらそうがリングにしがみつく・・・とな!」
心のダメージの怖さだ。人は肉体のダメージからは、時間がたてば回復できる。しかし、心が折れたらどうしようもない。格闘技の試合でもよく耳にする「まだ心が折れていない」「心が折れた方が負けです」と。
疲労、苦痛が強ければどうしようもないから、肉体のダメージが強ければ心なんてひとたまりもない・・それもまた真実だ。しかし、時に人は信じられないような心の力を発揮する。その時、肉体は潜在力を解放する。火事場のくそ力というのもその一種だ。
いずれにしても、普段から心と肉体のコミュニケーションをしっかりとっているからこそ、そういうことが起こる。
格闘技やスポーツの訓練では、ぎりぎりまで自分を追い込む練習をする。そんなことが肉体を鍛えるために有効なはずはないだろう。その時に、鍛えられているのは、ぎりぎりまで自分を信じ抜く心の力なのだ。「最後は精神力で勝るものが勝つ」とスポーツ、格闘技ではよく言われる。それを精神論といって侮ってはいけない。精神論だの、科学トレーニングだの、そんなことは当事者ではなく、外野からのんきに眺めている評論家や研究者が語っていればいい。
スポーツばかりではない、普通の日常生活においても、ピンチはいくらでも体験する。その時に、自分を見失わず、時には屈辱に耐え、次のチャンスを待つことができるかどうかは、日頃から心と体(この場合感情の揺れ、感情は心ではなく体なのだ!)の鍛錬がなされているかどうかなのだ。日常をなめるなかれ、何でもない日々を侮るなかれ!どんなささいにみえる現実の中でも、心と体は常に揺れている。その揺れのなかでバランスをとる訓練はいつでもできるし、しなくてはいけない。
「都合の悪いことは無視する」「ただひたすら我慢する」「ずべて人任せにする」「自分に都合のよい解釈にひたる」などなど、落とし穴はいくつもある。それに気づいて、心と体のトレーニングをするかどうか、その効果は実感されることはない。しかし、確実に見えざるところで自分を支える力になっていくのだ。