人生に必要なことは、すべて梶原一騎から学んだ

人間にとって本質的価値「正直、真面目、一生懸命」が壊れていく。今こそ振り返ろう、何が大切なのかを、梶原一騎とともに。

カーロス・リベラ

2007年08月16日 | あしたのジョー

力石の亡霊と戦い抜くと覚悟を決めたジョーの前に、ついにカーロスリベラが姿を現した。世界バンタム級6位、無冠の帝王と言われる男だ。ジョーの試合の前に、紹介されてリングに上ったカーロスは、これから試合をする二人に挨拶をすることになる。マネージャーのロバートは「上級者からだぞ」と注意する。
試合の設定としてはジョーの方が格下で、今日負ければ三連敗という状況だ。しかし、カーロスは迷うことなくジョーの方に進み、握手を求めた。段平に上級者はあっちだといさめられるが、「おかしいですね。間違えることはないのに」とつぶやく。
段平は直感する。
「カーロスは超一級品だからこそ、超一級の素材をひめたジョーの本物の底光りを超一級の目で見抜いたんだ」


しかし、実際に試合が始まってみれば、いつもどおり、ジョーは惨めな試合展開をする。会場からヤジに挑発されて、ついにジョーは顔面へのストレートを放つ。しかし、相手をダウンさせたと思った矢先に、再びリング状で嘔吐が起こった。追い詰められたジョーは反則を続けて、反則負けになる
ひどい状態になった試合会場にたたずみ、ジョーはつぶやく。
「力石よ・・・男一匹ここまで徹底的にだめにすりゃ・・おまえも本望だろうよ・・・本望だよな。これでもういかにおれがおまえの亡霊ととことん取っ組むなんぞと力んだところでいまさらボクシング界の方で、その舞台をあたえてはくれまい・・・人里はなれた野っ原へでもいって・・・月にほえるやせ犬みたいに、ひとりおまえの亡霊相手に遠吠えでもするか」


段平もジムをたたむことを覚悟する。しかし、ジョーは、いまさら林屋ではたらくきもない。そんな平和な人生は自分には縁がないといって、どさまわりの草拳闘にまで身を沈めていくのだ。


いつかも言ったろうが。こいつは力石の亡霊との勝負だ。やつがジョーには負けた・・と、おれを解放してくれるまでは、どんな醜態をさらそうがリングにしがみつく・・・とな!」

 

心のダメージの怖さだ。人は肉体のダメージからは、時間がたてば回復できる。しかし、心が折れたらどうしようもない。格闘技の試合でもよく耳にする「まだ心が折れていない」「心が折れた方が負けです」と。
疲労、苦痛が強ければどうしようもないから、肉体のダメージが強ければ心なんてひとたまりもない・・それもまた真実だ。しかし、時に人は信じられないような心の力を発揮する。その時、肉体は潜在力を解放する。火事場のくそ力というのもその一種だ。
いずれにしても、普段から心と肉体のコミュニケーションをしっかりとっているからこそ、そういうことが起こる。
格闘技やスポーツの訓練では、ぎりぎりまで自分を追い込む練習をする。そんなことが肉体を鍛えるために有効なはずはないだろう。その時に、鍛えられているのは、ぎりぎりまで自分を信じ抜く心の力なのだ。「最後は精神力で勝るものが勝つ」とスポーツ、格闘技ではよく言われる。それを精神論といって侮ってはいけない。精神論だの、科学トレーニングだの、そんなことは当事者ではなく、外野からのんきに眺めている評論家や研究者が語っていればいい。
スポーツばかりではない、普通の日常生活においても、ピンチはいくらでも体験する。その時に、自分を見失わず、時には屈辱に耐え、次のチャンスを待つことができるかどうかは、日頃から心と体(この場合感情の揺れ、感情は心ではなく体なのだ!)の鍛錬がなされているかどうかなのだ。日常をなめるなかれ、何でもない日々を侮るなかれ!どんなささいにみえる現実の中でも、心と体は常に揺れている。その揺れのなかでバランスをとる訓練はいつでもできるし、しなくてはいけない。
「都合の悪いことは無視する」「ただひたすら我慢する」「ずべて人任せにする」「自分に都合のよい解釈にひたる」などなど、落とし穴はいくつもある。それに気づいて、心と体のトレーニングをするかどうか、その効果は実感されることはない。しかし、確実に見えざるところで自分を支える力になっていくのだ。


力石とおれの掟

2007年08月12日 | あしたのジョー

鬼気迫る形相で、走り込みとサンドバッグうちを続けるジョー。その姿は、どや街の住人たちにも異様に移っていた。そんなジョーを異常だと感じながらも、段平は黙ってつきあっていた。

「ジョーは今、体を動かしてなけりゃ 不安でたまらねえんだ」


セコンドにつくのはつらいと西もいう。しかし、そこでジョーはいう


「おれはつらくも恥ずかしくもないぜ、いっこうにな!・・・
おれが今まで戦ってきた相手は、チャンピオンの尾崎じゃねえ、一位の原島でもねえ。ましてや三位の南郷でもねえ。力石徹  あの偉大な男の亡霊だってことは、ふたりともご存じのはずじゃなえか。やつの亡霊が、ジョーおめえにゃ負けた、もう解放するよ・・・と おりるまで、おれは戦い抜くつもりさ。それでもだめなら矢吹丈も一巻の終わり。そいつが力石とおれの掟じゃねえか。そうだろ。やるぜとことんまでよ。」

 

ジョーはわかっていた。自分に何が起こっているのかを。それを知りつつ、自分のやり方で乗り越えるしかないと思っていたのだ、人がどう思おうとも。
しかも、自分のやり方で乗り越えられるのかどうかもわからない。先に何の保証もない闇の中を、自分の体だけを信じて無謀な挑戦を続けていた。

先が見えない不安、何をしたら乗り越えられるのかもわからない不安、その中を進んでいくとき、その道が解決に向かっているのかどうかもわからない。それは、実は寄り添う人間、支える人間がいてこそできることだ。しかも、その時よりそう人は何もしてあげることはできない、何も言ってあげることもできない。ただただ、そのプロセスにつきあうだけだ。本人も苦しいが、その人もつらいのだ。
そういった、無償の支えを得ることがなかなかできないのである。目に見えることの背景には目に見えないものがある。評価されるものの背景には評価されないものがある。喜びの陰には苦しみがある。
今の世の中は、そういった陰の力、見えざるものの力を軽視する傾向がある。それが、世の中を悪くしているような気がする。


傷だらけのかませ犬

2007年08月11日 | あしたのジョー

ジョーは、試合中に相手の顔面を強打した直後に、リング状で激しい嘔吐をして試合を棄権してしまった。病院の検査では、何の異常も認められなかった。段平と西は顔面強打をしたことの心理反応であることはわかっていた。
乾物屋の看板娘の紀ちゃんは、その姿にいたたまれず、段平に言う。


「段平さん、もう彼をボクシングから足をあらわせて。
お願いします。このまま続けさせると矢吹君だめになってしまう。廃人になってしまう・・・人間じゃないわ、闘犬用に育てられた・・それこそ傷だらけのかませ犬みたい」


段平も、紀ちゃんに言われるまでもなく、ジムをたたむことすら考えていた。
しかし、意識がもどって、ジムに降りてきたジョーは、狂ったようにサンドバッグを打ち続ける。
段平はその姿に戦慄する。「傷だらけの、かませ犬か・・・やろう、リングで力石の亡霊と心中する気だぞ

 

心の傷は意識ではどうにもならない。頭ではわかっていても、体が言うことをきかない。その傷の痛みを消すために、人は端から見れば不合理な、自滅的な行動をとることがある。何とかしたい、何とかしなければ、その焦りと、自分を追い詰めることが、逆効果になることがある。そして、自体はさらにこじれていくのだ。
しかし、そうかといって、ゆっくり休養して、優しく慰められていたら、傷は癒えるのだろうか・・・そうともいえない。そういう自らを傷つける、自らを追い込むというプロセスがどうしても必要な場合もある。
人は無意識に、今の状況に納得しようとして、そして何とか納得して生きている。これでいいのだと言い聞かせながら。しかし、それは論理的な答えではない。だから、何かの拍子に簡単に消し飛んでしまうものだ。そして、その直後から、これでいいという納得した世界はなくなり、不安と焦りと無力感に陥ってしまうことがある。
そういう人の心のはかなさを、漫画や小説や映画を通して疑似体験し、自分の体験と重ね合わせ、ぎりぎりのところで自分の心のバランスをとって生きていく・・人生とはそういうものだと思う。
まあ、いい漫画を読めよってことだな。


無意識の本能

2007年08月05日 | あしたのジョー

顔面が打てない! ボクサーとして決定的な欠陥を、試合のさなかに指摘されたジョー。段平の最後の賭も失敗に終わり、ジョーはタイガー尾崎にめった打ちにあう。

必死で反撃しようとするが、どうしてもボディーしか攻撃できない。かたや、タイガーはそれを承知で防御すればよいので、余裕綽々である。

ジョーはつぶやく

その無意識の本能ってやつは・・・おれの意志ではどうにもならねえことなのかよ、おっちゃん・・・

ばかなことをいうない。おれの体じゃねえかっ・・・・てめえの腕じゃねえかっ・・・

そして、必死で食い下がろうとするジョーは、とどめの一撃をくらう寸前でゴングに救われ、その直後にセコンドからタオルが舞い込んだ。

致命的な心の傷を治さなくてはならない、焦るジョーや段平の心を見透かしたように、他のジムの会長たちが、次の試合を申し込んでくる。なんとしてもやめさせたい段平の気持ちをよそに、ジョーは試合を受けてしまう。

そして次の試合がきてしまった。

段平はいう

人間には絶望的なピンチよりも、もっとたちの悪いピンチがある・・・

そいつは、なまじ偽物の希望のあるピンチってやつだ・・・

休息して、満を持する気にもなれず・・・あわれにも、今度こそ今度こそと無惨にあがき、あがけばあがくほど、底なしの泥沼にのめり込んでいく・・・

ジョーはめった打ち、セコンドでは西と段平がけんかをするしまつ。試合のさなか会場に気になる人物を目にしたジョー。どこかで見た外国人がいる。そう運命を変える男をみた。その隙をついて、強打をもらったジョーは思わず、無意識に相手の顔面に強烈な一撃を放った!さらにもう一撃・・・

その直後に、ジョーはリングで激しく嘔吐してしまったのだ。

 

無意識との葛藤が、リアルに描かれている。しかも少年誌に。がんばれば何とかなる、根性で乗り越えるのだという、漫画の世界を塗り替えるシーンだ。

どうしても乗り越えられない心の傷、その葛藤を無理に乗り越えようとすると、体が勝手に反応して、力が入らない。それを、はずみで乗り越えてしまうと、さらに強い身体反応がおそってくる。

人間の意志の力は、無意識の作用の前には、かくもはかないものなのだということだ。がんばってもどうにもならないことがあるということだ。

一度は、力石の亡霊を追い払って、戦うモチベーションを持ち直したかに見えたジョーも、無意識の力の前には手も足も出ないということだ。

梶原一騎の作品は、基本的に「滅びの美学」である。恵まれないものが、必死でがんばり、はい上がろうとするが、最後は滅びていく。ただし、その滅びは悲劇ではなく、そのようにしか生きられない人間のはかなさ、どうしようもない人間の現実を表現する。その夢のなさを、漫画の神様、手塚治虫は毛嫌いした。しかし、時代はそういう梶原の世界に親和性を感じた。時代だったのだな。

手塚治虫が表現したのは、時代に影響されない普遍的な人間であったのに対し、梶原の作品は同時代の苦悩を代弁してくれたわけだ。まあ、歌謡曲みたいなものだな。手塚治虫の作品はクラシックや、受け継がれる日本の美を歌った、童謡、学童唱歌みたいなものだ。そりゃあ、水と油だ。

どっちがどうということはない。受け手は、そのときの気分で、気分に合わせてどっちを読むか選択する。そのときの心境によって、手にする漫画は違うものだ。そのときの気分によって聞く音楽が違うように。

阿久悠がなくなった、梶原一騎は阿久悠に近いだろう。ただ梶原の才能は短い期間に枯渇してしまい、滅びてしまったのに対し、阿久悠の才能は死ぬまで持続した。すごいことだね。本当に惜しい人を亡くしました。阿久悠さんのご冥福をお祈りします。


力石の亡霊

2007年07月15日 | あしたのジョー

力石を死に至らしめたというショックから何とか回復し、ボクシングの世界に戻れたかのように見えた。しかし、スパーリングをしたマンモス西は、ジョーが顔面を打たないことに気づいた。

ボクシング界に復帰したジョーは、必殺のボディー打ちで連戦連勝を重ねた。それに危機感を覚えたボクシング協会は、共謀して何とかジョーつぶそうと躍起になる。
公開スパーリングにおびき寄せ、多くのボクシングジム会長がそれを見学する。次に対戦するのは、チャンピオンのタイガー尾崎だ。

異様な雰囲気のなか、ついに戦いが始まった。自分が顔面を打てないことをジョーは自覚していない。それが見破られることを恐れてセコンドにつく段平と西。
案の定、タイガー尾崎側は、その弱点を見破っていたのだ。

段平は試合のさなかに、ジョーに現実を告知せざるを得なくなった。

「ジョーよ、おめえにたたっているというのは、力石の霊さ・・・力石の亡霊がいまだにおめえのからだにこびりついているんだ」

縁起でもない迷信をなんでかつぎだすんだと怒るジョーに、段平は冷ややかに言う。

 

「迷信じゃねえよ。きわめて科学的・・・かつ心理的におめえは力石にたたられておる。亡霊にとりつかれとるんだ」

「ふだん、おめえは意識もしてねえだろうが・・・いざ、土壇場のとどめ打ちとなると、そのおびえの本能が顔面をさけてボディーばかりをねらってしまう。こいつばかりは・・・この無意識の本能ってやつばかりはどうしようもねえ・・・」

「さあいけ、ジョー! タイガーに勝ちたいのなら、はっきり力石の霊を意識し、その力石の霊を払いのけて思いっきり顔面を攻撃するしかねえっ」

 

これはすごい!たかが漫画の世界で、人間の無意識の世界まで踏み込み、さらには、それを克服するには無意識を意識化して、意識の中でそれを乗り越えるしかないというのだ。心理学も精神医学もしらない、飲んだくれの拳闘馬鹿の丹下段平が。

人間がいかに多くの無意識に縛られているか・・何となくそんな話は聞いたことはあるだろうし、感覚的には多くの人がわかっていることだろう。しかし、無意識の大きさ、すごさはそれほど理解していないだろう。逆に言えば、人間は意識できていることの方が少ないのだ。それは氷山の一角に過ぎない。その下には、巨大な無意識がそれを支えている。体験としての無意識だけではない。人は自然の一部である以上、あらゆる自然現象、時空間の現象に影響を受けていて、それが何なのか、どれくらいどうなのかなんて、いかなる学者、専門家であろうが、しるよしもない。

そういう中でおこった出来事を、過去のトラウマと結びつけようとしたり、偶然とか、運命とか宿命とかいう言葉で納得しようとする。誰にも経験があるだろう。しかし、本とのことはわからない。わかるわけもないので、謙虚にわからなさを認めて、無理矢理わかろうとせず、起こってくる現実を素直に認め受け入れた方が、無理のない生き方ができると思う。

ただ、無意識の中の表層のごく一部には、現実に体験したことの中で、苦痛に満ちた経験が抑圧され、そのエネルギーが今の思考や行動を制限している場合があるのも事実だ。その無意識の中でも表面のごく一部のものに対して、心理療法がなされるわけだ。

治療は緩やかに時間を十分にかけ、らせんを描きながら徐々に徐々に確信にふれ、抑圧されていた外傷体験に直面し、それから目をそらさず、意識しつつ、今やるべきことをできるようになること、それを目指していくわけだ。

まだに段平がいったように、力石の霊を意識しつつ、それを払いのけ、目の前の本当の相手の顔面を攻撃できるようになる・・そういうことなのだ。

この漫画のすごいところは、理屈はそうであっても、決して簡単にそれをジョーは実行することができないところだ。その現実に直面するたびに、身体反応が激しく起こり、意識ではどうしても無意識の反応を乗り越えることができず、また闇の中に落ちていく運命にあったというところである。

深い、実に深い。これからもジョーの葛藤は続くのである。


落ちるのはここまでさ

2007年06月17日 | あしたのジョー

ゴロマキ権藤とのけんかで警察につかまったジョー。事情が事情なだけに、情状酌量された。ジョーを引き取りにいった段平は平身低頭、警察にわびをいれる。しかし、ボクサーのパンチは凶器だから気をつけろ、相手のヤクザは内蔵破裂で全治3ヶ月だと聞かされて、段平は思わず喜んでしまいひんしゅくをかう。

ひさびさに、ドヤ街にもどったジョーを住民たちは暖かく迎え入れてくれた。

「おめえはドヤ街の灯火なんだ。一日一日大きくなっていくのを皆楽しみにしているのだと」

しばらくいない間に、マンモス西も見違えるほど引き締まった体になり、プロボクサーとして着実に成長していた。

丹下拳闘クラブにもどったジョーは、それでも、ぼんやりした状態が続いていた。

その姿を見かねた段平が、いつまでそうやっているつもりなんだと声をかけた。

ジョーは「西にハッパをかけられ、葉子に厳しい言葉を浴びせられ、ウルフの地に落ちた姿をみて、そのウルフがゴロマキ権藤にたたきのめされる姿を見て、ドヤ街の住民の声援された・・」とつぶやく

段平が「どこまで落ちりゃ気が済むんだ」というと、ジョーは答える

「ここまでさ、落ちるのはここまでさ。今、やっとリングに帰る決心がついたよ」

 

「おれの目を見ろ、西・・・夢を見ている目か?ゴロマキ権藤がいってくれたぜ、ウルフの目はくさっているが、おれの目はまだ生きている・・と」

「ウルフには気の毒だが、おれはウルフにはなりきれねえし、なりたかねぇっ。

おれは矢吹 丈さ!」

 

自分は誰でもない、自分でしかない、それで生きていくしかない。

このごく当たり前のことが、なかなか実感できず、人の心はさまよってしまう。ほかの誰かと比べて、勝っているか、劣っているか。自分が大丈夫である理由を自分の外に見いだそうとしてしまう。

自分は自分だ、どっからどうしたって、生まれてから死ぬまで自分として生きていくしかないのだ。自分の外にでるわけにはいかない。ほかの誰かになることもできない。

人の生き方を見て、参考にするのはよいだろう。今の自分の状態を知るために、自分を客観的に理解するのは重要なことだ。自分は自分だと、周りを考えずに生きれば、ただの独りよがりの愚か者になってしまう。

しかし、自分以外のものになろうとするのも間違いだ。自分の性能は試してみないとわからない。ぎりぎりまで試してみて、自分の限界をしることによってしか、自分という性質はわからない。となれば、結局、痛い目に遭わなければ、屈辱的な目に遭わなければ、失敗しなければ、自分を知ることができないということだ。

自分の限界(つまり自分の現実)を知らずして、「これが自分だ」と簡単に決めるのも大きな間違いだ。その場合の自分は勝手に自分がイメージした自分でしかない。

自分を知るために自分らしくないことをする、自分を知るために自分の限界を超えるようなことをする、あるいは、自分を脅かす現実に巻き込まれる、それはそれで大切な経験なのだ。重要ことは、そこから学ぶこと、学ぶ姿勢である。

ともすると自分をかいかぶったり、おとしめたりしがちなのが人間の性だから。

やるだけやった。苦しむだけ苦しんだ。これでいいではないか、これが自分なんだから。それこそが本当の自分に出会うということなのだろう。

 

 


ゴロマキ権藤

2007年06月16日 | あしたのジョー

葉子に厳しい言葉を浴びせられても、ジョーのこころは行き場をうしない、歓楽街をさまよいつづけた。

そして、そこで見たのは、用心棒に落ちぶれたウルフ金串の姿だった。金の卵と将来を嘱望されていた、ウルフのアゴを砕き、再起不能にしたのはジョーである。用心棒仲間に、自分は紙一重で本当は勝っていた、もう一歩で世界チャンプになれたのに、ジョーという石っころにつまづいてしまったのだと、一生懸命話すウルフの話を気づかれないように、聞いているジョー。その姿に哀れみを感じていた。

そこに、ウルフにやられたヤクザが連れてきた用心棒、ゴロマキ権藤が現れる。自信満々でけんかを買ったウルフは、何でもありのゴロマキに簡単にやられてしまう。こともあろうに、ジョーに割られたアゴを再び砕かれたのだ。

それを見ていたジョーはたまらず、けんかの仲裁にはいる。これ以上ウルフに手を出したら俺が相手だと。下っ端のヤクザは、ジョーにけんかを売ろうとするが、権藤はすぐにそれをやめさせる。

「おめえらが10人束になってかかっても勝てる相手じゃねぇ」と。権藤は気づいていた、その男が矢吹ジョーだということを。

そして、自分は勝ち目のないけんかはしないという。ウルフには負ける気がしなかったというのだ。

やつの目はくさっていやがった。過去の華やかな思い出を振り返ることしか知らねえつまらねえ目をしていやがった。あの目をみて、負けねえとふんだのさ」という。

ならば、はっきり勝てるとわかった相手をなぜ、あれほどまでにたたきのめす必要があったのかとジョーに問われ

「ああいうタイプの人間がきらいなんでね。昔の華やかなりし思い出話と愚痴しかいえねえようなクズは・・・」

そう言いかけたところでジョーの怒りが爆発した。

「もう一言でもウルフのことを口にしてみやがれ。ぶっ殺すぜ」と権藤に殴りかかった。

タフが自慢のけんか屋権藤がジョーのパンチの前にはひとたまりもなく崩れていった。そして、倒れ際につぶやく

「す・・すばらしい。みごとなパンチだ・・・ほ・・本物だよ・・・。ボ・・ボクサーのパンチってやつあ、こうでなくっちゃ・・・いけ・・・ねえ・・・」

 

人の本質は目に現れる。「目は口ほどにものをいう」という言葉があるように。

目に意志や情が現れる。目に現れるのは、心の方向性だ。前を見ているのか、後ろを見ているのか、迷っていて前も後ろも見えなくなっているのか。また現実を見ているのか、夢を見ているのか、現実のような夢を見ているのか、夢のような現実を見ているのか・・

我々はあるものをありのままに見ているわけではない。心がニュートラルな時は、ありのままの現実が見えるだろう。しかし、通常、普通に日常を生きている間は、絶え間なく何らかの判断をしている。そうすると、何が起こるか。「見たいものしか見ていない」のだ。いやそうじゃないという人もいるだろう。「見たいもの」というのは自分の意志ではなく、そのときの自分の心理状態を反映したフィルターのことだ。

恐怖にさらされ、身の危険を感じているとしよう。すると、見えるものはすべて危険なものに見える。外から入ってくる情報が皆、危険なものかもしれないと思う。実は目の前には、自分の周りにはいつもと同じ情景があるだけだ。しかし、心が危険を感じれば、そのように感じるということだ。危険なものを見たいわけがない。だから見たいものを見ているのではないといいたいだろう。しかし、意志では見たくないと思っていても、おびえた無意識は過剰な防衛反応のため、物事の関連する危険な可能性の方を見つけようとする。

たとえば、車が走っている。それは普通に走っている車以外の何物でもない。しかし、恐怖にさいなまれていれば、その車がこっちにつっこんでくるように見えるということだ。

心は無意識に、いろいろなフィルターがかかっているわけだ。それは過敏であったり鈍感であったりする。そのフィルターは、過去や未来への捕らわれ、今の感情、過去の経験など様々なものに影響されている。だから、我々は同じものを見ているようなきがするが、実は何一つ同じものは見ていないわけだ。見えているものは同じだが、それにまとわりつくイメージが異なるのだ。

自分では何気ないつもりでも、自分が見ている目に、自分のすべてが反映されている。「目を見ればわかる」というのも、言い過ぎではない。正確に目を見ることができれば、その人の背景が透けて見えるだろう。しかし、その目を見ている自分の目もまた自分というフィルターがかかっていることを忘れてはいけない。


リングで死ぬ

2007年06月03日 | あしたのジョー

力石をリング上で死なせてしまったという十字架を背負い、ジョーは町をさまよう。段平は「もう明日はこねえのかと嘆く」西は「このままでは力石は犬死にだ」とハッパをかける。

しかし、ジョーの気持ちはどうにもならず、苦しみから解放されることはない。ぼろぼろになって、町をさまようジョーを、ドキュメンタリー調にえがこうと後をつけるマスコミ。意地悪いことに、夜な夜な白木葉子が現れるというクラブにジョーをさそう。そして、二人を対面させようという魂胆だ。そうとも知らず、誘い通りにジョーはクラブで葉子にあった。

葉子は、ぼろぼろに傷つき、リングに戻れなくなっているジョーを激しい言葉で挑発する。

 

「あなたは、ウルフ金串の顎をわり、再起不能にし、そして、力石徹を死に追いやった罪深きプロボクサーなのよ」と。

そして、追い打ちをかけるように、「あなたはふたりから借りが・・・神聖な負債があるはず」

はっきり自覚しなさい。ウルフ金串のためにも、力石君のためにも自分はリング上で死ぬべき人間なのだと」そうしないとゆるさないと言い捨てる。

それでもジョーは町をさまよい歩き続けたのだ。ある状況に遭遇するまで。

 

傷ついた人間にかける言葉は難しい。慰めもつもりが、より傷つけることになったり、励ましのつもりが、より追い詰めることがある。逆に、厳しさが気持ちを吹っ切るきっかけになることだってある。

この場合、「あなたはリングで死ぬべき人間、ボクシングをやめるなんてゆるさない」という言葉はどうなんだ。葉子自身が、大切な人間、力石を失って、空虚で自暴自棄な状態になっていたから思わず口にでてしまった言葉だ。

ジョーもそんな葉子の思いがわかるから、何の反論もせずに立ち去った。漫画の終盤でホセ・メンドーサとの試合を控えたジョーに、葉子はボクシングをやめてくれと懇願する。そのとき、ジョーは「リングの上で死ねといった本人の口から、よくそんな言葉がいえるな」という。ジョーはこの時は、スルーしたが、心にはずっとしこりになっていたのだ。

それは、ジョー自身が自分でも心のどこかで、そう思っていたからである。

人は、痛いところを突かれると、強い反応を起こす。場合によっては取り乱すこともある。自分では何とも思っていない言葉を言われても、人は傷つくことはない。人が傷つくのは、実はその言葉自身ではなく、自分の中で起こった心の反応に傷つくわけだ。傷つくということは、それは自分にとって重要なことだからだ。

傷つくことはつらく、苦しい。しかし、傷つくことを恐れることはない。傷つくことで人は成長するのだから。

 

 


ほんとうの友達

2007年05月24日 | あしたのジョー

力石の死のショックから、町に飛び出し、ジョーはさまよい歩いた。

自分の中にある力石への思いを反芻しながら・・

「おれが、もの心ついてからというもの・・・世の中のやつらはどいつもこいつも一歩隔てたところからしか おれに接しようとはしなかった。みなしごジョー、危険なジョー・・・無法者ジョー、野生のジョー、、けんか屋ジョー

段平のおっちゃんにとってさえ、しょせんおれは自分の見果てぬ夢を叶えさせる拳闘人形にすぎなかったのさ・・・

そこへ、あの力石が、力石徹だけが・・・

一人の男の持てるありったけをたたきつけて、一切欲得抜きで--この矢吹丈と肉と骨をぶっつけ合い、きしませ合って、短い期間だったがもつれあうように生きてきた。

力の限りに打ち合ったパンチは・・・しぶかせあった血煙は・・・

そんじょそこいらの百万語のべたついた友情ごっこにまさる、男と男の魂の語らいだった。

そうよ、友だちだったんだ、あいつは・・・本当の友だちだったんだ。

それを今になって・・・あいつを殺してしまった今になって気がつくなんて・・・な・・・なんてこった・・・!」

 

ジョーは反芻する、自分の中に去来する、熱い思いとむなしさを。人は失って初めて失った物の大切さを実感するとよくいわれる。

無くしてしまったから大切なものになる場合もある。どんなに大切だと思った友人関係、人間関係も年の積み重ねの中にすり減っていくものだ。しかし、失ってしまったものの輝きは、どれだけ月日が流れても変わることはない・・・いや、心がそこにとどまれば、より輝きを増すこともある。そして、その結果、過去を生きることになる。過去を生きれば今はない、どんな今であっても輝かしい過去の前にはくすんでしまうものだ。さらに、自分が過去を生きていることすら自覚されていない場合だってある。

どんなにつらく、さびしくても、過去に縛られてしまっては、前を向いて生きてはいけない。どんなに輝かしいものであっても、いつかはそれにさよならをいい、前に広がる心細い、先の見えない未来に向かって生きていくしかないのだ。

今というのは、後に気持ちを引っ張る過去と、先の見えない不安を伴う未来の間に、そこはかとなくたたずんでいる。ともすると見過ごしてしまうほどの一瞬の間隙に。それは、はかないが確かなものだ。もっともらしい、過去の記憶や、未来の予想にくらべて、何でもないように見えるが、それこそが何の邪念も許さない確かな実在だ。それを見過ごさないように生きるには、地に足を付け、目の前に見える世界を邪念なくしっかり見据え、今できることを一生懸命することだ。人生にとって大切なことは実はそれだけなのではないだろうか。


力石への思い

2007年05月19日 | あしたのジョー

ジョーは力石の葬儀に出席しなかった。それどころか、ドヤ街の子供達とふざけて戯れていた。それを見た、新聞記者たちはジョーの行動にあきれはて、白木ジムに気の毒で、記事にする気にもなれないと言って去っていった。

ジョーのはしゃぎっぷりは、あまりのショックに対する反動だった。やり場のない気持ちを紛らすために・・・。子供達とも別れ、一人になると言いようのない気持ちが襲ってきた。

少年院時代からの出来事を反芻し、「のろい殺してやる・・・とまで、うらみ続けてきた力石が、いざ、おれの手にかかって死なれてみると・・・・これほどまでに慕わしい存在に思えてくるなんて---

いったいおれは・・・おれの頭ん中はどうなっちまってるんだ」そうつぶやき、雪の降る中ブランコにたたずむジョー。

段平と西がなぐさめるが、

「頭だけじゃねえ。腹も胸も、手も足も、体中にでけえ穴があいてて、風がひゅうひゅう音とたてて通り抜けるのさ。

むなしくって、むなしくって・・・・どうしていいかわからねえんだ」

俺を一人にしてくれと叫んで、街の中にかけていった。

 

ジョーは愛をしらず、人を信じることもなく、友もなく、不遇な人生を生きてきた。それを跳ね返すかのように、無鉄砲に生きてきた。野生児、無法者と呼ばれ、恐れられ、嫌われ、さげすまれ、生きてきた。

人の情をしらず、むしろそれを感じないように生きてきた。それが拳闘を初め、人に慕われる喜びを知り、認められる喜びをしった。ジョーにとって拳闘との関わりは、人生そのものであったのだ。拳闘を通して、それまで体験できなかった人生をきざんできた。

よいことばかりではすまない。そして、今、ついにジョーは大切な者との別れを経験してしまった。しかも、その死に自分自身か関与する形で・・

自分でも予想していなかった、思いもよらなかった感情に直面することになったのだ。

人は生きるプロセスで、様々な感情体験をする。よいこと悪いこと、うれしいこと屈辱的なこと、楽しいこと耐え難いこと、勝利と敗北、高揚と罪悪感、両極の感情を体験し揺れ動きながら心は成長していくのだ。

それはスムーズな道のりではない。時として、予期せぬ、耐え難い感情に出くわした時、人は心のバランスをくずす。今までの人生がはかなく崩れ去り、何をどうしたらよいのか分からなくなる・・・

そして、その暗闇の底をうごめき、ゆっくり手探りで、そこからはい上がった時、人は一回り成長するのだ。しかし、そこからはい上がれる保証はない。いつでられるのかもわからない。

肉体のダメージなら休んでいれば回復するだろう、心のダメージは何をどうすればよいのか分からないものだ。何をしても裏目にでることもある。そんなとき、大切なことは何か・・・無理にはい上がろうとしないことだろう。最も大切な要素は、時の流れである。時の流れはすべてを流していってくれる。それまでの間、何もしないことがもっともよい事である場合もある。いや、その方が多いだろう。