イエズス・キリストは王である。
イエズス・キリストのみが王である。ミサの時に私たちは、こう歌う。Tu solus sanctus,Tu solus Dominus, Tu solus altissimus Jesu Christe!御身のみ聖なり、御身のみ主なり、御身のみいと高きものなり、イエズス・キリストよ、と。
我々は真の天主・真の人なるイエズス・キリストにのみ光栄を帰すべきである。イエズス・キリストが『我ありEgo sum』として唯一保持するその光栄をイエズスから奪い、人を天主であるかのごとく、王であるかのごとく、全宇宙の支配者であるかのごとく、また自分自身の主であるかのごとく、人に栄光を帰すべきではない。聖書は天主のみ聖なるかな聖なるかな聖なるかな!と言う。
聖書はまず天主こそが王であると言う。天主なる御父は常に聖なるお方であり、主であり、すべての師である。天主なる御父は王であり、父である。
そして天主イエズス・キリストの御国であるカトリック教会は、終わることがない。CUJUS REGNI NON ERIT FINIS. 私たちの主は、世の終わりまでこの教会とともにいることを約束して下さった。たとえ奥村一郎神父様が「キリスト教は自然消滅でしょう」と考えて、疑問に思い、「これは今でも私にとって、禅で言う『大疑団』です」と言ったとしても、たとえ故松下幸之助さんががっかりしたとしても、(以上、カトリック新聞1999年12月19日の4面を参照)キリスト教は、真の天主のうち立てた宗教であるから、永遠である。これは正しいことであり、真理だ。
この世は過ぎ去るが、私の言葉は過ぎ去らない、と主は言われた。
そして、イエズス・キリストのこの普遍の王権を認めないとき、イエズス・キリストが天主であることを認めず、信じないとき、この人たちは「キリストを自分の持ち物のように、小さくしてしまっている…まるで1つのグループの長であるかのように」。もしそのことをイエズス・キリスト様に申し訳ないと思うのなら、主をまことの天主として、信じ礼拝しなければならない。
旧約の予言者と聖書記者が語るのは来るべき天主の王国についてである。旧約時代の、天主自信が認めたサウルと、天主ご自身の選ばれたダヴィドを除けば天主の前に立つことのできる王はない。(新約において、イエズス・キリストの唯一の花嫁である教会が聖別した王を除けば、天主の前にたちうる王はない。)そして、このダヴィドの血筋から王の王、主の主、永遠不変の王国を約束されたメシア、ダヴィドの子、天主の子、イエズス・キリストが現れたもう。天主なる御子はこの2重の親子関係によって、諸国の支配を約束されたイスラエルの王である。
イエズスの以前のすべての予言者と、イエズスが後継者と選ばれた使徒たちは僕である。しかし、彼らはイエズスの来るべき王国の光栄と権勢とを与かるものと約束された。
イエズスが天主であることを信ずるものはその信仰によって洗礼を受け、イエズスの司祭職・その予言職・その王国に与かることができるようになる。そして養子により天主の子として呼ばれそうなるのである。こうして、信者はイエズスがその頭であるキリストの神秘体の肢体となる。
そして、羊飼いは、天使のメッセージを聞いて信じた。イエズス・キリストをまことの救い主、天主として、王の王として礼拝した。
イエズス・キリストのみが王である。ミサの時に私たちは、こう歌う。Tu solus sanctus,Tu solus Dominus, Tu solus altissimus Jesu Christe!御身のみ聖なり、御身のみ主なり、御身のみいと高きものなり、イエズス・キリストよ、と。
我々は真の天主・真の人なるイエズス・キリストにのみ光栄を帰すべきである。イエズス・キリストが『我ありEgo sum』として唯一保持するその光栄をイエズスから奪い、人を天主であるかのごとく、王であるかのごとく、全宇宙の支配者であるかのごとく、また自分自身の主であるかのごとく、人に栄光を帰すべきではない。聖書は天主のみ聖なるかな聖なるかな聖なるかな!と言う。
聖書はまず天主こそが王であると言う。天主なる御父は常に聖なるお方であり、主であり、すべての師である。天主なる御父は王であり、父である。
そして天主イエズス・キリストの御国であるカトリック教会は、終わることがない。CUJUS REGNI NON ERIT FINIS. 私たちの主は、世の終わりまでこの教会とともにいることを約束して下さった。たとえ奥村一郎神父様が「キリスト教は自然消滅でしょう」と考えて、疑問に思い、「これは今でも私にとって、禅で言う『大疑団』です」と言ったとしても、たとえ故松下幸之助さんががっかりしたとしても、(以上、カトリック新聞1999年12月19日の4面を参照)キリスト教は、真の天主のうち立てた宗教であるから、永遠である。これは正しいことであり、真理だ。
この世は過ぎ去るが、私の言葉は過ぎ去らない、と主は言われた。
そして、イエズス・キリストのこの普遍の王権を認めないとき、イエズス・キリストが天主であることを認めず、信じないとき、この人たちは「キリストを自分の持ち物のように、小さくしてしまっている…まるで1つのグループの長であるかのように」。もしそのことをイエズス・キリスト様に申し訳ないと思うのなら、主をまことの天主として、信じ礼拝しなければならない。
旧約の予言者と聖書記者が語るのは来るべき天主の王国についてである。旧約時代の、天主自信が認めたサウルと、天主ご自身の選ばれたダヴィドを除けば天主の前に立つことのできる王はない。(新約において、イエズス・キリストの唯一の花嫁である教会が聖別した王を除けば、天主の前にたちうる王はない。)そして、このダヴィドの血筋から王の王、主の主、永遠不変の王国を約束されたメシア、ダヴィドの子、天主の子、イエズス・キリストが現れたもう。天主なる御子はこの2重の親子関係によって、諸国の支配を約束されたイスラエルの王である。
イエズスの以前のすべての予言者と、イエズスが後継者と選ばれた使徒たちは僕である。しかし、彼らはイエズスの来るべき王国の光栄と権勢とを与かるものと約束された。
イエズスが天主であることを信ずるものはその信仰によって洗礼を受け、イエズスの司祭職・その予言職・その王国に与かることができるようになる。そして養子により天主の子として呼ばれそうなるのである。こうして、信者はイエズスがその頭であるキリストの神秘体の肢体となる。
そして、羊飼いは、天使のメッセージを聞いて信じた。イエズス・キリストをまことの救い主、天主として、王の王として礼拝した。