人はすべて王ではない
イエズス・キリストはその福音の中で一度も人を王だ、とか超越している、聖である、と言われたことはなかった。
イエズスが地上に来たのは一般人間の哲学的、道徳的、政治的な素晴らしさ・優秀性を説くためではなかった。人間のペルソナの超越的性格を証明するためでもなかった。本当のキリスト信者はそのようなことを、そのようなウソを、そのような冒涜を、そのような不敬虔を決して認め得ないであろう。
イエズスは人間の尊厳を守るために十字架に付けられたのでもなければ、人間の主権を宣言するために死なれたのでもない。イエズスは人間の超越性とその不可侵犯性を守りに人となったのでもない。イエズスは人類教の殉教者ではない。
わたしたちは、この人間への信仰も、人間の崇敬(Cult of Man)も、人間のための人間による人間の奉仕も持ち合わせていない。
「人により頼み、肉を自分の腕とし、その心を主から遠ざけるものは呪われる。(エレミア17・5) 個人個人どんな人間でも王であり、王でなければならない、と言うのはイエズスの教えではない。それは、無政府状態への、しかも無制限の無秩序への反乱の原理である。
(王としてのイエズス:2)
イエズス・キリストはその福音の中で一度も人を王だ、とか超越している、聖である、と言われたことはなかった。
イエズスが地上に来たのは一般人間の哲学的、道徳的、政治的な素晴らしさ・優秀性を説くためではなかった。人間のペルソナの超越的性格を証明するためでもなかった。本当のキリスト信者はそのようなことを、そのようなウソを、そのような冒涜を、そのような不敬虔を決して認め得ないであろう。
イエズスは人間の尊厳を守るために十字架に付けられたのでもなければ、人間の主権を宣言するために死なれたのでもない。イエズスは人間の超越性とその不可侵犯性を守りに人となったのでもない。イエズスは人類教の殉教者ではない。
わたしたちは、この人間への信仰も、人間の崇敬(Cult of Man)も、人間のための人間による人間の奉仕も持ち合わせていない。
「人により頼み、肉を自分の腕とし、その心を主から遠ざけるものは呪われる。(エレミア17・5) 個人個人どんな人間でも王であり、王でなければならない、と言うのはイエズスの教えではない。それは、無政府状態への、しかも無制限の無秩序への反乱の原理である。
(王としてのイエズス:2)