聖ピオ十世会 Society of Saint Pius X

キリストは勝利し給う、キリストは統治し給う、キリストは命じ給う

新しい「ミサ司式」の批判的研究 ー 8結論

2017-01-20 13:48:19 | ミサについて
8結論 

 使徒座憲章も述べているとおり、聖ピオ5世はカトリック信者の間の一致を作るための道具としてローマ・ミサ典書を作った。トレント公会議の命令に従って、その当時プロテスタントの反乱によって脅かされていた典礼的礼拝あるいは信仰それ自体に対しての危険を全て排除するためのミサ典書であった。全く正当化されうる重大事態そしてさらに預言的でさえもあることには、聖ピオ5世は1570年このミサ典書を発布する勅書の最後にこう荘厳な警告を与えた。
「もし誰であれ、このミサ典書を勝手に変更しようとあえてするものがあるとするならば、彼は全能の天主の御怒りと主の聖なる使徒聖ペトロと聖パウロの怒りとを自分の上に呼び起こすものであると言うことを良く知るが良い130。」
 「新しい司式」がバチカン報道局に提出されたとき、トリエント公会議が述べていた[ミサを変えるのを禁止する]様々な理由はもはや存在しなくなったと、全く不賢明なことさえ言っていた。トリエント公会議のこれらの勅令は、今日でもまだ適応するばかりでなく、それらの勅令を存在するに至らしめた条件が今日ではさらに非常に悪化して存在している。教会が天主の息吹を受けて、教会の防御としてドグマ上の定義や教義上の声明を出したのは、まさに信仰の純粋な遺産を脅かす、いつの時代にもある罠を追撃するためであった131。これらの教義上の定義や宣言は典礼によって守られると共に教会の典礼に影響を与えた。そして典礼は教会の信仰の最も完璧な記念碑となったのである。この礼拝をキリスト教の古代の実践へと戻し、古代にあった原初の自発性を人工的に再構成しよう、という試みはピオ12世があれほど声を高めて排斥した「不健康な考古学主義132」に身を投じることである。さらに言えばそのような試みは典礼様式の保護のために建てられた神学的防御の壁を全て崩し、過去数世紀の長きに亘って典礼を豊かにしてきた全ての美しさを取り除いてしまうことである133。しかもこれら全てが教会の歴史に於いて最も危機的な時(たとえそれが最高の危機を迎える時でなかったとしても)の一つである今なされるとは!

 今日、教会の外だけでなく教会の中に於いてでさえ分裂と離教が公に認められている134。教会の一致はただ単に脅かされているだけではない。教会の一致は既に悲劇的にも蝕まれている135。信仰に反する誤謬はただ単に暗示されているだけではない。謬説は典礼的乱用と逸脱を通して今では公に認められ強制的に押しつけられている。136

 過去4世紀に亘って典礼における一致の印と保証として立ち止まった典礼の伝統を打ち捨てることは、そしてこの典礼を別の典礼で取り替えることは、しかも、それが暗に許可する無数の自由のために、分裂の印以外の何にもなり得ない別の典礼、カトリック信仰の完全性に反する暗示や明らかな誤謬を多く含む典礼によって取り替えることは、われわれは良心上はっきりこう言わなければならないが、はかり知ることの出来ない誤りである。

御聖体の祝日に 1969年6月5日


130 "Si quis autem hoc attentare praesumpserit, indignationem Omnipotentis Dei ac beatorum Petri et Pauli Apostolorum eius se noverit incursurum."
原注27: トレント公会議第23総会に於いて(御聖体についての教令に於いて)その宣言の目的をこう定義した。「御聖体の使用と礼拝についての信仰の教えに於いて、この宿命的な時代に於いて敵がまいた排斥されうる誤謬と離教の毒麦を完全に根こそぎにするため。主は御聖体によって全てのキリスト者を一つにまとめ結びつけようと望まれ、我らの主はご自分の教会に一致と愛との象徴として御聖体を残された。」(DB.873)
131 ティモテオへの第一の手紙6:20「おまえに委ねられたものを守れ。新奇な言葉に惑わされるな。」
132 原注28: ピオ12世回勅『メディアートル・デイ』1. §3には、こうある。
「心と魂によって、教会の典礼の起源にまでさかのぼることは、賢明なこと、ほむべきことである。典礼の研究、特にその起源の研究によって、祝日の意味や、用いられる式文の意味、教会の儀式の意味をより深くより正確に知ることが出来る。これに反して、何が何でも全てを古代の状況に戻そうとするのは、賢明でもないし、賞賛すべきことでもない。例えば、祭壇のもとの形を復興しようとしてテーブルのこれに変えようとするもの、祭服には決して黒色を用いないと言う人々、聖画や聖像を聖堂から取り除こうと言う人々、救い主がお受けになった激しい苦難を表さないような十字架を要求する人々、そして使徒座から与えられた規定に合っているのに混声音楽を非難したり否定したりする人々は、正しい道から外れている。…このような思想や態度は、非合法なピストイアの教会会議があおり立てた不健全な考古学主義を復興させようとするものであり、またそれは、この会議を不法なものとし、人々の霊魂に大きな害を与えた種々の誤謬を復古しようとするものである。天主である創立者から委ねられた「信仰の遺産」の常に忠実な守護者である教会は、当然のことながらそれを否定した。」
 ここで、ピオ12世は、1794年8月28日ピオ6世が発布した使徒憲章Auctorem Fideiを参照させている。たとえば、
(33)「ピストイア会議は、典礼に関する諸原則の一部を忘れてきた原因を除くために、『儀式の簡素化、自国語による典礼、声高く唱えること』を望んでいる。こうして、教会によって認められている現行の典礼は、諸原則の一部を忘れたことから導入されたかのように主張している。…この命題は軽率、信心深いものを傷つけ、教会を傷つけ、教会を攻撃する異端者を助長する。」(DS2633)
また、(66)には、「『信徒が全教会と声を合わすようにしなければ、それは使徒自体の実践と天主の勧めに反することである』と主張することは、すなわち、典礼上の祈祷に国語の使用を取り入れようとすることは、誤りであり、軽率であり、諸秘義の執行の秩序を乱すものであり、数多くの悪弊を導入するものである」とある。
133 原注29: パウロ6世回勅『エクレジアム・スアム』1964年4月3日
134 原注30: パウロ6世、1969年4月3日聖木曜日の説教「実際上離教的なパン種が、教会を分裂させ、分断し、粉々にしています。」
135 原注31: パウロ6世、同じく、1969年4月3日聖木曜日の説教「私たちが今読んだばかりのコリント人への第1の手紙の中で聖パウロが優しく告発しているこの離教とこの分裂が私たちの中にもあるのです。」
136 原注32: 第2バチカン公会議について、よく知られた事実が、現在、自ら自分がその教父であったと自慢している人たちがこの公会議を否定していることである。彼らは公会議の内容を「爆発させよう」と決心して公会議を終えて帰路についた人たちである。反対に、教皇聖下は閉会の時に、この公会議はいかなる変化をも導入しなかった、と宣言された。不幸なことに聖座は、「聖なる典礼に関する憲章の実行のための委員会」を仲介にして、説明の出来ないほどの早さで、公会議の文章に不忠実であることを(しかもこの不忠実さは日増しに増加ばかりするのであるが)許し、しかも推奨している。この不忠実さは、見かけ上はただ単に形式的なものに過ぎない変更(ラテン語、グレゴリオ聖歌、尊敬を払うべき典礼様式、等々)から信仰の実体に触れさえする様々な変更にまで至っている。私たちがこの研究によって明らかにしようとした恐るべき結果は、また更に心理学上より劇的に、規律の部門において、またキリスト教会の教導権の分野において、影響を及ぼしており、それと同時に、聖座が持つ名誉ある地位とこれに払わなければならない従順とを揺るがしてしまっている。


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