聖ピオ十世会 Society of Saint Pius X

キリストは勝利し給う、キリストは統治し給う、キリストは命じ給う

10 印と不思議

2017-03-05 23:59:42 | 聖母マリアとその出現について
10 印と不思議

 メデュゴリエの「奇跡」は数多いがいつも奇妙奇天烈で、疑問を抱かせるものです。

1981年6月にはヴィッカはトラクターの道具箱の中に「天からの神秘のロザリオ」を見つけました。1981年8月2日には、150人が新しい太陽のダンスを見ました。ある晩には、「地が裂けるかのような」ものすごい轟音が聞こえました。また別の機会には、地の下からゴスパが出て来るようなシルエットを人々は見ています。

9 謙遜の雰囲気(霊の識別:3-9)

2017-03-04 23:27:27 | 聖母マリアとその出現について
第3部メジュゴリエ・続(霊の識別:3-9)

9 謙遜の雰囲気

 謙遜は全ての天主からのものの印です。

 ヴィッカは、50回目の出現から、1万5千人もの人が既に出現地に来るようになったことを語っています。ブバロ師はこう尋ねました。「はい、でもどうやってそこまでになったのでしょうか?聖母はあの国この国と現れましたが、聖母を見ようとそんなにも人は集まりませんでした。」

 ヴィッカは答えます。「ここはメデュゴリエです!ここには、聖母は特別な仕方でお現れになるのです。聖母は、以前どこでもこのようなことをなさいませんでしたし、将来もなさることがないでしょう。ゴスパはそのことを何度も言いました。」

 実に、メデュゴリエのゴスパははっきりこう言いました。

「私は世界を回心へと呼びかけに来ましたが、これで最後です。何故なら、私はもはや地上に現れることはないでしょうから。」(ゴスパは、地上における最後の御出現だと言いました。)

 1985年の聖木曜日にはゴスパは幻視者たちにこう宣言します。「・・・私は、世の始まり以来、歴史上かつて存在したことのない方法で、あなた達にメッセージを与えようと望みます。私の呼びかけに答えてくれて有り難う。」

 メデュゴリエのカリスマ運動の出現は、自分のことを謙遜に、イエズスの聖心の御出現されたパレ・ル・モニアルよりも、リュ・ド・バックの御出現よりも、ルルドよりも、ファチマよりも、新約・旧約時代の天主の御出現よりも、遙かに上回る大出現だと位置づけるのです。メデュゴリエの出現こそ、この世の始まり以来、かつて無く、今後も無いほどの、最高の御出現であるというのです。謙遜にも!

8 癒し(霊の識別:3-8)

2017-03-04 23:26:25 | 聖母マリアとその出現について
第3部メジュゴリエ・続(霊の識別:3-8)

8 癒し

 このことについては、2つの質問を出さねばなりません。

1)メデュゴリエで正真正銘の癒しが生じたか。

2)出現によって或る病の癒しが約束された場合、その癒しが本当に生じたか。

 モスタールの司教であるザニッチ司教によって強調されたのは、この第2の点でした。そしてそれは全く正しい判断です。もし御出現がある病の癒しを約束したにもかかわらず、それが治らなかったとしますと、出現は約束を破ったことになります。これは、この出現が聖母からのものではなかったと言うことの証拠になります。

 ザニッチ司教はそのレポートの中でメデュゴリエの聖母が癒しを約束した5つの件をあげています。しかし、聖母から癒されると約束された彼らは、その後数週間か数ヶ月で、全員死んでいます!

 ヴィッカの証言はこれに関して矛盾だらけです。ヴィッカはブバロ師と対話します。

「私は、聖母が時々何らかの癒しを預言されたことがあったかどうかを知りたいのですけれど。」

「決してありません。私の知る限り。ゴスパはいつも信仰、祈り、天主のみ旨への依託、において堅忍すること、それだけを勧めます。」

「幼いダニエル・セッカ君の件はそれでも少し奇妙だな。カセットに録音された内容によると誰か[つまり、ゴスパの言葉を伝達した幻視者の一人]が、直ぐに、『彼は治るでしょう』と何も条件も付けずに言いました。」

「でも、動揺の中で、誰が全てを考えることが出来たでしょうか。[大切なのは全てを考えることではなく、出現が言ったことをそのまま正確に繰り返すことなのに!]そう話した人は[一体どの幻視者の話をしているのでしょうか?]聖母がダニエルの両親に生ける信仰、祈り、断食を求めていたことを良く知っていました。しかし、彼がそれを大きな声で言わなかったというのはあり得ることです。[こうしてまんまと責任回避!]」

「もう一度言いますが、あなたは聖母が全く無条件にある一人の男の子の癒しを約束されたと私に言いましたね。」

「誰の話ですか?私は覚えていません。」

「膝の上で足を切断した男の子です。そして、聖母は『約束の印が明らかにされた後で、無条件に聖母が彼をいやす』と告げられたのでしょう。」

「ああ、そう。そうそう。聖母はその時多くの癒しを約束されました・・・」(Babulo)

 メデュゴリエでは、明白で、無条件の癒しの約束が多くあるのです。ザニッチ司教がそれらの約束が守られたかどうかよく調べることを主張するのは、理にかなっているのです。

 ロランタン師はディアラ・バシレと言う女性がいやされたことをリポートしています。しかし、彼女は「内的に熱いものを感じて」癒され、これは、ペンテコステ運動の癒しと共通します。メデュゴリエを動かす霊とペンテコステ運動の霊は全く同じ霊なのです。

7 脱魂(霊の識別:3-7)

2017-03-04 23:24:46 | 聖母マリアとその出現について
第3部メジュゴリエ・続(霊の識別:3-7)

7 脱魂

 ブルディエの『偽りの神秘家と偽りの予言者の識別』と言う本には、感覚が無くなることは天主からの脱魂と、悪魔からのものとのどちらでも起こりうるとあります。

 重要なことは、脱魂中に彼らが見、聞き、観想したその内容です。天主からの本当の脱魂は、常に霊魂を高め、天主の崇高な玄義に関する知識を享受させます。天主からの脱魂により、霊魂は天主への愛をいや増し、特異な方法でその霊魂の美徳を増加させます。脱魂は、いわば知性にとっては光、心にとっては燃ゆる火となります。

 メデュゴリエでは、彼らの「脱魂」中には、幻視者は自分たちの見たことを語ります。しかし、天主の御母には全く相応しくない話、堪えることの出来ないほどの平凡な内容、全く幼稚な内容に私たちは、とまどいを感じます。

 ヤコブはその脱魂中に、何度も、自分のゴスパにする質問によって、あるいは、自分がゴスパに答えるその返事によって、その他の幻視者たちを笑いに導きました。

 例えばある日、ヤコブはゴスパにディナモ・チーム(ザグレブの有名なサッカー・クラブ)が今度優勝するかを聞いた。この質問の後に、脱魂中の他の幻視者たちは、いきなり大爆笑を始めました。そんな下らないことを聞いたら誰でも笑ってしまうでしょう。

 更に驚くべきことは、1982年4月3日、ヴィッカはザニッチ司教にこう話しています。この内容は録音されて保存されています。それによると、ゴスパ自身が爆笑したそうです。

「ゴスパはこの『ヘルツェゴビナ問題』について話しました。そして、彼女は爆笑しました。彼女はそれから、ご自分だけが全てを解決しただろうと付け加えました。私は一体それが何の話なのか全く分かりませんでした。それで、私は笑い始めました。するとヤコブと私はばか笑いをしたのです。人は私たちに尋ねました。『何で笑っているのか?』私たちは、ゴスパが私たちに笑えと言ったので私たちは笑っていたのだと答えます。」

 エルゼゴビナの教会を現代引き裂くこの最も悲しい紛争について、どうして幻視者たちは爆笑し、聖母自身も爆笑できたのでしょうか?

 更に、「血で汚れたハンカチ」の話があります。ザニッチ司教は1984年10月30日付のレポートで、このことを述べています。ヴィッカはこのことをブバロ師にも話しました。ヴィッカによると、メデュゴリエの近辺のあるタクシーのドライバーが道である貧しい男と会ったと言っていました。この人は、(直ぐ後で私たちは、これがイエズス様だったと知らされるのですが)血の付いた一枚のハンカチをこのドライバーにあげ、水を見たら直ぐにその中にこのハンカチを捨てるようにと頼みました。「必ずそうしろよ!」と彼は言いました。しかし、道すがら、この運転手は黒い服を着た婦人と会い、彼女はこのハンカチを下さいと言いました。「この運転手はためらいましたが、彼女は脅迫しました。そこで、彼はこの婦人にハンカチを渡します。そして、その婦人は(聖母マリア様だったそうだ!)この運転手に、もし彼女にこのハンカチを渡さなかったら、大きな不幸が起こっていたことだろう、と言いました。世の終わり、何かこのようなことが。」

 この馬鹿話を、このちょっと頭のおかしい人がする話を、カプリィナの近くのタクシーの運転手が話したこのつまらない話を、メデュゴリエの聖母は正真正銘の話だったと保証しているのです!

 ブバロ師にヴィッカはこう言います。

「誰かが私たちに、このことが本当に起こったことなのかどうかを聖母に尋ねて欲しいと私たちに願いました。」

「それで、あなた達はそれを尋ねたのですね。」

「はい。」

「聖母はなんと答えましたか。」

「ゴスパは、ことはほとんどそのように本当に起こった、と言いました。そして、その男の人は聖子で、婦人が自分自身でしたと。」(Bubalo)

 あまりにも奇天烈で、あまりにも内容が常軌を逸脱していますので、私たちは、何らのコメントをする必要も感じません。その気力さえなくなります!

 ヴィッカとヤコブがゴスパに連れられて天国、煉獄、地獄を見せられる話もあります。ブバロ師にヴィッカは話しました。場所はヤコブの家で、ヴィッカはヤコブと共にいました。ゴスパは彼らに出現します。

「ゴスパは私たちに言いました。『イエズスは賛美されさせ給え!』彼女は私たちを天国へ連れていこうと言いました。」

 天国へ連れて行かれる!二人の幻視者たちの反応はどうだったのでしょうか?嬉しさに満ちあふれたでしょうか?いや。「私たちは恐ろしかったのです。ヤコブは泣き叫び始めました[ソノママ]。彼は、お母さんには自分しかいない、僕は行けない、私[ヴィッカ]だけが行くようにと。」

「それで聖母は?」

「ゴスパは何も言いませんでした。私たちはまだ跪いていました。ゴスパは私たち二人の間に来て顔を私たちの方に向けました。ゴスパは私たちを手で取り、私たちを上に持ち上げました。」

「家の中でね?」

「そうですとも。天井を貫いて、高く。家は消えて、私たちは離れ始めました。」

「どこへ?」

「知りません。私たちは高いところに登っていたように思えます。」

「怖かったですか。」

「ねえ、考えても見て下さい。私たちはそんなことを考えている余裕もなかったのです。私たちは直ぐに天国に着きました。」

「まだ地球は見えましたか。」

「私たちが上に上がると同時にそれは消えました。」

「誰がそれが天国だと言ったのですか。」

「私に何を言って欲しいと思っているのですか。後で聖書を読みながら、聖パウロの一節を見ました。『人の目がまだ見ず、人の耳がまだ聞いたことのないもの』と。パウロは全て言っています。」

「いつ、それから何故、聖母はそれをあなたに見せたのか言って下さい。」

「さっきこれを表現する言葉がないと言ったばかりです。これは畏れるべきで、言葉になりません。全ては素晴らしい光に包まれ、人々、花々、天使たち。全ては言うことの出来ない喜びに満たされ、・・・私の心はそれを見て止まりそうでした。」

「あなたは門のことを話したとそうですが。」

「聖母とともに私たちがいたところには、門の付いている廊下のようなものがありました。この門の前には一人の人が立っていました。[別のところでヴィッカはこの人が聖ペトロであると言っている!!]聖母は全ての人が入れるわけではないと言いました。ここにも、何らかの通行証のようなものが必要です。誰も必ずこの廊下を通らなければなりません。」

6 出現に対する聖職者の態度(霊の識別:3-6)

2017-03-03 23:59:08 | 聖母マリアとその出現について
第3部メジュゴリエ・続(霊の識別:3-6)

6 出現に対する聖職者の態度

 メデュゴリエの主任司祭であったヨゾ・ゾブコJozo Zovko神父は、カリスマ運動の活動的なメンバーの一人でした。彼はあまりにも早く、そして少しあまりにも近くで出現と関わっていると非難を受けました。このような疑問は全く当然のものでした。しかし、彼の嫌疑を晴らすために、やはりカリスマ運動の一員であった、クラリェビッチ師は「その当時は、彼は教区に着任したばかりで、自分の教区信者を知る機会がまだ無かった」と書いています。ロランタン師も疑いを晴らそうと「ゾブコ修道士は、最初の出現の幾日か前に主任司祭として任命を受け、まだ教区のことを良く知りませんでした。そして全ての子供たちを知らなかった」と言います。

 ロランタン師の言う「幾日か前」とは、一体何日のことでしょうか?クラリェビッチ師の言う「教区に到着したばかり」とは、到着して、1週間の後のことでしょうか。それとも、2週間のことでしょうか。1ヶ月でしょうか?いいや、違う!ゾブコ師はメデュゴリエの主任司祭となって、既に9ヶ月を経ていたのだ!ロランタン師も、クラリェビッチ師もこれを隠すのです。

 将来幻視者となるべき青年たちは、実はその年、別の司祭の元で「宗教教育」を受けていました。ロランタン師はこのようなことを注意深く隠します。何故、ロランタン師はヴラシッチ師が幻視者たちの元でほとんど直接に働きかけていた役割を隠し、私たちを騙そうとするのでしょうか?このカリスマ運動をしているフランシスコ会士、ヴラシッチ師は、既に出現のまえから彼らを知っていたではないでしょうか?私たちはそのことを既に良く知っています。何故、彼が「ずっと後になって」メデュゴリエに到着したと信じ込ませようとするのでしょうか。

 ゾブコ師は、既に4日目に幻視者たちにゴスパが何か教区のフランシスコ会士たちのためのメッセージがないかと尋ねさせています。既に、7月2日には、ゾブコ師の要求で、ヴィッカとヤコブは教区の教会の中で「出現」の話をしています。そして、ゾブコ師は既に信者たちにこの出現が超自然のものであることを保証しています。教会の全歴史の中で、聖職者が出現についてこれ程まであわてて好意的になったというのは見たことがありません。これはよい印ではありません。