聖ピオ十世会 Society of Saint Pius X

キリストは勝利し給う、キリストは統治し給う、キリストは命じ給う

新しい「ミサ司式」の批判的研究 ー 4いけにえの本質

2017-01-19 20:45:22 | ミサについて
4いけにえの本質 

 ではここでいけにえの本質について見てみよう。
 十字架の神秘について、新しい式次第での中では、もはや明らかに表現されていない。それは、ただひっそりと、ベールを被せられているようであり、もはや人々には気がつくことができない40。それは次の理由からである。

1)「感謝の祈り(奉献文)41」に与えられた意味
「新しい式次第」の中でいわゆる「奉献文」というものの意味をこう言っている。「この祈りの意義は、信者の集まり全体が神の偉大な業を宣言し、いけにえを奉献することによって、自らをキリストに結び合わせることにある(54番終わり)。42」
 しかし、ミサ総則の中では、何の犠牲について言及しているのか?だれが奉献するのか?という質問には一切答えていない。「奉献文」の定義は全体でこうである。
「ここで、祭儀全体の中心であり頂点である感謝の祈り(奉献文)、すなわち、感謝と聖化の祈りが始まる(54番初め)。43」
 こうして(感謝や聖化という)結果が、原因に取って代わってしまっている。そして原因についてはだだの一言も言及がない。
 何を奉献するかを明確に述べた祈りは"suscipe44"の祈りの中にあったのだが、それは廃止され、それに代わる奉献の内容を明確にする祈りは全くない。この祈りの内容の変化は教義における変化を示している。

2)キリストの聖体における現存が、もはやその中心から閉め出されてしまっている
 いけにえに関することをこのようにはっきり表現しないことの理由は、以前の聖体祭儀においてあれほど素晴らしく中心を占めていたキリストの聖体における現存が、もはやその中心から閉め出されてしまっているからである。キリストの聖体における現存について述べられるところがただ一つだけある。それはトレント公会議の引用文であり、脚注に小さく載っているだけだ。しかもそれの文脈は「養い45」という食事に関することである(241番注63)
 キリストの、御体、御血、御霊魂、天主性の現実の常なる現存が全実質変化後の形色にあることは決して暗示さえされていない。全実質変化という言葉そのものさえも完全に無視されている。

 聖三位一体の第3のペルソナに対する祈り(Veni Sanctificator46)は、聖霊がかつて童貞女聖マリアのご胎内に降られたように捧げものの上に降り、そこで天主の現存の奇跡を起こさせることを祈るものであった。しかし、この祈りの省略は、暗黙のうちの否定というこのシステムの中に書かれており、主の御聖体における実際の現存と結びつく劣化である。

 主が御聖体において実際に現存しておられると言う信仰をそれによって自然に表明していた動作や習慣を、ことごとく廃止させたり変化させることに気づかないわけにはいかない。新しい式次第は、以下に挙げることを取り除いた。
* 片膝をつく礼拝(司祭はわずかに3回しか跪かない。会衆はいくつかの例外を除いて聖変化の時に1度跪くのみである。47)
*司祭の指をカリスの中で清めること
*聖変化後の司祭の指が聖体以外のものに触れないように指を守ること
* 聖器具(カリスやチボリウム)の清め(この清めは聖体拝領直後でなく後でしても良くなり、また、コルポラーレの外で行っても良くなった。)
*カリスを保護するパラを使うこと48
*聖器具の内側を塗金すること49
*可動祭壇を聖別すること50
* 「儀式が聖堂内で行われない時」には(この区別を付けることは直接に個人の家での「感謝の晩餐」に結びつく)、可動祭壇の中に、或いは「食卓51」の上に、聖別された祭壇石と聖遺物を置くこと52
*3枚の祭壇の布(これは1枚に減らされた。)53
* 跪いての感謝の祈り(このかわりに司祭も信者も座って感謝することになったが、これは見るに耐えない54。この座ったままでの感謝の祈りは「立ったままでの聖体拝領」の結末に来るものであり、常軌を逸したことであると言わざるを得ない。)
* 聖別された御聖体が床などに落ちてしまった時にしなければならない色々な規則(その代わりに、「恭しく拾う55」(239番)というたった一つの指針に取って代わられた。これは、ほとんど皮肉56である。)

 これら全ての省略は聖体における主の現存のドグマを信ずることを暗黙のうちに否定することを、きわめて強調することしか役に立たっていない。

3)祭壇の果たす機能
 祭壇はほとんど常に「食卓57」と呼ばれている。「感謝の典礼全体の中心である祭壇、すなわち主の食卓58(49番、また262番を参照せよ)」
 祭壇は、司祭が祭壇の周りを歩き回ることが出来るよう、また会衆に対面して祭儀を行うことが出来るように、壁から切り離さなければならないとされた(262番)。祭壇はまた、会衆の注意が自発的にそこに向かうように会衆の中心に置かれなければならない(同所)しかし、262・276番を比較すると、聖体を中央祭壇の上に保存することを明らかに除外しているようだ59。このことは、司式者のうちにおける永遠の大司祭イエズス・キリストの現存と、秘蹟的に実現する同じ主の現存とを、取り返しがつかないほど切り離してしまうだろう。以前は司祭もいけにえも一つの同じ現存であった60。
 御聖体は会衆の個人的な信心のために別の場所に安置するように勧められている。(それはあたかもある種の聖遺物への信心であるかのように。)それは教会に入るやいなや、注意はもはや御聖体の現存する御聖櫃ではなく、全てを剥ぎ取られた裸のままのテーブルへと注目が行くようにするためである。ここでも再度、個人的な信心と典礼的信心とが対照的違いを見せている。[新しい]祭壇が[古い]祭壇を破壊するために建てられた。
 御聖体拝領時には、同じミサ中に聖別されたパンを配るようにと強く勧められている。また、司祭用のパンさえも少なくとも幾人かの信者には配布するようにと強く勧めれられている。61このことを見ると、われわれはミサ外の御聖体への信心と同じく、御聖櫃に対してもなされている軽蔑的な態度が常にあると言わざるを得ない。そしてこのことは聖別された形色が残っている限り続く、御聖体における主の現実的な現存という信仰への新たな別の激しい攻撃となっている。62

4)聖変化の言葉
 古い聖別の言葉はふさわしく秘蹟を執行するためのものであって叙述的なものではなかった。このことはとりわけ次の3つのことから明らかである。
(ア) 聖書の言葉が一字一句そのまま取られていたわけではなかったこと
 聖パウロによる「信仰の神秘」という言葉が挿入されていたが、それは司祭が、位階的司祭職を通して教会によって実現される神秘に対して司祭の信仰をすぐに宣言するものであった。
(イ)句読点や印刷の構成がそれを示していたこと
 HOC EST ENIM で始まる聖変化の言葉は、その始まる前には、ピリオドがあり、聖変化の言葉からは新しい段落が始まっていた。それは叙述の語り口から秘蹟的な断定的な語り口へと明らかな変化をもたらしていた。秘蹟の言葉は大きな活字で頁の中央に、そしてしばしば別の色で印刷されていた。それは明らかに歴史的文脈から区別されていた。これら全ては固有のそれ独自の価値をこの聖変化の言葉に与えていた。

(ウ)アナムネーシス(ギリシア語で「思い出すこと」の意)
「あなたたちがこれをする度に私を想起して行うだろう。63」の祈りはアナムネーシスといわれる。この「私を想起して64」はギリシア語では、"eis teu emon auamuesiu"であり、敢えて訳せば「私を想起することに向かって65」である。
 この「あなたたちがこれをする度に私を想起して行うだろう」という言葉は、キリストがなさっているということ、行為しているキリストに言及していた。そしてそれは単なるキリストの、或いは、この出来事の記念ではない。これはキリストがなさったこと(これを、…私を想起して行うだろう66)を、キリストがしたそのやり方で想起するようにと招く言葉であり、ただ単に主のその人柄や晩餐を想起するに止るものではない。
 聖パウロの言葉(「これを私の記念として行いなさい67」)というのは、古いミサの言葉にはなかったものである。しかし、これを毎日国語で聞く者に、キリストの記念があたかも感謝の祭儀ということの究極目的であるかのようにそれに全神経が行ってしまうだろう。しかし、キリストの記念というのは聖体祭儀の始まりに過ぎないのである。このようにして、記念という観念が、最後に、またしても秘蹟を執行しているということ68(つまり、御体と御血を秘跡的に分離させつつご聖体を聖変化させるということ)に取って代わることだろう。
 「制定の叙述69」という表現を使うことによって(55番の「ニ」)叙述様式が強調されている。そしてこれは、アナムネーシスの定義によって繰り返されている。この定義に於いては「教会は、キリスト自身の記念を行う70」とある。(55番の「ホ」)
 とどのつまり、エピクレーシス71のために出された理論、また、聖変化の言葉とアナムネーシスの言葉の変化は、聖変化の言葉の意味の仕方を変える効果を持っている。新しいやり方では、聖変化の言葉が歴史的叙述を構成する一要素として司祭によって語られ、もはや、司祭はキリストのペルソナに於いて行為し、そのキリストによって発せられた絶対的断定(「これは私の体である72」であって、「これはキリストの体である73」と言うのではない)を表明するものとしてなされるのではない。74
 さらに、「主の死を告げ、復活を讃えよう、主がこられるまで75」という会衆の直後の言葉は、またしても終末論的覆いの元に、主の御聖体における実際上の現存に関する同じ曖昧さをもたらしている。キリストが時の終わりに再臨されると言う期待が、如何なる説明も区別もなく、主が祭壇上に実体的に存在されるまさにその瞬間に高らかに宣言されるのである。これはあたかも主の再臨こそが本当に主が来られることであって、聖変化による現存は本当ではないかのようである。

 この考えは付録に付いている選択肢2の表現に於いてさらに強く打ち出されている。そこでは「このパンを食べ、カリスを飲むごとに、主よ、我らは御身の死を告げ知らせよう、主が来られるまで76」となっている。ここではいけにえを屠ることと食すること、主の現存と再臨と言った別の現実が一緒に置かれ、全くの曖昧さのうちにぼやかされている。77


40 原注9: このことは、第2バチカン公会議の典礼憲章48番の規定と明らかに矛盾している。
41 prex eucharistica
42 "ut tota congregatio fidelium se cum Christo coniungat in confessione magnalium Dei et in oblatione sacrificii."
43 "Nunc centrum et culmen totius celebrationis initium habet, ipsa nempe Prex eucharisitica, prex scilicet gratiarum actionis et sanctificationis."
44 Suscipe, sancte Pater, omnipotens aeterne Deus, hanc immaculatam hostiam quam ego indignus famulus tuus offero tibi, Deo meo vivo et vero, pro innumerabilibus peccatis et offensionibus et negligentiis meis, et pro omnibus circumstantibus, sed et pro omnibus fidelibus christianis vivis atque defunctis: ut mihi et illis proficiat ad salutem in vitam aeternam.(聖なる聖父、全能永遠の天主よ、私のまことの生ける天主である御身に、私の無数の罪と犯罪と怠りのため、また周囲にいる全ての人々のため、さらには、生存している、そして、既に亡くなった全てのキリスト教信者のために、御身の不肖なるしもべである私が、捧げる、この汚れなきいけにえを受け入れ給え。それは、私と彼らとにとって、永遠の生命へと救われるために益となるためである。)
45 nutrimentum
46 "Veni, Sanctificator omnipotens aeterne Deus: et benedic hoc sacrificium tuo sancto nomini praeparatum."(聖とならしめ給うもの、全能の永遠の天主よ、来たりて御身の聖なる聖名にそなえられたこのいけにえを祝し給え。)
47 総則233番には、「ミサの中ではひざまずく表敬が3回行われる。すなわち、パンを会衆に示した後、カリスを会衆に示した後、及び拝領前」とある。ただし、日本では、跪くことが全て「合掌して深く礼をする」こととされている。例えば、総則の84番や98番、同じく233番などを見よ。また、祭壇に接吻することも「合掌して深く礼をする」こととされている。例えば、総則の85番を見よ。
48 総則103「カリスをコルポラーレの上に置き、場合によってはパラで覆う。」となっており、パラの使用は義務ではなくなっている。
49 総則294「金属製の祭器は、さびを生ずるものであれば、内側全面を金メッキしなければならない。さびを生じない金属や上等な金製のものは、金メッキの必要はない。」
50 総則265「固定祭壇であれ、可動祭壇であれ、典礼書に記載されている儀式にしたがって聖別される。ただし可動祭壇は、ただ祝福することだけ[で使用すること]が出来る。」
51 mensa
52 総則265「可動祭壇、もしくは聖堂外の祭儀が行われる机には、聖別された石を置く必要は全くない。」
53 総則268「主の記念祭儀に対する尊敬、ならびに主の体と血が供される会食に対する尊敬を表すために、祭壇上には少なくとも1枚の食卓布を敷く。」
54 grottesco ringraziamento di prete e fedeli seduti
55 reverenter accipiatur
56 quasi sarcastico
57 mensa 原注10: 祭壇のもっとも主要な機能が述べられているのは、ただ1度だけ総則の259番でしかない。"Altare, in quo sacrificium crucis sub signis sacramentalibus praesens efficitur."(祭壇は、十字架のいけにえが秘跡的なしるしのもとに現在のものとなる場所である。)しかし、これだけでは、その他の名称が頻繁に使われていることによる不明確さを消し去るには、あまりにも少なすぎる。
58 "Altare, seu mensa dominica, quae centrum est totius liturgiae eucharisticae"(n.49)
59 総則262「中央祭壇は、容易に周りを回ることが出来るよう、また会衆に対面して祭儀を行うことが出来るように、壁から離して建造する。またその位置は、全会衆の注意が自ずから集まる真に中心となる場所であるようにする。」
総則276「聖体を保存する場所は、信者の個人的な礼拝と祈りに相応しい小聖堂のなかに設置されることが切に勧められる。これが出来ない場合には、…聖体は、ある祭壇、もしくは教会堂内の、…他の場所に保存するものとする。」
60 原注11: ピオ12世教皇は、1956年9月23日、典礼大会への講話の中でこう言っている。「祭壇から御聖櫃を切り離すこと、それはその起源と本性とによって結合していなければならない2つのものを切り離すことです。」
61 原注12: 新しい式次第は「ホスチア」という言葉をほとんど使っていない。「ホスチア」という言葉は典礼書における伝統的な表現であり、「いけにえ」という正確な意味を持っている。「ホスチア」という言葉が使われていないことに、またもや、「晩餐」とか「食べ物」という観点にのみ焦点を当てようとしている計画的な同じ意志を読まざるを得ない。
62 原注13: 一つのことを別のことで置き換える、あるいは取り替える、という常套手段によって、主の御聖体における現実の現存が御言葉における現存に同一視されてしまっている(総則7「「主の晩さん、またはミサは、聖なる集会の義、すなわち『主の記念』を祝うために、キリストを代理する司祭を座長として、一つに集まった神の民の集会である。したがって、『わたしの名において、2、3人が集まるところには、その中にわたしもいる』(マテオ18:20)というキリストの約束は、特に教会がそれぞれの地域で集まるときに実現される。十字架のいけにえが続けられるミサの祭儀において、キリストは、その名のもとに集まっている集会の中、奉仕者の中、御言葉の中に、現実に、またパンとぶどう酒の形態のもとに本体のまま現存される。」及び54番)しかし、真実は、この2つのことは別の本性の事柄である。御言葉における主の現存は、それを読んでいるときにだけ、つまりそれを使うということにおいてin usu、現実のものとなる。しかし、御聖体における現存は客観的に、恒常的に、秘跡的に拝領されるか否かに関わらず、常にある。次のような言い回しは、典型的にプロテスタント的な言い方である。「説教によって提示される聖書朗読のなかで、神はその民に語られ、…キリストは、ご自身の言葉によって、信者の間に現存される。」(総則33、聖なる典礼に関する憲章33番と7番を参照)このような言い方には、厳密に言って、いかなる意味もない。なぜなら、天主が御言葉のうちに現存することは直接的ではないからである。この御言葉における現存は、人間の時間と空間に限られた精神の行為に結びついているからである。この間違った言い方による悲劇的な結論は、このような言い方によって、御聖体における現実の現存が、御言葉における主の現存のように、それを使うということに結びついているのではないかということを暗示していることである。すなわち、それを使っていなければ、つまり、御聖体拝領をしないときには、主は御聖体において現存していない、ということを暗示してしまっている。
63 Haec quotiescumque feceritis, in mei memoriam facietis.
64 in mei memoriam
65 volti alla mia memoria
66 Haec…, in mei memoriam facietis.
67 Hoc facite in meam commemorationem.
68 原注14: 秘跡を執行するということは、『新しい司式』の総則の中で命令されている限りにおいて、イエズスが使徒たちにご自分の御体と御血をパンとぶどう酒の形色のもとにおいて「食べるために」与えられたという事実と同時であったということも意味されている。そのために、秘跡を執行するということは、もはや聖別という行為に存していない、すなわち、御体と御血との分離である、ということに存していない。しかし、このことにミサのいけにえという現実の本質のもののが属しているのである。(ピオ12世の回勅『メディアトル・デイ』を見よ。)
69 "naratio institutionis"
70 Ecclesia memoriam ipsius Christi agit.
71 「エピクレーシス」とは、奉献されたホスチアが聖変化するように天主の力を祈り求める教会の祈願のことである。
72 Hoc est Corpus meum
73 Hoc est Corpus Christi
74 原注15: 新しい式次第に載せられている限りにおいて、聖別の言葉は司祭の意向のお陰によって有効であり得る。しかし、この聖別の言葉は無効でもあり得る。なぜなら、もはや言葉自体の効力によって(ex vi verborum)は、有効性を失っているからである。もっと正確に言いかえると、聖別の言葉は、以前のミサにはあった言葉それ自体が意味する様式(modus significandi)が変えられてしまっているために、それに自体によっては、有効性を失っているからである。近い将来、聖伝にかなう養成を受けずに叙階される司祭たちが「教会のしていることをする」ために新しい司式に信用しきったとしたら、彼らは有効に聖変化を執行するのだろうか?この有効性に疑いを抱くことは許されている。[Le parole della Consacrazione, quasi sono inserite nel contesto del Novus Ordo, possono essere valide in virtu dell'intenzione del ministro. Possono non esserlo perche non lo sono piu ex vi verborum o piu precisamente in virtu del modus significandi che avevano finora nella Messa. I sacerdoti che, in un prossimo avvenire, non avranno ricevuto la formazione tradizionale e che si affideranno al Novus Ordo al fine di "fare cio che fa la Chiesa" con-sacreranno validamente? E lecito dubitarne.]
75 "Mortem tuam annuntiamus, Domine, etc… donec venias."(主よ、御身の来るまで、我らは御身の死を告げ知らせよう。)
76 "Quotiescumque manducamus panem hunc, et calicem bibimus, mortem tuam annu-tiamus, Domine, donec venias."
77 原注16: プロテスタント的な批判がよくやるようにこれらの表現は聖書の同じ文脈に載っている(コリント前書11:24-28)と言わないように。なぜなら、教会は異なった表現で表される異なった現実を混同しないように、常にそれらの表現を並べたり、重ねたりするのを避けてきたからである。


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