JOYFUL JOYFUL 

しあわせで「ある」ための最適解💓

目覚めの試金石

2024年05月23日 | ありがとう日記

世の中の仕組みを根底から問い直すクレイジーな映画を撮ってみたいと思いました。それで長い時間をかけて考証を行ったのです。無駄になったシーンやアイデア を書き留めたノートが何冊にもなりました。次から次へと疑問が生じたのですが、そのすべてに答えが得られたわけではありません。
そうして、風にそよぐ木々に見守られながら、台本の執筆に取りかかったのでした。

完成した台本を見た人たちの反応は実にさまざまでした。このプロジェクトの資金援助には乗り気でない人たちが何人もいるとプロデューサーのアラン・サルドが言います。「本当にこの映画を撮るつもりですか?」と彼が言うので、私は熱を込めて「もちろんです」と答えました。

かくして映画は封切られたのですが、完全な失敗でした。誰も興味を示さなかったのです。客が入らず、批評家からは酷評されました。業界にとって、この作品は 理解不能のUFOだったのです。しかし、この映画は死にませんでした。こうした逆風にもかかわらず「美しき緑の星」は生き残り、生き物のように成長し、人 の話題となったのです。

この映画が必要とされているからでした。

この映画が世の中に発するメッセージのためだったのです。

一緒に映画を見て語り合う「美しき緑の星」クラブのサイトが、いくつもインターネットに見られるようになりました。

私は早すぎたのでしょうか? 

いいえ。いま、この映画のように価値観を根底から問い直すことで世の中を変えることが必要な、ぎりぎりの瀬戸際まで私たちは来ているのかもしれません。

「美しき緑の星」監督コリーヌ・セロー

 

1996年の映画『美しき緑の星』

スピリチュアル好きの人にとっては何を今さら?という感じかも知れませんね。(笑)

日本でも数年前から話題になっていたようで何度も映画のタイトルやポスターは目に触れていたのですが、

昨日初めて見ました。

 

「緑の星」から地球にやって来たミラの言動は誇張表現されてはいるものの、

2024年の今の自分には一致していました。(笑) 台詞だけ聞いていればコミカルでも何でもない。

むしろ、1990年代の先進国(映画ではフランスのパリ)が如何に変だったのかにおどろかされました。(笑)

いわば目覚めの試金石で、今見たらどう感じるかで見てみると面白いでしょう。

 

①「ひどい空気。これが公害ね。毒だわ」「車ばっかり。ひどい騒音」(ミラ)

②「土がないわ。植物が育たない。大丈夫なのかしら」(ミラ)

③「まだ貨幣経済だったとは」(ミラ)

④「テレビ捨てちゃった」「要らないんだ。家族には会話が必要だってね」(産婦人科主任教授とその家族)

⑥「2000年前に派遣されたイエスよ」(ミラ)

⑦「かつては地球に音楽家を派遣したこともあるわ。この人よ(=バッハ)」(ミラ)

⑧「音楽はもうないの。静寂を好む」(ミラ)

⑨「これ(=口紅)は何?どうして塗るの?」(ミラ)

⑩「新生児を抱っこすると数日持つわ」(ミラ)

 

ミラに触れた地球人も次々と変わっていきます。

「美術館に行かないか? 乳児の絵が見たい」と突然言い出したり、

お金目当てで結婚したことに気づいて家出した妻が、旅先で葉っぱの葉脈の美しさに気付いて感動します。

一糸乱れず演奏するクラシックの演奏家が自由に弾き始め、

猛然と戦っていたサッカー選手がバレエを踊り出し対戦相手と愛を表現します。

どれも大げさに演出されてはいるのですが、どれにも共感できるのです。

 

異星人が交信をはじめると、テレビやラジオの電波が乱れます。

「私は未知の現実と向き合うのがこわかったんだ」と述懐した主任教授が、

分娩を慈しみます。

砂漠の原住民は自然と調和して生き、通信能力が高く異星人ともテレパシーで会話できます。

 

個人的に現実社会で経験している似たようなことは、

電子マネー化が急速に進んだので、紙幣貨幣をほとんど見なくなりました。

何だかわからないのだけれど話がこじれたことで結果的にサービスが無料になってしまったり、

テレビはもう要らないなと2年前に捨てちゃいました。

福井で高波動に触れた後、新幹線で金沢から東京へ戻る途中で車窓から見たお墓が、

「何だろう?あの灰色の石の群れは」と感じてしまいました。意味がわからなかったのです。

形だけ残されて、誰もお参りしていないような野仏の墓地が日本の各地にありますね。

「私のお墓の前で泣かないでください。私はここにはいません。眠ってなんかいません。」

という秋川雅史さんの歌声が脳内に響き渡るような瞬間でした。

お墓とはモニュメントのようなもので、生きている人たちのためにあるものです。

そこに行けば会えると信じて建てるのです。形骸化していれば何の意味もないものになってしまいます。

 

最近聞いた音楽は、バッハです。(笑) 『G線上のアリア』はもともと好きで、結婚式でも流しました。

『G線上のアリア』は、結婚式にもお葬式にも似合うから不思議です。(笑)

それと、昨年夏に親友の急死を経験し、「死は祝福である」という超越した概念を育みました。

これについては十分な説明が必要なので後日書きますが、

『美しき緑の星』の中の関連するエピソードについて触れておくと、ミラを追いかけて地球にやってきた異星人の青年二人が美人姉妹と出会い、やがて共に緑の星に旅立つシーンがありました。地球目線で見れば地球人である美人姉妹は「旅立った」「召された」はずです。ですが映像表現にはなんの悲壮感も外連味もありませんでした。旅立ちは祝福なのです。あの映像表現を見て、旅立った、召された友達のことを祝福の境地で見送るに至ったことを思い出しました。

 

映画で異星人は、遠くの会話を傍受するときやテレパシーで会話するとき、

こめかみに親指を添えて手をぺろぺろ振っていましたが、

そのしぐさをしないで私たちも既にチャネリングやテレパシーで会話しています。

映画では、地球に向かって球体に入った仲間を送り出す時、みんなでまわりに円陣をつくって肩を組んでいましたが、この所作はスポーツ選手が試合前にやっていますね。(笑)

 

1990年代に見ていたらおそらく変に見えていた映画ですが、今見たら普通に見えてしまいました。(笑)

 

 

💓今日も、最後までお読みいただきありがとうございました💓