仙台住まい創りと音楽&犬

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(株)創建築 アーカイブ2006~2011をお引越し

母さんへBluesを捧げる~I give the blues to mother of heaven~<1>

2006-04-26 01:18:02 | 思い出ポロポロ
ご冥福をなんて書いて、ビール飲んでたらふと母さんの事を思い出しちまった。少しだけ忘れちまう前に記録しておこう・・・
2004年2月29日俺の母さんは亡くなった・・・享年60歳これからだって時にくもまっか出血で倒れ亡くなった。もっとも生きてる頃は母さんなんて呼びもしなかった、よくてお袋、母ちゃん、最悪でこのババアかな・・・まあ亡くなって大分時も流れ、俺ももういないんだと理解できたから、これからは生きてる頃恥ずかしくて、そう呼べなかった「母さん」と呼びたい・・・
母さんとの記憶は実に少ない、覚えていないのではなくずっと働きっぱなしでいなかったからだ。おれが生まれてすぐ位から働いていた。そう親父が働かないでいつも酒を飲んでは家にいたからだ。母さんとつながる俺の記憶は数えるくらいしかない。はじめの記憶は4歳位かな、まだ幼稚園にも入ってない頃、母さんは近所の飲食店で働いていた。俺はいつものように親父と家で帰りを待っていた。とても腹が減った、親父は飲んだくれ寝ている・・・あまりの空腹に冷蔵庫を開け何か食べ物を探した、卵を取ろうとしたがまだ小さい俺は上手く取れない、手を伸ばしつかんだ卵を自分の頭に落とし割った・・・泣きながら母さんの働く店に行った、そしてラーメンを食べさせてくれた。それからは決して冷蔵庫を俺は開けなかった。あまりにひどいので叔母が俺の面倒を見てくれるようになった。
小学校2年で名字が変わり母さんの両親とその兄弟達と暮らすことになった。親父は相変わらず飲んだくれていた。離婚の意味さえ分からず過ごしていたが、ある日授業で父親の職業の作文を書けと言われた、親父のことを書けば母さんが傷つく気がしてなんだか悲しくなって黙って帰った・・・。相変わらず母さんは働いていた、俺を育てる為に食肉加工会社で朝は俺が起きる前に出勤し、夜は9時頃帰る生活でますます一緒にいることは無くなった。そんな中、俺はずっと橋の下で拾われたと母さんの家族に言われ続けた小学校時代だった。ただ水曜日の母さんの休日が俺にとって一番幸せだった。母さんの手料理が食べれる日だったからだ。
母さんへBluesを捧げる~I give the blues to mother of heaven~<1>続く

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