【休息する天使】エドワード・タディエロ(オールポスターズの商品ページよりm(_ _)m)
さて、今回で最終回です♪(^^)
自分でこんなこと言うのもなんなんですけど……このお話はわたしにしては珍しく、書いてる時も読み返してる時もちょっと泣いてしまいました
なんにしても、前回はディキンスンの詩がめちゃんこ☆(笑)暗いものだったので、今回は恋愛詩に関するもの一篇と、もう一篇はまた死に関するもの……ということにしたいと思います
>>嵐の夜よ 嵐の夜よ
あなたとともにいることができれば
嵐の夜も
こよない楽しみ!
港にいる心には
風の力もむなしい
羅針盤も捨て
海図も捨てて
エデンの中を漂う!
ああ海よ
今宵こそいかりを下ろすことができたなら
あなたの中に――
(『ディキンスン詩集』新倉俊一さん訳編/思潮社より)
ディキンスンがこの詩を書いた時、一体誰のことを思い浮かべていたのか……と想像する方は多いでしょうけれども、わたし個人はこれもまたエミリーが詩神(ミューズ)との恋愛関係を歌ったもの、といったように捉えています(^^;)
詩の言葉の訪れと官能性というのは非常に強く結びついているもので、それが次から次へやって来るとほとんど恍惚状態になると思うのですが、この詩もまたエミリーがそうした精神状態にあった時に書いた詩ではないのかな……と思ったりするんですよね
なんというか、このお話の中との関連でいえば、ソフィとアンディが結ばれた夜、外は嵐でなかったにしても、気持ちとしてアンディはこういう感じじゃなかったのかな~と思ったりします。というか、アンディ、リルケの詩を薔薇と一緒にステラに送ったりとか、普通の高校生がそんなことするかいなww……って自分としても思ったりするんですけどね(笑)
>>わたしは家で一番目立たないもの
一番小さい部屋を占めていた
夜には 私の小さなランプと 本と
ただ一本のゼラニュームが
いつまでも降りつづける
その香りを嗅げるほど近くに置かれている
それから わたしの手さげかご――ほかになにかあったかしら
いや それで全部
話しかけられなければ決して わたしは口を開かない
それも手短に低く答えるだけ
大声で生きるなんて耐えられない
大さわぎはいつも恥ずかしかった
だからもしそんなに遠くでなかったら
また知っている人たちもゆくのなら
――わたしは一人よく思う――
なんと静かに死んでいけるだろう
(『ディキンスン詩集』新倉俊一さん訳編/思潮社より)
前回引用させていただいた詩は、「死」や死にゆく者の描写として非常に優れているのと同時に、すっっごく「くっら~!!」みたいになる詩でもありますよね(^^;)
でもそこがまたディキンスンの妙味と言いますか、ディキンスンのこうした冷徹で客観的な感覚と同時に、他の詩ではこの上もなく感受性が豊かで、繊細な女性であることがわかるという……この落差というか、ギャップがまた堪らないわけです
ようするに、ある一面で言うとしたなら、明るくて楽しい詩ってよっぽどうまいものじゃないと、心に残らないし響かない
でも、ここまで徹底的に暗かったり、落ち切ったそのさらに下の下にも底がある……一度、これを絶望と思ったけど、その絶望を破ったさらに下にもまた底知れぬ絶望があった……とか、こうしたことが「わかる」、「わかっている人がいる」、「わかってくれる人がいる」というディキンスンの持つ特殊な感性との共感性、これにやられている人というのはわたし同様、全世界に多いのではないでしょうか(^^;)
しかも、そこまで行っちゃうともう、「死」はもう親切で紳士な恋人だったり、絶望なんか、すっかり見知った友人みたいになっちゃったりするわけですよ(笑)
なんにしても、どのくらい間空くかわからないんですけど(文章自体は大体完成してたり☆)、次回からは「聖女マリー・ルイスの肖像」という小説を連載する予定なので……また前文でネタ☆のない時にはディキンスン関連のことを何か書きたいと思っています
ここまで読んでくださった方、本当にありがとうございましたm(_ _)mm(_ _)mm(_ _)m
それではまた~!!
ぼくの大好きなソフィおばさん。-【27】-
七月の初旬、フェザーライル校が夏休みに入ると、アンディは黒のランドクルーザーに乗って聖十字病院までソフィのことを迎えにきた。彼が会いに来て以来、ソフィの体調は鰻上りといってもいいほど、順調に回復していた。
病いは気からというが、アンディに支えてもらいながら車の助手席に乗りこんだソフィの顔は、とても癌患者とは思えぬほどに、喜びに光り輝いていたといっていい。病院のスタッフ数名が見送りに出、ロイもその中にいてソフィに向かい手を振った。黒のランドクルーザーの後ろにトヨタ・プリウスが続き、そこには運転席にエマ・ビアズリー、そして助手席にアデラ・マクファーソンの姿がある。
ヴァ二フェル町にある、聖ルカ病院には癌治療専門の医師も在籍しており、引継ぎのほうはすでにしてあるし、何よりもアデラとエマというベテラン看護師がふたり同行するため、ロイも、ソフィの主治医であるレイノルズ医師も安心して彼女たちに患者の身を任せることが出来たといえる。
海辺の別荘にいる間中、エマとアデラはホスピスのプロの職員として、とにかくソフィとアンディの生活のことを中心とし、自分たちは日陰者の存在に徹することにした。日陰者という言い方はおかしかったかもしれないが、簡単に言ったとすれば、終始ふたりの邪魔をしないよう心がけたということである。
ソフィとアンディのほうでも、このふたりに遠慮するということはなかった。まるで彼女たちの存在が目に入っていないかのように時を過ごし、医療的な用のある時以外はあまり声をかけなかった。食事をするのも別々だったし、おかしな話、アンディはソフィの前で他の若い娘と親しくしたくなかったのである。
だが、特に何を言われないでも、このアンディの雰囲気はエマにもアデラにもすぐ伝わり、ふたりは特に必要のある以外では、積極的に海辺の別荘の主と話すことはなかった。
ヴァ二フェル町に辿り着くまでの間、助手席から隣のアンディのことを眺めて、ソフィはなんだか不思議な気持ちになったものである。昔はいつでも、自分がハンドルを握り、アンディは助手席にいた。けれど今彼はレイバンのサングラスをかけ、白のポロシャツにクリーム色のチノパンをはき、なんだか颯爽として格好良かったのである。
「ねえアンディ、いつの間にあんたはそんなに格好良くなったの?」
「ソフィ、その言い方だとさ、なんだか僕はずっと格好悪かったみたいじゃないか」
「ううん、そういう意味じゃないわ」と、ソフィは笑った。アンディは運転しているので、大体正面を見ていることが多いが、ソフィはそんな彼の横顔を愛しげにずっと見つめていた。目を離したくなかった。「わたし、あんたに出会った時からこう思っていたのよ。この子は将来きっと格好良くなって、その頃にはお父さんの悪い習慣みたいのを引き継いでしまって、最初は純粋だったのがちょっと変わってしまうんじゃないかなって。でもあんたは本当に、そのあたりのことがあまり変わらなかったのねえ」
「大学とかでも、別にモテなかったってわけじゃないんだよ。ただ、僕はソフィおばさんに振られたばかりだったしさ、他の子なんて全然目が向かなくてね……フェザーライル校の教師になってからは、まわり中男ばかりの環境だったし。でもヴァ二フェル町で一度ラナと再会して……彼女、サウスルイスの公立校で教師をしていてね。それで僕も同じ教職にあったから、なんか自然話が色々あってさ。結婚後はラナにリースのほうに来てもらって、それから僕が校長になって以後は、校長の屋敷に家族みんなで住むようになったんだ」
「手紙に、結婚してあんたが幸せだって書いてあるのを読んで、本当に嬉しかったわ。アンディは家庭を大切にするタイプだから、ラナもきっと幸せね。あんたに子供がふたりいるってこともわたしにはとても嬉しいことなの。おかしな話、半分自分の孫みたいにさえ思うわ。あんたとラナの子なら、きっと可愛い様子をしていることでしょうね」
「そうだねえ。自分の子ながら、確かにソフィは可愛いと思うよ。バートのほうはね、僕に似てシャイな性格なんだ。おばさんが昔言ってたところの典型的な<内側もさ男>というやつでね」
「懐かしいこと言ってくれるじゃないの」
ソフィはさも愉快そうに笑った。そしてこの時アンディは、助手席のソフィのことをちらと見た。彼はソフィの笑い声が好きだった。そしてちょっとしたことですぐ笑顔になるところも。
それからふたりは暫くの間黙りこんだ。このふたりの間ではいつでも、家族らしい気安さで互いの間にどんなに長く沈黙があろうとも、気まずくなったりすることはない。喧嘩をしている最中だというのでもなければ。
この時ソフィとアンディはそうと知らずして、まったく同じことを思いだしていた。海辺の別荘で恋人同士として愛しあい、もう何度そうしたかわからなくなった頃、アンディがこんな冗談を言ったのである。「ねえソフィ。これで僕、もう内側もさ男なんかじゃなくなったよね?」と……。
なんにしても、ソフィとアンディの間で会話は弾み、話のネタは尽きるということがなかった。途中、昔の習慣通りに大型スーパー兼ホームセンターとなっている場所へ立ち寄り、色々なものを買いこんだ。アンディはエマとアデラにも声をかけ、カードを渡して必要になりそうなものを買って欲しいと言った。真面目なふたりはカードを受け取ろうとしなかったが、ソフィが「そのほうがわたしたちも気楽なのよ」と言うので、控えめに必要最低限の買い物をすることにしたのである。
四人は途中でTボーンステーキの美味しい店にも立ち寄った。この時もアデラとエマが遠慮して安いものを注文するのではないかと思い、アンディは四人分のTボーンステーキを頼んだものである。この時はテラス席で四人一緒に食事をしたのだが、正直なところを言ってアンディは、エマとアデラの看護に対する真摯な態度に打たれたものである。
ふたりとももう三十歳を越しているのだが、看護の仕事が好きで、勉強ばかりしていたらいつの間にかこの歳になってしまったと言って笑っていた。そしてソフィが何故エマとアデラのことを看護師として気に入っているのかも、アンディにはわかる気がした。ふたりとも純粋で、あとから休憩室であの患者がああだのこうだの、あまり言いそうにないタイプに見えたからである。
それからさらに二時間ほど車を走らせ、海辺の別荘についてみると、アンディは真っ先に自分がしたいと思っていたことをした。つまり、ソフィのことをお姫さま抱っこすると、そのまま二階の――かつてソフィが寝室として使っていた部屋まで、彼女のことを運んでいったのである。
ソフィはこの時、年甲斐もなく胸がドキドキするものを感じた。癌という病いのせいで体重のほうは減っていたものの、それでも自分のことを軽々と抱き上げ、階段を上りきることのできるアンディの体力に感心したし、昔は感じなかった頼もしさをそこに見出してもいたのである。
海辺の別荘のほうは、アンディが弁護士を通して二十年も前に購入したものであり、部屋はリフォームがされ、昔以上に綺麗になっていた。それでもアンディの譲れないポイントとして、ラファエロの天使の絵があり、不思議の国のアリスのタペストリーがあり、またソフィの寝室にあった不思議な天使の絵と背もたれのところが貝の形をしたベッドがあった。
アンディはこの、東洋人の画家が描いた天使の絵が小さい頃に一目見た時から好きだった。何故といって、天使を描いているのに何故かどことなくキリスト教的ではなかったからである。もちろん、背中には羽が生え、頭に天使の光輪をいただいてもいるのだが、雰囲気としてどこか<無>とか<禅>といった思想を感じさせるところが、アンディはなんとなく好きだったのである。
そして、その天使の絵の下で眠っているソフィのことを見るのが、アンディはもっと好きだった。久方ぶりに再会し、互いに二三時間も話して一旦興奮が収まった頃、目と目が合った時にソフィは自分から不意に逸らしていた。ふたりはその時堅く抱きあっていたのだが、ソフィはそのような至近距離から老いた自分の姿を見られたくないように感じていたのである。
「おばさんはとても綺麗だよ。昔と少しも変わらないよ」
アンディは本心として、心をこめて熱心にそう言ったものである。
「これ、僕の好きだったくちなしの香水の香りだよね?おばさんは香水をいっぱい持ってたけど、僕はこれが一番好きだったんだ。おばさんが社交上の用事で何日か留守にした時なんかにさ、海辺の別荘のドレッサーの前でよくうろうろしたもんだったよ。それで、香水の瓶の蓋を開けては匂いを嗅いだり……うまく言えないけど、僕にはわかるんだ。表面上の老いとかなんとかいうことじゃなく、おばさんが今も若い娘の魂を宿しているっていうことがね。そしてそちらに一度目を留めると、そのままその通りに僕の目には見えてくる。それが僕が手紙に書いた<目で見る天国>っていうことの意味なんだよ」
アンディが二階の寝室にソフィのことを運ぶと、そこでふたりは年甲斐もなく暫くじゃれあっては笑いあった。エマとアデラはその間荷物を運び入れていたが、二階から楽しげな笑い声が聴こえてきても、ただ微笑ましいようにしか思っていなかった。普通ならば、「あんな七十にもなるバアさんを恋人のように扱うなんて気持ち悪い」と世間一般の人が言うところでも、優しい天使のようなふたりには、「久しぶりに再会した親子が楽しんでいる」といったようにしか感じられないのだった。
「疲れただろう、ソフィ。このままここで少し休むかい?」
「ええ。悪いけど少し横にならせてもらうわ。下からアデラかエマを呼んでくれる?そろそろ鎮痛薬が切れる頃合だから……」
「とても痛む?」
アンディは心配そうにソフィの体をさすって聞いた。
「ううん、今は薬が効いてるから大丈夫なのよ。ただそろそろだなっていうのは、自分でもわかるものだから……」
ソフィが枕に頭を就けると、彼女が少し苦しそうな息遣いをしていることにアンディは気づいた。そこで急いで階段を駆け下りると、看護師のふたりにすぐソフィのことを診てほしいと頼んだのだった。
アデラが二階に上がっていったので、アンディはエマと一緒に車から荷物を下ろしたが、昔ソフィとの間でそうだったように、アンディは自分が重いものを持ち、エマには何か適当な軽いものを運んでもらうということにした。
夕食のほうもまた、エマとアデラが相談して栄養のバランスの取れたものを作ってくれたので、アンディとしても助かった。彼も数品くらいなら料理を作れるものの、それでも毎日となるとレパートリーがあまりに手薄だったからである。
ソフィが下の食堂ではなく、寝室で食事したいというので、アンディはそちらにふたり分の食事を運びこむと、彼女と今年の夏の計画について話しながら、アデラとエマの作ってくれた美味しい夕食を食べた。
「毎日、朝起きて食事をゆっくり済ませたらさ、<妖精の泉>とか<蛍ヶ池>のあたりまで散歩するってのはどう?それから、灯台のある岬のほうにも行こう。はまなすの甘い匂いと潮騒の香りが混ざりあう瞬間に、うまいこと出会えるといいんだけど……僕たちもさ、時たま出かけていって、偶然出会えるかどうかっていう確率だったものね。あとは庭の整備をしたりなんだり……ソフィは疲れるだろうから、テラスにでも座って僕にああしろとかこうしろって言うだけでいいよ。今、庭のほうは昔に比べて随分良くなったんじゃないかな。僕の言うこの昔っていうのはさ、一等最初の頃、ふたりで草刈りからはじめた時から数えてってことだけど」
「懐かしいわねえ」と、ソフィは昔を懐かしむように目を細めて言った。「あんた、草刈機があんまり気に入っちゃって、うちの土地じゃない隣の草原まで全部刈っちゃいそうな勢いだったものね」
「うん。今だって大好きだよ。学校の庭とかさ、校務員のおじさんに頼んでちょっと僕にもやらせてくれなんて言ったら、呆れられちゃったよ。そんなのは校長先生みたいなお偉い方のするこっちゃないって言われてね」
――ふたりはいつでも、こんな一見他愛ないような話をしては微笑みあい、また手を握りあったり、互いの存在を確かめあうように抱きあったりした。ずっと永遠にこの時間が続けばいいと願ったソフィとアンディの祈りが天に通じたのかどうか、ヴァ二フェル町へやって来て以降、ソフィの体調はみるみる回復し、アデラもエマも驚いたものである。
ソフィは骨粗しょう症で一度足を骨折し、一時車椅子に乗るようになって以降、あまり自分の足で歩こうと思わなくなったのだが、毎日<妖精の泉>や<蛍ヶ池>付近までの散歩をアンディと繰り返しているうちに、どうということもなく昔と同じに歩けるようになっていた。そしてアンディは毎日、<妖精の泉>から汲んできた水を例の琥珀色のウォーターボトルからコップに注いでは、「病気の治る魔法の水だよ」と言って、ソフィに飲ませたものである。
科学的根拠は何もなかったとしても、その魔法の水が効いているのではないかとしか思えないくらい、ソフィは八月の中旬になるくらいまで、癌に冒された病人とは思えぬほど顔色も良く快活に過ごした。不思議なことに、アンディと裏の森へ出かけてみると、ソフィはよく鹿の群れと遭遇したし、灯台のある岬に出かけていけば、風向きよくはまなすの甘い花の匂いと潮騒の香りが混ざりあったハーモニーと出会うことが出来たものである。
あとは海辺で貝を拾ったり、潮干狩りに出かけたり……毎日庭の樹木の剪定をしたり花がら摘みをしたり……夜はアデラやエマにも混ざってもらってゲームをすることもあれば、映画を見たりもした。ふたりもまたここでの暮らしがすっかり気に入ったようで、四人とも、性格が合ったせいもあり、特にこれといった揉め事や不満、摩擦が生じるでもなく、夏の期間、至極しっくりとうまくやっていくことが出来た。
八月に入ると、懐かしいソフィおばさんが帰ってきたと聞きつけて、故郷に帰省した人々がソフィとアンディを訪ねにやってきた。昔、子供時分にこの海辺の別荘に何度となく遊びに来たことのある子たちである。ラッセルにスコット、ロビン、エリオットやテディ……ソフィはそうした訪問客を迎えるたび、「まあ、あんた大きくなって!」などと言ってはちょっとした昔話や今どうしてるのかといったことを愉快に話したものである。
八月半ばになると、一度ラナと娘のソフィが、そのあと少し遅れてヨーロッパから帰省したバートランドがソフィのことを訪ねてきた。ソフィはアンディの息子のバートが一目見るなり気に入り、またバートのほうでも心の通じる何かを彼女に対して感じたようだった。というのも、バートランドが実にアンディの子供時分に似ており、ソフィはもうそれだけで目に入れても痛くないほど、自分の孫といってもいいバートのことが可愛くて堪らなくなってしまったのである。
もちろんソフィは自分の名前を取ってつけたというアンディの娘のことも可愛がったし、表面上、バートとの間にはっきりした優劣をつけることはしなかった。娘のソフィは自分が物心ついた時から長く噂になっている当人に出会えて満足していたし、彼女はフィッシャー家の中でいかに「ソフィおばさん」が尊重されているか、その具体例を挙げてはソフィのことを大いに笑わせたものである。
バートランドのほうでもまた「こんなことなら僕、ヨーロッパになんか行くんじゃなかったな」とあとから呟いていたが、ただひとりラナだけは少し複雑な心境を抱えるということになったかもしれない。というのも、ソフィはラナに対し「アンディを幸せにしてくれてありがとう。あの子にはあなたがいると思うと安心して死んでいける」と言われたものの――アンディがあまりに甲斐甲斐しくソフィの世話をするもので、奇妙な話、強い嫉妬を覚えたのである。これでもしソフィが癌という病いに冒されておらず、やがては完治する病気で床に伏せっていたのだとしたら、ラナはきっと到底我慢がならなかったことだろう。
だがラナは、自分が一度風邪で寝込んだ時に、夫がとても優しく看病してくれた時のことを思いだし、(アンディはわたしが重度の病気になったとしても、きっと同じに看護してくれるわ)と思うことで、自分への慰めとすることにした。そしてソフィに対し強く嫉妬していることなど微塵も滲ませないようにして、夫と子供たちがソフィを中心に笑いあう輪の中へと加わった。
そしてソフィはアンディの息子のバートと娘のソフィに会ったことで、彼らに自分の遺産を少しばかり残すことに決め、遺言を書き換えるために顧問弁護士を呼ぶことにした。ソフィはアンディに遺産を残しても良かったのだが、何分彼には使えきれないほどの資産がすでにあるとわかっているため、彼のふたりの子供に害にならない程度の資産を形見として残すことにしたのである。
アンディにも傍らについてもらって、遺言書の書き換えが行われると、弁護士が帰ったあと、彼は神妙な顔をしたままソフィの手を握って聞いた。寝室には大抵いつもそうであるように、この時もふたりきりだった。
「ソフィに、障害のあるお姉さんがいるだなんて、僕全然知らなかったよ」
「あら、わたしあんたに姉さんの話をしたことなかったかしら?」
アンディは握りしめているソフィの手を自分のように感じ、そしてソフィのほうでも彼の手を自分のもののように感じながら――ふたりは話を続ける。
「バートランドからもらったお金のほとんどと、セスの遺産は姉さんが受け継ぐことになってるの。重い知的障害があるから、もちろん信用できる施設の後見人に任せてはあるんだけど……本当はね、姉さんは母さんが汗水流して働いたお金だけでも、十分満足な暮らしをしていくことが出来るのよ。国から年金とか補助金も下りるからね。アンディ、わたしあんたに最後に、わたしの家族のことを少し話しておこうと思うの。べつにそう大したことではないんだけれど」
<最後に>という言葉を聞いて、アンディはドキリとした。ラナとバート、それにソフィの三人がリシディア町へ戻って以降、一度急激にソフィの容態は悪くなり、三日間ベッドからほとんど動けなくなったことがあった。そしてそのことをきっかけとするように、ソフィは体力も落ち、食事もあまり喉を通らず、長時間の鎮痛薬の投与により、起きている時間よりも寝ている時間のほうがだんだんに多くなっていった。
アンディはそんな彼女のすぐ隣にベッドを置いて見守っていたのだが、彼にとって何より恐ろしいのは、いずれそのまま彼女が何度名前を呼んでも目覚めない瞬間がやって来るということだった。ソフィはセスが亡くなって以降、姉のいる施設で働いていたそうなのだが、それならば何故もっと早く自分は彼女と連絡を取らなかったのかと、アンディにはそのことばかりが悔やまれたものである。
「わたし、小さい頃、姉のことが大嫌いだったの。ううん、姉本人が嫌いというよりは、障害のある姉のことをしつけるために、母さんが金切り声を上げているのがね、それが何より一番嫌だったわ。父さんもまたそんな母さんのことが嫌になって逃げ出したし、どうしてうちはこんなんなんだろうっていつも思ってたの。あれはしつけだったのか虐待だったのか、微妙にギリギリの境界線のところで母さんは姉に日常生活のあれこれを教えたものだったけど、母さんは手に三十センチの物差しを持っててね、「ジャージを着たら必ずファスナーを閉める!何度言えばわかるんだ!!」とか、もうスパルタ式に姉のことをビシビシ鍛えていったの。うちの母さんにかかったら、上官にしごかれる軍隊の部下たちも真っ青だったんじゃないかしらって今もたまに思うわね。そんなんだから母さんは姉のしつけで忙しくて、わたしにはあまり構ってくれなくてね、姉は姉で母さんに叱られては啜り泣くし、その様子がまた正直いって鬱陶しいのよ。わたしと姉さんは二段ベッドで寝てたんだけど、わたしが上のほうで寝てると、「わたしは悪い子、ソフィはいい子」だの、ブツブツ言ってるのが聞こえてくるの。実際そうしたことはなくても、わたしにも当然腹の居どころの悪い時がありますからね、そういう時には「うるさい、黙れ!!」とでも言って母さんみたいに姉さんを殴ってやりたかったものだったわ」
「ソフィ、そんなに長い話をして大丈夫かい?」
途中、ソフィが何度か息苦しそうに咳をついたため、彼女のすっかり弱って細くなった背中をさすりながら、アンディは優しく聞いた。
「ええ、大丈夫。でも、なるべくゆっくり話すようにするわね」
そう言ってソフィは何度か深呼吸し、アンディが毎日汲んできてくれる例の<魔法の水>を少しばかり口に含み、そして続けた。
「今もよく覚えてるんだけど、一度、障害者としては出来がいいというので、姉がサウスルイスの学校に招かれて、学芸会のために覚えた踊りを披露したことがあったの。わたしはその頃、自分の学校生活とか恋愛とか、そんなことに忙しくて姉のことはよく見てなかったんだけど、なかなか複雑な振り付けでね、姉は相当それを苦労して覚えたはずなのよ。見ていてそのことがよくわかるものだから、わたし、思わず途中で涙がこみ上げてきてね、演技が終わったあと、立ち上がって拍手しようとした時のことだったわ。アンディ、一体何が起きたと思う?」
「他の人もソフィと同じように拍手しようとしたんじゃないのかい?」
ソフィの厳しい顔つきから、そうではないとわかっていたものの、他に答えようがなくてアンディはそう聞いた。
「いいえ、その逆よ。会場中にドッと笑いの嵐が吹き荒れたの。ショックだったわ。わたしの隣には、全然知らない同年代の子が座ってたんだけど、その子までこう言ってたのをよく覚えてる。「今の見た?すごく面白かったわよね」って。わたし、よっぽど「あれはわたしの自慢の姉よ」って、その子に言ってやろうかと思ったくらいだったわ。でもグッと堪えてね、でもそんな姉と一緒にいるところを人に見られるのは嫌なものだから、早々にひとりで家まで帰ることにしたの。たぶん、健常者の演技が続いたあとで、障害者の部のトップバッターとして姉が出たのがまずかったんでしょうけど……あれがもし、障害者だけの出し物をする会だったとしたら、絶対笑いなんて起きてないわ。それ以来かしらね、わたしが自分の姉のことを少しずつ本当に<姉>として認識するようになったのは」
アンディは相槌の代わりとするように、ソフィの手のひらを撫で、そうすることで話の先を促した。
「で、ここまでは姉の話なんだけど、ここからは母さんの話。母さんはね、さっき言ったような恐ろしい鬼母ではあったんだけど、反面、とてもいい母親でもあったの。アンディ、あんた小さい頃、言ってたでしょ。わたしが料理を何か一品作るたびに、『おばさん、魔法みたいに美味しいよ。こんなの、どうやって作るの』って。あれはね、半分は母さんから受け継いだ味なの。高校を中退したあと、わたし、今はもう潰れてしまってないんだけど、<ル・アルビ>っていう喫茶店でアルバイトしてたのよ。で、正社員として登用してもらったまではいいんだけど、今度はただ注文取ったり料理を運ぶってだけじゃなく、自分でも作らなきゃいけない仕事が回ってきて……チョコレートパフェとかフルーツパフェの作り方にはじまって、ミートソースとかグラタンとかドリアとか、色々レシピを覚えなくちゃいけなくなったの。でもわたし、それまで料理なんて全然したことなかったのよ。というのも、母さんがスーパー主婦として、姉さんのことを定規で叩く傍ら、掃除や洗濯や料理はなんでもテキパキ素早くこなすって人だったからなの。だからってもちろん姉さんが悪いっていうんじゃないんだけど、それでも姉さんにもし重い障害がなかったとしたら、母さんと父さんは別れてなかったと思うの。結婚する前までは母さんもそんなにキツい性格じゃなかったらしくて、しかも家事はなんでもこなして夫に献身的に良く尽くすっていう感じの人だったらしいのね。人生の歯車なんて、一体どこでどう狂うのか本当にわからないものだわ。母さんは父さんと離婚して以降は、とにかく一生懸命働いて、姉さんが自分が死んでからも施設で暮らせるようにって、そのお金を貯めることしか頭になかったみたい。言い寄る男がなかったわけじゃないと思うけど、母さんは父さんと離婚してからも結婚指輪は外さなかったし、部屋のテレビの上にも父さんとの結婚写真をずっと飾ってるっていうような、そんな人だった」
そんなふうに自分の人生を犠牲にして育ててくれた母親に対し、自分は何も出来なかったとの思いがこみあげ、ソフィの瞳には涙が滲んだ。アンディはソフィの手を握っていた片方の手だけを外し、ナイトテーブルの上からティッシュを取ると、ソフィに渡した。
「ありがとう。とにかくね、わたしは母さんに料理を教えてもらって、なんとか喫茶店のほうでは首が繋がることが出来たのよ。それで、あんたも知ってるウィリアム・レッドメインだけど、彼はそこの喫茶店の客だったの。で、そこに通ってるうちにウェイトレスであるわたしのことが気に入って、つきあうようになったっていうか……でもわたしは彼のお母さんに気に入られてなくて、彼女の差し向けた詐欺師の男が好きになっちゃったの。そしてそれがセスだったのよ」
(そうだったのか)と思い、アンディは我知らずソフィの手を握る手に力がこもった。ふたりの馴れ初めについては漠然と知ってはいたものの、それ以上詳しく聞いたことはなかったからである。
「詐欺師ってあたりからして、わたしもセスが悪い男だっていうのは、最初からわかってたわ。でも彼、自分もわたしのことが好きになったから、実はかくかくしかじかの事情があってって、先に告白してくれてね。ウィリアムのお母さんのアリッサの計画じゃ、どうもこういうことだったみたい。わたしがセスと不貞を働いている間に、アリッサの気に入った女性とウィリーを引き合わせる……でも彼、全然彼女になびかなくて、痺れを切らしたわたしとセスはふたりでサウスルイスにあるセスの住むアパートまで逃げたのよ」
アンディはこの時、記憶の中に鮮明に甦るある一瞬があることに、自分でも驚いた。ザカリアス・レッドメインの屋敷に招かれた時、たまたまウィリアム・レッドメインとその奥方に会った時のことを思いだしたのである。あの時の彼の、いかにもソフィに未練のありそうな顔の表情……他のどうでもいい事柄に紛れて忘れていてよさそうなものなのに、何故何十年も昔のこんなことを思い出せるのか、アンディは不思議な気がした。
「それからのことは大体、アンディも知ってのとおりといったところね。セスと五年くらい一緒に暮らしてた頃……突然彼、蒸発するみたいにいなくなっちゃったの。それでわたしは彼に捨てられたものと思って、お金もないし、まずは働かなくちゃって職探しをはじめたのよ。それがあんたのお父さんのバートがオーナーだったおもちゃ屋さんで……」
「不思議だね、ソフィ」言いながらアンディは、ソフィの手指に愛しそうに口接けた。「なんでおもちゃ屋だったの?前に喫茶店で働いてたんなら、またそういうところで働いても良さそうなものなのに……でもソフィが父さんの経営する会社のひとつで働くことを選んだからこそ、ソフィは僕のお義母さんになってくれたってことだよね。今にして思うと、なんだか本当に奇蹟みたいだ」
「わたしもよ、アンディ」と、ソフィも微笑んだ。「そこのおもちゃ屋さんでパートの従業員を募集してるっていう貼り紙を見たのがきっかけだったの。わたし、大体のところセスに養ってもらってて、もう五年くらいまともに働いてなかったものだから……」セスの詐欺師の仕事を手伝っていたことや、彼のスリ稼業のことには触れず、ソフィは言った。「ええと、とにかくね、社会活動的なことをほとんどしてなかったものだから、なんだかとても不安で、まずは体慣らしにと思っておもちゃ屋さんのことを選んだわけなの。第一わたし、高校中退者だし、面接で落とされるかもって真っ先にそのことを考えてもいたわ。ようするに、職の選り好みなんて出来るような優雅な立場じゃないのよ。なんにしてもすぐ採用されて、あとは一生懸命働いたっていう、ただそれだけなの。そしたらパートから正社員にならないかって上司に言われて、正社員が全員受けなければいけないセミナーがあるからそれに参加しろってことになって……そのセミナーの間にあった社内パーティみたいので、バートとは知り合ったわけなの」
「父さん、どんなふうにしてソフィのことを口説いたの?僕、興味あるな。だって、その時父さんがソフィのことを口説いてなかったら――僕はソフィと出会うこともなく、今もまだ内にこもってもさっとしてたかもしれないんだからね」
ソフィはアンディの好きな笑い声で笑い、またもう一度<魔法の水>で口の中を湿してから続ける。
「とにかく、バートは積極的だったのよ。ターゲットをロックオンしたら必ず落とすっていう感じのハンターみたいに見えたわね。毎日、高価な贈り物もくれたし、お金のない貧乏な娘にとっては、ブランド物の服を着てストレッチ型リムジンの中で食事だなんて……夢みたいだったわ。でもわたしはセスのことをまだ愛してたから、なかなか簡単に「うん」とは言わなかったの。それでバートのほうでは余計ムキになったんでしょうね。アタックのほうが日増しに激しくなってきて、それでとうとう根負けしたってわけなの」
「やっぱり凄いな、父さんは。僕にはとても真似できないって思うよ」
ここでふたりは大きな声で笑った。すぐ隣の客室に控えているエマとアデラにもその笑い声は聞こえ、彼女たちは読んでいた癌疼痛治療の専門誌から顔を上げると、互いに微笑みあっていた。
「そんなことないわ。きっとアンディにも出来たはずよ。彼くらい資産があって、仮にどこかで自分の気に入った女性と巡り合ったとすれば……きっと大体男の人っていうのは同じことをするものなんじゃないかしら。それはそうとね、アンディ。わたしがあんたに覚えていて欲しかったのは、実は母さんのことなの。あんた、小さい時にこう言ってたことがあるでしょう?『おばさんはどうしてこんなに僕に良くしてくれるの』って。答えはたぶん……わたしには、母さんや姉さんのお陰という気がするのよ。わたしの母さんの人生にはおよそ、見返りとか善行をした報いみたいなものは何もなかったわ。とりあえず、娘のわたしの目から見た限りはね。でも母さんには母さんにしかわからない喜びもまたあって、その喜びと生きることの苦しみの両輪の狭間で、五十五歳という若さで亡くなったという人だった。その母さんがわたしや姉さんに与えた無償の愛のようなものがあったから……わたしはね、アンディ。たぶんあんたに良くしてやれたんだと思うの。もちろんわたしだってあんたにそんな大したことをしたわけじゃないわ。でももし、母さんの一見なんの報いも与えられずして亡くなったような人生がわたしの土台になかったとしたら、今のわたしはわたしじゃなかったような気がするのよ。言ってる意味、わかってもらえるかしら?」
「わかるよ、物凄く。本当に僕は……いつもずっと、自分のことばかりだったんだなって、今はそんな気がする。僕は、ソフィのお母さんがどんな人だったかなんて、一度も聞いたことがなかったと思うし……」
アンディは、両手で握りしめたソフィの手を、まるで祈りの手とするように、自分の額に押しつけた。
「愛してるよ、ソフィ。僕の中で貴女に対する想いの中で、一番重いものは恋人としてのそれなんだとずっと思ってきたけど……同じくらい、ずっと「おばさん」と呼んできたソフィのことも大切で、だから僕は……」
「いいのよ、アンディ。何も言わなくてもあんたのおばさんはよくわかってるわ。ただね、わたしの母さんのことをほんの記憶の片隅にでも覚えていて欲しかったっていう、それだけなの。彼女の犠牲があったからこそ、わたしとあんたは馬が合ったせいもあって、今みたいな関係になれたんだっていうことを……」
それからソフィはアンディの頬と額にキスすると、「あんまりしゃべって疲れたから、少し休むわ」と言って横になった。アンディは薄手のブランケットをソフィにかけ、彼女が眠りにつくのをじっと見つめ続ける。いつまでもこうして話していたいのに、いずれはこうした時間が終わってしまうとは……アンディには想像も出来ないことだった。
アンディは今、生まれて初めて、自分の実の母が物心つく前に亡くなっていて良かったかもしれないとすら思った。何故ならこれほどの打撃に二度も耐えるなどとは――自分には到底出来そうにないと感じていたからだった。
このごろアンディは、ソフィが眠りにつくたびに、このまま目が覚めないのではないかと心配でならないのだが、医療のプロであるエマとアデラを呼ぶために、一度ソフィの手を離し、彼女たちと話をしにいった。
先日、体の調子のいい時に聖ルカ病院へ検査をしにいったところ、全身の癌細胞は肥大していこそすれ、縮小傾向にあるものはひとつもなかった。けれど、ソフィが看護師たちの施す疼痛コントロールのみで、大体問題なく過ごせていると知ると、医者のほうでは驚いていた。このくらいの時期になると、ほとんど寝たきりでもおかしくないと、どことなく人の良さそうな顔のドクターはそう言っていた。「ある意味、奇蹟ですよ」とも。
アンディはソフィが寝ている間、彼女の寝顔を眺めながら、誰にも聞かれぬよう声を押し殺して泣くことがあったが、彼女が目を覚ました時には常に、なんでもないふうを装うことに苦心した。ことに、病状が悪化してからはそうだった。
そして夏の終わりに、とうとうその日はやって来た。アンディは他の教員に事情を説明して、一時的に校長を代理で務めてもらう手配もとり、あとはただ、ひたすら毎日神に祈るような日々だった。仮に夏が終わっても、まだずっと自分の愛しい人が生き延びることが出来ますように、と……。
癌による痛みをコントロールするための鎮痛薬の量がだんだんに増えていき、ソフィは起きていても朦朧としていることが多くなっていったが、それでもあとにしてみればおそらく、ソフィは自分の死期といったものをその時悟っていたのだろう。
彼女が実際に亡くなるという二日ほど前のこと、ソフィは鎮痛薬の量にも関わらず一時意識が鮮明となり、その時にアデラのことだけを自分のそばに呼んだ。ずっとそばについていたアンディにもその間階下に下がっていてもらうことにし、ソフィは彼女に何かを話した。それからエマのことも呼び、彼女にも心からの感謝の言葉を述べ、最後にまたアンディとふたりきりになった。
「愛してるわ、アンディ。あんたがいてくれたから、わたしは自分の人生の最後に、こんなにも豊かな日々を送ることが出来たんですもの。もう何も思い残すことはないわ。本当はね、猫みたいにひっそり、ひとりだけで死んでいこうと思ってたのよ。でもアンディ、あんたがそばにいてくれて、本当に良かった……」
アンディはソフィの手をぎゅっと握りしめると、最後に「僕のお母さん」と言った。「お母さん、死なないで!」と……。
アンディにとって母であり姉でもあり恋人でもある女性は、静かに微笑みながら目を閉じた。まだ息はあり、アンディは大きな声でエマとアデラの名前を呼んだ。アデラはソフィに繋がれている医療機器類のチェックをし、アデラは聖ルカ病院の担当医師に電話した。すぐに医者が駆けつけたが、その医者のいる間もソフィはまだ息を引き取る気配を見せることはなく、その日の夜半――アンディとエマとアデラの三人がソフィのベッドを囲むように見守っていた時、ソフィの最期は突然にして訪れた。
「坊や!わたしの可愛い坊や!!」
ずっと眠っていた状態から、半覚醒状態となり……ソフィは最期にそう叫んだ。アンディは「僕はここにいるよ!」と言って、ソフィの手を握りしめたが、彼女にはどうも彼のことがわかっている様子はなかった。そしてもう一度静かに彼女が目を閉じた時――少し前に乱れた心電図が、平坦な状態となった。
ソフィ自身が延命措置をまったく望んでいなかったため、それが彼女の臨終の瞬間となった。八月の二十七日、深夜の一時三十三分。ソフィは、夢の中で九歳の頃のアンディと<妖精の泉>まで散歩している最中に息を引き取った。彼女が最後に「可愛い坊や」と呼んだのは、夢の中のアンディに対してだったのである。いや、もしかしたらその夢は今も続いているのかもしれないにしても……。
ソフィ・デイヴィスという女性にとって、人生は悔いのない素晴らしいものだった。自身は一度も子を生むことがなかったとしても、彼女にはアンディという実の息子以上に素晴らしい存在が残った。そして、生だけでなく、死もまた彼女には素晴らしいものだった。ソフィは死ぬ一週間ほど前に、アンディに対しこう語ったことがある。
「死ぬってね、本当は素晴らしいことかもしれないのよ、アンディ」と。彼女の顔がその時どこか、謎めいて美しかったため、アンディは一瞬何か怖いものを感じたほどである。「『初めて処女航海に出る船が海に抱かれる歓喜よりも』、魂が肉体を出ていく時には、素晴らしい歓喜があるかもしれないのよ」とソフィは言った。
アンディはソフィの葬式の席で、彼女の好きなエミリー・ディキンスンの詩を読んだ。そして最後にソフィがまたひとつ、自分に大きなものを残してくれたということに、あらためて気がつき、また涙を流したのである。
終わり
さて、今回で最終回です♪(^^)
自分でこんなこと言うのもなんなんですけど……このお話はわたしにしては珍しく、書いてる時も読み返してる時もちょっと泣いてしまいました
なんにしても、前回はディキンスンの詩がめちゃんこ☆(笑)暗いものだったので、今回は恋愛詩に関するもの一篇と、もう一篇はまた死に関するもの……ということにしたいと思います
>>嵐の夜よ 嵐の夜よ
あなたとともにいることができれば
嵐の夜も
こよない楽しみ!
港にいる心には
風の力もむなしい
羅針盤も捨て
海図も捨てて
エデンの中を漂う!
ああ海よ
今宵こそいかりを下ろすことができたなら
あなたの中に――
(『ディキンスン詩集』新倉俊一さん訳編/思潮社より)
ディキンスンがこの詩を書いた時、一体誰のことを思い浮かべていたのか……と想像する方は多いでしょうけれども、わたし個人はこれもまたエミリーが詩神(ミューズ)との恋愛関係を歌ったもの、といったように捉えています(^^;)
詩の言葉の訪れと官能性というのは非常に強く結びついているもので、それが次から次へやって来るとほとんど恍惚状態になると思うのですが、この詩もまたエミリーがそうした精神状態にあった時に書いた詩ではないのかな……と思ったりするんですよね
なんというか、このお話の中との関連でいえば、ソフィとアンディが結ばれた夜、外は嵐でなかったにしても、気持ちとしてアンディはこういう感じじゃなかったのかな~と思ったりします。というか、アンディ、リルケの詩を薔薇と一緒にステラに送ったりとか、普通の高校生がそんなことするかいなww……って自分としても思ったりするんですけどね(笑)
>>わたしは家で一番目立たないもの
一番小さい部屋を占めていた
夜には 私の小さなランプと 本と
ただ一本のゼラニュームが
いつまでも降りつづける
その香りを嗅げるほど近くに置かれている
それから わたしの手さげかご――ほかになにかあったかしら
いや それで全部
話しかけられなければ決して わたしは口を開かない
それも手短に低く答えるだけ
大声で生きるなんて耐えられない
大さわぎはいつも恥ずかしかった
だからもしそんなに遠くでなかったら
また知っている人たちもゆくのなら
――わたしは一人よく思う――
なんと静かに死んでいけるだろう
(『ディキンスン詩集』新倉俊一さん訳編/思潮社より)
前回引用させていただいた詩は、「死」や死にゆく者の描写として非常に優れているのと同時に、すっっごく「くっら~!!」みたいになる詩でもありますよね(^^;)
でもそこがまたディキンスンの妙味と言いますか、ディキンスンのこうした冷徹で客観的な感覚と同時に、他の詩ではこの上もなく感受性が豊かで、繊細な女性であることがわかるという……この落差というか、ギャップがまた堪らないわけです
ようするに、ある一面で言うとしたなら、明るくて楽しい詩ってよっぽどうまいものじゃないと、心に残らないし響かない
でも、ここまで徹底的に暗かったり、落ち切ったそのさらに下の下にも底がある……一度、これを絶望と思ったけど、その絶望を破ったさらに下にもまた底知れぬ絶望があった……とか、こうしたことが「わかる」、「わかっている人がいる」、「わかってくれる人がいる」というディキンスンの持つ特殊な感性との共感性、これにやられている人というのはわたし同様、全世界に多いのではないでしょうか(^^;)
しかも、そこまで行っちゃうともう、「死」はもう親切で紳士な恋人だったり、絶望なんか、すっかり見知った友人みたいになっちゃったりするわけですよ(笑)
なんにしても、どのくらい間空くかわからないんですけど(文章自体は大体完成してたり☆)、次回からは「聖女マリー・ルイスの肖像」という小説を連載する予定なので……また前文でネタ☆のない時にはディキンスン関連のことを何か書きたいと思っています
ここまで読んでくださった方、本当にありがとうございましたm(_ _)mm(_ _)mm(_ _)m
それではまた~!!
ぼくの大好きなソフィおばさん。-【27】-
七月の初旬、フェザーライル校が夏休みに入ると、アンディは黒のランドクルーザーに乗って聖十字病院までソフィのことを迎えにきた。彼が会いに来て以来、ソフィの体調は鰻上りといってもいいほど、順調に回復していた。
病いは気からというが、アンディに支えてもらいながら車の助手席に乗りこんだソフィの顔は、とても癌患者とは思えぬほどに、喜びに光り輝いていたといっていい。病院のスタッフ数名が見送りに出、ロイもその中にいてソフィに向かい手を振った。黒のランドクルーザーの後ろにトヨタ・プリウスが続き、そこには運転席にエマ・ビアズリー、そして助手席にアデラ・マクファーソンの姿がある。
ヴァ二フェル町にある、聖ルカ病院には癌治療専門の医師も在籍しており、引継ぎのほうはすでにしてあるし、何よりもアデラとエマというベテラン看護師がふたり同行するため、ロイも、ソフィの主治医であるレイノルズ医師も安心して彼女たちに患者の身を任せることが出来たといえる。
海辺の別荘にいる間中、エマとアデラはホスピスのプロの職員として、とにかくソフィとアンディの生活のことを中心とし、自分たちは日陰者の存在に徹することにした。日陰者という言い方はおかしかったかもしれないが、簡単に言ったとすれば、終始ふたりの邪魔をしないよう心がけたということである。
ソフィとアンディのほうでも、このふたりに遠慮するということはなかった。まるで彼女たちの存在が目に入っていないかのように時を過ごし、医療的な用のある時以外はあまり声をかけなかった。食事をするのも別々だったし、おかしな話、アンディはソフィの前で他の若い娘と親しくしたくなかったのである。
だが、特に何を言われないでも、このアンディの雰囲気はエマにもアデラにもすぐ伝わり、ふたりは特に必要のある以外では、積極的に海辺の別荘の主と話すことはなかった。
ヴァ二フェル町に辿り着くまでの間、助手席から隣のアンディのことを眺めて、ソフィはなんだか不思議な気持ちになったものである。昔はいつでも、自分がハンドルを握り、アンディは助手席にいた。けれど今彼はレイバンのサングラスをかけ、白のポロシャツにクリーム色のチノパンをはき、なんだか颯爽として格好良かったのである。
「ねえアンディ、いつの間にあんたはそんなに格好良くなったの?」
「ソフィ、その言い方だとさ、なんだか僕はずっと格好悪かったみたいじゃないか」
「ううん、そういう意味じゃないわ」と、ソフィは笑った。アンディは運転しているので、大体正面を見ていることが多いが、ソフィはそんな彼の横顔を愛しげにずっと見つめていた。目を離したくなかった。「わたし、あんたに出会った時からこう思っていたのよ。この子は将来きっと格好良くなって、その頃にはお父さんの悪い習慣みたいのを引き継いでしまって、最初は純粋だったのがちょっと変わってしまうんじゃないかなって。でもあんたは本当に、そのあたりのことがあまり変わらなかったのねえ」
「大学とかでも、別にモテなかったってわけじゃないんだよ。ただ、僕はソフィおばさんに振られたばかりだったしさ、他の子なんて全然目が向かなくてね……フェザーライル校の教師になってからは、まわり中男ばかりの環境だったし。でもヴァ二フェル町で一度ラナと再会して……彼女、サウスルイスの公立校で教師をしていてね。それで僕も同じ教職にあったから、なんか自然話が色々あってさ。結婚後はラナにリースのほうに来てもらって、それから僕が校長になって以後は、校長の屋敷に家族みんなで住むようになったんだ」
「手紙に、結婚してあんたが幸せだって書いてあるのを読んで、本当に嬉しかったわ。アンディは家庭を大切にするタイプだから、ラナもきっと幸せね。あんたに子供がふたりいるってこともわたしにはとても嬉しいことなの。おかしな話、半分自分の孫みたいにさえ思うわ。あんたとラナの子なら、きっと可愛い様子をしていることでしょうね」
「そうだねえ。自分の子ながら、確かにソフィは可愛いと思うよ。バートのほうはね、僕に似てシャイな性格なんだ。おばさんが昔言ってたところの典型的な<内側もさ男>というやつでね」
「懐かしいこと言ってくれるじゃないの」
ソフィはさも愉快そうに笑った。そしてこの時アンディは、助手席のソフィのことをちらと見た。彼はソフィの笑い声が好きだった。そしてちょっとしたことですぐ笑顔になるところも。
それからふたりは暫くの間黙りこんだ。このふたりの間ではいつでも、家族らしい気安さで互いの間にどんなに長く沈黙があろうとも、気まずくなったりすることはない。喧嘩をしている最中だというのでもなければ。
この時ソフィとアンディはそうと知らずして、まったく同じことを思いだしていた。海辺の別荘で恋人同士として愛しあい、もう何度そうしたかわからなくなった頃、アンディがこんな冗談を言ったのである。「ねえソフィ。これで僕、もう内側もさ男なんかじゃなくなったよね?」と……。
なんにしても、ソフィとアンディの間で会話は弾み、話のネタは尽きるということがなかった。途中、昔の習慣通りに大型スーパー兼ホームセンターとなっている場所へ立ち寄り、色々なものを買いこんだ。アンディはエマとアデラにも声をかけ、カードを渡して必要になりそうなものを買って欲しいと言った。真面目なふたりはカードを受け取ろうとしなかったが、ソフィが「そのほうがわたしたちも気楽なのよ」と言うので、控えめに必要最低限の買い物をすることにしたのである。
四人は途中でTボーンステーキの美味しい店にも立ち寄った。この時もアデラとエマが遠慮して安いものを注文するのではないかと思い、アンディは四人分のTボーンステーキを頼んだものである。この時はテラス席で四人一緒に食事をしたのだが、正直なところを言ってアンディは、エマとアデラの看護に対する真摯な態度に打たれたものである。
ふたりとももう三十歳を越しているのだが、看護の仕事が好きで、勉強ばかりしていたらいつの間にかこの歳になってしまったと言って笑っていた。そしてソフィが何故エマとアデラのことを看護師として気に入っているのかも、アンディにはわかる気がした。ふたりとも純粋で、あとから休憩室であの患者がああだのこうだの、あまり言いそうにないタイプに見えたからである。
それからさらに二時間ほど車を走らせ、海辺の別荘についてみると、アンディは真っ先に自分がしたいと思っていたことをした。つまり、ソフィのことをお姫さま抱っこすると、そのまま二階の――かつてソフィが寝室として使っていた部屋まで、彼女のことを運んでいったのである。
ソフィはこの時、年甲斐もなく胸がドキドキするものを感じた。癌という病いのせいで体重のほうは減っていたものの、それでも自分のことを軽々と抱き上げ、階段を上りきることのできるアンディの体力に感心したし、昔は感じなかった頼もしさをそこに見出してもいたのである。
海辺の別荘のほうは、アンディが弁護士を通して二十年も前に購入したものであり、部屋はリフォームがされ、昔以上に綺麗になっていた。それでもアンディの譲れないポイントとして、ラファエロの天使の絵があり、不思議の国のアリスのタペストリーがあり、またソフィの寝室にあった不思議な天使の絵と背もたれのところが貝の形をしたベッドがあった。
アンディはこの、東洋人の画家が描いた天使の絵が小さい頃に一目見た時から好きだった。何故といって、天使を描いているのに何故かどことなくキリスト教的ではなかったからである。もちろん、背中には羽が生え、頭に天使の光輪をいただいてもいるのだが、雰囲気としてどこか<無>とか<禅>といった思想を感じさせるところが、アンディはなんとなく好きだったのである。
そして、その天使の絵の下で眠っているソフィのことを見るのが、アンディはもっと好きだった。久方ぶりに再会し、互いに二三時間も話して一旦興奮が収まった頃、目と目が合った時にソフィは自分から不意に逸らしていた。ふたりはその時堅く抱きあっていたのだが、ソフィはそのような至近距離から老いた自分の姿を見られたくないように感じていたのである。
「おばさんはとても綺麗だよ。昔と少しも変わらないよ」
アンディは本心として、心をこめて熱心にそう言ったものである。
「これ、僕の好きだったくちなしの香水の香りだよね?おばさんは香水をいっぱい持ってたけど、僕はこれが一番好きだったんだ。おばさんが社交上の用事で何日か留守にした時なんかにさ、海辺の別荘のドレッサーの前でよくうろうろしたもんだったよ。それで、香水の瓶の蓋を開けては匂いを嗅いだり……うまく言えないけど、僕にはわかるんだ。表面上の老いとかなんとかいうことじゃなく、おばさんが今も若い娘の魂を宿しているっていうことがね。そしてそちらに一度目を留めると、そのままその通りに僕の目には見えてくる。それが僕が手紙に書いた<目で見る天国>っていうことの意味なんだよ」
アンディが二階の寝室にソフィのことを運ぶと、そこでふたりは年甲斐もなく暫くじゃれあっては笑いあった。エマとアデラはその間荷物を運び入れていたが、二階から楽しげな笑い声が聴こえてきても、ただ微笑ましいようにしか思っていなかった。普通ならば、「あんな七十にもなるバアさんを恋人のように扱うなんて気持ち悪い」と世間一般の人が言うところでも、優しい天使のようなふたりには、「久しぶりに再会した親子が楽しんでいる」といったようにしか感じられないのだった。
「疲れただろう、ソフィ。このままここで少し休むかい?」
「ええ。悪いけど少し横にならせてもらうわ。下からアデラかエマを呼んでくれる?そろそろ鎮痛薬が切れる頃合だから……」
「とても痛む?」
アンディは心配そうにソフィの体をさすって聞いた。
「ううん、今は薬が効いてるから大丈夫なのよ。ただそろそろだなっていうのは、自分でもわかるものだから……」
ソフィが枕に頭を就けると、彼女が少し苦しそうな息遣いをしていることにアンディは気づいた。そこで急いで階段を駆け下りると、看護師のふたりにすぐソフィのことを診てほしいと頼んだのだった。
アデラが二階に上がっていったので、アンディはエマと一緒に車から荷物を下ろしたが、昔ソフィとの間でそうだったように、アンディは自分が重いものを持ち、エマには何か適当な軽いものを運んでもらうということにした。
夕食のほうもまた、エマとアデラが相談して栄養のバランスの取れたものを作ってくれたので、アンディとしても助かった。彼も数品くらいなら料理を作れるものの、それでも毎日となるとレパートリーがあまりに手薄だったからである。
ソフィが下の食堂ではなく、寝室で食事したいというので、アンディはそちらにふたり分の食事を運びこむと、彼女と今年の夏の計画について話しながら、アデラとエマの作ってくれた美味しい夕食を食べた。
「毎日、朝起きて食事をゆっくり済ませたらさ、<妖精の泉>とか<蛍ヶ池>のあたりまで散歩するってのはどう?それから、灯台のある岬のほうにも行こう。はまなすの甘い匂いと潮騒の香りが混ざりあう瞬間に、うまいこと出会えるといいんだけど……僕たちもさ、時たま出かけていって、偶然出会えるかどうかっていう確率だったものね。あとは庭の整備をしたりなんだり……ソフィは疲れるだろうから、テラスにでも座って僕にああしろとかこうしろって言うだけでいいよ。今、庭のほうは昔に比べて随分良くなったんじゃないかな。僕の言うこの昔っていうのはさ、一等最初の頃、ふたりで草刈りからはじめた時から数えてってことだけど」
「懐かしいわねえ」と、ソフィは昔を懐かしむように目を細めて言った。「あんた、草刈機があんまり気に入っちゃって、うちの土地じゃない隣の草原まで全部刈っちゃいそうな勢いだったものね」
「うん。今だって大好きだよ。学校の庭とかさ、校務員のおじさんに頼んでちょっと僕にもやらせてくれなんて言ったら、呆れられちゃったよ。そんなのは校長先生みたいなお偉い方のするこっちゃないって言われてね」
――ふたりはいつでも、こんな一見他愛ないような話をしては微笑みあい、また手を握りあったり、互いの存在を確かめあうように抱きあったりした。ずっと永遠にこの時間が続けばいいと願ったソフィとアンディの祈りが天に通じたのかどうか、ヴァ二フェル町へやって来て以降、ソフィの体調はみるみる回復し、アデラもエマも驚いたものである。
ソフィは骨粗しょう症で一度足を骨折し、一時車椅子に乗るようになって以降、あまり自分の足で歩こうと思わなくなったのだが、毎日<妖精の泉>や<蛍ヶ池>付近までの散歩をアンディと繰り返しているうちに、どうということもなく昔と同じに歩けるようになっていた。そしてアンディは毎日、<妖精の泉>から汲んできた水を例の琥珀色のウォーターボトルからコップに注いでは、「病気の治る魔法の水だよ」と言って、ソフィに飲ませたものである。
科学的根拠は何もなかったとしても、その魔法の水が効いているのではないかとしか思えないくらい、ソフィは八月の中旬になるくらいまで、癌に冒された病人とは思えぬほど顔色も良く快活に過ごした。不思議なことに、アンディと裏の森へ出かけてみると、ソフィはよく鹿の群れと遭遇したし、灯台のある岬に出かけていけば、風向きよくはまなすの甘い花の匂いと潮騒の香りが混ざりあったハーモニーと出会うことが出来たものである。
あとは海辺で貝を拾ったり、潮干狩りに出かけたり……毎日庭の樹木の剪定をしたり花がら摘みをしたり……夜はアデラやエマにも混ざってもらってゲームをすることもあれば、映画を見たりもした。ふたりもまたここでの暮らしがすっかり気に入ったようで、四人とも、性格が合ったせいもあり、特にこれといった揉め事や不満、摩擦が生じるでもなく、夏の期間、至極しっくりとうまくやっていくことが出来た。
八月に入ると、懐かしいソフィおばさんが帰ってきたと聞きつけて、故郷に帰省した人々がソフィとアンディを訪ねにやってきた。昔、子供時分にこの海辺の別荘に何度となく遊びに来たことのある子たちである。ラッセルにスコット、ロビン、エリオットやテディ……ソフィはそうした訪問客を迎えるたび、「まあ、あんた大きくなって!」などと言ってはちょっとした昔話や今どうしてるのかといったことを愉快に話したものである。
八月半ばになると、一度ラナと娘のソフィが、そのあと少し遅れてヨーロッパから帰省したバートランドがソフィのことを訪ねてきた。ソフィはアンディの息子のバートが一目見るなり気に入り、またバートのほうでも心の通じる何かを彼女に対して感じたようだった。というのも、バートランドが実にアンディの子供時分に似ており、ソフィはもうそれだけで目に入れても痛くないほど、自分の孫といってもいいバートのことが可愛くて堪らなくなってしまったのである。
もちろんソフィは自分の名前を取ってつけたというアンディの娘のことも可愛がったし、表面上、バートとの間にはっきりした優劣をつけることはしなかった。娘のソフィは自分が物心ついた時から長く噂になっている当人に出会えて満足していたし、彼女はフィッシャー家の中でいかに「ソフィおばさん」が尊重されているか、その具体例を挙げてはソフィのことを大いに笑わせたものである。
バートランドのほうでもまた「こんなことなら僕、ヨーロッパになんか行くんじゃなかったな」とあとから呟いていたが、ただひとりラナだけは少し複雑な心境を抱えるということになったかもしれない。というのも、ソフィはラナに対し「アンディを幸せにしてくれてありがとう。あの子にはあなたがいると思うと安心して死んでいける」と言われたものの――アンディがあまりに甲斐甲斐しくソフィの世話をするもので、奇妙な話、強い嫉妬を覚えたのである。これでもしソフィが癌という病いに冒されておらず、やがては完治する病気で床に伏せっていたのだとしたら、ラナはきっと到底我慢がならなかったことだろう。
だがラナは、自分が一度風邪で寝込んだ時に、夫がとても優しく看病してくれた時のことを思いだし、(アンディはわたしが重度の病気になったとしても、きっと同じに看護してくれるわ)と思うことで、自分への慰めとすることにした。そしてソフィに対し強く嫉妬していることなど微塵も滲ませないようにして、夫と子供たちがソフィを中心に笑いあう輪の中へと加わった。
そしてソフィはアンディの息子のバートと娘のソフィに会ったことで、彼らに自分の遺産を少しばかり残すことに決め、遺言を書き換えるために顧問弁護士を呼ぶことにした。ソフィはアンディに遺産を残しても良かったのだが、何分彼には使えきれないほどの資産がすでにあるとわかっているため、彼のふたりの子供に害にならない程度の資産を形見として残すことにしたのである。
アンディにも傍らについてもらって、遺言書の書き換えが行われると、弁護士が帰ったあと、彼は神妙な顔をしたままソフィの手を握って聞いた。寝室には大抵いつもそうであるように、この時もふたりきりだった。
「ソフィに、障害のあるお姉さんがいるだなんて、僕全然知らなかったよ」
「あら、わたしあんたに姉さんの話をしたことなかったかしら?」
アンディは握りしめているソフィの手を自分のように感じ、そしてソフィのほうでも彼の手を自分のもののように感じながら――ふたりは話を続ける。
「バートランドからもらったお金のほとんどと、セスの遺産は姉さんが受け継ぐことになってるの。重い知的障害があるから、もちろん信用できる施設の後見人に任せてはあるんだけど……本当はね、姉さんは母さんが汗水流して働いたお金だけでも、十分満足な暮らしをしていくことが出来るのよ。国から年金とか補助金も下りるからね。アンディ、わたしあんたに最後に、わたしの家族のことを少し話しておこうと思うの。べつにそう大したことではないんだけれど」
<最後に>という言葉を聞いて、アンディはドキリとした。ラナとバート、それにソフィの三人がリシディア町へ戻って以降、一度急激にソフィの容態は悪くなり、三日間ベッドからほとんど動けなくなったことがあった。そしてそのことをきっかけとするように、ソフィは体力も落ち、食事もあまり喉を通らず、長時間の鎮痛薬の投与により、起きている時間よりも寝ている時間のほうがだんだんに多くなっていった。
アンディはそんな彼女のすぐ隣にベッドを置いて見守っていたのだが、彼にとって何より恐ろしいのは、いずれそのまま彼女が何度名前を呼んでも目覚めない瞬間がやって来るということだった。ソフィはセスが亡くなって以降、姉のいる施設で働いていたそうなのだが、それならば何故もっと早く自分は彼女と連絡を取らなかったのかと、アンディにはそのことばかりが悔やまれたものである。
「わたし、小さい頃、姉のことが大嫌いだったの。ううん、姉本人が嫌いというよりは、障害のある姉のことをしつけるために、母さんが金切り声を上げているのがね、それが何より一番嫌だったわ。父さんもまたそんな母さんのことが嫌になって逃げ出したし、どうしてうちはこんなんなんだろうっていつも思ってたの。あれはしつけだったのか虐待だったのか、微妙にギリギリの境界線のところで母さんは姉に日常生活のあれこれを教えたものだったけど、母さんは手に三十センチの物差しを持っててね、「ジャージを着たら必ずファスナーを閉める!何度言えばわかるんだ!!」とか、もうスパルタ式に姉のことをビシビシ鍛えていったの。うちの母さんにかかったら、上官にしごかれる軍隊の部下たちも真っ青だったんじゃないかしらって今もたまに思うわね。そんなんだから母さんは姉のしつけで忙しくて、わたしにはあまり構ってくれなくてね、姉は姉で母さんに叱られては啜り泣くし、その様子がまた正直いって鬱陶しいのよ。わたしと姉さんは二段ベッドで寝てたんだけど、わたしが上のほうで寝てると、「わたしは悪い子、ソフィはいい子」だの、ブツブツ言ってるのが聞こえてくるの。実際そうしたことはなくても、わたしにも当然腹の居どころの悪い時がありますからね、そういう時には「うるさい、黙れ!!」とでも言って母さんみたいに姉さんを殴ってやりたかったものだったわ」
「ソフィ、そんなに長い話をして大丈夫かい?」
途中、ソフィが何度か息苦しそうに咳をついたため、彼女のすっかり弱って細くなった背中をさすりながら、アンディは優しく聞いた。
「ええ、大丈夫。でも、なるべくゆっくり話すようにするわね」
そう言ってソフィは何度か深呼吸し、アンディが毎日汲んできてくれる例の<魔法の水>を少しばかり口に含み、そして続けた。
「今もよく覚えてるんだけど、一度、障害者としては出来がいいというので、姉がサウスルイスの学校に招かれて、学芸会のために覚えた踊りを披露したことがあったの。わたしはその頃、自分の学校生活とか恋愛とか、そんなことに忙しくて姉のことはよく見てなかったんだけど、なかなか複雑な振り付けでね、姉は相当それを苦労して覚えたはずなのよ。見ていてそのことがよくわかるものだから、わたし、思わず途中で涙がこみ上げてきてね、演技が終わったあと、立ち上がって拍手しようとした時のことだったわ。アンディ、一体何が起きたと思う?」
「他の人もソフィと同じように拍手しようとしたんじゃないのかい?」
ソフィの厳しい顔つきから、そうではないとわかっていたものの、他に答えようがなくてアンディはそう聞いた。
「いいえ、その逆よ。会場中にドッと笑いの嵐が吹き荒れたの。ショックだったわ。わたしの隣には、全然知らない同年代の子が座ってたんだけど、その子までこう言ってたのをよく覚えてる。「今の見た?すごく面白かったわよね」って。わたし、よっぽど「あれはわたしの自慢の姉よ」って、その子に言ってやろうかと思ったくらいだったわ。でもグッと堪えてね、でもそんな姉と一緒にいるところを人に見られるのは嫌なものだから、早々にひとりで家まで帰ることにしたの。たぶん、健常者の演技が続いたあとで、障害者の部のトップバッターとして姉が出たのがまずかったんでしょうけど……あれがもし、障害者だけの出し物をする会だったとしたら、絶対笑いなんて起きてないわ。それ以来かしらね、わたしが自分の姉のことを少しずつ本当に<姉>として認識するようになったのは」
アンディは相槌の代わりとするように、ソフィの手のひらを撫で、そうすることで話の先を促した。
「で、ここまでは姉の話なんだけど、ここからは母さんの話。母さんはね、さっき言ったような恐ろしい鬼母ではあったんだけど、反面、とてもいい母親でもあったの。アンディ、あんた小さい頃、言ってたでしょ。わたしが料理を何か一品作るたびに、『おばさん、魔法みたいに美味しいよ。こんなの、どうやって作るの』って。あれはね、半分は母さんから受け継いだ味なの。高校を中退したあと、わたし、今はもう潰れてしまってないんだけど、<ル・アルビ>っていう喫茶店でアルバイトしてたのよ。で、正社員として登用してもらったまではいいんだけど、今度はただ注文取ったり料理を運ぶってだけじゃなく、自分でも作らなきゃいけない仕事が回ってきて……チョコレートパフェとかフルーツパフェの作り方にはじまって、ミートソースとかグラタンとかドリアとか、色々レシピを覚えなくちゃいけなくなったの。でもわたし、それまで料理なんて全然したことなかったのよ。というのも、母さんがスーパー主婦として、姉さんのことを定規で叩く傍ら、掃除や洗濯や料理はなんでもテキパキ素早くこなすって人だったからなの。だからってもちろん姉さんが悪いっていうんじゃないんだけど、それでも姉さんにもし重い障害がなかったとしたら、母さんと父さんは別れてなかったと思うの。結婚する前までは母さんもそんなにキツい性格じゃなかったらしくて、しかも家事はなんでもこなして夫に献身的に良く尽くすっていう感じの人だったらしいのね。人生の歯車なんて、一体どこでどう狂うのか本当にわからないものだわ。母さんは父さんと離婚して以降は、とにかく一生懸命働いて、姉さんが自分が死んでからも施設で暮らせるようにって、そのお金を貯めることしか頭になかったみたい。言い寄る男がなかったわけじゃないと思うけど、母さんは父さんと離婚してからも結婚指輪は外さなかったし、部屋のテレビの上にも父さんとの結婚写真をずっと飾ってるっていうような、そんな人だった」
そんなふうに自分の人生を犠牲にして育ててくれた母親に対し、自分は何も出来なかったとの思いがこみあげ、ソフィの瞳には涙が滲んだ。アンディはソフィの手を握っていた片方の手だけを外し、ナイトテーブルの上からティッシュを取ると、ソフィに渡した。
「ありがとう。とにかくね、わたしは母さんに料理を教えてもらって、なんとか喫茶店のほうでは首が繋がることが出来たのよ。それで、あんたも知ってるウィリアム・レッドメインだけど、彼はそこの喫茶店の客だったの。で、そこに通ってるうちにウェイトレスであるわたしのことが気に入って、つきあうようになったっていうか……でもわたしは彼のお母さんに気に入られてなくて、彼女の差し向けた詐欺師の男が好きになっちゃったの。そしてそれがセスだったのよ」
(そうだったのか)と思い、アンディは我知らずソフィの手を握る手に力がこもった。ふたりの馴れ初めについては漠然と知ってはいたものの、それ以上詳しく聞いたことはなかったからである。
「詐欺師ってあたりからして、わたしもセスが悪い男だっていうのは、最初からわかってたわ。でも彼、自分もわたしのことが好きになったから、実はかくかくしかじかの事情があってって、先に告白してくれてね。ウィリアムのお母さんのアリッサの計画じゃ、どうもこういうことだったみたい。わたしがセスと不貞を働いている間に、アリッサの気に入った女性とウィリーを引き合わせる……でも彼、全然彼女になびかなくて、痺れを切らしたわたしとセスはふたりでサウスルイスにあるセスの住むアパートまで逃げたのよ」
アンディはこの時、記憶の中に鮮明に甦るある一瞬があることに、自分でも驚いた。ザカリアス・レッドメインの屋敷に招かれた時、たまたまウィリアム・レッドメインとその奥方に会った時のことを思いだしたのである。あの時の彼の、いかにもソフィに未練のありそうな顔の表情……他のどうでもいい事柄に紛れて忘れていてよさそうなものなのに、何故何十年も昔のこんなことを思い出せるのか、アンディは不思議な気がした。
「それからのことは大体、アンディも知ってのとおりといったところね。セスと五年くらい一緒に暮らしてた頃……突然彼、蒸発するみたいにいなくなっちゃったの。それでわたしは彼に捨てられたものと思って、お金もないし、まずは働かなくちゃって職探しをはじめたのよ。それがあんたのお父さんのバートがオーナーだったおもちゃ屋さんで……」
「不思議だね、ソフィ」言いながらアンディは、ソフィの手指に愛しそうに口接けた。「なんでおもちゃ屋だったの?前に喫茶店で働いてたんなら、またそういうところで働いても良さそうなものなのに……でもソフィが父さんの経営する会社のひとつで働くことを選んだからこそ、ソフィは僕のお義母さんになってくれたってことだよね。今にして思うと、なんだか本当に奇蹟みたいだ」
「わたしもよ、アンディ」と、ソフィも微笑んだ。「そこのおもちゃ屋さんでパートの従業員を募集してるっていう貼り紙を見たのがきっかけだったの。わたし、大体のところセスに養ってもらってて、もう五年くらいまともに働いてなかったものだから……」セスの詐欺師の仕事を手伝っていたことや、彼のスリ稼業のことには触れず、ソフィは言った。「ええと、とにかくね、社会活動的なことをほとんどしてなかったものだから、なんだかとても不安で、まずは体慣らしにと思っておもちゃ屋さんのことを選んだわけなの。第一わたし、高校中退者だし、面接で落とされるかもって真っ先にそのことを考えてもいたわ。ようするに、職の選り好みなんて出来るような優雅な立場じゃないのよ。なんにしてもすぐ採用されて、あとは一生懸命働いたっていう、ただそれだけなの。そしたらパートから正社員にならないかって上司に言われて、正社員が全員受けなければいけないセミナーがあるからそれに参加しろってことになって……そのセミナーの間にあった社内パーティみたいので、バートとは知り合ったわけなの」
「父さん、どんなふうにしてソフィのことを口説いたの?僕、興味あるな。だって、その時父さんがソフィのことを口説いてなかったら――僕はソフィと出会うこともなく、今もまだ内にこもってもさっとしてたかもしれないんだからね」
ソフィはアンディの好きな笑い声で笑い、またもう一度<魔法の水>で口の中を湿してから続ける。
「とにかく、バートは積極的だったのよ。ターゲットをロックオンしたら必ず落とすっていう感じのハンターみたいに見えたわね。毎日、高価な贈り物もくれたし、お金のない貧乏な娘にとっては、ブランド物の服を着てストレッチ型リムジンの中で食事だなんて……夢みたいだったわ。でもわたしはセスのことをまだ愛してたから、なかなか簡単に「うん」とは言わなかったの。それでバートのほうでは余計ムキになったんでしょうね。アタックのほうが日増しに激しくなってきて、それでとうとう根負けしたってわけなの」
「やっぱり凄いな、父さんは。僕にはとても真似できないって思うよ」
ここでふたりは大きな声で笑った。すぐ隣の客室に控えているエマとアデラにもその笑い声は聞こえ、彼女たちは読んでいた癌疼痛治療の専門誌から顔を上げると、互いに微笑みあっていた。
「そんなことないわ。きっとアンディにも出来たはずよ。彼くらい資産があって、仮にどこかで自分の気に入った女性と巡り合ったとすれば……きっと大体男の人っていうのは同じことをするものなんじゃないかしら。それはそうとね、アンディ。わたしがあんたに覚えていて欲しかったのは、実は母さんのことなの。あんた、小さい時にこう言ってたことがあるでしょう?『おばさんはどうしてこんなに僕に良くしてくれるの』って。答えはたぶん……わたしには、母さんや姉さんのお陰という気がするのよ。わたしの母さんの人生にはおよそ、見返りとか善行をした報いみたいなものは何もなかったわ。とりあえず、娘のわたしの目から見た限りはね。でも母さんには母さんにしかわからない喜びもまたあって、その喜びと生きることの苦しみの両輪の狭間で、五十五歳という若さで亡くなったという人だった。その母さんがわたしや姉さんに与えた無償の愛のようなものがあったから……わたしはね、アンディ。たぶんあんたに良くしてやれたんだと思うの。もちろんわたしだってあんたにそんな大したことをしたわけじゃないわ。でももし、母さんの一見なんの報いも与えられずして亡くなったような人生がわたしの土台になかったとしたら、今のわたしはわたしじゃなかったような気がするのよ。言ってる意味、わかってもらえるかしら?」
「わかるよ、物凄く。本当に僕は……いつもずっと、自分のことばかりだったんだなって、今はそんな気がする。僕は、ソフィのお母さんがどんな人だったかなんて、一度も聞いたことがなかったと思うし……」
アンディは、両手で握りしめたソフィの手を、まるで祈りの手とするように、自分の額に押しつけた。
「愛してるよ、ソフィ。僕の中で貴女に対する想いの中で、一番重いものは恋人としてのそれなんだとずっと思ってきたけど……同じくらい、ずっと「おばさん」と呼んできたソフィのことも大切で、だから僕は……」
「いいのよ、アンディ。何も言わなくてもあんたのおばさんはよくわかってるわ。ただね、わたしの母さんのことをほんの記憶の片隅にでも覚えていて欲しかったっていう、それだけなの。彼女の犠牲があったからこそ、わたしとあんたは馬が合ったせいもあって、今みたいな関係になれたんだっていうことを……」
それからソフィはアンディの頬と額にキスすると、「あんまりしゃべって疲れたから、少し休むわ」と言って横になった。アンディは薄手のブランケットをソフィにかけ、彼女が眠りにつくのをじっと見つめ続ける。いつまでもこうして話していたいのに、いずれはこうした時間が終わってしまうとは……アンディには想像も出来ないことだった。
アンディは今、生まれて初めて、自分の実の母が物心つく前に亡くなっていて良かったかもしれないとすら思った。何故ならこれほどの打撃に二度も耐えるなどとは――自分には到底出来そうにないと感じていたからだった。
このごろアンディは、ソフィが眠りにつくたびに、このまま目が覚めないのではないかと心配でならないのだが、医療のプロであるエマとアデラを呼ぶために、一度ソフィの手を離し、彼女たちと話をしにいった。
先日、体の調子のいい時に聖ルカ病院へ検査をしにいったところ、全身の癌細胞は肥大していこそすれ、縮小傾向にあるものはひとつもなかった。けれど、ソフィが看護師たちの施す疼痛コントロールのみで、大体問題なく過ごせていると知ると、医者のほうでは驚いていた。このくらいの時期になると、ほとんど寝たきりでもおかしくないと、どことなく人の良さそうな顔のドクターはそう言っていた。「ある意味、奇蹟ですよ」とも。
アンディはソフィが寝ている間、彼女の寝顔を眺めながら、誰にも聞かれぬよう声を押し殺して泣くことがあったが、彼女が目を覚ました時には常に、なんでもないふうを装うことに苦心した。ことに、病状が悪化してからはそうだった。
そして夏の終わりに、とうとうその日はやって来た。アンディは他の教員に事情を説明して、一時的に校長を代理で務めてもらう手配もとり、あとはただ、ひたすら毎日神に祈るような日々だった。仮に夏が終わっても、まだずっと自分の愛しい人が生き延びることが出来ますように、と……。
癌による痛みをコントロールするための鎮痛薬の量がだんだんに増えていき、ソフィは起きていても朦朧としていることが多くなっていったが、それでもあとにしてみればおそらく、ソフィは自分の死期といったものをその時悟っていたのだろう。
彼女が実際に亡くなるという二日ほど前のこと、ソフィは鎮痛薬の量にも関わらず一時意識が鮮明となり、その時にアデラのことだけを自分のそばに呼んだ。ずっとそばについていたアンディにもその間階下に下がっていてもらうことにし、ソフィは彼女に何かを話した。それからエマのことも呼び、彼女にも心からの感謝の言葉を述べ、最後にまたアンディとふたりきりになった。
「愛してるわ、アンディ。あんたがいてくれたから、わたしは自分の人生の最後に、こんなにも豊かな日々を送ることが出来たんですもの。もう何も思い残すことはないわ。本当はね、猫みたいにひっそり、ひとりだけで死んでいこうと思ってたのよ。でもアンディ、あんたがそばにいてくれて、本当に良かった……」
アンディはソフィの手をぎゅっと握りしめると、最後に「僕のお母さん」と言った。「お母さん、死なないで!」と……。
アンディにとって母であり姉でもあり恋人でもある女性は、静かに微笑みながら目を閉じた。まだ息はあり、アンディは大きな声でエマとアデラの名前を呼んだ。アデラはソフィに繋がれている医療機器類のチェックをし、アデラは聖ルカ病院の担当医師に電話した。すぐに医者が駆けつけたが、その医者のいる間もソフィはまだ息を引き取る気配を見せることはなく、その日の夜半――アンディとエマとアデラの三人がソフィのベッドを囲むように見守っていた時、ソフィの最期は突然にして訪れた。
「坊や!わたしの可愛い坊や!!」
ずっと眠っていた状態から、半覚醒状態となり……ソフィは最期にそう叫んだ。アンディは「僕はここにいるよ!」と言って、ソフィの手を握りしめたが、彼女にはどうも彼のことがわかっている様子はなかった。そしてもう一度静かに彼女が目を閉じた時――少し前に乱れた心電図が、平坦な状態となった。
ソフィ自身が延命措置をまったく望んでいなかったため、それが彼女の臨終の瞬間となった。八月の二十七日、深夜の一時三十三分。ソフィは、夢の中で九歳の頃のアンディと<妖精の泉>まで散歩している最中に息を引き取った。彼女が最後に「可愛い坊や」と呼んだのは、夢の中のアンディに対してだったのである。いや、もしかしたらその夢は今も続いているのかもしれないにしても……。
ソフィ・デイヴィスという女性にとって、人生は悔いのない素晴らしいものだった。自身は一度も子を生むことがなかったとしても、彼女にはアンディという実の息子以上に素晴らしい存在が残った。そして、生だけでなく、死もまた彼女には素晴らしいものだった。ソフィは死ぬ一週間ほど前に、アンディに対しこう語ったことがある。
「死ぬってね、本当は素晴らしいことかもしれないのよ、アンディ」と。彼女の顔がその時どこか、謎めいて美しかったため、アンディは一瞬何か怖いものを感じたほどである。「『初めて処女航海に出る船が海に抱かれる歓喜よりも』、魂が肉体を出ていく時には、素晴らしい歓喜があるかもしれないのよ」とソフィは言った。
アンディはソフィの葬式の席で、彼女の好きなエミリー・ディキンスンの詩を読んだ。そして最後にソフィがまたひとつ、自分に大きなものを残してくれたということに、あらためて気がつき、また涙を流したのである。
終わり