こじらせ女子ですが、何か?

心臓外科医との婚約を解消して以後、恋愛に臆病になっていた理穂。そんな彼女の前に今度は耳鼻科医の先生が現れて!?

聖女マリー・ルイスの肖像-【4】-

2017年08月25日 | 聖女マリー・ルイスの肖像
【夜明け】ウィリアム・アドルフ・ブグロー


 今回は、前回の続きで、ディキンスンがヒギンスンに初めて送った手紙に同封した詩について御紹介したいと思いますm(_ _)m


 >>アラバスターの部屋で安らかに
 朝にもふれず
 昼にもふれず
 復活の柔和な仲間は眠っている
 サテンのたるき 石の屋根

 堂々と歳月は進む
 かれらの上の三日月形の天を
 世界はその弧をすくい
 天空は漕いでゆく
 王冠は落ちて
 総督も降伏する
 雪の円盤の上に
 点のように音もなく

(『ディキンスン詩集』新倉俊一さん訳編/思潮社より)

 この詩は今現在はエミリーの詩の中でも有名なものの一つ、という気がするのですが、正直、日本語に訳されたものを読んでもどう韻を踏んでるのかとか、まるでわからない分、ちょっとピンと来ないですよね(^^;)

 ええと、わたしも英語がまるで出来ませんので、多少の助けとして、とりあえずトーマス・H・ジョンスンさんの書いた『エミリ・ディキンスン評伝』から、少し引用してみたいと思いますm(_ _)m


 >>ヒギンスンが当惑したことには、この詩行がどのようなたぐいのものか、彼にはわからなかった。

「美しい心と言葉」かもしれないが詩ではないと、彼女が送ったいくつかの詩について彼は後に述べている。彼がある友人に語った表現を使うと、彼女の詩は「奇妙だがすばらしい」、けれども「あまりに繊細で――出版できるほど力強くない」というヒギンスンの評価を、エミリもまもなく知ることとなった。そして彼は生涯、その評価を変えなかった。彼女の表現方法や言葉は伝統に反しているので、彼が当惑したこともよく理解できる。またその困惑を表わす言葉の選択には思いやりがあるとも思うが、「あまりに繊細」という言葉はあてはまらないと思う。


 >>「アラバスター」の詩には様式がないというのが、この詩を考察したヒギンスンの感想だった。

 脚韻は不完全で、韻律もなめらかではない。彼は立方体を平らな幾何の法則で計ろうとしていたのだ。

 その詩は彼の評価とは異なるものであった。エミリ・ディキンスンは、キーワードによって調整された、言葉の音調によるパターンを工夫した。そのなかでは部分が全体を表わすようになっている。

 一連目の堂々とした調子は、死んだひとの広大な時の広がりを暗示し、最初の行の「アラバスター」が最初の調整となっている。つまり、無機物であって、それは冷たく、固く、白い、半透明な、なめらかなものである。

 二連目で使われる韻律はもっと速く、あまり一定していない。ときは、つぎつぎと、生きている世代を通り過ぎていく。

「三日月」は青白い月を連想させる言葉だが、同時に大きな弧を暗示し、それによって復活の日まで、静かな死者の上や周りを歳月が威厳をもって回るのだ。歳月は王朝の没落を単位として数えられている。

 最後の「雪」は、観念のサイクルを完成させる。それは冷たく、白く、静かである。しかしそれは完全に新しい次元を導入している。

 雪はアラバスターと違って、毛布のように柔らかく、読者は突然、第二連目の動きがやさしく、リズミカルになっていることに気づく。まるで宇宙的な母なる自然が、今やぐっすりと眠ってしまった子供たちをあやしているようだ。

(『エミリ・ディキンスン評伝』トーマス・H・ジョンスン著、新倉俊一・鵜野ひろ子さん訳/国文社より)


 ええとですね、繰り返しますけどもわたし英語が出来ませんので(汗)、このわたしの解釈が正しいかどうかというのはともかくとして、わたし自身はこの詩にこういった印象を持っています。

 アラバスターというのは、確か石化石膏という言葉にルビでアラバスターと振られることがあるように、そのアラバスターです。つまり、白くて固いお墓ということですよね、文脈的に見て。

 そしてそのアラバスターの白くて清らかな死に包まれて、亡くなった人というのは眠っているわけです。ディキンスンの詩にはこの種の思想の反映が多いと思いますが、キリスト教徒というのは、この世界の終末、イエス・キリストがこの世に再び来られる時に「復活」すると言われています。つまり、それまでこの「柔和な仲間たち」はお墓の中で眠ってるっていうことてですよね。

 ここに見られるのは、もしかしたら死者に対するある種の優しい眼差しかもしれません。墓の下は冷たく暗いというのではなく、素敵な白いアラバスターのお部屋で、サテンのたるきや石の屋根の下、彼らはもはや悩みも苦しみもなく霊的な存在として微笑みながら暮らしている……何かそんなイメージですよね。

 けれども、もはやそんな「永遠の時間」に入っているこの死者の上を、というか墓の内側がそんな「永遠の幸福」にも近い状態に満たされている外側を、一般的な時間は普通に流れていくわけです。朝が来て昼が来て、夜がまたやって来て三日月が昇る……「王冠は落ちて総督も降伏する」というのは、こうした厳粛な「死」という現象の前には、王さまも総督も勝てない、この世のそんな身分の高い人でも他の人々と同じく降伏するしかない――つまり、死というのは誰にとっても平等だということなのではないでしょうか。

 そして、そのような死のあとに残るもの……冬の日、アラバスターのお墓の上に雪が降っている、そのような清らかなイメージによって詩のほうは締め括られているのではないでしょうか。また、人が死んだあとに残るものっていうのは、ある意味雪の円盤の上の点のようなものという見方も出来るような気がします。仮にナポレオンやシーザーといった偉人であったとしても、歴史に名を残したという意味では偉大でしょうが、そのように偉大で声高でなくても、雪のように音もなく静かに、清らかな生涯を送った「柔和な仲間」をわたしは知っているし、そのような仲間にやがてわたしも加わるだろう、そしてその時には彼らと一緒にアラバスターの部屋でいつまでも陽気に語りあうだろう、墓の外側の時間や世界のことなどもはや関係なく……まあ、わたしのイメージとしてはそんな感じですけれども、他にもっとちゃんとした詩評を書かれている方がたくさんいらっしゃると思いますので、その際にはどうかそちらの方の言うことを参考にしてください(笑)

 えっと、一篇の詩を紹介するだけで結構長くなっちゃったので、ディキンスンがヒギンスン宛ての手紙に同封した他の三篇の詩についてはちょっと端折ってお話を進めたいと思います(^^;)

 そんなわけで、「出版できるほど力強くない」とのヒギンスンの返事を受けとった、その次のディキンスンの手紙について次回は紹介できれば、と思っていますm(_ _)m

 それではまた~!!



       第3章 家族の肖像

 数日後、ランディもロンもココも夏休みとなり、学校から成績表を持ち帰った。もしかしたら子供たちは自分に対して「見せる義務はない」と考えるかもしれないと思ったが、ロンがまずおずおずと成績表を差しだし、次にランディが、それから最後に少し誇らし気な顔をしてココが、マリーに成績表を渡した。

「まあ、国語と社会と美術がAプラスじゃないの!よく頑張ったわね」

 ロンの成績表を見て、マリーはそういい点について褒めた。他は算数と理科がDマイナスだったりしたが、人間得意分野と不得意分野のあるのは仕方のないことだと思い、マリーはロンの成績表を閉じた。また、他に「クラブ活動や課外活動」という欄や「クラスでの様子」、「先生からのことば」といった欄があり、ロンの場合は「もっと積極的にボランティアなど、課外活動に参加してみよう」、「心を開いて友達と接してみよう。君の場合、自分から心を開きさえすればいいんだよ。怖がらないで」、「今期も大変よくがんばりました。先生はロンのことを応援しているよ。また、漫画を見せてね。よい夏休みを!」……などと書かれている。
 
 次に、ランディの成績表。イーサンより、一番いい成績でCとのことだったので、マリーは少し心配だったが、一読して落第のEがないだけでも全然良かったと、そう思った。ユトランド共和国の学校はどこも、子供があるひとつの苦手教科で落第点を取るというのはそう珍しいことではない。たとえば、仮にロンが算数でEを取ったとしよう。その場合は算数だけ、もう一学年下のクラスの子供たちと同じ授業を受けることになる。このことは何も屈辱的なことではなく、毎年数名はそのような子が必ず出るものだし、理解が不十分なまま上の学年に上げるより、子供の学力のためには益となることなのである。

 国語=D、社会=D、算数=D、理科=D、美術=C、音楽=C、体育=C……それほど嘆くほどのこともないではないか、というのがマリーの印象ではあったが、それともこんなふうに思うのは、自分が実の親ではないからだろうかと思いもし、少し考えこんだ。

「クラブ活動や課外授業」=挨拶運動とゴミ拾い運動をがんばりましたね。

「クラスでの様子」=いつも、みんなと仲良くワイワイやっています。

「先生からのことば」=夏休みの宿題を必ずきちんとやるように。でないと、先生はランディくんを落第させたほうがあなた自身のためになったと、後悔するかもしれません。


 ――ロンの担任の先生はケネディ・マクブライドという若い男性教師で、ランディの担任の先生はスーザン・ワグナーという名前の中年の女性教師だった。最後、ココが少し自慢そうにマリーに渡した成績表は、次のとおり。

 国語=Bプラス、社会=Aマイナス、数学=Aプラス、理科=B、美術=A、音楽=B、体育=B。


「クラブ活動や課外授業」=ファッションクラブに所属して、服を作ったりするのはいいことですね。これからも続けてください。

「クラスでの様子」=非常におしゃべりでかしましいです。また、授業中に時々落ち着きのなさが見られます。

「先生からのことば」=ファッション雑誌ばかりでなく、時々はきちんとした本を読みましょう。もっと読解力がついてくれば、国語はAだったと思います。お兄さんも、夏休みには本をもっと読むようにさせてください。これは他の教科の成績にも関わることですので。


「すごいわねえ!AとBしかない成績表なんて、おねえさん見たことないわ。ただ、先生がもっと真面目な本も読みなさいって書いてるから、夏休みにはそうしたほうがいいわね。せっかくこのお屋敷にはあんなに本のたくさん詰まった立派な本棚があるんですもの」

 そうなのである。三階の部屋の一室は図書室になっていて、たくさんの「子供のために読むのにいい」本がぎっしり詰まっている。にも関わらず、それらの本のうちのほとんどが新品同様で、手垢もつかずに放っておかれている状態なのだった。

「あんなハゲの言うこと、まともに相手してたら日が暮れちゃうわよ。もちろん読書感想文用に一冊くらいは本を読もうと思うけど……でも、ただそれだけよ」

 マリーから成績表を返してもらうと、ココはスキップしながら階段で二階へ上がっていった。明日からは楽しい夏休み。これから早速親友のモニカやカレンとファッションクラブのことで打ち合わせをする予定なのだ。

 ロンもランディも、自分たちが想像していたとおりマリーが叱りつけたりしなかったので、ほっとしていた。また、ココとは違いふたりがマリーに成績表を見せたことにはある理由があった。というのも、おそらく数日後……いや、早ければ今日か明日にでもイーサン兄ちゃんが帰ってきて、ふたりに「成績表を見せろ」と言うだろう。その時、マリーには是非とも味方になってもらいたいと、ロンもランディもそう考えていたのだった。

「さあ、なんにしてもまずはお昼にしましょう。あと、明日か明後日までに夏休みの過ごし方の計画表を作ってちょうだいね」

 男の子ふたりは「はあ~い」と、非常に模範的な返事をした。それというのも、イーサンが帰ってきたら何日間もみっちり勉強させられるとわかっていたからだ。それに比べたらマリーの優しさが身に沁みた。普通のお母さんならたぶん、自分たちのこの成績表を見たあと、絶対に一くさり説教をしたのはまず間違いない。

 そこでランディとロンは珍しく、お昼にサンドイッチを食べたあとは、<夏休みの一日の過ごし方>について、画用紙の中の図形に朝の八時に起床だの、九時から十二時までは勉強だの、お昼からはゲームの時間だのと書き込んでいった。実際のところふたりとも、この通りのことを守れるとはまるで思ってはいない。だがこれも学校の宿題の一部として提出するものなので、守れようと守れなかろうと関係なく、もっともらしい計画表として完成させねばならないというそれだけだった。

「今年も兄ちゃん、ディズニーランドに連れてってくれるかなあ」

 色鉛筆で、勉強する時間帯は緑、ゲームの時間はオレンジ、睡眠中は水色……といったように塗りながら、ランディがポツリと言う。

「うん。たぶん連れていってくれるんじゃないかな。ただし、僕たちが夏休みの宿題を終えてたらっていう条件付きだとは思うけど」

 ロンはスケッチブックに漫画絵を描きながらそう答えた。一日の計画表のほうは中途半端なままだったが、マリーが明日か明後日までと言ったので、あとでもいいやと思っていた。

「だよなあ。あ~あ。イーサン兄ちゃん、アメフト部の合宿で、俺らの勉強なんかろくすっぽ見ないでとっと帰ってくれるといいけど」

 噂をすれば影というべきか、その時庭のずっと向こうのほうからドルルルル……という何かのエンジン音が響いてきた。マリーはアップルパイをオーブンに入れたところだったので、(どこの暴走族かしら?)と思いながら窓の外を見る。通りを過ぎていったにしては、音のほうがあまりに大きかったからだ。

 すると、そのオートバイがドライブウェイを通って走ってくるのが見えた。だが、ヘルメットをしているために、マリーはそれがすぐにイーサンだとは気づかなかった。彼はオートバイをガレージの脇に置くと、ヘルメットを脱いで正面玄関から中へ入った。途端、バイクの音を聞きつけたココが階段を下りてきて、愛しの兄に抱きつく。

「いい子にしてたか?」

「もっちろん!!」そう言ってココはイーサンの左右の頬にキスした。「でもこれから、友達と自由研究のファッションブックを作るのに打ち合わせに出かけるんだ。はい、これ成績表ね。もし小言があったら、帰ってきたら聞くから!!」

「まあ、俺はおまえのことは心配してない。それより、気をつけろよ。モニカかカレンの家に行くんだろ?」

「うん!!じゃあまたあとでね。帰ってきてくれてほんと嬉しい!!」

 子供向けの高いブランド服のワンピースをココが着ていても、イーサンはどうとも思わない。実際彼はココとミミに対しては極めて甘かった。そのかわり、自分の身に何かあった場合、マクフィールド家を継ぐことになる男子ふたりに対しては厳しかったが。

 マリーに「お帰りなさい」と言われたので、なんとなく反射的にイーサンは「ただいま」と答えていた。ランディも「おかえり、兄ちゃん!!」と言い、ロンもまた「おかえりなさい、お兄ちゃん」と挨拶する。

「で、おまえらの成績表はどこだ?」

 ここでロンとランディは顔を見合わせると、いかにも罰の悪そうな顔をした。自然、エプロンで手を拭いているマリーに救いを求めるような眼差しを注ぐ。

「まあ、おまえらの成績のことなんか大体のところわかってるさ。期待なぞ最初からしてない。だがまあ、一応の確認としてな」

 イーサンはダイニングのテーブルに腰かけると、いつものようにヌメア先生と一緒に子供用の椅子に座っているミミの頭を撫でる。

「ミミは元気にしてたか?」

「ミミもヌメア先生も元気でっしゅ!!」

(そうだわ。この人にミミちゃんのこれからのこと、少し相談しておかなきゃ……)

 あれからもずっとミミは、ヌメア先生のぬいぐるみを決して手放さず、ごはんを食べる時も一人で遊ぶ時も、とにかくいつでも一緒だった。そして一人二役を演じることもまるで変わりなかったといえる。

「ほうほう。ランディ、こりゃおまえ、スーザン先生のご慈悲によってようやく進級できるってな具合のひどい成績表だな。ロンは、苦手な理数科目と体育がどうにかこうにか及第点ってところか。俺はおまえらに、寄宿学校の話は随分前からしてるよな?」

 ロンは小さな声で「はい」と返事をし、ランディのほうは聞きたくもないといったように顔を背けている。

「まあ、一口に私学校なんていっても、ピンキリだからな。俺は一般的にユトランド国中で二番目にいいと言われるロイヤルウッド校の卒業生だ。まあ一応模範生として卒業して、国の最高学府であるユトレイシア大へは推薦で入った。これはエリートコースとしては国の上流階級に属したいと思ったら、おそらく一番いい選択肢だろう。が、おまえらはその俺の弟とは思えぬほどのいい成績だからな。小学校を卒業したあと、かなりランクの低い私学校にでも入るしかないだろう。だがな、最低でも中くらいレベルの私学校に入学できたほうが、おまえらにとっては学校生活がその分楽になるだろうと思ってる。だから、今勉強しておけといつも言ってるだろうが、このクソガキどもめ!!」

 イーサンの雷が落ちると、ランディもロンもうなだれた。ミミだけ一瞬びくっとして、ヌメア先生をぎゅっと抱きしめている。

「わかったら、さっさと五階の自分の部屋に上がって勉強しろ!!わからないところは俺があとで見てやるから」

 マクフィールド家の次男と三男は、こうして頭を垂れておのおの自分の勉強部屋へと戻っていった。「私学校の寄宿舎になんて入りたくない」とか「普通の公立校に進学するだけで十分だよ」……といったことは、ふたりともこれまでに何度も主張している。ところが、大好きだし尊敬してもいるが、時々横暴な鬼のようになるこの長兄は、「おまえらのことは俺が責任をもって絶対に私学校の寮へ入れる。それも出来る限りランクが上のな」と言って譲らないのだった。

 そこでロンもランディも思った。自分たちがこれからも成績が悪いままであったとしたら、こんなひどい成績では公立校に入っても大して変わらないから、それならユトレイシア市内にある中学に進学しろといつか兄が言ってくれるのではないかと……。

 出来の悪い次男と三男がエレベーターで五階へ上がっていくと、イーサンはロンとランディの成績表をもう一度よく読み返した。ランディのほうはおそらく、クラス内の人間関係において特に問題はないと見ていいだろう。だが、ロンのほうは相も変わらずクラス内に友達がいないようだと感じる。いじめにあっているというわけではないが、みんなの輪の中に入っていけないという、何かそうしたことなのだろう。

(やれやれ)

 そう思い、イーサンがフーッと深い溜息を着いていると、コーヒーを淹れたマリーが、少し怖い顔をして彼の前に座る。

「なんだ?まさかとは思うが、何か俺の教育方針に文句でもあるのか?」

「あります。中学からは寄宿学校へ入れるだなんて、どうしてですか?ここからでも通えるようないい学校は、他にいくらでもあるのに」

 出されたコーヒーを一口飲むと、イーサンは「ふん」と鼻で笑った。せっかく人が今後の苦労をひとつ減らしてやろうというのに、どうやら何もわかってないらしい、この女は。 

「俺だってな、最初は寄宿学校へなんぞ行きたくもなかった。だが、母親が死に、父親が若い女と結婚したもんで、そうでもする以外生きる手立てがなかったわけだ。だが、今はそれで本当に良かったと思ってる。寄宿学校へ入るってのは、あいつらにとってもためになることなんだ。いいか、ここのところをあんたもよく聞いておけよ。俺が小さい頃育った界隈ってのは、お世辞にもガラがいいとは言えなかった。そうなるとどうなる?家庭環境の悪い家に育ったガキってのは、大概成績のほうも悪いもんだ。俺の友達にもそんなのはいくらもいたよ。友達としてつきあう分には面白いし楽しい奴なんだが、そいつの家に遊びにいってみると、どうにも家族関係が悪い。『死ね、このクソババア!』なんてのが家を出る時の挨拶で、しかもそいつは 心の底では母親のことを本当は愛してるのにそんなことをしてるわけだ……ただの思春期の反抗期ってだけじゃない以上の理由によってな。仮にランディがそんなような奴らの仲間になったとしようか。するとな、変な影響を受けて帰ってきて、あんたに対して突然中指立てながら『なんか文句あんのか、このババア』なんて言ったりするようになる。で、この家の空いてる部屋にそんなガラの悪い連中が次から次へとやって来たりしたらあんた、一体どうする?もちろん俺はそんな事態になったとしたら、ランディのことをぶん殴って『この屋敷から出ていけ!』と言ってやるだろう。だがな、そんな最悪の事態になる前に、寄宿学校にでも入って窮屈な思いをしながら何か学ぶってことのほうが――長い目で見た場合、よほどあいつのためになるだろうと俺は言ってるんだ」

「そうでしょうか。ランディに限って、そんなことはないと思うし……」

 そこまで言いかけたマリーの言葉を、イーサンはまた鼻で笑って途切らせる。

「ほんのつい何日か前にこの屋敷へ来たあんたに、一体あいつらの何がわかる?ロンはロンでな、あの年でもうすでに人の顔色を伺う癖がついちまってるんだな。このままいったとしたら、素晴らしい負け犬街道があいつを待ち受けているだろう。あいつが普通の公立校へ進学したとしたら、親が金持ちで物凄い遺産を残したらしいってだけで、毎週びっくりするぐらいの額を貢がされてそのうちガレージの梁に紐でもくくって首を吊るかもしれんな。だから俺はたまーにあいつに言ってやるんだ。首吊り自殺ってのは、一瞬だけ苦しめばそれで終わりに出来ると思うだろうが、苦しいだけじゃなく、うまく紐が締まってくれなかったり、発見されたのが割合早くて助かったものの体に障害が残ったなんて奴もいるってな。第一、そんな死体を見つけた奴にとっては永遠のトラウマになる。実際、俺の近所にも小さい頃、そういう人がいたんだよ。事業が苦しくなって借金取りが家に押しかけて……そいつらのひとりがその人がガレージで首括ってるのを見つけたんだが、死後何日も経っていてな。しかも夏だったもんで、死体にはすでに蛆がわいてたそうだ」

 あまりのひどいたとえ話に、マリーは顔をしかめた。だが彼女は気丈にも、きっとイーサンのほうを見据えて言い返す。

「あの子はまだ、たったの九歳じゃありませんか。それに、ほんの三年前に母親を亡くしたばかりで、父親も死んでしまって……あの子たちにはまだずっと、親の保護っていうものが必要だと思うんです。それに、あなたは成績のことで子供たちを責めますけど、まだ九歳と十歳なんですから、これから努力すればいくらでも取り返せるはずですもの。もっと長い目でくださらないと……」

(ふふん。まったく何もわかってない、呑気なお嬢さんだな)

「長い目って言ってもな、二メートルも三メートルもある長い目で見ていたとしたら、あいつらはその間に腐って駄目になるだろう。魚でも野菜でもなんでも、旬の時にさばいたり切ったりなんだりして調理しなけりゃまずい料理しかできない。第一俺は今からだって遅いくらいだと思ってるんだぜ。それに、これはやっぱりあいつらのためになるだけじゃなく、最終的にはあんたのためにもなることだとしか俺には思えんな。ランディはこれから公立の学校へ入った場合、あんたがメシ作ってくれたりなんだりしても、やっぱりどうとも思いもしないことだろう。むしろな、十三とか十四くらいになった時、あんたとあの親父の間には一体肉体関係があったのかどうか、あんな七十のジジイとどうやって寝たんだろうとか、もしそうならやっぱり遺産目的でこの屋敷にいるのかとか、そんな小賢しい理由を盾にして、自分の成績が悪いのはあんたのせいだのなんだの言いはじめたらどうする?ところがな、少し離れたところの私学校に入った場合、あいつはきっと永遠にあんたに感謝するだろうぜ。何故かっていうとな、ああいう場所では三度の食事以外は大したものが食えない。なんか買うたって、寮を出て町へ下りていくにはいちいち許可がいるし、そこへ毎週でもあんたが色んなおやつをあいつに送ってやりでもしたら……「いつもありがとう、おねえさん」とでも、毎回礼儀正しく手紙を寄こすようになるだろう。そうすればきっとあいつのデブもなおる。俺はな、そういうことを言ってるんだぜ」

「…………………」

 マリーが黙ったままでいると、そばにいたミミが「兄たんとおねえさん、けんかしてるの?」と、心配そうにこちらへ手を伸ばしてくる。そしてヌメア先生に「けんかはらめれす!!」と何度も重くうなずかせる。

「いや、おねえさんと兄たんは最初から喧嘩なんかしてないさ」

 イーサンはヌメア先生ごとミミのことを抱きあげると、そのままエレベーターのほうへ向かった。五階の子供部屋のほうへ行き、ロンとランディの勉強をそれぞれ見てやるためだ。

 ダイニングにひとり残されたマリーは、アップルパイの焼き加減を確かめながら、再度溜息を着いた。自分よりも兄として長く子供たちと接している彼のほうがランディやロンのことをよくわかっているのは当然のことだ。それに、弟たちを寄宿学校に入れることで、親代わりの兄としての責任を減らしたいという気持ちもあるのだろう。何故といって、彼の言うとおりマリーにもロンやランディの学校での問題にひとりで対処するのはおそらく難しい。何かあったら頼もしい兄が必ず助けてくれる……その助けをマリー自身も期待している以上、イーサンの言うことには逆らえないという部分がやはり彼女にも残ってしまう。

(中学からもう寄宿学校へやるってなると、ランディは来年にはそういう学校を受験するっていうことかしら。まあ、もっともあの成績で入れるとなると、あまりレベルの高い学校は望めない気がするのだけれど……)

 マリーは(もう暫く様子を見ないことには、わたしにもなんとも言えないものね)と思い、首を振った。尊敬する兄の怒りを受けたあとでも、彼らがこっそり隠れてゲームしたり漫画を読んだりすることはないだろうことから、五階では今ふたりの子供が珍しくも一生懸命勉強しているに違いない。

 そしてそのことを思うと、マリーはくすりと笑った。それが強制的なものであれなんであれ、勉強すること自体はいいことだし、本当は自分が同じようにしてこれからは子供たちを机に向かわせなくてはならないのだと、そう思ったからだ。


   *     *     *

 イーサンが帰ってきた翌日から、ランディとロンのふたりは勉強面においてスパルタ式に鍛え上げられた。

 朝は遅くとも八時に起床させられ、九時からは鬼の監督官の下、勉強する時間が三時間も続いた。十時半に一旦、十五分くらいおやつを食べて休む時間もあるが、それ以外の時間はずっと、隣に兄が貼りついているため、勉強のこと以外に意識を向かわせることはほぼ不可能だったといえる。

 しかも、算数の問題を一問間違えるごとに「なんでこんな簡単な問題もわからねえんだ、このうすのろは!!」と言っては、プラスチックの定規でダイニングテーブルをイーサンは叩いていた。そして二言目にはすぐ「理数系が不得意だなんて、俺の弟とも思えん」とか「こんな問題も解けなかったら、おまえら一生童貞だぞ!!」と言っては、またピシャピシャ定規でロンやランディの背中あたりを叩くのだった。

 つまり、簡単にいえばこれが――イーサンの言っていた子供をしつけるための「模範的な態度」というわけだった。彼は「十五分でここまで解けなきゃおやつは抜きだ」だの、「ゲームの時間を減らすぞ」と言って脅しつけては、弟たちに夏休みの宿題を順番にやらせていったのである。

 そして、最初こそイーサンのスパルタ的態度に驚いたマリーだったが、その時点ですでにもう彼に対して何か言ったり、子供たちの味方をしようという気はなくなっていた。いくら大学が夏休みに入ったとはいえ、イーサンには彼にとってのその年の若者らしい過ごし方があるだろうに、それを犠牲にして弟たちの宿題を見てやっているのだとわかっていたし、実際午後ともなると、イーサンはイーサンで三階の書斎にこもって自分の勉強をしているのだった。

 彼は二週間後には大学のアメフト部の合宿があるため、それから一か月以上はここへ帰って来られない。もっとも、合宿といってもユトレイシア郊外にある場所なので、週末ごとに帰ってこようと思えばそう出来ないこともない。だが、イーサンにその気はないし、次に帰って来るのは八月の半ば頃を予定している。何故といって、毎年その時期に子供たち全員をディズニーランドに連れていくというのがマクフィールド家では決まりごとのようになっているそのせいだった。

「あの、ごめんなさい。なんだかあなたのこと、誤解してたみたいで……」

 子供たちの勉強が終わり、昼食を取ったあと、ランディとロンがそれぞれ自分の部屋へ戻っていくと――マリーは五分だけ彼と話をしようと思い、三階の書斎のドアをノックしていた。イーサンはそこの重厚な書斎机で、ユトレイシア大学院へ進学するための、進級試験の勉強をしていたのだった。

「誤解か。まあ、誤解なんだろうな、一応は」

 イーサンが何故そんな言い方をしているのかわからず、この際だからと、マリーはミミのことも相談することにしようと思った。子供たちのいる場所では出来ない相談だと思っていたからだ。

「ミミちゃんのことなんですけど、ロンからあのヌメア先生のぬいぐるみは、何かお母さんの元へ来ていた霊媒師の名前と同じだって聞いて……」

 ここでイーサンは、テキストから目を上げると、指でシャーペンを回しながら愉快そうに笑った。

「ああ。それで、あんたは一体どこまで聞いた?何しろ、あいつらのおっかさんが亡くなったのは、ミミが二歳になるかならないかの頃だからな……だから、仮にそぐそばで見ていたにしても、覚えているわけなんかないんだ。マグダはそのことを気味悪がって、毎週ミミのことだけ連れて教会へ行ったりしてるようだが、まったく変わらずというわけだ。まあ、俺はミミが小学校にでも上がる頃には治ると思ってるよ。だがあんたは、そんなことを心配してるってわけだ」

「心配というか……わたしも、大きくなるにつれて治るとは思ってるんです。ただ、マグダから話を聞く限り、他の子供たちの輪に入れようとしても、自分とヌメア先生の世界に閉じこもっていて、普通に話もしようとしないって聞いたもんですから、やっぱり心配で」

「ふうん。ま、俺はあんたに対して誤解をし、あんたも俺に対して誤解してたってことでいいんじゃないかね。ガキどもはそれなりにあんたに懐いてるようだし、俺はロンとランディを私学校へ入れるという方針を変えるつもりはない。第一、俺だってこう見えて結構大変なんだ。あんた、カレッジフットボールのテレビ中継なんか見たりするか?」

「いえ……」

 マリーは首を振った。彼女はフットボールのことになど、これまでの生涯でほとんど関心を持ったことがない。病院で患者がアメフトの試合を見たりしていた時に、隣で頷いて話を聞いたことがあるといった程度だった。

「だろうな。というか、だと思った。まあ、なんにしても九月上旬にレギュラーシーズンが開幕するから、俺は今年がそれに参加する最後の年になるってわけだ。ユトレイシア大はアメフトでは五本の指に入る強豪校で、おそらく今年もかなりいいところまでいくだろう。というより、今年こそは絶対優勝したいと思ってる。だから、俺はそのことでも忙しいし、他はユトレイシア大の大学院に進学するために今も勉強してるところなんだ。何分、国の最高学府ってだけあって、大学院に進学する時の試験ってのがクソ難しいもんでな。その時間を割いてでもあのガキどもの面倒を見なきゃならないってのが、俺にとってどれほどのことか、あんたにわかるか?」

「……ごめん、なさい。わたし、なんだか色々わかったように意見してしまったみたいで……」

(わかればよろしい)というように、イーサンは肩を竦めると再び問題集のテキストに目を落とし、シャープペンシルで解答を書き始めた。パタン、と静かにドアが閉まると同時、マリーのいなくなった書斎を見渡して、彼はもう一度溜息を着く。

(俺も、あんたのことを色々誤解していたようで、すまなかった)などと言う気は、イーサンにはさらさらない。というより、彼女に対してますます(うさんくさい)との思いが募っていたというそのせいでもある。

 実をいうと、住み込み女中のマグダはきのうから住み込みではなくなっている。ロンシュタットへ出かけてから腰痛が再発し、新しい家の女主人に大抵のことは任せて、これからは勤務時間を減らしてほしい、またマリー・ルイスという女性が信頼のおける女性であるようなら、いずれ近いうちに引退したいとも彼女から言われていた。

『もちろん、イーサンの気持ちはわかりますよ。わたしだって、最初お話を聞いた時には、真っ赤な口紅に真っ赤なマ二キュアの、何かそうした女性を想像してましたからねえ。けれどまあ、気立てはいいし、料理や裁縫も並以上にお出来になりますし、子供たちも不思議と懐いてるんですよ。それで、これは余計なことかもしれませんが……私、あのお嬢さんは実は旦那さまの隠し子が何かじゃないかという気がするんです』

 イーサンはマグダに、「もし何か女の行動に変なところがあったらすぐ自分に連絡しろ」と言って、携帯の番号を渡してあった。その彼女から電話が来た時、『やはりこういうおかしなところがある』という報告が来たものと思い、イーサンは内心喜んでいたものだ。ところが、マリー・ルイスに特に不審な点はなく、むしろその不審な点のない点が不審だと述べたのち、実は彼女がケネス・マクフィールドの隠し子ではないかとマグダは言ったのである。そう考えたとするなら、すべての辻褄があう、と。

『だって、そうじゃありませんか。いくら子供好きな人でも、自分と血も繋がらない子の面倒を是非とも見たいだなんて……そんな、聖人さまでもあるまいし。もちろん、まだマリーさんもこちらへ越して来られて数日ですし、これから何かおかしなところがあったとしたら、その際にはまたすぐお坊ちゃまに連絡致しますけれども』

 マグダからこの電話を受けた時、イーサンは大学の寮でいつものメンツとトランプで大富豪をしているところだった。負けた奴は明日、他の四人にカフェテリアでハンバーガーとポテトを奢るということになっている。

「一体誰からだよ?」

 ラリー・カーライルが煙草を灰皿に落としながら言った。あと一枚で上がるところなのに、イーサンがかなり真剣な面持ちで電話で話していたそのせいだ。

「家の住み込み女中が、腰が痛いもんでガキのお守りはもう無理だって言ってきた。あと、あの女は信頼が置けそうだが、不審に感じる点のないのがむしろ不審に感じられるとか……何かそういう報告さ」

「へえ。そりゃまずいぜ、イーサン」

 小説家志望のルーディ・ガルブレイスがスペードの4・5・6以上の連続札がなかったため、パスしながら言った。マーティン・ローランドがダイヤの8・9・10を次に繰り出す。

「その住み込みじゃなくなるとかいうお女中さんは、早速とばかりその新しい屋敷の女主人に丸めこまれてんのさ。そこの屋敷を売って金が出来た暁には、十万ドルの報酬をやるから自分に協力して頂戴とか、そうした話運びだろ。いや、俺が推理小説書く場合でもそんなふうにするかもしれないな」

「だが、マグダはもうかれこれうちに十年も尽くしてくれてるんだぜ。弟のランディが生まれる前からあの屋敷にいて、あの気違いの先妻が何を言っても「ハイハイ」ってな具合になんでも言うことを聞くって感じでな。しかも口が堅くて信頼がおけるってのは、この俺が太鼓判を押してもいいくらいなんだ」

「だが、金は人を変えるっていうぞ」

 ラリーがパスしながらそう言った。次はまたイーサンの番が回ってきて、彼はクローバーのキングとエースと2の札を出す。当然全員が「パス」と言い、再びイーサンの番が回って来る。そしてここで彼はハートの四枚の3を出した。手札が大分少なくなっていたサイモンとマーティンがひっくり返る。唯一、最初に配られた手札の悪かったルーディだけが喜び、ジャックの11を持っていたラリーは舌打ちする。

 結局のところ、このトランプゲームの勝者はイーサンとなり、次に上がったのがルーディ、ラリー、マーティン、サイモンの順だった。普段なら「もう一回やろうぜ!」となるところだが、イーサンの話に興味を覚えていた四人は、トランプよりもその続きを聞きたがっていた。

「確かにな。ラリーの言ったことはもっともだ。推理小説で人の死ぬ理由で多いのがなんといっても金か女か権力かといったところだからな。それでそこに嘘と秘密ってのが絡んでくるのさ。そういや俺、イーサンにその女の写真撮ってきてくれって言わなかったっけ?」

「悪い、ルーディ。ココや他のガキどもの写真は撮影したんだがな、唯一、あの女の写真だけ撮り忘れてたんだ」

 イーサンはぐびっとビールを飲むと、つまみのナッツを少しばかり口に入れた。マグダがあの女に金を渡されている、あるいはその約束のために彼女が嘘をついているとは、彼にはどうにも思えないのだった。

「チェッ、残念だな」と、サイモン。「イーサンは不細工ということはないが、色気のない枯れ木みたいな女だなんて言ってたが……俺、二十五くらいで枯れ木みたいな女なんて、見たことないぜ」

 サイモンのこの言葉に一同がどっと笑う。

「そうだよな」と、マーティン。「第一、そんな女にイーサンの親父さんみたいな女たらしが遺産を残そうとするだなんて思えない。間違いなく絶対何かあるんだよ。イーサンの知らない何かがさ」

「そうだぞ、イーサン。おまえ、用心したほうがいい。たとえば……その女はおまえより四歳年上って言ったっけ?ということは、可能性として考えられるのはあとひとつだな。その女は親父さんの隠し子のひとりかなんかなんだよ。だが、今さら養女にするなんていうんじゃ、おまえも他の四人の子にも説明が難しくなるだろ?話を丸く収める形でその女にも遺産の一部を分け与えるには、妻にするのが一番手っ取り早かった――そういう可能性はないのか?」

「ラリー、おまえ冴えてるよ!!」

 ルーディはそう言って指を鳴らし、ノートにペンで何かを書きつけはじめた。そして小説のあらすじを書きつつ言った。

「イーサン、夏休み明けでもいいからさ、とにかくその女の写真を一枚、絶対俺にくれ。これ、たぶん結構いい話になりそうな気がするんだ」

「やれやれ。人事だと思って、おまえらは呑気でいいな」


 ――その場はその程度で収めたものの、マグダの言ったこととラリーの言葉の一致とが、イーサンは当然気になっていた。自分にしてもその可能性について考えなかったわけではない。何より、マリー・ルイスが自分に対し「わたし、男の人に興味ないんです」と言っていた言葉がイーサンにはあらためて思いだされていた。あれはもしや、血が繋がっているのに自分に変な気を起こされては困るという、そういう予防柵ではなかったのか?

 というわけで、この日、マリー・ルイスが夕食の仕度をしている時を見計らって、彼女の寝室へ行き、多少の良心の咎めを感じつつ、女の枕元から黒い毛髪を何本か採取してイーサンはプラスチックの袋へ入れた。庭から切ってきたらしい庚申薔薇が花瓶にあったせいで、その香りが鼻孔をつくのと同時、イーサンはあることに思い至る。

 屋敷の中全体が以前よりもなんとなく……家庭的というのか、前以上に何かところどころあちこちに女の匂いのするものに変わっているような気がした。もし仮に彼女ではなくても、若い女が家にいるというだけで、こうも変わるものだろうかと、イーサンにしても一瞬思ったほどに。

 なんにしても翌日、ランディとロンの勉強を見てやったあとで、その髪の毛を民間の遺伝子研究ラボへ持っていった。イーサン自身がケネス・マクフィールドの実の息子かどうかを調べた民間のラボでもあり、ケネスの死後、やはり彼の娘や息子を名乗る人物が現れるかもしれない可能性のあることから――彼自身の遺伝子についてはすでにここで保存したままになっているのである。

「毛髪ということになると、少々時間がかかりますよ」とイーサンは言われたが、「それで構わない」と答えていた。というより、イーサン自身はこの時、ほとんどマリー・ルイスと自分、また自分の弟妹たちとは同じ父から生まれてきたのだと信じて疑いもしなかったといえる。というのも、『不審な点のないのが不審だ』とマグダが言ったように、マリーのことを子供たちがまるで当たり前のように受け入れ、一緒に食事している姿を見ているだけでもわかる。

(こんな豚児どもを可愛がれるのは、血の繋がりでもなければ絶対に無理だ)というそのことが……。

 そんなわけで、二週間ほどの間ロンとランディにみっちり勉強を教えこみ、アメフト部の合宿へ向かうというその時――イーサンの心に心配はもうなかった。ラボのほうから結果についての報告はまだ来ていないにせよ、おそらく間違いなくそうだとの確信が彼にはあったからである。

 また、一度そうした「納得できる理由」さえ出来れば、マリー・ルイスが引き続き屋敷にいること自体に、イーサンは異論を唱えるつもりはない。彼女の家族背景がどのようなものであるにせよ、おそらくはそう恵まれたものでなかったに違いない。そこで、自分と同じように最初は死んだと聞かされていた父親が生きていると知らされたか何かして、その後さらに半分血の繋がった五人もの弟妹の存在を知った、だが、幼い子らに自分もまた隠された腹違いの姉だなどと名乗り、混乱させたくなかった……何かそんなところなのだろうという気がしたのだ。

 マリー・ルイスという女がマクフィールド家の財産を狙っているという説については、イーサンも疑いを捨てたわけではないが、そうした可能性は少なそうだと見ている。もちろん、引き続き警戒を怠るつもりはなかったが、最初から金目当てであるならば、もっと色々とうまくやりようがあっただろうというのが、その最たる理由である。

 だが、アメフトの合宿がはじまって一週間ほどの過ぎたある週末のこと、仲間とスポーツバーへ繰りだしていたイーサンは、例の民間のラボから結果を知らされて、一気に酔いの醒める思いがした。ケネス・マクフィールドとマリー・ルイスの間に血の繋がりはない――そういう結果が出たと、電話の女性は言った。

 イーサンは、引き続きバーのカウンターで、アメフト部のレギュラーメンバーと酒を飲み、笑いあいながらも(その中には当然マーティンもいた)、頭の片隅ではマクフィールド家の屋敷のことを考えずにはいられなかった。

(血の繋がりがないだって!?ということはあれか。あの女はそれにも関わらず、あの豚児どものメシを毎日作ってやり、おねしょの始末をしてやったりしてるってことか。いや、財産目当てに今暫くならそんなことにも耐えられるとか、もしそういうことだとしたら……)

 酒が回っていたせいもあってか、イーサンはこの時、嫌な映像が頭の中を巡りはじめていた。食事に毒を盛られるランディ、自殺したように見せかけて殺されるロンの姿、プールに落ちて溺死するココ、就寝中、顔に枕を押しつけられるミミ……ここまで想像するとイーサンは、いてもたってもいられなくなって、仲間とバーで騒ぐどころではなくなっていた。

 腕時計を見ると、午後の九時を少し回ったところである。仮に合宿中でも、週末の自由時間は各個人が好きなように過ごしていいことになっているため、イーサンは隣のマーティンに自宅へ戻る旨伝え、ジャスティン・ティンバーレイクの『Sexy Back』が大音量で流れる店内を抜け出ることにしていた。歩いて五分もかからない駅から地下鉄に乗り、自宅に近いヴィクトリアパーク駅で下りた。そして花盛りの広大なヴィクトリアパークの敷地を抜け、まだ部屋のあちこちに明かりの残る屋敷へとイーサンはそっと舞い戻ったのだった。

 おそらく、家族のうち誰も自分が戻って来るとは夢にも思っていないことだろう。だが、それで良かった。何故といってイーサンは泥棒のように屋敷内へこっそり忍び込み、弟や妹たちの安否の確認をしたいというだけであったから……。

「ほら、そろそろゲームはやめにして、眠る時間よ。またあとで様子を見に来ますからね。もしその時までにベッドに入ってなかったら、ゲームの電源を落としちゃうから」

 暗い廊下に、「わかってるって」と、ランディがぶつぶつぼやく声が聞こえる。そしてマリーは隣のロンの部屋へ行くと、五分くらいしてからそこを出てきた。話し声のほうがあまりに小さかったので、廊下に並ぶ彫像のひとつに隠れているイーサンには、ふたりの会話までははっきり聞こえない。それでも、ロンが生きていることだけは間違いないと見ていいだろう。

(しっかし、馬鹿な女だよな)と、イーサンは思う。子供たちがその気になれば、一度寝た振りをして、マリーがいなくなりあたりがしんとしてから再びゲームをするなり漫画を読むなりすればいいという、これはそういう話でもある。自分がこの屋敷で寝泊りしている間は、いつ兄が切れるかわからないとの用心から、彼らも規律正しい生活を心がけてはいただろう。だが、マリーが相手では抜け道などいくらでもあるとしか、ロンもランディも思わないに違いない。

(それはココも同じだが……そういやあいつ、俺が合宿に向かう前日、モニカやカレンや他の友達とパジャマパーティがしたいってあの女に言ってたっけな。俺はとりあえず、女同士のことと思って黙っていたが、いつそんなことをするつもりなのやら)

 このことに関しても、マリーが「もちろんいいわよ」と答えていたのをイーサンは覚えている。彼自身の考えでは、自分のいない時にこの屋敷で何が起きようと、ある程度のことはどうでもよかった。ロンやランディたちが、甘いおねえさんの監視の目をかいくぐって実は夜更かししているのでも、ココが女友達を呼んで自分の部屋で騒いでようと、そんなこともどうでもいい。

 なんにしても、イーサンはココに関しては彼女の部屋まで存在を確認しにいかずとも、上の妹は間違いなく生存しているだろうと確信することが出来た。そして、階段を使ってこっそり二階まで下り、マリーが自分の寝室へ向かうのを見たその瞬間――夜気に触れてすっかり酔いが醒めたせいもあり、イーサンは自分のしていることがすっかり馬鹿らしくなっていた。

 アルコールが人間の正常な判断力を奪うというのは本当のことなのだろう。だが、夜寝る前にマリーがおそらくは警報装置をセットしているだろう関係から、イーサンは彼女に何も言わずにここから出ていくということが出来ない。そこで仕方なく、マリーの寝室のドアをそっとノックした。すぐ隣ではミミが寝ているため、彼はほとんど忍者のように気配を消したまま、小さな音を立てたのだった。

 四人の子供のうちの誰か――と思っていたマリーは、ドアの外にイーサンの姿を見出して、当然驚いた。何故なら、一階のドアや窓などの戸締りをしっかりしてから警報装置をセットし、彼女は自分の二階の寝室まで上がってきていたからだ。

「……どうかなさったんですか?」

「まあ、ちょっと色々あってな」

 あのままアメフト部の馬鹿どもと酒を飲んで騒いでいれば良かったと後悔しつつ、イーサンは溜息を着く。

「あんたに話があって戻ってきたんだ。ここじゃなんだから、下のリビングかどこかで話をしよう」

「べつに、ここでも構いませんけど。でも、隣でミミちゃんが寝てるから……」

 ミミの部屋のドアは、いつも夜は数センチだけ開いている。そしてマリーの部屋のドアも数センチだけ開いている……これがどういう心理効果を子供に及ぼすのかはマリーにもよくわからない。けれど、そうしておきさえすればミミがぐっすり眠れるらしいということだけはわかっていた。

 すると、隣のミミの部屋から「あーい、あいっ!!」という寝言が聞こえてきて、イーサンもマリーも笑った。彼女が寝ていることをふたりは確認したのち、そっと足音を忍ばせて階下までいった。その姿はなんだかまるで、子供が寝たあとに夜の営みをしようという夫婦に似ていなくもない。

「あーあ、やれやれ。俺はついさっきまで部の連中とスポーツバーで飲んでるところだったんだ。何分、一週間もの間こってりコーチにしごかれたもんで、すっかり解放気分に浸ってたんだな。ところがそこへ、遺伝子検査の結果が出たっていう知らせが携帯のほうへ来て、そしたらいてもたってもいられなくなっちまって、ここまですっ飛んできたんだ」

「遺伝子検査の結果?」

(どういうことだろう)という顔をマリーがしているのを見て、イーサンはキッチンの棚のひとつからワイルドターキーを取りだすと、グラスに氷を入れてそこにウィスキーを注ぎこんだ。そしてキッチンに寄りかかったままで話の続きをする。マリーはダイニングテーブルの椅子にいつも通り行儀よく座っていた。

「はっきり言おう。俺は今もあんたに対してうさんくさいと思う気持ちが強い。もちろん、あのガキめらも懐いてるし、どうにも完全には信頼できないとか、そういう気持ちには目を瞑ろうと思わなくもなかった。だが、友達なんかからな、あんたが実は親父の隠し子なんじゃないかって言われて……そういうことなら納得できるって気がしたんだ。だが、念には念を入れと思って、こっそりあんたの毛髪を盗み取って、民間のそういうことを調べてくれるラボに依頼した。そしたら、あんたと親父の間にはなんの血の繋がりもないっていうじゃねえか」

「お父さまのケネスさんと、わたしの間に血の繋がりがないと何かまずいんですか?」

 マリーは相も変わらず、要領をえないというように、きょとんとした顔をしたままでいる。

「いや、はっきり言おう。俺はあんたのことが気持ち悪い」

 寝室に来た時から息が酒くさかったとはいえ、マリーは面と向かって「気持ち悪い」などと言われ、心が傷ついた。そして彼女が自分の言葉に傷ついたらしいと見てとり、イーサンにしても罰の悪い気持ちになる。

「だってそうだろ?せめても血が繋がってるっていうんなら、あの始末の悪いガキめらの面倒を甲斐甲斐しく見てるっていうのも少しは理解ができる。もう他に血の繋がった親族もないと思っていたのに、半分とはいえ血の繋がっている弟や妹がいる……これを可愛がってなんの悪いところがあるだろうとか、そんな具合でな。この際だからはっきり聞こう。あんた、一体何者なんだ?一体何が目的で、この屋敷にいる?まさかとは思うが、幼い今のうちにあのガキどもに恩を売っておけば、将来親父の財産を受け取った時に自分もおこぼれに与れるだろうとか、そんな遠大な計画を夢見てんのか?」

「べつに、そうしたことは関係ありません」

「じゃあ、一体なんだ?俺はあんたの本心が知りたいんだ。もし財産目当てっていうんなら、むしろそのほうが俺としてはスッキリするし、安心してこの屋敷を留守にも出来るんだ。あのしつけの悪いガキめらの面倒を見るかわり、大体このくらいの手当てが欲しいとか、そういうことでもない限り――俺はむしろあんたを信用できない。あんたは笑うだろうがな、俺も随分色んなことを想像したよ。実は親父に昔泣かされた女の娘で、その復讐のために本妻の子供たちのいる屋敷へやって来たとか、そんな三流の芝居じみたことなんかをな。だが、女中のマグダはいずれこの屋敷を辞めたいっていうし、そしたらこの屋敷にはあんたと子供たちだけってことになる。俺には大学生活があるし……」

 マリーはイーサンのそば近くまでいくと、彼の手からワイルドターキーを取りあげ、それをラッパ飲みして二口ほど飲んだ。すると、次の瞬間にはげほげほっと咳をつきはじめる。

「おい、大丈夫か、あんた……」

 咳き込みが落ち着くと、マリーは最後に流しのところにぺっと一度唾を吐いた。そして口許を拭いながらイーサンのほうを振り返る。

「わたしがもし、あなたの見ていないところで子供をぶったりして、それで夜はお酒でも飲んでいたらあなたは満足なんでしょう」

 ――話はそれきりだった。あんまり咳き込んでしまったそのせいか、あるいは別の理由かはわからなかったが、マリーの瞳には涙が滲んでいた。イーサンはイーサンで、彼女を慰めるために寝室まで追いかけていくことも出来ず、暫くリビングで酒をちびちび飲むしかなかった。そして気づいた時にはそのままソファで寝てしまい、朝になっていたのである。



 >>続く。





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