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中国電影迷

「中国」在住の「電影」好きの「迷」子のブログ。
映画の紹介と日常の心象風景のワンシーンを記録しています。

映画「天安門、恋人たち」

2012年03月18日 | 大陸映画

「天安門、恋人たち」(原題:颐和园)
監督:婁
出演:郝蕾、郭暁冬、胡伶
2006年作品

<あらすじ>
1987年、余紅のもとに北京の「北清大学」から合格通知が届いた。余紅は故郷の恋人暁軍と離れ、北京で大学生活を始め、個性的で美しい余虹は学生たちの間でも注目される存在になっていた。
そんな中、余紅は友人の李緹たちを通じて周偉と出会う。2人はすぐに恋に落ちるが、強く結びつけば結びつくほど気持ちが近づいたり離れたりを繰り返してしまい、ついには李緹もこの複雑な関係に巻き込まれてしまう。
1989年夏、北京の大学生たちが参加していたデモを軍が鎮圧した。天安門事件である。事件後、余紅は大学を中退して故郷に戻り、周偉は李緹とその恋人若古の助けを借りてベルリンに移った。2人はそれぞれ新しい生活を始め、長らく連絡を取ることはなかった。
数年後、周偉は中国に戻り、既に結婚していた余紅を見つけ出し、再会を果たす。
離れ離れになってから片時も相手のことを忘れなかった2人だったが・・・。

春が本当に苦手。
冬のあいだに、地中で眠り続けていた植物や生物などの獰猛な生命体のエネルギーが満ちる春は小さな頃から得意ではなかったけど、ここ数年はこの時期に鮮烈な記憶を重ねすぎた。
日に日に増えていく空の酒瓶を見やりながら、この春を恙無く越えられるかどうかが不安になる。
もしまともに乗り越えられたら、今度こそ春のない国に住んで、春にまつわる記憶を何年もかけて癒すことをまじめに考えよう。

さて、そんな不穏な春の夜にまた強烈な映画を観てしまった。

監督は、「ふたりの人魚(蘇州河)」「パープルバタフライ」で名を馳せた第六世代の鬼才婁。
外国資本で映画制作をすることが多いインディペンデント的作風で知られる監督です。

この映画も過激な性描写と中国共産党史上最大のタブーとされる天安門事件を扱ったことから当局に上映禁止とされ、監督とプロデューサーが5年の映画の制作禁止という処分を受けたセンセーショナルな作品である。
当時、中国国家広播電影電視総局(ここから許可が下りないと国内では上映できない)は「音声と映像が非常に不鮮明」として初回の審査を棚上げし(←理由をはっきり言わず回答を引き延ばしするところなんかがいかにも中国のお役所的!)、翌年再申請されても、同様の理由で許可しなかったという。

そんな同作品ですが、日本では2年後の2008年に公開されています。
さすが自由な国日本(上映はイメージフォーラム)。

中国国内で上映禁止となった原因は、過激な性描写と天安門事件の描写が理由とされているけれど、李安監督の「色・戒(ラストコーション)」が一部の性表現が制限されながらも上映に許可が下りたことをみると、引っかかったのはそこではなく、天安門事件の描写だったことが明白。
とはいえ、この映画はテーマも内容も天安門事件に主眼をおいているものではなく、事件についても、主人公である大学生の青春時代のヒトコマという扱われかたであることから、この程度で大騒ぎするところをみるとにつけ、当局が今もって同事件をタブー視し、抹殺しようとしているのが逆に際立つ格好となっている。

同監督はまた過激な政治的メッセージを持つことでも知られているため、恐らくその時代背景と主人公たちの動きを分析してみれば、作品に込められたそのメッセージを浮かび上がせることが容易にできるのかもしれないけれど、この作品を初めて観た私にはそちらにまで神経が及ばなかった。

ヌーベルヴァーグを思わせる、効果的な音楽の挿入、幻想的な映像、詩的な台詞によって構成されたこの映画はあまりにも美しく、また、年代的にも境遇的にもまだ私に近いこの作品を、突き放して客観的に分析することが出来るようになるまでには、少なくとも何度かの春を乗り越えなければいけないような気がする。

私にとってのこの作品をひとことでいえば「懐かしい」である。

中国人でもない私が、映画のなかの中国の大学生の生活に懐かしさと切なさの入り混じった憧憬を感じ、天安門事件からベルリンの壁崩壊、ソビエト連邦の崩壊、小平の台頭、香港返還と中国のドラマチックな歴史に胸を熱くさせるのはなんだかおかしいはなしだが(実際私の中国とのかかわりは1999年からだし)、それは私が中国の人々と密に関わった結果、彼らの持つ歴史観、時代のビジョンをそのまま自分の歴史として背負い、感じてきたからだと思う。

さらに認めなければならないのは、私がそのような感覚を持つに至った10年の中国生活のなかで、最も大きな存在だった中国人の恋人である。

3年前に彼をひどく傷つけて一方的に別れを通告して以来、私は彼と正面から向き合うのを避け続けている。
彼が私と会って話をしたいというのは、彼や彼と過ごした日々を全否定して彼の元を去った私に、過去を肯定した形で決着をつけてほしいのかもしれないし、私との未来にわずかの期待を寄せているのかもしれない。

でも私はもうそのどちらにも、彼の望むような耳障りのいい答えはできない。
彼以外の男性と外泊を繰り返すようになりながら、ギリギリまで嘘をつき続けていたのは、彼と別れる決心がついていなかったから。
別れた今はもう嘘はつけない。
善意であれ悪意であれ目的のない嘘はただの嘘だ。

彼からの時候の挨拶のメールすらも無視する私が、ここで“看到叫做颐和园的电影想起过去的我们了”(「この映画を観て昔の私たちのことを思い出したよ」)とでも言えば、彼に一定の感慨を与えることはわかっているが、さらに“不过分离之后我一直念念不忘的不是你”(「でも別れてもずっと忘れられないのはあなたではない」)と付け加えなければならない現実を突きつけるのは、今更必要のないことだと思う。

追記1:原題となった「颐和园」はかの西太后が夏を過ごしたといわれる宮殿で、英語名はSummer palace。
狂おしく激しい、熱っぽいこの年齢の特徴と「夏」はみごとにつながっていると思う。
商業的な思惑があるとはいえ、タイトルにはぜひ「夏」を入れてほしかった。

追記2:中国映画でエロスは描けないと公言してきたけど、この映画で撤回します。エロな映画に評価が甘いと言われるのを覚悟でこの映画は絶賛。



映画「上海ルージュ」

2011年12月29日 | 大陸映画


「上海ルージュ」(原題/ 搖啊搖, 搖到外婆橋、英題 Shanghai Triad)
監督:張芸謀
出演:鞏俐(コン・リー)他
1995年作品

<あらすじ>
1930年、13歳の水生は、叔父のリウを頼って田舎から上海へやってきた。リウは麻薬と売春組織を取り仕切るマフィアの大ボス・唐の元で働いていた。水生は唐の愛人で上海一の歌姫である金宝(コン・リー)の召使として働くことになる。だが金宝は唐の右腕で第一の部下である宋とも密かに関係を持っていた。水生は一見華やかな生活を送る金宝の、決して満たされぬ寂しい心の内を知ることになる。やがてギャング同士の抗争が激化し、金宝や水生は唐と共に遠く離れた小島にある秘密の隠れ家に向かうことになるが…。

コン・リーが好きだ。

張芸謀を踏み台にのし上がったとか、富豪と結婚してシンガポール国籍に切り替えたとか、そもそも大して美人じゃないとか、そんなのどうでもいいよね。

駄作であろうと、どんな汚れ役であろうと、どんな端役であろうと、いつも画面の彼女からは目が離せない。

この作品も全体的にぱっとしない作品なのだが、やっぱりコン・リーはいい。

上海のキャバレーの歌姫役なので、彼女自ら歌と踊りを披露。
歌はあんまり上手くないけど、踊りのときの腰つきはさすが。

コン・リーが気になりだしたのは、陳凱歌監督の「覇王別姫-さらば、わが愛」からだったと思うが、その映画の中でもいちばん印象的だったのは、愛する男性に裏切られるときの表情。

彼女は相手を怒るのでも罵るでもなく、嘆いて泣き喚いたり、命乞いをしたりすることもなく、涙をためて、口元をちょっと曲げ、鼻を鳴らして微笑み、ぐっと胸を張って自分の宿命を受け入れる。

その表情の素晴らしさと言ったら。

この映画でもコン・リーは同じ表情をする場面がある。

他の映画でも似たような表情をみるから、もしかしたら彼女の「修羅場」でみせる特有の表情なのかもしれない。

何度かあった私の「修羅場」では自分はどうだったろうかと思う。
往生際悪くてみっともないばかりだったような気がする。

いくら口では格好良く、潔く生きたいと言っても、私の今は、その格好悪さを土台に生きながらえているだけなのだ。




映画「花の影」

2011年12月16日 | 大陸映画


「花の影」(原題:風月)
監督:陳凱歌
出演:張国栄(レスリー・チャン)、鞏俐(コン・リー)
1996年作品

<あらすじ>
1911年、辛亥革命で清王朝は崩壊するが、富豪のパン家では主人一族が阿片に浸り、退廃的な生活を続けていた。
当主の妻の弟・忠良は幼少の頃、姉夫妻の身の回りの世話をしていたが、阿片中毒の彼らに性的虐待を受け、家を飛びだした。
1920年代の上海、忠良(レスリー・チャン)は上海マフィアのボスに可愛がられ、有閑マダムを騙して脅迫するジゴロとなっていた。
その頃パン家では当主が死去、阿片中毒で廃人同様になっている跡継ぎに代わり、その妹の如意(コン・リー)が実質上の当主となった。
マフィアのボスは同家の財産を狙って忠良を里帰りさせるが、如意は忠良に夢中になり、パン家を嫌っていた忠良もやがて彼女との愛し合うようになるが…。

中国の大富豪の一族の退廃的な生活を、クリストファー・ドイルの幻想的な映像で描写した作品です。
阿片中毒でデカダンな生活をしている人々の様子を、揺ら揺ら撮影しているのが実にマッチしています。

阿片中毒の男女に性的虐待を受けて、人を愛せなくなり、ジゴロとして、毎日享楽的に生きている主人公・レスリー・チャンが、ある意味純粋無垢なコンリーと恋に落ちる……というのが一応コアストーリーになっているのですが、レスリーとコン・リーの演技にはぜんぜん熱が感じられなく、「もしかして別撮り?」と思わせるほど、絡みにリアリティがありません。
一応コン・リーはがんばっているんですが、レスリー、いくら女に興味がないとはいえ、演技くらいちゃんとしようよ…。
でも自分に正直なレスリー・チャンは、なぜか嫌いになれません。

陳凱歌をいたずらに過大評価している日本では制作年に早速劇場公開していますが、中国でこの作品が話題になることは今もってほとんどありません。
実際検索しても、出てくるのは、陳凱歌と原作者の確執…とか作品の出来に関係ないものばかり…
出演者にしても、スタッフにしてもビックネームばかりで、さぞかし大作の呼び声も高かったのでしょうが、恐らく興業的には大コケした作品なんでしょうね。
DVDジャケットには「カンヌ映画祭招待作品」とありましたが、この内容で騙せるのは中国を良く知らない欧米人や、陳凱歌監督を過大評価している日本人だけだと思います。

さて、瑕を論おうとすれば、枚挙に暇がないこの作品ですが、個人的には非常に堪能できました。
それは劇中の台詞がとても美しいからです。

「夜長夢多」

脅迫しようと標的にしたマダムにうっかり夢中になりそうなレスリーにボスが言った一言です。
そのまま読むと、夜が長いと夢をいっぱいみることになる。転じて、物事は時間が長引けば好ましくない変化が起こりやすくなる、という意味です。

中国語を勉強し始めた10年前、私はこの映画でこの言葉を知り、なんて簡潔かつ的確で美しい表現なんだろうと感動しました。

全編を通じても、1920年代なので、現代語といえば現代語なのですが、あまり崩れていない台詞が良いです。

偏屈なわたしは、10年も日本を不在にする前から、流行語やいわゆる若者言葉、俗な言葉やスレた言葉が大キライでした。
それは言葉代わって中国語でも同じ。

私の使う中国語が古臭かったり、固すぎたりして、ときどき人に笑われたりするけど、私は、「流暢さ」より言葉への「こだわり」を追求したい。

今の目標は、中国語を母国語レベルに「個性的」に話せるようになること。

興味のない分野の専門用語や流行語、地方の方言がわからないことは気にしてないのですが、残念ながら、中国語では私の個性(?)である、辛口かつ下品なコメントがなかなか発言できていません。
なぜならこれらは表現方法が難しいし、場合によっては適宜フォローが必要になることが多く、それだけの言語力も瞬発力もまだまだ足りないからです。

そのため、私は中国人の前ではついつい無難な、先方が求める日本人(というか人間)を演じてしまい、なかなか素の部分を曝け出せ、自然体で付き合える友達が出来ません。

現代ドラマをみまくってスラングに精通するより、クラシカルな文芸作品を通じて美しい中国語を話せるようになり、いつの日にか、文学的表現を駆使した下世話な話題で、笑ってくれる友達ができるといいな。

映画「杜拉拉昇職記」

2011年11月08日 | 大陸映画


映画「杜拉拉昇職記」
英語名:「GO LALA GO!」
監督:徐静蕾
出演:徐静蕾、カレン・モク
2010年作品

久しぶりの大陸映画…ということで軽めな作品を選んでみました。

タイトルの「杜拉拉(ドウ・ララ)」は彼女の名前、「昇職記」はキャリアアップの記録という意味で、外資系企業で奮闘するOLが、底辺からHR部の主任になるまでの非常にわかり易いサクセスストーリーです。
ハイテンションな英語タイトル「GO LALA GO!」もいいね!

原作は実際に外資で働いていた女性作家が書いたもので、中国人女性の共感を得てベストセラーになったものですが、映画は、主人公のキャリアアップとラブストーリーをドラマチックに脚色したものとなっており、小説のように、共感者や、信奉者を生み出すものでというよりは、一種のエンターテイメントとして完成されています。

監督兼主役の徐静蕾は、以前もどこかで言ったような気がしますが、女優としての「華」がぜんぜん足りないと思うので、好みのタイプではありませんが、彼女の監督した作品は、女性ならではの視点が忠実に描かれていて結構好きです。
尤も彼女の作品には必ず韓三平や張一白などのベテランプロデューサーがついていることを考えると、これだけちゃんとした作品(作品のクオリティ&興行としての成功)に仕上げられているのが、どこまでが彼女の力量なのかはわかりません。
だけど、ブログが世の中に出始めたときに、いち早く芸能人ブロガーとして台頭し、あっという間に数万PVを記録した先見の明は、「顔が地味だから、別な分野でがんばらないと」と、謙虚に自身をポジショニングした結果ではないかと推察しています。
こういうネガティブ要素をポジティブ要素に転換しちゃう人、いいですよね。

ところで私は占いが好きで、今まで様々な占い師に見てきてもらっているのですが、「顔相」を見てもらったときに、難癖つけられた部分が「口元」と「歯」。
曰く、私のように「歯」が小ぶりで、「口元」が目立たない人は、イマイチ押し出しが弱く、そのせいで大きな成功を逃していると。
確かに、獅子舞やねこバスのように口元がぐわっとしている人はパワフルで強そうな感じですし、言うこと聞かないと食べちゃうぞ的な迫力が、渡世では必要なときもありそうです。
なので徐静蕾さんの小ぶりでやや貧相な口元を見るたびに、ああ彼女もその口元のせいでビックチャンスを逃しているのねと同情してしまいます。

さて、この映画の一番の見どころは、登場人物たちの服装。

登場人物のOLたちの通勤スタイルの派手なこと派手なこと。
毎日がレッドカーペットですか?ってくらい派手。
もちろんみんなモデル級にスタイルが良いからなんですが、サテン等の露出度高めのドレス、ピンヒール、厚化粧、巻き髪、でかいイヤリング+バングル+ネックレス、これで仕事するとしたら、じつにパワフルで圧倒されます。
私なんて、毎日仕事をするのがやっとで、おしゃれに割く時間もエネルギーもなく、最低限の装備で通勤しているというのに。
最近歳のせいか重量のある装飾品も避けるようになってきました。肩凝るんですよね。

中国の外資系企業では本当にこれ普通?なんでしょうか?
そんなことあるわけないじゃない、映画のなかだけだよ、と即座に否定できないポテンシャルを、中国人の彼女たちは持っているなと、私が現在勤務するわりと地味めの会社の現地職員さんの服装を見ていても思うわけです。

うちの会社だけでなく、他の会社のOLさんたちの服装を見ていても、結構面白いです。
私もどちらかというと、日本人のくせに奇抜な(ナメた)服装で会社に行っているほうなので人のことは言えませんが。

それにしてもなんなんですかね、こちらの人のセンスは。色あわせとか、模様とか、素材とか大胆で、しかも相当な派手好みです。
中国の方はスタイルが良く、素がいいだけに、このようなファッションセンスが本当に残念でなりません。

登場人物たちの服装以外にも、この映画はたくさんの見どころがあり、例えば主役の男性がボウズで顔が超地味で、でもモテモテで、元カノがカレン・モクで、今カノが徐静蕾という設定も、イケメンクライシスな感じで新鮮ですし、口元がぱっとしなくて残念な徐静蕾とは対照的に、正統派美人じゃないのに、口が大きくて、いわゆるファニーフェイスのカレン・モクも見ていて飽きないです。

恋人と別れて、その恋人が中国から去ってしまったのに、いつかつながるかもという淡い期待を抱きつつ彼の携帯に何度も電話して、それで彼の携帯電話のアナウンスはしばらくは「この電話は電波の届かない場所にあるか…」なんだけど、半年過ぎると番号自体が無効になっちゃうから、ついにアナウンスが「この番号は使われておりません」になっちゃうとか。
この行動、私とまったく同じで×笑○泣けました。

元カノとのゴタゴタをみちゃった腹いせに、ぱーっと貯金使い果たして車買っちゃうような男気が私にあれば、別れたあとにしつこく携帯に電話なんかしちゃったりしても、2年後くらいに最後は思い出の地(タイ)で再会…っていう普通「ありえねーよ」っていうラストも可能なのかもしれないですね。

ま、いい歳してそんな夢見がちなことをのたまってないで、今はキャリアアップにGO!GO!、か、かな?(←弱気)

映画「緑茶」

2011年05月16日 | 大陸映画

「緑茶」
監督:張元
出演:姜文、趙薇(ヴィッキー・チャオ)
2002年作品

<あらすじ>
大学院に通う内気な呉芳(ヴィッキー・チャオ)。理想の男性を求めてお見合いを繰り返す彼女は、いつも相手に会うとき、緑茶を飲んでいる。恋愛経験豊富な陳明亮(姜文)は、なかなか心を開かない彼女に次第に惹かれていく。ある夜、陳明亮は、ホテルのラウンジで呉芳とそっくりだが派手な外見のピアニスト、朗朗と知り合う。だが彼女は、呉芳とは正反対の奔放な女性だった…。

前回、第六世代の監督の「ふたりの人魚」について書きましたが、同じ第六世代監督つながりで、張元監督の作品です。
日本ではあまりヒットしなかったようですが(なぜか製作されてから4年後の公開)、地味ながら味わいのある作品だと思います。

張元監督の得意とする、演技的な動きを極力排除した、リアリティ溢れる演出と、中華圏の監督に大きな信頼を寄せられているカメラマン、クリストファー・ドイルのみずみずしく爽やかな空気感を上手く表現した映像、そして一番素晴らしいのは、彼らの台詞の数々。実用的かつ美しく、深みがある台詞。
中国語習いたての時は、よく映画やドラマの台詞を書き出して勉強していましたが、久々にもう一度それをやってみたくなりました。

「世の中に悪い人はいない。いるのは商売人だけだ」

とかね。よく中国人が言っている言葉ですが。
私は何を売っているんだろう?
あなたは何を売っていますか?

さてこれは恋する男性の物語。
主人公の男性は、女性に恋するや否や、ひたすら聞き役に徹するのが面白い。
女性は話を聞いてくれる男性に弱いということなのでしょうか。

ただ、私の場合、恋に「落ちる、落ちない」と「会話」(もしくは対話)はあまりリンクしません。
私にとって、恋とは、抗いようもなく落ちちゃうもの。
その状態でい続けられるかどうかに「会話」は重要な役割を果たしますが、初動段階で「落ちる」ことがなければ、どんなに「会話」や接触を続けても、恋愛に発展することは皆無。
友達から恋人になるとか、(私にその気もないのに)一方的にアタックされて好きになっちゃうとか今まで一度もなかったんだよね。
受け身なところがあんまりないので、女性ではめずらしいと言われますが、たぶん感性が動物に近いんでしょう。モノ言わぬ動物に。