
「天安門、恋人たち」(原題:颐和园)
監督:婁
出演:郝蕾、郭暁冬、胡伶
2006年作品
<あらすじ>
1987年、余紅のもとに北京の「北清大学」から合格通知が届いた。余紅は故郷の恋人暁軍と離れ、北京で大学生活を始め、個性的で美しい余虹は学生たちの間でも注目される存在になっていた。
そんな中、余紅は友人の李緹たちを通じて周偉と出会う。2人はすぐに恋に落ちるが、強く結びつけば結びつくほど気持ちが近づいたり離れたりを繰り返してしまい、ついには李緹もこの複雑な関係に巻き込まれてしまう。
1989年夏、北京の大学生たちが参加していたデモを軍が鎮圧した。天安門事件である。事件後、余紅は大学を中退して故郷に戻り、周偉は李緹とその恋人若古の助けを借りてベルリンに移った。2人はそれぞれ新しい生活を始め、長らく連絡を取ることはなかった。
数年後、周偉は中国に戻り、既に結婚していた余紅を見つけ出し、再会を果たす。
離れ離れになってから片時も相手のことを忘れなかった2人だったが・・・。
春が本当に苦手。
冬のあいだに、地中で眠り続けていた植物や生物などの獰猛な生命体のエネルギーが満ちる春は小さな頃から得意ではなかったけど、ここ数年はこの時期に鮮烈な記憶を重ねすぎた。
日に日に増えていく空の酒瓶を見やりながら、この春を恙無く越えられるかどうかが不安になる。
もしまともに乗り越えられたら、今度こそ春のない国に住んで、春にまつわる記憶を何年もかけて癒すことをまじめに考えよう。
さて、そんな不穏な春の夜にまた強烈な映画を観てしまった。
監督は、「ふたりの人魚(蘇州河)」「パープルバタフライ」で名を馳せた第六世代の鬼才婁。
外国資本で映画制作をすることが多いインディペンデント的作風で知られる監督です。
この映画も過激な性描写と中国共産党史上最大のタブーとされる天安門事件を扱ったことから当局に上映禁止とされ、監督とプロデューサーが5年の映画の制作禁止という処分を受けたセンセーショナルな作品である。
当時、中国国家広播電影電視総局(ここから許可が下りないと国内では上映できない)は「音声と映像が非常に不鮮明」として初回の審査を棚上げし(←理由をはっきり言わず回答を引き延ばしするところなんかがいかにも中国のお役所的!)、翌年再申請されても、同様の理由で許可しなかったという。
そんな同作品ですが、日本では2年後の2008年に公開されています。
さすが自由な国日本(上映はイメージフォーラム)。
中国国内で上映禁止となった原因は、過激な性描写と天安門事件の描写が理由とされているけれど、李安監督の「色・戒(ラストコーション)」が一部の性表現が制限されながらも上映に許可が下りたことをみると、引っかかったのはそこではなく、天安門事件の描写だったことが明白。
とはいえ、この映画はテーマも内容も天安門事件に主眼をおいているものではなく、事件についても、主人公である大学生の青春時代のヒトコマという扱われかたであることから、この程度で大騒ぎするところをみるとにつけ、当局が今もって同事件をタブー視し、抹殺しようとしているのが逆に際立つ格好となっている。
同監督はまた過激な政治的メッセージを持つことでも知られているため、恐らくその時代背景と主人公たちの動きを分析してみれば、作品に込められたそのメッセージを浮かび上がせることが容易にできるのかもしれないけれど、この作品を初めて観た私にはそちらにまで神経が及ばなかった。
ヌーベルヴァーグを思わせる、効果的な音楽の挿入、幻想的な映像、詩的な台詞によって構成されたこの映画はあまりにも美しく、また、年代的にも境遇的にもまだ私に近いこの作品を、突き放して客観的に分析することが出来るようになるまでには、少なくとも何度かの春を乗り越えなければいけないような気がする。
私にとってのこの作品をひとことでいえば「懐かしい」である。
中国人でもない私が、映画のなかの中国の大学生の生活に懐かしさと切なさの入り混じった憧憬を感じ、天安門事件からベルリンの壁崩壊、ソビエト連邦の崩壊、小平の台頭、香港返還と中国のドラマチックな歴史に胸を熱くさせるのはなんだかおかしいはなしだが(実際私の中国とのかかわりは1999年からだし)、それは私が中国の人々と密に関わった結果、彼らの持つ歴史観、時代のビジョンをそのまま自分の歴史として背負い、感じてきたからだと思う。
さらに認めなければならないのは、私がそのような感覚を持つに至った10年の中国生活のなかで、最も大きな存在だった中国人の恋人である。
3年前に彼をひどく傷つけて一方的に別れを通告して以来、私は彼と正面から向き合うのを避け続けている。
彼が私と会って話をしたいというのは、彼や彼と過ごした日々を全否定して彼の元を去った私に、過去を肯定した形で決着をつけてほしいのかもしれないし、私との未来にわずかの期待を寄せているのかもしれない。
でも私はもうそのどちらにも、彼の望むような耳障りのいい答えはできない。
彼以外の男性と外泊を繰り返すようになりながら、ギリギリまで嘘をつき続けていたのは、彼と別れる決心がついていなかったから。
別れた今はもう嘘はつけない。
善意であれ悪意であれ目的のない嘘はただの嘘だ。
彼からの時候の挨拶のメールすらも無視する私が、ここで“看到叫做颐和园的电影想起过去的我们了”(「この映画を観て昔の私たちのことを思い出したよ」)とでも言えば、彼に一定の感慨を与えることはわかっているが、さらに“不过分离之后我一直念念不忘的不是你”(「でも別れてもずっと忘れられないのはあなたではない」)と付け加えなければならない現実を突きつけるのは、今更必要のないことだと思う。
追記1:原題となった「颐和园」はかの西太后が夏を過ごしたといわれる宮殿で、英語名はSummer palace。
狂おしく激しい、熱っぽいこの年齢の特徴と「夏」はみごとにつながっていると思う。
商業的な思惑があるとはいえ、タイトルにはぜひ「夏」を入れてほしかった。
追記2:中国映画でエロスは描けないと公言してきたけど、この映画で撤回します。エロな映画に評価が甘いと言われるのを覚悟でこの映画は絶賛。