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中国電影迷

「中国」在住の「電影」好きの「迷」子のブログ。
映画の紹介と日常の心象風景のワンシーンを記録しています。

映画「ふたりの人魚」

2011年05月07日 | 大陸映画

「ふたりの人魚」(原題:蘇州河)
監督:婁
出演:周迅
2000年作品

<あらすじ>
上海に住んでいる「僕」の仕事はビデオの出張撮影。
ある日、撮影にでかけたバーで「僕」は水槽の中で泳ぐ美しい人魚にひとめぼれしてしまう。
彼女の名前は「美美(メイメイ)」。付き合い始めた「僕」と「美美」。
しかし彼女には不思議な行動が多く、しかもある日、彼女のことを自分の恋人、「牡丹(ムーダン)」だと言いはる男、馬達が現れた。

私の好きな張元監督と並び、中国映画界の「第六世代」の代表的な監督と言われる婁監督の作品です。
第五世代の陳凱歌や、張芸謀監督との違いは、映画にプライベートな視点を持ちこみ、家庭用ビデオカメラなどで手持ち撮影などを行い、インディペンデント的な要素が強いところなのですが、この世代の監督、私は張元監督以外はあまり好きじゃありません。
特に海外で評価の高い賈樟柯監督とか。
彼の作品では、社会の底辺の人たちを描いた作品が多いのですが、「中国の資本主義化やグローバリズムがもたらす社会の矛盾」とかにあんまり興味のない私は、美しいものがひとつも出てこない彼の映画を見続けるのが非常に苦痛です。
この映画の監督である婁監督の作品の特徴は、第六世代の監督の特徴のそれに加えて、物語の筋が「わかりにくい」という点。
仲村トオルとチャン・ツイイイー(笑)が出演した、「パープル・バタフライ」(紫蝴蝶)もわかりにくかったな。

それにしてもさすが日本!
中国ではこの作品、なんとなくだっさい映画という扱いなのに、「ふたりの人魚」なんてロマンチックなタイトルになっちゃって、メインで使われているのも、こんなにポップで可愛らしい写真なのも驚き。

さてそんなこんなで婁監督もあんまり好きじゃないし、今は気分的に恋愛モノの映画は観たくないんですが、現在アメリカ在住のSweet Heartがこの映画を観たいと言うので、彼女の代わりに観て見ることにしました。

蘇州河の流れる上海を舞台に、繰り広げられる恋愛ドラマ。
私はこの映画を観ながら、「ああ私はこっち側(中国)の人間なんだな」と改めて確信しました。
なんていうか外国人が「おっ」と喜びそうなシーンが嫌で嫌で仕方がない。
例えば、「なんでも撮影します」という広告を橋げたや壁や道路にスプレーで書いたり、荷物を運ぶことを仕事にしているバイク便、いかがわしいクラブ、こ汚い散髪屋、薄暗い倉庫、不衛生な川縁のアパートなどなど。
外国人から観たら、異国情緒(?)的なものかもしれないけど、私にとっては単なる日常。
中国に来たばかりのころは、こういったものにもカルチャーショックを受けつつ、社会背景や、市井の人々の生活に思いを馳せたりしていたのですが、旅行者気分のすっかり抜けた今、自分は何もできないくせに上から目線で彼らを観察するのが偽善的で嫌なんです、すごく。
あと、私は、映画に「美しさ」や「夢」や「希望」を求めているので、あんまりしみったれた感が漂う映画は好きじゃないですね。
男女の関係もそう。
「孤高」の孤独はいいけれど、なるべくしてなった孤独に甘んじているくせにどこか人恋しい…みたいな男女が、同病相哀れむ的な孤独の埋め合わせでくっつくのは、低レベルな結びつきの感じがしてすごく嫌です。
私がそうしたくないだけで、そうせざるを得ない人は勝手にやってればいいと思うけど。

ちなみに周迅は好きな女優ですが、この映画に出てくる彼女は若すぎてあまりかわいくない。
年齢的にそう若くはない、今の方がぜんぜんいいです。

私も周迅みたいに歳をとればとるほどいい女になるタイプだと信じたいです。

今日の毒舌度:☆☆

映画「画魂」

2011年02月07日 | 大陸映画

「画魂」
監督:黄蜀芹
出演:鞏俐
1992年

<あらすじ>
1920年代の中国(当時は中華民国)・安徽省。娼館の下働き玉良に水揚げの時期が迫り、女主人は新任の官吏・潘贊化の妾に彼女を推すが清廉潔白な彼は受け入れない。
しかし娼館で屈辱を受けた玉良に潘贊化が同情したことからふたりは親密になるが、潘贊化には本妻がおりスキャンダルとなって彼は職を失う。
ふたりは上海に移り、玉良は絵画の勉強を始める。
子どもをほしがる玉良だが、妓女だった彼女は不妊症になっており、本妻を呼び寄せて子どもをもうけるよう薦める。
玉良はそれまでにも増して創作活動に打ちこみ、やがて自由な芸術活動を奨励する学校に対する圧力に堪えかねてパリに留学。
パリでの成功が認められて南京中央大学の教授職を得て帰国するが、展覧会を報じる新聞で妓女であった過去が暴露される。
失意のうちに玉良はパリに戻り、4000点にも上る作品を残し、77年に82歳で世を去った。

この映画の主人公である潘玉良は、中華版「モディリアーニ」的な画風の画家。
(写真で見る限り本人はあんまり美しくないのが残念)
もともとは、娼館の女性でした。
色街での用語は、日本語でも特殊ですが、それは中国語も同じ。
「開瓜」(処女喪失)、「千人騎、万人圧」(セックス)
など、初めて触れる単語が続々出てきました。
それにしても隠語ってなんて雅(?)で素敵なんでしょう。

仕事上必要な、「日中なんとかなんとか会議」「日中なんとかなんとか協定」「なんとか部なんとか委員なんとか主任」みたいな
単語は何十回繰り返しても覚えられないくせに、この手の中国語はいっぺんに頭に入ってくるから不思議です。
しかし使う機会はたぶんない。
ああー中国人の前では大和ナデシコぶっている私がもどかしい。

この作品はコン・リー+張芸謀(プロデューサー)がタッグを組んでいるにも関わらず、扱いが割と地味ですが、私的にかなりのヒット。

どうでもいい駄作だと、「けなし」「批判」に向かって思惟が収れんしていくのに、ちょっとでもシンパシーを感じてしまうと、ただただ気持が同調してしまうだけで、思惟は散漫なままで、思考の整理の手を止めてしまう私。

愛する男性への想いを原動力に何かをクリエイトできる女性ってとっても羨ましいと思う。

この潘玉良は「絵」だし、エディット・ピアフは「歌」。
世の中の多くの女性は「子供」。

私にはいったい何がつくれるんだろう?
考えたら何もない。
それは与えられることにアグラをかいて何の努力もしてこなかった自分のせい。

今日の毒舌度:☆(自分に対して)







映画「花の生涯~梅蘭芳~」

2011年02月01日 | 大陸映画

「花の生涯~梅蘭芳~」(原題:梅蘭芳)
監督:陳凱歌
出演:黎明(レオン・ライ)、孫紅雷、陳紅、章子怡(チャン・ツィイー)、余少群
2008年作品

<あらすじ>
京劇の名門に生まれ、その才能に恵まれた梅蘭芳(余少群/レオン・ライ)は若くして女形のスターへと登りつめていた。海外で学んだ邱如白(孫紅雷)は、彼の舞台に心を奪われ地位も家も捨てて梅蘭芳と義兄弟の契りを交わす。歌い手だった福芝芳(陳紅)と結婚し、邱のアドバイスを受けてさらに円熟味と輝きを増す梅蘭芳の舞台。そんな彼の前に現れたのが、京劇界きっての男形女優孟小冬(チャン・ツィイー)だった。瞬く間に惹かれ合うふたり。彼女の存在によって京劇界から一線を置くようになった梅蘭芳を引き戻すため、邱と芝芳はあらゆる方法でふたりを引き離そうとするのだった。

私の中での評価がほとんど地に落ちている陳凱歌監督作品です。
「無極」や「北京バイオリン」に比べると、ちゃんとした作品として成り立っている感じがしますが、偉大な京劇の大家「梅蘭芳」がちゃんと描かれているかどうかというと、これはもう……論外中の論外です。

それにしても、日本の陳凱歌の持ち上げ方はすごいね。

中国の伝統芸能、京劇界で最高の女形として語り継がれる梅蘭芳。妻と家族、愛人、芸を極めた梅蘭芳と京劇界に大きな影響を及ぼしたある男性の存在、そして師との確執…。また、彼の人生を大きく変えた一人の日本人将校との出会いに、愛と嫉妬、出会いと別れ。その全てが彼を舞台へと突き動かし、人々は彼の舞の虜になった――。激動の時代を愛と共に生きた、天才女形の壮絶なる生涯を描いた一大叙事詩。

この宣伝文句のどれひとつとっても虚偽広告にしか見えないのは、私の感性がおかしいのでしょうか?

また、「芸に生き、愛に生きる」っていうキャッチコピーですが、この映画を観る限り、この方、芸にも愛にも生きていないよね、っていうのが正直な感想。

何があっても感情を表に出さずにのらりくらりと、周りが持ち上げるままに、流されるように生きた、主体性のない男っていうふうにしか見えない。
京劇にも梅蘭芳にもそんなに造詣が深いわけじゃないけど、そんなのが「梅蘭芳」なわけないじゃないですか。
本当かどうか知らないけど、彼を支持した日本人将校は自殺までしてるんですよ?

だいいち、黎明(レオン・ライ)がミスキャスト。
こんな中身が空っぽ(そうな)俳優に、梅蘭芳がつとまるもんですか。
他の映画でも、積極的な肉食系女性に言い寄られて優柔不断に「あー」とか「うー」とか言ってる役が抜群に似合う彼は、顔ものっぺりしすぎて京劇の化粧がノリません。
現に彼が梅蘭芳役になってから、京劇を演じるシーンが格段に少なくなりましたものね。

それに比べて、前半部分の梅蘭芳役の余少群(本業が京劇役者)はなかなか。
師弟対決で、師匠が敗北を認めるシーンは涙なしにはみられません。
「負けることが恥なのではない。恐れることが恥なのだ」、師匠の言葉や演技からは「芸に生きる」ということの意味を感じることが出来ます。
(前半だけでこの映画が完結していたら、この映画は割りと高得点)

それからこの映画、盛んに愛、愛と謳ってますが、これは相手役の「日本人が大好きなチャン・ツィイー」でがばっと集客したいのがミエミエの作戦。
でも彼女との関わりは、映画に占める割合もほんの少し、映画ではまともにデートすらもしてないし、迫られて多少心が動いたかもしれないけど、その後の彼の人生にそれほど大きな影響を及ぼしたとは到底思えない描かれ方。
それで「愛に生き」って言われてもね。
どんなときでも観客を大切にしていた梅蘭芳の「観客への愛」ならわかりますが。

陳凱歌監督含む第5世代の人々は、彼らの感性に影響を与える時期が過酷な時代(文化大革命とか)だったために、生活や人生についてあまりにも実質的な感覚しかなく、愛とかロマンチックなものに憧れる気持ちはあっても、それらを描くセンスが決定的に欠落していると思う。
同じ世代の張芸謀は「色彩」や「構図」や「演出」に関してある種の才能があると思いますが、それでも「愛」とか「ロマンス」を描こうとするととたんにダサくなる。
陳凱歌は、エンターテイメントとかロマンとか、欠落している領域に目移りせずに「さらばわが愛/覇王別姫」に描かれているような「時代に翻弄される人間たち」を深く掘り下げた映画を撮っていくのがいいんじゃないですかね。(←偉そう)

ちなみに、個人的には大嫌いです、チャン・ツィイー。ていうかどこがいいのかさっぱりわからない。
どんな映画でも彼女が出ているだけで、食欲4割減ですね。
この人、日本や世界でパッケージングされているような「純粋」でも「清純」でもないと思います。
その証拠に本国ではゴシップなどの低俗な好奇心で興味深く見守られているにしか過ぎません。

後半部分で唯一いい演技してるなと思ったのは、陳凱歌監督の奥さん、陳紅演じる梅蘭芳の妻。
口が悪くて、嫉妬深くて、打算的な、ある種の中国人女性のステレオタイプをとっても自然にやってます。

ざくっと分けて、女性は、①丼ものタイプ②デザートタイプ③お子さまランチタイプの3種類があると思うんですが、この梅蘭芳の妻はたぶん①。

栄養もそれなりにあるし、おなかもいっぱいになるし、リーズナブルだけど、色気はないし、毎日食べてるとちょっと飽きちゃうという。

②のデザートタイプは説明しなくてもいいですね。いわゆるサブ(愛人)にはいいけど、本命タイプにはちょっと…というタイプ。

③のお子さまランチタイプですが、これは私自身が目指すものを探していて、頭に浮かんだものです。

お子さまランチは、見た目もかわいくキレイだし、栄養価も満点。
好き嫌いの多い子にも全部食べてもらえるような工夫がされてあって、デザートもオモチャもついてくる。
そして常にお腹いっぱいにならないところも肝心。
また食べたいと思うか、面白味がなくても丼がいいやと思うかは個人の好みによるでしょう。

それから私的にポイントなのは、お子さまランチは、自分から食べてくれる相手を選べるということ。
だって(お店から)断られることもあるじゃないですか(12歳以下のお子さま限る、とか)。
食べ物なのに、主体的でいいね。

あれ?梅蘭芳の映画のことじゃなかったっけ?あたしそれなりに京劇も語れるんだよね?
陳紅の役どころを書こうとしてすっかり別な方向に妄想してしまいました。
それにしても駄作のほうが妄想祭りになっちゃうのは何故?

「今日の毒舌度」改め「今日の脱線度」にした方がいいかも、と思う最近…。

今日の毒舌度:☆☆☆

映画「プロミス」

2010年12月10日 | 大陸映画

「プロミス」原題「無極-Promise」
監督:陳凱歌(チェン・カイコー)
出演:張柏芝(セシリア・チャン)、謝霆鋒(ニコラス・ツェー)、劉(リウ・イエ)、張東健(チャン・ドンゴン)、真田広之

<あらすじ>
舞台は「3000年前の未来」。戦で親を失い、絶望的状況に置かれる少女の前に運命を司る女神・満神が現れる。少女に「欲しいものは何でも手に入る」約束をするが、そのかわりに「真実の愛は得られない」という。うなずいた少女は数年後、世界でいちばん美しい王妃・傾国(セシリア)となっていた。
一方、反乱の企てから王を守ろうと、大将軍・光明(真田広之)は天下一の俊足の奴隷・崑崙(チャン・ドンゴン)と城へと向かっていた。
城では、侯爵・無歓(ニコラス)が傾国を我が物にしようと企んでいた。 刺客・鬼狼(リウ・イエ)も放たれたが、鬼狼は同郷の崑崙に、自分の「黒衣」を与えてしまう。時空間を超え、死さえも超越できる「黒衣」を纏った崑崙は、運命を変えるために、傾国を満神と約束した「あの時」へタイムワープする。

私の中国映画のなかでの不動のナンバーワンは陳凱歌監督の「さらばわが愛/覇王別姫」ですが、それ以降の作品では洩れなくがっかりさせてくれる陳凱歌監督の作品です。
ブログを書く前にはいちいち律儀に作品を見返してる私ですが、これほど二度見するのが苦痛だった作品もなかなかありません。

3億元もかけて製作した歴史ロマン大作という宣伝文句でしたが、駄作中の駄作、もうこんな作品作っちゃったら次はないだろうと思ってたらありました(「花の生涯~梅蘭芳」)!そして近々最新作(「趙氏孤児」)も公開、次回作の構想もすでに練りあがってるらしいです。
ビックネームにはとことん甘すぎるよ、中国!

一時期は海外での評価と受賞歴や、世代(第五世代)が一緒、知名度・集客数などで張芸謀(チャン・イーモウ)のライバルと目されていた陳凱歌ですが、「さらばわが愛」以降の迷走ぶり、勘違いぶりをみるにつけ、張芸謀に軍配が上がるのは確実です。

もちろん賛否両論ありますが、張芸謀のほうが、時代や人民に上手く迎合して、娯楽的にも商業的にも間違いのない作品を出してる感がありますね。処世術というか、そういう器用さも才能のうちなのかもしれません。
陳凱歌は張芸謀に比べると自分の「作家性」にこだわっているという無骨な印象を与えます。
べつにいいんですけどね、「作家性」へのこだわりも。
「芸術」はつきつめれば自己満足ですし、主義主張とこだわりがなければそもそも監督なんかになってないと思いますので、多分彼に罪はない。
ダメなのは周りです。
「あなたの作家性はヒトリヨガリですよ」と忠告してあげるべきです。「王様は裸だよー」って。

この「陳凱歌ブランド」が、博打な映画業界でも手堅い金看板なのが、私本当にわかりません。
なぜか日本ウケもいいし。
そんな(ムダな)お金があるならもっと素晴らしい才能を持った監督と作品に分配して欲しいと切に願います!

ええっと、肝心の映画についてですが、もう大につけ小につけ「何コレ?!」と突っ込みどころのオンパレード。
私は映画館で初めてみたとき、「これはなんかの冗談に違いない」と本気で思いました。

ヒロインはセシリア・チャンですが、どーしてもはすっぱな雰囲気しか出てなく、それを「傾国の美女」って言われてもねえ…(このレベルの美女で国傾かせちゃうアホそうな皇帝だったけど)
物語は、一応この美女をめぐる展開になってますので、この映画の根底を揺るがすミスキャストだと思います。
ていうかメイクが麿顔なのは何故?!

周星馳のミューズとしてデビューした彼女、この映画も「周星馳的ナンセンスコメディ」っていうパッケージで売り出せば良かったのに。
そういわれたらすごくしっくりくるなー。

さて、そんな作品を何で敢えて紹介するかというと、これは本編以外のところですごく有名になった作品だからです。

ある中国人が同作品をパロディ化した短編「ひとつの饅頭が引き起こした殺人事件(原題:一個饅頭引発的血案)」がネットを通じて空前の大ヒット、怒った陳監督は訴訟も辞さないと発言し、中国では一大論争に発展しました。

同短編は、この映画の映像を使い、TVの報道番組のかたち(CMつきの本格派!!)で、一つの饅頭が原因となって起こった殺人事件に仕立てたもので、もう本当に面白い!!大傑作です。
これ日本で観られないんですか?
字幕つけるのなんてボランティアでやりますからぜひ多くの人に観ていただきたいですね。
こんな人材が普通に埋もれているなんて、中国人民恐るべし!

このパロディ短編のヒットで本編視聴率がアップしたのは間違いない、陳凱歌監督、訴えてる場合じゃないと思いますよ。

私はこの騒動を通じて、さらに陳監督には失望いたしました。
「さらばわが愛」以前は天才だと信じていた陳凱歌監督、この作品は実は壮大なギャグだったんじゃないか、と心の片隅ではちょっと思っていたからです。
でもあんなに激怒するほど、まじめに、本気で作ってたんですね…

遊び心もなく、自分を客観視することもできない「裸の王様」陳凱歌、今後私をうならせてくれることはあるのでしょうか(上から目線)…

一応、最新作「趙氏孤児」は観に行ってあげるけど(同上)。

今日の毒舌度:☆☆☆☆(久々に毒吐いてデトックス)

映画「変臉(へんめん)」

2010年11月14日 | 大陸映画
変臉(へんめん) この櫂に手をそえて(原題:変臉)
監督:呉天明
出演:朱旭
1996年作品



<あらすじ>
中国・中華民国の時代。
四川に變臉(へんめん)という芸を受け継ぎ、人々に見せている「變臉王」なる老人がいた。
彼は「将軍」と名づけた猿と共に四川の町を旅しながら芸を見せていたが、彼にはその芸を受け継ぐべき跡取がいなかった。
男子から男子へと受け継がれなければいけないその芸を残す為、彼は子供を売買する市場へ行き、男の子を買い「狗娃」と名づける。
二人は本当の孫とその祖父のように暮らすようになったが、その幸せな暮らしは長く続かなかった。狗娃は実は女の子だったのだ。騙されていたと知った變臉王は狗娃を捨てようとするが…。

男とか女とか、永遠に解脱できそうにない性愛のカルマからちょっと距離をおきたく、このヒューマンドラマを観返してみました。

「泣ける中国映画」として日本でも一定のファンを持つこの作品、ベテラン俳優・朱旭とか子役の演技の素晴らしさは改めて言うまでもありません。

台詞もちょっと昔の中国語で、響きとか、使い方とか文学的で大変美しいです。
ただ一点、残念なのは、四川が舞台なのに、完全な北京語であるということ。
風景も、物語も四川情緒たっぷりなのに、言葉が北京語って変です。

肩書きも所属も財産も持たずに、ひたすら芸を磨き、出会った人々を楽しく幸せにして旅を続ける…自らを旅芸人とポジショニングしている私にとって、「何も持たずに生まれ、何も持たずに死んでいく」「お金は使ってしまえばなくなるが、身についた芸は一生なくならない」という「変臉王」の言葉には心打たれるものがありました。

何かを持ってしまったら、何かに属してしまったら、それを守り、しがみつくためにエネルギーを費やしてしまう。
そんな不自由なのは私は嫌です。

これからも一介の旅芸人として、物質的なものや不確かなものに執着せず、既成の常識や倫理観などに捉われず、私自身に宿っているもの、魂だったり、志だったり、芸だったり、そういうのをただひたすら磨いていきたいなと思いました。

芸人は必見です。

今日の毒舌度:0