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中国電影迷

「中国」在住の「電影」好きの「迷」子のブログ。
映画の紹介と日常の心象風景のワンシーンを記録しています。

映画「海角七号 君想う、国境の南」

2012年01月11日 | 台湾映画


映画「海角七号 君想う、国境の南」(原題:海角七号)

<あらすじ>
日本統治下の1940年代の台湾で、若い日本人教師が、台湾人女性で日本名を小島友子という教え子と恋に落ちるが、終戦を迎え教師は帰国せねばならず、友子に船上から思いをつづる。60年後、ミュージシャンの夢敗れ、郵便配達のアルバイトをしている青年アガ(ファン・イーチュン)が、郵便物の中に日本統治時代の住所「海角七号」あての小包を見つける。


台湾で史上最高興業成績を記録し、鳴り物入りで中国国内でも上映されたこの映画ですが、なんとなく、あまり好きなタイプの作品でない気がして、長期にわたって放置していました。

その勘は見事に当たり、冒頭5分で、拒否反応が出はじめてしまい、途中猫と遊んだり家事をしたりして気を紛らわせながらみていましたが、もう後半はどうなったかほとんど記憶にありません…。

何がダメかというと、まず美しくもなく蓮っ葉な感じのするヒロイン(日本人に全然見えない)とダサい台詞回し(その当時は流行の言い回しだったんでしょうか)、MTVのようとは褒めすぎ、ザッピングのようなカメラワークと展開、小うるさいだけのつまらない音楽、鬱陶しく騒ぎ立てる登場人物たち、手紙に絡めて過去とオーバーラップする手法なんかが入って頭は無駄に使わせられる内容に耐えられなくなりました。

歴史的に意味のある作品だとか、本国で記録的な興行成績をおさめたとか、個人の好き嫌いの前にはあまり関係なく、まず自分の感性に合致しなければ、私的にはアウトです。

この映画に対して、何の気の利いたコメントも出来ず、ただ「アウト」として切り捨ててしまうのは、恐らく私がこれまで一度も台湾に行ったことがないからだと思います。
これが大陸・香港の映画なら、「大陸の人ってダサいからさ」とか「お涙頂戴が好きなのよ」とか「とにかく盛りだくさんで斬新なものがいいと思ってるから」とか、少しはちゃんとしたことが言えますが、台湾や台湾人について多少は知っていても、実際に肌で感じたことがないので、根拠のないことは何も言えません。

台湾人監督でも、エドワード・ヤン(楊徳昌)や、ホウ・シャオシエン(候孝賢)の作品は何本か観ていますが、彼らの作品を通して「台湾」をかいまみることはあっても、彼らの作品が世界各国で受け入れられているのは、「台湾」だからではなくて、純粋に映画的な質が高いからだと思います。

映画を味わうのに、その映画の背景を知っているかいないかは、ベストだけどマストではないと私は日ごろから思っています。
「良くわかんないけど好き」「良くわかんないけど嫌い」、それでいいと思いますし、逆に映画で感じられない背景をごちゃごちゃ後付で説明しなければならないものなんて映画の意味がないと思います。
映画は映画で勝負しないと。

なーんてこの映画のよさが全く理解できなかった言い訳みたいですね。
ていうかちゃんと観てもいないし。

私の嗜好的に非常にキビシイこの作品をもう一度観返そうという気になるには、今後、私が何かしら台湾と接点があってからだと思いますが、たとえ接点があっても、もう一度観ようという気になるには…。
来世になるかもしれません。

映画「フラワーズ・オブ・シャンハイ」

2011年02月22日 | 台湾映画

「フラワーズ・オブ・シャンハイ」(原題:海上花)
監督:侯孝賢(ホウ・シャオシェン)
出演:梁朝偉(トニー・レオン)、羽田美智子、劉嘉玲(カリーナ・ラウ)、李嘉欣(ミッシェル・リー)、伊能静
1998年作品

<あらすじ>
清朝末期の上海。遊郭では高級官僚達が毎日のように宴を催している。王(トニー・レオン)は遊女小紅(羽田美智子)とは5年来のなじみであるが、惠貞の元へも通い始めた。泣きやまない小紅を王は懸命になだめるが、対処しきれずただ戸惑うばかり。王が訪れる度に沈み込み不機嫌な小紅も、そんな自分自身を持て余し気味。必死になだめる王ではあるが、婚礼にも応じない小紅の真意がいまだ掴み切れない。ある宴席で泥酔した王が不意に小紅の部屋を訪れると、寝室には京劇役者の小柳(トニー・チャン)がいた。王は激怒し部屋の物を辺り構わず壊していく。それらは全て王からの贈り物であった。時が過ぎ、広州に栄転が決まった王は、なじみのいなくなった小紅の噂を聞く。

全体的にけだるく、単調な映画です。
登場人物は飲んでるか、食べてるか、アヘンを吸っているか、しゃべっているかで、高級娼館が舞台ですが、期待していたようなシーン(床戯=ベットシーン)は一切なく、オール室内ロケで撮影されています。

これだと飽きちゃうだろうなとかエンターテイメント性に欠けるだろうなとか、観客への配慮が全くないのですが、そこらへんの媚てない感じが許せるのは、台湾の巨匠・侯孝賢監督による、格調高さ溢れるつくりと、台詞の美しさがあるからこそ。
それもそのはず原作は華麗な文体で有名な女流作家の張愛玲。
あと、何組かの登場人物の物語がシャッフル的に構成されているのですが、その移り変わりが紙芝居的で良かった。

そういうどうでもいい個人的なツボは別として、この映画の売りは、出演者が豪華なこと。
トニー・レオン、伊能静、カリーナ・ラウ、ミシェル・リー、羽田美智子。
なぜ羽田美智子を起用したんですかね。
当時の松竹のドン、奥田和由の愛人だとかで盛んに松竹映画に起用されてましたけど、いずれ日本封切りの際は、松竹に配給させようとの戦略的キャスティングだったんでしょうか。
ちなみに羽田美智子は一応ヒロインですが、一貫して伏目がちで、口数は少ないし、陰気なイメージでした。
誰でも出来そうこの役。

根っから娼婦(失礼!)で、娼婦役がとってもしっくりくるカリーナ・ラウは別格として、今回一番良かったのは、超級美女のミシェル・リー。
平面ならまだいいが、動画となるとダイコンさが目につくこの方、私生活でも露骨な富豪狙いで、一貫して筋の通ったゴシップを提供して下さっていましたが、このような役はまさに適役(ていうか素?)、カリーナ姐さんと同様、今後は「生まれながらの娼婦」にカテゴライズさせていただきます。

面白かったのは、ファニーフェイス(ゆえの)演技派・伊能静との掛け合い。
下っ端的な役柄でミシェル様の前で縮こまっていました。
花柳界では、美こそ力。
圧倒的な美の前に、演技力は必要ありません。
堂々と、素のままで君臨するミシェル様は素晴らしかったです。

ミシェル・リーと言えば、王家衛監督の映画「天使の涙」で初めて拝見、うわー同じアジア人でこの違いはなんざましょ?と軽く人種アイデンティティ・クライシスに陥ったくらいの超級美女なんですが、中国に住んでびっくり、これほどの超級美女はしかるべきところにしかいませんが、日常的にレベルの高い美女は結構います!

日本人はおしゃれやメイクが上手いからぱっと見よさげだけど、顔やスタイルの素地の良さは中国・韓国勢に負けるんじゃないかと思いますね。

昨年、念願の韓国での大衆浴場デビューを果たし、先日は北京の大衆浴場に行きましたが、改めてそれを再確認した次第。
美しい身体はほんと見てて楽しいです。
北京留学時代、大学構内で、「全体的なシルエットで日・中・韓を当てる(女子学生限定)」のフィールドワークに余念がなかった私ですが、そろそろ日・中・韓女体ウォッチングの成果もまとめてみようかしら。

ああーこういうことできるなんて女に生まれてきて本当に良かった!
男性だったらヘンタイかセクハラだもんね。

中国の文藝には「娼館」を扱ったものが結構多いし、そのテーマや物語には現代女性でも共感することが多い。

個人的には、こういう女の部分を武器にできる女性ってとっても羨ましいです。
別に性を売り物にしなくても、普段から男性の前で可愛らしくなれる女性とか、上手に頼れて甘えられる女性とか、そういう風に、ジェンダーに何の疑問も抵抗も持たず、自然に生きられていいなって思う。

そういうことを素直に認められる歳になったなと思ったら、有効活用できる年齢をすっかり過ぎてしまったことに気付く。
いずれにせよ、今までも年齢や性別をセールスポイントにしたことないから別にいいんだけどー。

今日の毒舌度:☆

映画「カップルズ」

2010年11月07日 | 台湾映画

「カップルズ」(原題:麻將、英題:Mahjong)
監督:楊徳昌(エドワード・ヤン)
出演:張震(チャン・チェン)、ヴィルジニー・ルドワイヤン
1996年作品

<あらすじ>
台湾バブル終期の台北に暮らす4人の少年たち。無軌道で気ままな日常を送る彼らは非行まがいのことをして、金も女も手に入れ放題、時には大人をも騙して生活していた。だがある日1人のフランス娘・マルトが現れたことから彼らの結束が徐々に崩れ、それぞれの問題が浮き彫りになってくる。青春のやるせなさ、葛藤、個々に抱える悩み…。身から出た錆が浮き彫りとなって、彼らの勝手気ままな青春の謳歌は終息を迎える。

映画通をとりあえず気取りたいなら、「監督で映画を選ぶ」ことをおすすめします。
そしてその監督の映画を最低は3本以上はみることですね。

というわけで、「ヤンヤン 夏の思い出」に続き、エドワード・ヤン監督の「カップルズ」です。
これはエドワード・ヤン監督作品のなかでも比較的大衆受けしやすい(わかりやすい起承転結がある、華のある俳優が出ている等)作品なので、中華圏映画初心者にはおすすめ。

一見すると台北を舞台に繰り広げられる台湾少年(不良)の生態を描いた単なる青春群像劇なのですが、実は描いているのはそれだけではないのがさすが。

バブルによって蔓延してしまった空虚な拝金主義や、社会の隙間で甘い汁を吸う「本国から逃げ出してきた」欧米人たち、私たちアジア人に根付く因果応報の考え、大陸より強固な家族のきずな、仲間とのつながり、風水などのスピリチュアルなものが生活に自然に溶け込んでいる台湾など、アジア・台湾をうかがい知ることの出来る要素がいっぱいつまっています。

原題は「麻雀」。
麻雀は中華圏にはなくてはならないコミュニケーションツール。
主人公の少年たちも4人。麻雀も彼らのチームも、一人抜けたら出来ない。
一人抜けたらゲームは終わり…そんな比喩と絡めている、素晴らしいタイトルだと思います。

それなのに、邦題は「カップルズ」。意図するところがぜんぜん意味不明です。
いいじゃないですか、「麻雀」で。
英語タイトルですら「マージャン」(の台湾語読み)ですよ。

エドワード・ヤン監督に限らず、台湾映画界と日本映画界は密接な繋がりがあり、日本資本が入って、日本人スタッフが関わっていることも多い。だから、「ヤンヤン夏の思い出」と同様、「カップルズ」の邦題も監督の同意のもとに決まった可能性も高いんだけど。

口に出すのも恥ずかしい「恋する惑星」(原題:重慶森林)とかね、中華圏映画の邦題についてはかねてから耐えられないものがありました。

「レッドクリフ」だって、三国志のなかの有名な「赤壁の戦い」なんだから、「赤壁」でいいじゃないですか。「レッドクリフの戦い」って言わないでしょ?

それじゃあ大衆がついてこない?漢字はダサい?

漢字ってすごく良く出来てる文字だと思う。
一字で意味がわかるし、象形文字からの歴史もつまってる。
漢字の感覚のわからない欧米人はともかくとして、同じ漢字の文化を共有する民族なんだから、中華圏映画は原題でいこうよ。

もちろんとっつきにくくなっちゃうのはいけないから、「つかみ」は大事。
小難しくてだっさい映画を、クールでおしゃれなパッケージにして、大々的に売り出すことのできる日本の配給映画会社の手腕は私だって認めています。

だけど、そろそろ味付けせずにそのまんまの中国映画を楽しめる観客を育てることを、みせる側は考えはじめてもいい頃なのかなーと思うのです。まずはタイトルからどうにかしようよ。

映画含め、文化の発信は、大衆に迎合してるだけじゃいけなくて、彼らの感性を育てていくという使命も担っていると思うので。

今日の毒舌度:☆☆

映画「ヤンヤン夏の思い出」

2010年11月05日 | 台湾映画

「ヤンヤン夏の思い出」(原題:一一、英題:Yi Yi: A One and a Two)
監督:エドワード・ヤン(楊徳昌)
2000年作品
2000年カンヌ国際映画祭監督賞

<あらすじ>
ヤンヤンは祖母や両親、姉のティンティンと台北に住んでいる、ごく普通の家庭の少年。ところが、叔父の結婚式を境に、様々な事件が起こり始める。祖母は脳卒中で昏睡状態となり、母は精神不安定となり新興宗教に走り、父は初恋の人と再会して心を揺らす。姉は隣家の少女のボーイフレンドと交際を始めてしまう。

エドワード・ヤン監督は台湾の監督のなかでは一番好きな監督でしたが、2007年に56歳という若さで逝去されてしまいました。
彼は独自の創造力で作品を構築する天才肌の監督(ティム・バートンとかね)ではなく、彼の人生観や社会観の変遷を作品に投影するタイプの監督だったので、もう彼の作品(=彼自身の変化)をみられないことが残念でなりません。

さてエドワード・ヤンの作品といえば、押並べて長尺で、しかも、ズームやアップショットをを極力排したロングショットの長回しが特徴。
生活の淡々とした場面を延々と撮り続けるので、「ドキュメンタリー風」と捉えられることも多いのですが、物語の設定やせりふなど、そこかしこに一種の作為が感じられるので、私のなかでは「ドキュメント風」とは一線を画しています。

それにしてもこの映画は、座席で言ったらC席くらいのロングショット。
室内の出来事をわざわざ外から撮っていたり。
まるで夜の電車に揺られながら、車窓から垣間見えるマンションや住宅の生活の光をみている感じに似ています。

そしてそれが登場人物との間に距離感を与え、結果として、観客に、傍観者として、登場人物の心の動きや行動に考えをめぐらしたり、自分の経験に思いをめぐらしたりするゆとりを与えています。

劇中に「映画の発明は人間の人生を3倍に延長させた」という台詞があります。

その言葉により深い意義を与えるがごとく、エドワード・ヤン監督は、映画を通してさまざまな人物の人生模様を描いて、私たちにいろいろなことを考えさせてくれます。

映画を観終わっても、この映画によって胸に投じられた小石は細やかなさざ波となって心を覆う。
人生はまだまだ続く。

で毒舌もまだまだ続く。

この作品は邦題が「ヤンヤン夏の思い出」となっており、主人公は「ヤンヤン」だと思わせられてしまうのですが、原題は「一一」。

ヤンヤンは子供なのに妙に哲学的な台詞を吐いたり、その愛くるしさ故か、登場人物の中では唯一アップショットが多いキャラクターではあります。

でも主人公として、ヤンヤンを軸に物語が展開するのかといえばそれとはちょっと違う。
なぜってこの映画は登場人物すべてが主人公だから。

あまりにもシンプルすぎかつ思わせぶりなこの原題の意味については、大陸の映画論壇でも様々な意見が論じられましたが、私は、「タイトルなんてどうでもいいじゃないか。どうせ見方はひとそれぞれ違うんだし」という監督のメッセージのような気がするし、それはまた観客に徹底的な傍観者であれと要求するようなつくりにも通じるような気がします

日本の配給会社の売り込み戦略といえば仕方がないけど、こんな押しつけがましい過剰包装しなくても、エドワード・ヤンの作品は、そのままで十分素晴らしいのです。

今日の毒舌度:☆