「フェルナンデスと/呼ぶのはただしい」
と石原吉郎は書いた。石原の第三詩集『斧の思想』所収『フェルナンデス』の冒頭である。『石原吉郎全集』(鮎川信夫 粕谷栄市 編集委員 花神社 1980年7月20日 初版第一刷)の『年譜』によるとこの作品は、1970年、「ペリカン14」に掲載された。
「〈フェルナンデス〉」のリフレインが二度ある。この「フェルナンデス」とは誰か。もし私の推論が正しいとすれば『贋作ドン・キホーテ ラ・マンチャの男の偽者騒動』(岩根圀和著 中公新書 1997年12月20日発行)に載る偽者アロンソ・フェルナンデス・デ・アベリャネーダのことだと思われる。
石原はこの「贋作」についても知っていただろうと推測されるが、『石原吉郎全集』のなかにも、フェルナンデスについての言及はない。「男は口を 閉じて去った」のである。この「男」というのは、石原が洗礼を受けた師のエゴン・ヘッセル氏であり、石原自身でもある。
石原はインタヴューにおいても対談においても、用心深いと言っていいほど正確に言葉を選んでいるのがよく判る。石原の「声となる均衡」への留意はこの詩集の表題作『斧の思想』に表れている。「およそこの森の/深みにあって/起こってはならぬ/なにものもないと」。
このことは「人間不信」に陥った石原の第一詩集『サンチョ・パンサの帰郷』、その巻頭の詩『位置』に「しずかな肩には/声だけがならぶのではない/声よりも近く/敵がならぶのだ」と明確に「敵」と書かれている。「勇敢な男たちが目指す位置は/その右でも おそらく/そのひだりでもない」と。ところで石原は何を「敵」と見做したのか。それは石原の外界の「敵」であり、同時に石原自身という「敵」である。石原にとって外界と内面は常に同じものであったのだ。再認しておきたい。石原の外側(そと)と内側(うち)とは常に一(いつ)なるものであったのだ。言われればなるほどと思われるかも知れない。しかし石原はこのことをみずからによく承知していたのである。石原が戦後の日本においても、「声となる均衡」にどれだけ注意を払っていたことか。
旧陸軍中野学校から諜報部員として旧ソ連シベリア抑留後、この国に帰還した石原の意識はみずからの境涯を『ドン・キホーテ』に擬(なぞら)えて二重に写したのと同様、この『フェルナンデス』でもまた、『贋作ドン・キホーテ』にみずからを擬えて二重に写しているのだ。
『贋作ドン・キホーテ 下』(アベリャネーダ著 岩根圀和訳 ちくま文庫 1999年12月2日第一刷発行)についてはこの「あとがき」によく纏まっていて詳しい。岩根氏の「あとがき」から一部引用する。
これはアロンソ・フェルナンデス・デ・アベリャネーダの『才智あふるる郷士ドン・キホーテ・デ・ラ・マンチャ』(スペイン語 中略)の全訳である。世界文学の遺産ともなっている『ドン・キホーテ』の作者はスペインのセルバンテスではなかったかと思われるかも知れない。たしかに『ドン・キホーテ』前篇は一六〇五年にミゲル・デ・セルバンテスの名で出版されている。これがたちまち大評判となり、その年度末にはすでに六版を重ねてとどまることを知らぬ売れ行きであった。
騎士道小説のパロディとして書いた『ドン・キホーテ』が空前の当たりを飛ばすまでは一介のしがない作家に過ぎなかったセルバンテスは、大いに気を良くして後篇に筆を染めることにした。前篇の着想を踏襲し、さらに構想を練って『ドン・キホーテ』の後篇を書き始めたのがいつの頃であったのかはっきりしない。しかし一六一三年出版の『模範小説集』の序言で「近いうちにドン・キホーテの後篇をお目にかける」と述べているからこの時点ですでにかなりの量まで書き進んでいたと見ていいだろう。実際にセルバンテスの『ドン・キホーテ』後篇が出版されるのはそれから二年後の一六一五年である。ところがその目と鼻の先の一六一四年にアビリャネーダの『ドン・キホーテ』後篇が世に出てしまった。
当時は剽窃の意識の薄い時代のことだから先に世に出たアベリャネーダの『ドン・キホーテ』は、作者の異なる別の『ドン・キホーテ』後篇であるに過ぎないのかも知れない。アベリャネーダ自身も「ある物語が複数の著者を有することは別段真新しいことではないのですから、この後篇が別の作者の筆から生まれることにどうか驚かないで戴きたい」と序文に述べているとおりである。それを承知であえてこの作品を贋作と呼ぶなら、真作の執筆途中に贋作の出版を目の当たりにしたセルバンテスの驚きと怒りは想像するに余りある。
詳細は前記の本にゆずるとして、以上のことを石原がどこまで知っていたかは不明であるが、何ヶ国語にも堪能だった石原は『贋作ドン・キホーテ』の事実を知っていたのは確かだと思ってよいだろう。
石原の『フェルナンデス』にもどる。
「寺院の壁の しずかな/くぼみをそう名づけた」。
この詩の疑問に思われる点を検閲(けみ)してみたい。「寺院の壁の しずかな/くぼみをそう名づけた」この「寺院」とは『嘆きの壁』のことだろうか。石原がそこへ行った記録はないが、とうぜん『嘆きの壁』の「イメエジ」が石原の脳裏にあったはずである。その「しずかな/くぼみを」「フェルナンデス」と親しみをこめて「そう名づけた」のである。
「ひとりの男が壁にもたれ/あたたかなくぼみを/のこして去った」。石原にとっては『贋作』である歴史の経験も親しいものになっていたのではあるまいか。繰り返しになるが、この「男」は石原が洗礼を受けたというカール・バルトに直接師事したエゴン・ヘッセル氏、また石原自身のことでもある。推量はしょせん推量にしかすぎない。しかし一体どの歴史が正しいのか、石原には石原の経験した歴史があるのである。それを個人史と言うならば、われわれ個々にとって生(き)の個人史のみが確かなものである。
「〈フェルナンデス〉/しかられたこどもが/目を伏せて立つほどの/しずかなくぼみは/いまもそう呼ばれる」
「〈フェルナンデス〉」は「しかられたこども」でもある。「しかられたこどもが/目を伏せて立つほどの」。「しかられたこども」が本当に反省を促されたとき、われわれは「目を伏せて立つ」のではないか。「目を伏せて立つほどの/しずかなくぼみは/いまもそう呼ばれる」そうしてうな垂れて、「壁」に「もたれ」る。そこに「しずかなくぼみ」ができる。まず石原自身が自省して「壁にもたれ」、『ドン・キホーテ』、『贋作ドン・キホーテ』にならざるを得なかった、過去であり未来であり得る人びとに「そう呼」びかけているのだ。当然「しずかなくぼみは/いまもそう呼ばれる」「〈フェルナンデス〉」と。
「ある日やさしく壁にもたれ/男は口を 閉ざして去った」。
「ある日」(「男は」)「やさしく壁にもたれ」(その)「男は口を 閉ざして去った」のである。「ある日」とは石原が、この詩を書いた現在であり、過去であり、未来である。それは同時にこの詩を読むものの、つまりわれわれの現在であり、過去であり、未来なのだ。「男」については詳述したとおりである。「やさしく壁にもたれ」「口を 閉ざして去った」。これは石原の旧懐の念である。ある年齢に達し過去を思えば、すべての過去に「やさしく」なってくるものである。そうして「壁にもたれ」すべての過去に「口を 閉ざして去」らなければならなかったのである。「口」にできない過去、たとえそれを「口」にしてもどうしようも理解してもらうことのできない過去があるものである。ゆえに「口を 閉ざして去った」のである。
若い人には、まだわからないかも知れない。しかしわれわれ人間はそのようになってゆくものなのである。これは生理的な現象である。
「〈フェルナンデス〉/しかられたこどもよ/空をめぐり/墓標をめぐり終えたとき/私をそう呼べ/私はそこに立ったのだ」
「しかられたこどもよ」と石原はしずかに呼びかける。「空をめぐり/墓標を巡り終えたとき」。ここには石原のシベリア体験による「空」ばかりの土地で、いつ死ぬかも知れない生(せい)の不確かさ、「空をめぐり/墓標をめぐり終えたとき」が見えるようだ。「私をそう呼べ/私はそこに立ったのだ」。私を「フェルナンデス」と「呼べ」。「そこに」とは石原における「贋作」の境遇、あるいは「贋作」の時代のことだろうか。戦中に諜報部員になり、戦後のシベリア抑留、祖国にいながらの遠い祖国、それらの「贋作」の時代に「私はそこに立ったのだ」と石原は証言する。つまり、石原自身が「ひとりの男」であり、「くぼみ」であり、「しかられたこども」であり、「フェルナンデス」であったのだ。さらに言えば、表題のとおりこの詩そのものが「フェルナンデス」であったのだ。すなわちコノテーションになっている。かてて加えて、この詩の終りは始めに戻るのだ。つまり最終行「私はそこに立ったのだ」は「フェルナンデスと/呼ぶのはただしい」に戻るという円環構造になっている。
最後に石原が詩を書く動機について確認しておきたい。
一九五五年石原四十歳の八月 詩「葬式列車」(〔文章倶楽部〕)発表と共に読者代表として鼎談「作品と作者とのつながりをどうみるか」に参加。出席者 鮎川信夫、谷川俊太郎。この鼎談の発言には詩人の全詩業にかかわる興味深いものが含まれている。抜粋記載(全集未収録)。
「一つの詩を終る時になると、何か最初の出発点に返って行かなければならない気がして来ます。そうでないと、何か円がまとまらないような感じがして、最初に出て来たイメエジをおしまいに又持出す形になるんですが、これでいいと思うんです。どういう駅を出発して来たか、ということが、終りになって大事になってくるんです。」
「(略)僕、自分は少し特殊なところがあるんじゃないかと思うんです。一昨年の暮引揚げたばかりなんですし、……(略)どうも人の中にまぎれこめないような、何か押しだされたような気がしています、今だに。一寸人に説明してもわからないでしょうが、それから僕みたいな境遇にあったものは過去というものに対するノスタルジアがとても強いんです。過去をいろんな形でたてなおしてみたい気持で一杯ですね。来年をうたう事は出来ないんです。いつも過去をうたっていなければならないんです。」
「過去にこだわっているんです。しかしその事が、いま生きて行く力になっているんじゃないかとも思っています。過去というものについて、変なことを考えています、実に(笑)。過去を全部歩きなおす事ができるんじゃないかなどと。これをこの間から書こうと思っています。……(略)過去というものの意味はきまっている、しかしその意味を変える事ができるんじゃないか、観念で変えるんじゃない、実際に過去のある地点までもどって、過去をもう一回歩きなおすというようなことですが……」(『石原吉郎全集』『年譜』適宜改稿=筆者)。
よく自省すれば判ることだが、われわれもその時代じだいに翻弄され、われこそはと名乗り出て、みずからの狂気を狂気と知らぬままに演じなければならない『ドン・キホーテ』であり、『贋作ドン・キホーテ』ではないだろうか。「〈フェルナンデス〉」「しずかなくぼみは/いまもそう呼ばれる」。
と石原吉郎は書いた。石原の第三詩集『斧の思想』所収『フェルナンデス』の冒頭である。『石原吉郎全集』(鮎川信夫 粕谷栄市 編集委員 花神社 1980年7月20日 初版第一刷)の『年譜』によるとこの作品は、1970年、「ペリカン14」に掲載された。
「〈フェルナンデス〉」のリフレインが二度ある。この「フェルナンデス」とは誰か。もし私の推論が正しいとすれば『贋作ドン・キホーテ ラ・マンチャの男の偽者騒動』(岩根圀和著 中公新書 1997年12月20日発行)に載る偽者アロンソ・フェルナンデス・デ・アベリャネーダのことだと思われる。
石原はこの「贋作」についても知っていただろうと推測されるが、『石原吉郎全集』のなかにも、フェルナンデスについての言及はない。「男は口を 閉じて去った」のである。この「男」というのは、石原が洗礼を受けた師のエゴン・ヘッセル氏であり、石原自身でもある。
石原はインタヴューにおいても対談においても、用心深いと言っていいほど正確に言葉を選んでいるのがよく判る。石原の「声となる均衡」への留意はこの詩集の表題作『斧の思想』に表れている。「およそこの森の/深みにあって/起こってはならぬ/なにものもないと」。
このことは「人間不信」に陥った石原の第一詩集『サンチョ・パンサの帰郷』、その巻頭の詩『位置』に「しずかな肩には/声だけがならぶのではない/声よりも近く/敵がならぶのだ」と明確に「敵」と書かれている。「勇敢な男たちが目指す位置は/その右でも おそらく/そのひだりでもない」と。ところで石原は何を「敵」と見做したのか。それは石原の外界の「敵」であり、同時に石原自身という「敵」である。石原にとって外界と内面は常に同じものであったのだ。再認しておきたい。石原の外側(そと)と内側(うち)とは常に一(いつ)なるものであったのだ。言われればなるほどと思われるかも知れない。しかし石原はこのことをみずからによく承知していたのである。石原が戦後の日本においても、「声となる均衡」にどれだけ注意を払っていたことか。
旧陸軍中野学校から諜報部員として旧ソ連シベリア抑留後、この国に帰還した石原の意識はみずからの境涯を『ドン・キホーテ』に擬(なぞら)えて二重に写したのと同様、この『フェルナンデス』でもまた、『贋作ドン・キホーテ』にみずからを擬えて二重に写しているのだ。
『贋作ドン・キホーテ 下』(アベリャネーダ著 岩根圀和訳 ちくま文庫 1999年12月2日第一刷発行)についてはこの「あとがき」によく纏まっていて詳しい。岩根氏の「あとがき」から一部引用する。
これはアロンソ・フェルナンデス・デ・アベリャネーダの『才智あふるる郷士ドン・キホーテ・デ・ラ・マンチャ』(スペイン語 中略)の全訳である。世界文学の遺産ともなっている『ドン・キホーテ』の作者はスペインのセルバンテスではなかったかと思われるかも知れない。たしかに『ドン・キホーテ』前篇は一六〇五年にミゲル・デ・セルバンテスの名で出版されている。これがたちまち大評判となり、その年度末にはすでに六版を重ねてとどまることを知らぬ売れ行きであった。
騎士道小説のパロディとして書いた『ドン・キホーテ』が空前の当たりを飛ばすまでは一介のしがない作家に過ぎなかったセルバンテスは、大いに気を良くして後篇に筆を染めることにした。前篇の着想を踏襲し、さらに構想を練って『ドン・キホーテ』の後篇を書き始めたのがいつの頃であったのかはっきりしない。しかし一六一三年出版の『模範小説集』の序言で「近いうちにドン・キホーテの後篇をお目にかける」と述べているからこの時点ですでにかなりの量まで書き進んでいたと見ていいだろう。実際にセルバンテスの『ドン・キホーテ』後篇が出版されるのはそれから二年後の一六一五年である。ところがその目と鼻の先の一六一四年にアビリャネーダの『ドン・キホーテ』後篇が世に出てしまった。
当時は剽窃の意識の薄い時代のことだから先に世に出たアベリャネーダの『ドン・キホーテ』は、作者の異なる別の『ドン・キホーテ』後篇であるに過ぎないのかも知れない。アベリャネーダ自身も「ある物語が複数の著者を有することは別段真新しいことではないのですから、この後篇が別の作者の筆から生まれることにどうか驚かないで戴きたい」と序文に述べているとおりである。それを承知であえてこの作品を贋作と呼ぶなら、真作の執筆途中に贋作の出版を目の当たりにしたセルバンテスの驚きと怒りは想像するに余りある。
詳細は前記の本にゆずるとして、以上のことを石原がどこまで知っていたかは不明であるが、何ヶ国語にも堪能だった石原は『贋作ドン・キホーテ』の事実を知っていたのは確かだと思ってよいだろう。
石原の『フェルナンデス』にもどる。
「寺院の壁の しずかな/くぼみをそう名づけた」。
この詩の疑問に思われる点を検閲(けみ)してみたい。「寺院の壁の しずかな/くぼみをそう名づけた」この「寺院」とは『嘆きの壁』のことだろうか。石原がそこへ行った記録はないが、とうぜん『嘆きの壁』の「イメエジ」が石原の脳裏にあったはずである。その「しずかな/くぼみを」「フェルナンデス」と親しみをこめて「そう名づけた」のである。
「ひとりの男が壁にもたれ/あたたかなくぼみを/のこして去った」。石原にとっては『贋作』である歴史の経験も親しいものになっていたのではあるまいか。繰り返しになるが、この「男」は石原が洗礼を受けたというカール・バルトに直接師事したエゴン・ヘッセル氏、また石原自身のことでもある。推量はしょせん推量にしかすぎない。しかし一体どの歴史が正しいのか、石原には石原の経験した歴史があるのである。それを個人史と言うならば、われわれ個々にとって生(き)の個人史のみが確かなものである。
「〈フェルナンデス〉/しかられたこどもが/目を伏せて立つほどの/しずかなくぼみは/いまもそう呼ばれる」
「〈フェルナンデス〉」は「しかられたこども」でもある。「しかられたこどもが/目を伏せて立つほどの」。「しかられたこども」が本当に反省を促されたとき、われわれは「目を伏せて立つ」のではないか。「目を伏せて立つほどの/しずかなくぼみは/いまもそう呼ばれる」そうしてうな垂れて、「壁」に「もたれ」る。そこに「しずかなくぼみ」ができる。まず石原自身が自省して「壁にもたれ」、『ドン・キホーテ』、『贋作ドン・キホーテ』にならざるを得なかった、過去であり未来であり得る人びとに「そう呼」びかけているのだ。当然「しずかなくぼみは/いまもそう呼ばれる」「〈フェルナンデス〉」と。
「ある日やさしく壁にもたれ/男は口を 閉ざして去った」。
「ある日」(「男は」)「やさしく壁にもたれ」(その)「男は口を 閉ざして去った」のである。「ある日」とは石原が、この詩を書いた現在であり、過去であり、未来である。それは同時にこの詩を読むものの、つまりわれわれの現在であり、過去であり、未来なのだ。「男」については詳述したとおりである。「やさしく壁にもたれ」「口を 閉ざして去った」。これは石原の旧懐の念である。ある年齢に達し過去を思えば、すべての過去に「やさしく」なってくるものである。そうして「壁にもたれ」すべての過去に「口を 閉ざして去」らなければならなかったのである。「口」にできない過去、たとえそれを「口」にしてもどうしようも理解してもらうことのできない過去があるものである。ゆえに「口を 閉ざして去った」のである。
若い人には、まだわからないかも知れない。しかしわれわれ人間はそのようになってゆくものなのである。これは生理的な現象である。
「〈フェルナンデス〉/しかられたこどもよ/空をめぐり/墓標をめぐり終えたとき/私をそう呼べ/私はそこに立ったのだ」
「しかられたこどもよ」と石原はしずかに呼びかける。「空をめぐり/墓標を巡り終えたとき」。ここには石原のシベリア体験による「空」ばかりの土地で、いつ死ぬかも知れない生(せい)の不確かさ、「空をめぐり/墓標をめぐり終えたとき」が見えるようだ。「私をそう呼べ/私はそこに立ったのだ」。私を「フェルナンデス」と「呼べ」。「そこに」とは石原における「贋作」の境遇、あるいは「贋作」の時代のことだろうか。戦中に諜報部員になり、戦後のシベリア抑留、祖国にいながらの遠い祖国、それらの「贋作」の時代に「私はそこに立ったのだ」と石原は証言する。つまり、石原自身が「ひとりの男」であり、「くぼみ」であり、「しかられたこども」であり、「フェルナンデス」であったのだ。さらに言えば、表題のとおりこの詩そのものが「フェルナンデス」であったのだ。すなわちコノテーションになっている。かてて加えて、この詩の終りは始めに戻るのだ。つまり最終行「私はそこに立ったのだ」は「フェルナンデスと/呼ぶのはただしい」に戻るという円環構造になっている。
最後に石原が詩を書く動機について確認しておきたい。
一九五五年石原四十歳の八月 詩「葬式列車」(〔文章倶楽部〕)発表と共に読者代表として鼎談「作品と作者とのつながりをどうみるか」に参加。出席者 鮎川信夫、谷川俊太郎。この鼎談の発言には詩人の全詩業にかかわる興味深いものが含まれている。抜粋記載(全集未収録)。
「一つの詩を終る時になると、何か最初の出発点に返って行かなければならない気がして来ます。そうでないと、何か円がまとまらないような感じがして、最初に出て来たイメエジをおしまいに又持出す形になるんですが、これでいいと思うんです。どういう駅を出発して来たか、ということが、終りになって大事になってくるんです。」
「(略)僕、自分は少し特殊なところがあるんじゃないかと思うんです。一昨年の暮引揚げたばかりなんですし、……(略)どうも人の中にまぎれこめないような、何か押しだされたような気がしています、今だに。一寸人に説明してもわからないでしょうが、それから僕みたいな境遇にあったものは過去というものに対するノスタルジアがとても強いんです。過去をいろんな形でたてなおしてみたい気持で一杯ですね。来年をうたう事は出来ないんです。いつも過去をうたっていなければならないんです。」
「過去にこだわっているんです。しかしその事が、いま生きて行く力になっているんじゃないかとも思っています。過去というものについて、変なことを考えています、実に(笑)。過去を全部歩きなおす事ができるんじゃないかなどと。これをこの間から書こうと思っています。……(略)過去というものの意味はきまっている、しかしその意味を変える事ができるんじゃないか、観念で変えるんじゃない、実際に過去のある地点までもどって、過去をもう一回歩きなおすというようなことですが……」(『石原吉郎全集』『年譜』適宜改稿=筆者)。
よく自省すれば判ることだが、われわれもその時代じだいに翻弄され、われこそはと名乗り出て、みずからの狂気を狂気と知らぬままに演じなければならない『ドン・キホーテ』であり、『贋作ドン・キホーテ』ではないだろうか。「〈フェルナンデス〉」「しずかなくぼみは/いまもそう呼ばれる」。
※コメント投稿者のブログIDはブログ作成者のみに通知されます