わたしの愛憎詩

月1回、原則として第3土曜日に、それぞれの愛憎詩を紹介します。

第21回 ―平田俊子― 「るりちゃんの右腕」の話法と浄化された世界―ミクロレクチュールの試み  大木 潤子

2019-03-02 22:55:55 | 日記
 平田俊子さんの第三詩集『夜ごとふとる女』(1991年 思潮社)は、私が詩を書き続ける上で、決定的な転換をもたらしてくれた、衝撃的な詩集であった。まだ戦後詩の呪縛のようなものが残っていて、その空気に馴染むことができず、自分には詩作は向いていないんじゃないか、という漠然とした自信喪失の時期に出会ったのがこの詩集だった。その書法の斬新さは、現代詩というジャンルが選びうる、新しい道を指し示しているように、私には思えた。
 中でも特に強い衝撃を受けたのが、「女の一生あるいは中山厚子」、「ヒースの館」、「るりちゃんの右腕」、「会うとしたら九十日」の四作である。非常に残念なことに、「女の一生あるいは中山厚子」以外の三作は、現代詩文庫に収録されておらず、思潮社の在庫一覧の中に「夜ごとふとる女」の単行本は既にないことを考えれば、私が愛して止まない「ヒースの館」「るりちゃんの右腕」「会うとしたら九十日」の三作品は、出会う機会が非常に限られた、幻の詩である、と言える。
 
 このコラムは「私の愛憎詩」というタイトルだが、この三作はどれもまさしく、「愛憎詩」と呼ぶにふさわしい、合矛盾する、別方向を向く感情ベクトルが拮抗する緊張感に貫かれた作品である。
 その中から今日は、「るりちゃんの右腕」を丁寧に読んでみたい。

【第一連~第二連】

  洗たくは好き
  きかいが働いているのを見てるのは好き
  干すのは嫌い
  干したのを取り入れてたたむのも嫌い

  四月 知人は首を吊り
  五月 詩人は病に倒れ
  六月 るりちゃんの右腕は
  ばななみたいにもげちゃった


 一連四行で構成されている最初の二連だが、言表内容と文体、そして話者という観点において、複数の飛躍と断絶があることにまず、注目したい。
 まず内容について。
 一連目の話題は「洗濯」であるが、空白の一行を置いて二連目に入った時、読者はいきなり、「四月」「五月」「六月」と、月ごとの出来事の、事務的な箇条書きに出会う。各月の出来事の間には関連性はない。第二連三行目では、「るりちゃん」という人物が、それが誰であるかの説明もなく登場し、四行目で、「右腕」が「ばななみたいにもげ」るという、非現実的な出来事がこともなげに語られる。
 一方で文体を見ると、一連目は、「見ている」の代わりに「見てる」という表現が選ばれていることからも感じられるように、若い、というよりは幼いとさえ思える女の子の、あどけないと同時に若干わがままな主張を伴う独り言を思わせ、明らかに話し言葉の文体であるが、第二連の一行目~二行目は、書き言葉の文体になっている。第一連では「洗たく」「きかい」「たたむ」と、本来漢字で表示されるべき単語が平仮名で表示されているのに対し、この二行では漢字で表記可能な単語はすべて漢字で書かれていることからも、それは明らかである。ところが第二連の最終行は、「バナナ」を片仮名ではなく平仮名で「ばなな」と表記し、「ばななみたいにもげちゃった」と、これもまた、子供が大人に出来事を話す時のような、若干幼さを感じさせる文体で終わる。文体の変化から、第一連~第二連においては話者が、若い女の子→大人の書き手→若い女の子、と交替していると考えることができる。
 こうして、最初の二連八行の中に、内容と文体との両方において飛躍と断絶があり、話者もめまぐるしく変化し、読者は絶えず驚かされることになる。行分け形式である、同文型が二度ずつ繰り返される、「知人」「詩人」という類似音の反復がある(「洗たくは好き」「干すのは嫌い」、「きかいが働いているのを見てるのは好き」、「干したのを取り入れてたたむのも嫌い」、「四月 知人は首を吊り」「五月 詩人は病に倒れ」)といった、詩というジャンルの指標はあるが、いわゆる「詩的な」美しいイメージも、叙情的な感情表出もない。しかしもし、詩が、「解剖台の上でのミシンとこうもり傘の不意の出会い」というロートレアモンの表現に代表されるように異質な要素同士の出会いにあるとするなら、この二連においては、単に言表内容のみにとどまらず、文体、話者の観点からも、異質な要素同士の出会いによる驚きが、つまり、詩が、ある。

【第三連】

 この後、第三連は行分けの形をとらず、第二連の最後の二行を引き取るようにして、「るりちゃんの右腕」が「ばななみたいにもげちゃった」事件の顛末を語る。

  これは昔住んでた小さな町の大きな事件です
  紡績会社の夕焼けの寮で、洗濯していたるりちゃんは、
  まわってる巨大な脱水機に腕を突っ込み、右腕をとば
  されてしまいました 救急車が到着する直前に、寮か
  ら姿を消したるりちゃん 遙かなるやまあいの母のい
  る家に、きっと帰ろうとしたのでしょう 遺跡のよう
  に右腕を抱きしめ、白く冷たくなっているのが、翌日、
  初夏の山道で発見されました

 第三連の文体はまた、最初の二連の文体とも異なっている。句点の省略が、通常の文章とは異なる詩の文章である指標とはなっているが、行分けされていないことによって、より散文に近い形式になっている。「住んでいた」ではなく「住んでた」、「まわっている」ではなく「まわってた」という表現に、第一連第二行「見てた」に共通する幼さが感じ取られるものの、「しまいました」「したのでしょう」「発見されました」という語尾は、相手に語りかける時の話し言葉の口調を用いながらも、テレビやラジオの報道のような無機質さを包含している。無機質性は、「山道で発見されました」という、殺人事件を報じるメディアの文章の紋切り型を意図的に踏襲したと考えられる表現から特に強く感じられる。この連の最後の四行については、本稿の最後で、他の連との関連の中でもう一度言及したい。

【第四連】

 そして第四連。ここでまた文体は豹変する。

  かなしみはすがたを変えやすい
  「告訴」「慰謝料」という言葉が
  はげしく忌まわしく飛び交うなか
  子どもたちだけが じっと
  悲しみのシーツをかぶって泣いた


「ですます」体から「である」体へ。ここでは話者は、第一連の、幼い、わがままな話者ではない。第二連の一行目「知人」という言葉を用いる一人称を感じさせる存在でもなく(「知人」といきなり言う時、それは話者の知人でなくて誰であろうか? 「知人は」という主語はすでにそこに、「私は」と語る話者の存在を前提としている)、第三連の、報道の文体を装いながらも、自分がかつて住んでいた町の出来事として事件を語る話者でもない。第四連の話者は、主体としては姿を消している。この五行には「一人称」はなく、「かなしみは」『「告訴」「慰謝料」という言葉が』「子どもたちだけが」という、話者とは切り離された三人称だけがある。第四連の視点はだから、前の三連とは違う。最初の三連が、報道の無機質な文体を真似ることがあってもあくまでも一人称の視点を失っていなかったのに対し、四連目の五行はより俯瞰的な視点から書かれており、二人称となる聞き手の存在を意識した文体になっていない。肉体を持った語り手も聞き手も存在しないこの第四連は、八連で構成されるこの作品の中で、特異な位置を占めている。

【第五連】
 そして五連目。ここでまた、読者は驚かされる。一六行で構成される第五連のうち、最初の八行をまず引用する。

  「理容店主 両親を殺す」
  五十歳の理容店主がまず七十五歳の母を
  続いて七十一歳の父を殺したと言うのです
  寝たきりの父の看病を巡って母と口論になり
  「カッとなり」
  「後ろから母の首を絞め」
  「いっそのことと思い
  父も首を絞めて殺し」たと言うのです


 読者への何の説明もないままに、話題は「るりちゃん」からいきなり、理容店主が両親を殺したという殺人事件へと移る。つまり第一連~第四連と第五連の間には内容上、深い断裂がある。
 文体的には、第五連はどうなっているだろうか?
 鉤括弧による引用文が頻用されており、鉤括弧の中は朝日新聞からの引用であるとの注が作品の最後にある。報道の文体と、「と言うのです」という、昔話において、驚くべき事件が起きたことが語られる時の紋切り型の表現とが、第五連には共存している。報道の文体と昔話の文体は、語り手から個人性を消去する点、そして、聞き手を想定しているという点で、共通性がある。第五連が聞き手を想定した文体である点において、第四連と第五連との間にはやはり断絶がある。
 
 第五連を更に読み進める時、前の四連との断裂を結ぶ細い糸が現れることに、注意深い読者は気付く。

  犯行は二日後に露顕しました
  マンションの「ベランダに干したまま」の洗濯物を
  「不審に思った近所の人」が
  警察に連絡したのです
  「きちょうめんな性格で、洗濯物は毎日取り入れてい
   た」ヤエさん
  きちょうめんな母とおせっかいなご近所をあわせ持つ
   ことは危険です


 第一連~第四連と第五連との間に横たわるかに見えた深い断裂を結ぶ細い糸、それは「洗濯」の主題である。
洗たくは好き」という行で、第一連は始まった。第二連で登場した「るりちゃん」は、洗濯中、「まわってる巨大な脱水機に腕を突っ込み、右腕をとばされてしま」ったことが、第三連で語られていた。
 最初の四連と全く無関係に始まったかに見えた第五連の後半において、「洗濯」の主題が再び現れる。文体面においても、第五連前半部の、個人性を消去した文体とは異なり、最終行「きちょうめんな母とおせっかいなご近所をあわせ持つことは危険です」では、主観的な判断(「危険です」)を示す話者が密かに存在している。ここで、話者が自らの立ち位置をかなり明瞭に示してくることに、気付いておく必要があるだろう。誰にとって「危険」なのか? 犯罪を犯した者にとってである。なぜ「危険」なのか? 「犯行」の「露顕」と、「警察」への「連絡」につながるからだ。逮捕につながることを「危険」と言うからには、ここで話者は、犯罪者の側に立っている。この点については後でもう一度考察しよう。
 
【第六連】

 話者はめまぐるしく変わる。第六連の話者は誰か? それは書かれていない。第六連は会話文、言い換えれば「台詞」だけで成立しており、会話文の話者についての説明はない。句点の省略が、それが詩というジャンルに属することを示してはいるものの、第六連は、演劇の台本に限りなく近いディスクールになっている。
 第五連、より正確には、第一連~第三連と第五連においては、聞き手は作品の外、作品が実際に読まれる時空の中に設定されており、作品を読むという行為を遂行することによって、読者が自動的に聞き手の立場に立つようにつくられている。文体が変化するたびに、読者は話者より年長の大人に、詩の読者に、テレビの視聴者に、新聞の読者にと、異なる役割を割り振られる。しかし、第六連では、聞き手は作品の内部に、作品のフィクションの中に、言い換えれば、舞台の上におり、読者は観客席に配置される。つまり、第五連と第六連との間には、話者と聞き手との関係、話者と読者との関係が異なるという点での断裂がある。第六連の話者がおそらくは、第五連で語られた殺人事件のあった理容店の近所の人であり、聞き手は警察や新聞記者であろうということは、話者の言表内容を注意深く読む読者にのみわかる仕掛けがここにはある。

  (ええ、着古した肌着やねまきにはさまって物干しに
  白くやわらかそうなものがぷらぷらしているのが、通
  りをはさんで町名がかわるここからもはっきりと見て
  取れました その奇っ怪な物体をめぐり、いつしか疑
  惑の人垣ができ、そのうち誰かが、あれはもしかして
  噂に聞くるりちゃんの右腕ではないかしらと言い出し、
  えっ、あれが伝説の右腕、そうだそうに違いないと一
  同意見の血を見て、もとい、意見の一致を見て、そん
  なものが白昼現れたからには何か異変があの家に起こ
  ったか、これから起ころうとしているのだと
  いえ、通報したのは別のグループです 私らうどんげ
  の華でも見るみたいに白いものにうっとりみとれてた
  だけですから)

 第五連で、それまでと全く違う話題の中に放り出されたと感じていた読者は「洗濯」という共通の語彙を経て、再び「るりちゃんの右腕」に出会う。しかも、非常に奇想天外な形で。「洗濯していたるりちゃん」が、「まわってる巨大な脱水機に腕を突っ込」んだことによって「とばされてしまった」「右腕」は、洗濯物となって再登場するのである。「ヤエ」さんが「理容店主」である息子に殺され、干したままになった洗濯物。それが「るりちゃんの右腕である」という噂がたったというのである。「えっ、あれが伝説の右腕」という表現からは、「るりちゃんの右腕」は、界隈に住む人たちに広く知られた存在であることが感じられる。殺人事件のあった理容店と、るりちゃんが働いていた紡績会社は同じ町にあったのだろうか? そしてその町は、第三連の話者が「昔すんでた小さな町」であるのだろうか?  「物干し」に「ぷらぷらしている」「白くやわらかそうなもの」が、人間の「右腕」に見えるというのは、いかにもナンセンスだ。しかしその、あり得なさそうな連想を周知の事実として共有し、最初の話者を別の話者が遮って語るー「いえ、通報したのは別のグループです」。 
 ここで強調しておきたいのは、「ベランダに干したまま」の洗濯物が近所の人を「警察」への「連絡」「通報」へと導く理由は、第五連と第六連とでは異なっている、ということである。
 第五連の九~十二行目、「犯行は二日後に露顕しました/マンションの『ベランダに干したまま』の洗濯物を/『不審に思った近所の人』が/警察に連絡したのです」を読んだ時点で読者は報道文の常套句に乗せられ、干したままの洗濯物を見た近所の人が、「ヤエさん」が本人の意思に反して突然不在になったと感じ、それを不審に思った、と解釈して読み進める。しかし第六連で、近所の人が不審に思ったのは単に洗濯物が取り込まれずに干したままになっているという事実ではなく、「着古した肌着やねまきにはさまって物干しに白くやわらかそうなものがぷらぷらしてい」たこと、「るりちゃんの右腕と思われる物体が白昼現れた」ことであると知る。つまり、第六連においては、「干されたままの洗濯物」を「不審に思った」時の「不審」感の内容が第五連とは全く異なっている。
 第五連と第六連の間にはこのように、読者の想像を裏切る乖離がある。読者は、書き手の手玉に取られていると言い換えてもいい。書き手は敢えてマスメディアの常套文句を使用することによって、常套文句の導く紋切り型の推理に読者を招いておいてから、読者の予想する範疇になかった展開の中に読者を巻き込んでいく。ここに、書き手と、読み手との間に、騙す側と騙される側という、ゲームのような関係が成立していく。前に、「第一連~第三連と第五連においては、聞き手は作品の外、作品が実際に読まれる時空の中に設定されており、作品を読むという行為を遂行することによって、読者が自動的に聞き手の立場に立つようにつくられている。文体が変化するたびに、読者は話者より年長の大人に、詩の読者に、テレビの視聴者に、新聞の読者にと、異なる役割を割り振られる」と書いたが、「るりちゃんの右腕」は、書き手と読者、作品と読者との間に、実際の人間関係におけるような、絶えざる距離の変化が起こるように仕組まれた作品であり、読者は気付かぬうちに、作品との「関係」の中に巻き込まれていくのである。

【第七連】

 第六連で、「るりちゃんの右腕」へと接近していた書き手は第七連で再び、理容店主の犯罪を、新聞記事の引用を頻出させて書き始める。

  やわらかな素手で罪を犯した店主
  普段はおだやかな人なのでしょう
  「十年以上前に妻をがんで亡く」し
  「一人で店を切り盛りし、娘一人を育て」た人だそう
   です
  「犯行後」彼を「見かけた人によると」
  「顔色が悪く、かなりつらそうだった」と言います
  「カッとなり」
  「後ろから母の首を絞め」
  「いっそのことと思い父も首を絞めて殺し」
  わたしもすぐにカッとなります
  椅子を蹴ったり、窓からテレビを投げ捨てたりします
  今はまだ取り返しのつくことですんでいますが
  先のことはわかりません
  人間と脱水機はカッとなるところが似ています
  るりちゃんはカッとなった脱水機に
  腕を噛まれて死にました
  あの脱水機も普段はおだやかな人でした
  青い汗のしみた寮生たちの衣服を日々黙々と脱水し、
  愚痴ひとつこぼしたことはありません ずっと前に奥
  さんを亡くしてからは、ひとりで仕事を続けていまし
  た 陽のあたらない女子寮になくてはならない存在で、
  おじさん、おじさんとお日様みたいに慕われていまし
  た だから、るりちゃんの一件では、えっ、あのおと
  なしい人がなぜ、と皆が目をまるくして驚いたのです

 七行目~九行目、「カッとなり」「後ろから母の首を絞め」「いっそのことと思い父も首を絞めて殺し」の三行は、第五連五行目~七行目で引用された、朝日新聞の記事の文章の再引用であり、二度繰り返されていることから、リフレインと同じ効果が生まれている。殺人事件を報じる新聞記事の引用文という、およそ「詩」とは無縁の文章に、「リフレイン」という、書かれた文章が詩であることを示す指標ともいうべき手法を適用するという、詩人のアイロニーに敏感でいたい。この三行の繰り返しには、「報道文」と「詩」との出会いという意外性の生む「詩」がある。
 「いっそのことと思い父も首を絞めて殺し」の後、第五連では「たと言うのです」と続いたが、ここでは引用文を遮り、この作品で初めて「わたし」が登場する。「わたしもすぐにカッとなります/椅子を蹴ったり、窓からテレビを投げ捨てたりします
 ここで登場する「わたし」とは誰なのか? 第一連の、「洗たくは好き」「干すのは嫌い」という文章に表れる動詞「好き」「嫌い」の主語にあたる存在だろうか? るりちゃんが右腕をとばされた事件のあった「小さな町」に「住んでた」人であるだろうか? 明示はされない。が、日本語の特徴を利用して、これまで省略され、いわば覆面を被った黒子のような存在であった一人称の主語「わたし」がここでは直面で登場する。読者はいきなり、自らを「わたし」と呼ぶ相手と、一対一で向かい合う。読者と話者との距離はここで一気に近くなる。この距離の近さは、以降の非現実的な展開の中に読者を巻き込んでいく準備となっている。
 ここで、第七連に登場する「わたし」と、「るりちゃん」との関わりを考えてみたい。るりちゃんは、「カッとなった脱水機に/腕を噛まれて死」んだ。一方、「わたし」も「すぐにカッとな」る。「わたし」は「椅子を蹴ったり、窓からテレビを投げ捨てたり」する。脱水機、椅子、テレビはどれも物であることで共通性がある。「わたし」と椅子、テレビとの関係においては攻撃を加えるのは「わたし」であり、攻撃されるのが「椅子、テレビ」であるのに対して、「るりちゃん」と脱水機の関係においてはこれが逆転し、物であるはずの脱水機が攻撃し、加害する側となり、攻撃を受け、被害者となるのが人間であるるりちゃんとなっている。
 ここで、本来感情を持たない「物」である椅子、テレビ、脱水機は、互いに入れ替え可能な、等価な記号として扱われているとは言えないだろうか? 同時に、「わたし」と「るりちゃん」も、等価な記号であると考えられないだろうか?
 第五連を読み解きながら、「逮捕につながることを『危険』と言うからには、ここで話者は、犯罪者の側に立っている。この点については後で考察しよう」と書いたが、戻る時が来たようだ。第五連の話者、そして第七連の話者である「わたし」ー共に、新聞記事を引用しながら理容店主による殺人事件を報じており、同一人物と考えられるーは、攻撃する側に立つ存在として自らを登場させ、加害者として描いてはいる。「わたし」は、「今はまだ取り返しのつくことですんでいますが/先のことはわかりません」と、更に残酷な犯罪に及ぶことも臭わせている。が、加害者の側に回るのか、被害者の側に回るのか、それは偶然によっていくらでも反転しうる。何故なら、犯罪に及ぶきっかけは単に「カッとな」ることであるのだから。脱水機は椅子に、椅子はテレビに、入れ替わることが可能なのだから。
 第七連で話者は理容店主について、「やわらかな素手で罪を犯した店主/普段はおだやかな人なのでしょう」と言い、脱水機についても「あの脱水機も普段はおだやかな人でした」「るりちゃんの一件では、えっ、あのおと/なしい人がなぜ、と皆が目をまるくして驚いたのです」と語る。逆に言えば、るりちゃんも、椅子を「蹴ったり」「窓から」「投げ捨てた」「わたし」となり得た。そして「わたし」は、脱水機に「腕を噛まれて死」んだるりちゃんとなり得たかもしれないのである。
 脱水機は、機械である。機械をまるで、感情や意志を持つもののように描くのはナンセンスで、笑いを誘う。しかしもし話者が、脱水機を人間に「喩えて」いるのではなく、つまり擬人法を用いて脱水機を描いているのではなく、「人間と脱水機」が本当に「似ている」と考えているとしたら? その時、話者は正気と狂気との境界を越えている、と考えられないだろうか? 読者を待っているのは、狂気を展開させたかのような最終連だ。

【第八連(最終連)】

  シャッターをおろしたままの理容店に
  きょうはるりちゃんがやってきました
  ながくはさみを入れるのを忘れた
  系図みたいに伸び放題の髪を
  さっぱりさせに来たのです
  亡くなった奥さんが仏壇から現れ
  るりちゃんの髪にはさみを入れます
  大きな鏡にるりちゃんと奥さんが
  映画みたいに映っています
  世間話などしています

 るりちゃんと、理容店の、殺された奥さん(理容店主の母)とはこれまで、直接関わりのない存在として扱われてきた。連が変わって話題が、るりちゃんから理容店へ、理容店からるりちゃんへと移るたびに、それは断裂として、飛躍として、読者に感じられてきた。それが第六連において、「『ベランダに干したまま』の洗濯物」が、るりちゃんの右腕である、という形で両者が接近し、ついにここで、死んだはずのるりちゃんと、理容店の、殺されたはずの奥さん(理容店主の母)とが出会う。
 死んだはずの二人が肉体を持った存在として現れるこの場面は異様だが、第七連までの、猟奇的な気配はここにはない。るりちゃんは、「ながくはさみを入れるのを忘れた/系図みたいにのび放題の髪を/さっぱりさせにきた」。「系図」という語彙からは、まず母を、次いで父を手にかけた親族殺人と同じ、血縁の臭いがする。自らを死へと至らしめた「」を切るかのように、るりちゃんは髪を「さっぱりさせにきた」。「さっぱり」という語には、現世の煩悩からの解脱を思わせる潔さがある。そして髪を切るのは殺された、理容店主の母である。「亡くなった奥さんが仏壇から現れ/るりちゃんの髪にはさみを入れます」。
 内容の、そして文体の飛躍を重ねつつ、猟奇的な事件を報じ続けてきた八十二行は、大河のようにして最後の、静謐な三行へと向かう。

  大きな鏡にるりちゃんと奥さんが
  映画みたいに映っています
  世間話などしています

 カッとなった脱水機に腕を噛まれて死んだことも、息子に首を絞められて死んだこともなかったかのように、当たり前の日常のようにして、るりちゃんは理容店の椅子に座り、奥さんはるりちゃんの髪を切る。二人の姿は「大きな鏡に」「映画みたいに映って」いる。二人の姿は、スクリーンに映った映画の一場面のように鮮明だ。鏡は歪んでもいなければ汚れてもいない。磨かれた鏡の中の澄んだ世界で、二人は「世間話などして」いる。
 第二連について、「いわゆる『詩的な』美しい詩行はない」、第三連について、「テレビやラジオの報道のような無機質さを包含している」と書いた。「るりちゃんの右腕」は、叙情的な自己表出を徹底して避けた、乾いた文体で貫かれている。しかし丁寧に読んでいくと、詩の指標である「喩」は、複数箇所で使われている。

                     遺跡のよう
  に右腕を抱きしめ、白く冷たくなっているのが、翌日、
  初夏の山道で発見されました
(第三連)

  子どもたちだけが じっと
  悲しみのシーツをかぶって泣いた
(第四連)

                    私らうどんげ
  の華でもみるみたいに白いものにうっとりみとれてた
  だけですから
(第六連)

 この三箇所に共通するのは、「白」という色だ。第六連で、物干しに干されたままの「奇っ怪な物体」について、「白くやわらかそうなものがぷらぷらしている」と書かれていたことも思い出しておこう。死んだるりちゃん、るりちゃんの死、死んだるりちゃんの右腕は、「」という色と共に、浄化された、清浄な存在として現れる。ことさらに叙情的な筆致になることを避けながらも詩人は「るりちゃん」を最後の三行の、怒りも、恨みもない、静かなスクリーンに映し出す。
 まるで何事もなかったかのように平和に「世間話などして」いるるりちゃんと奥さんを映す大きな鏡は、歪みも汚れもなく、映し出す対象を浄化する力を持つ魔鏡ででもあろうか。二人が「世間話などして」いる姿からは、自らが殺されたことなど忘れたような、恨みや憎しみ、あらゆる煩悩からの解脱さえ感じられる。
 一見猟奇的な事件を扱いながら、そして、連から連へと読者をからかうようにして跳躍を繰り返し、読者から遠ざかったり、近づいたりというゲームを繰り返しながら、詩人は愛憎を超える静謐な異界へと読者を連れて出して、作品を閉じるのである。