わたしの愛憎詩

月1回、原則として第3土曜日に、それぞれの愛憎詩を紹介します。

第15回 ―イヴ・ボヌフォワ「想い出」清水茂訳ー  岡田 ユアン

2018-09-01 14:29:37 | 日記
 どのようにこの詩集を知ったのか覚えていない。ただ、どことなく急いた気持ちで手にした気がするし、一瞬、目の前が明るんだ記憶が残っている。
 -イヴ・ボヌフォワ詩集『光なしに在ったもの』清水茂訳 -
 この詩集は、私にとって特別な詩集である。至極個人的で、感覚的で、ミスティックな体験(読者と著書の関係は凡その人にとって、そのようなものかもしれないが)。この詩集を理知的に語ることは私には難しく、言葉が発語の場に留まらず、何処か深い底の方へ沈んでいってしまう。しかし、何が起こったのか、自身で思い起こす為にもここで言葉にしてみようと思う。
 巻頭にある「想い出」を読んだ。この詩は短い詩ではない。言葉の指し示す情景を思い浮かべながら、読み進めていった。 
 読み進めていくうちに、私はいつしか未生の魂となっていた。肉体に宿らなければならない運命や、私たちと呼ばれるものから離れることに抵抗し、思い出せない記憶に多少の苛立ちや猜疑心を向けながら。そうして本から顔をあげた瞬間、目眩がした。私は確かに変わっていた。正確に言えば、読後の私と私を取り巻く世界との関係は変わっていた。何かを渡ってきたのだ。空間の移動の速度と私の速度が噛み合っていずに、ズレが生じている。空間にピタリと嵌っていない浮遊感があった。私は詩の言葉のふるえによって、浮かんでいた。そして、ふと思った。これはフランス語で書かれた原文ではない。日本語に訳されたものである。どうしてこの言葉のふるえを訳すことができたのだろう。私は訳者の叡智にも感銘を受けた。
 この詩集が私にとって特別なものであることのもう一つの理由に「解説」がある。ここに訳者の解説を引用してみる。
 
 言葉のなかに生ずるあの沈黙の問題である。だが、〈詩〉が〈全一〉の回想であるとしても、私たちはそれを「回想にすぎない」と言うべきだろうか。むしろかりにそれが光そのもののまことに弱々しい反映にすぎないとしても、この回想をとどめ得ることこそが、芸術家の、詩人の仕事における謂わば奇蹟とも呼び得るできごとなのだと考えることはできないのだろうか。

 これはボヌフォワの大著『アルベルト・ジャコメッティ ある仕事の伝記』に記されている「(省略)ポエジーは〈全一〉の回想であるが、なお言語のなかにとどまっているからだ」という言葉を受けて書かれている。彼らの云う「ポエジーとは全一の回想である」という言葉そのままの体験をしたのだ!と諒解した。
 彼らの言葉は泰然とし、湿度を保つ。そして絶望しない。どんな暗闇でも何処かに光の気配が感じられる。私にとってこの詩(詩集)は愛憎を超えた、仄あかりのような、目指すべき魂の場である。